五
——王都に建造された『教会』の大聖堂。
見る者に聖性を感じさせるよう、細部まで計算し尽されたその建築物は、夜の暗闇の中にあっても荘厳さが損なわれることがない。
人々の原罪を雪ぐための贄となった、神の子を模した像が月明かりに浮かび上がる。
装飾硝子によって仄かに色付いた淡い光の中、一人の男が祭壇の下に跪いていた。
老年に差し掛かっているだろう禿頭の男は、白地に金の刺繍が施された、豪奢な衣装を身に着けていた。
敬虔な神の僕であるその司祭は、今もまた熱心に祈りを捧げていた。
彼の下に集う善良な信徒達の幸福を、懺悔の涙を流す者達に平穏が来ることを。
司祭は、聖書の一節に記された、あらゆる苦しみの存在しない『神の国』の到来を切に願っていた。
そして、彼は心から悔やんでいた。
異教徒を苦しめきれずに殺してしまったことを。
彼の神は言った。
隣人を愛せ、と。
司祭はその通りにしている。
ただ、彼は人でない物に与える愛は持っていないだけだ。
異教徒など、人型の畜生当然。
いや、ただの生ける害悪である。
来世の救済を与えられるだけで、感謝すべきなのだ。
そうであるから、彼はここ数年の王国の変化を忌々しく思っていた。
その昔、この国の礎を築いた子供は言った。
——そう在る事を肯定はしない。けれど、否定もしない。
——受け入れられぬなら、話し合い、理解しろ。
——それでも許容できぬなら、己の命を差し出す覚悟と共に、剣をとれ。
その言葉は、長らく国の在り方を端的に示していた。
——喪われかけていた、『剣と自由の国』たる所以。
この国には、嘗て幅を利かせていた思想が戻りつつある。
種族、宗教、風習——。ありとあらゆる違いを受け入れる思想の蔓延を、司祭は苦々しく思う。
そして、その切欠となった女を脳裏に浮かべると、聖職者にあるまじき感情が彼の胸に渦巻く。
憎悪、だ。
『残虐王』。
そう呼ばれる女王は、彼の同朋を多く血祭に上げたのだ。
それだけではない。先立っては、悪魔の力が込められている道具である呪具を用いて、この国を救おうとした隣国の軍勢を焼き払ったのである。
司祭からすれば、悪魔に魂を売り渡したとしか思えないような女だ。けれど、先王を弑しての即位から数年たつにもかかわらず、彼女に天罰が下る様子はなかった。
自らの神に魔女の粛清を願おうとした司祭は思い直す。
罰というのは、人に下されるものである。禁忌とされる呪具に手を出した女など、すでに人ではない。ただの魔だ。
彼の女王を打ち負かすのは、神から与えられた使命なのだ。
司祭はその考えを天啓として捉えた。
それから、彼は目まぐるしく思考を展開する。
——女王を殺すにはどうすればいい。まず、『王鞘』が邪魔だ。第一の忠臣を自称する赤銅色の娘が。女王の近衛であり処刑人でもある娘の前に、どれ程の勇士が散っていったことだろう——
ズチャリ、という音で、思索に耽っていた司祭は我に返る。
それと同時。
雲が出てきたのだろうか。ほぼ唯一の光源であった月の光が失われ、大聖堂の内部は一気に闇に包まれた。
ズチャリ。
湿った音。
ズチャリ。
祭壇の小さな灯が、振り払えぬ闇を一層濃くする。
ズチャリ。
腐肉が滴り落ちる音が、少しずつ、近づく。
ズチャリ。
——流石は高位の聖職者と言うべきか。
異様な状況下に突然放り出されたものの、彼は冷静であった。
滑らかな動作で空に聖印を切り、神へ祈り、助力を請う。
そして数瞬もせずに、眩い閃光が闇を切り裂いた。
神の僕にしか使用を許されぬ、神法術である。
破魔の力が込められた光の槍は、けれど、招かざるモノの姿を暴くに留まった。
その様に、司祭は息を呑む。
無邪気な悪意によって、形成された造形物であった。
ぽこり、ぽこりと、浮かんでは消え、また浮かぶ無数の顔。
老人の顔、男の顔、女の顔、青年の顔、子供の顔、老婆の顔、娘の顔——。
憤怒、苦痛、憎悪、嘲笑、哀切——。
様々な顔が様々な負の表情を浮かべ、浮き沈みを繰り返す。
どの顔も口が動いているものの、声が発せられることはない。
それの大まかな輪郭は、獅子に似ていた。
子供が人面で構成された粘土で獅子を作れば、そんなものが完成するだろう。
それの頭部には、人面のものではない眼窩があり、その奥には澄んだ青が輝いている。
目の前にいるモノが何かを瞬時に悟り、司祭は怒りに顔を歪めた。
それは、あってはいけないものだ。
存在自体が、神への冒涜。
「——蠱毒の亜種らしいぞ」
張りつめた空間に、不意に男の声が響いた。
瞠目する司祭の眼前で、人面の獅子がぐにゃりと裏返った。
獅子がいた場所に立っていたのは、一人の青年。
栗色の髪も、身に纏う労働者階級の衣服も、何ら珍しいものではない。
その瞳は、異形の獅子と同じ澄んだ青を湛えていた。
「……どれほどの、魂を貶めたのだ」
「さあ?」
絞り出すような司祭の声に、青年は気のない返答を返す。
「怒るなら、勝手に怒れ。『おれ』は、お前たちが捨て置いた、屑の掃き溜めのなれの果てだがな」
青年は、気だるげに溜息を吐いた。
「——あいつにとっては、『おれ』は予定外だったらしい」
青年の言葉が終わるか終らないか。
その時には、司祭は新たな聖印を切り終えていた。
青年の足元が淡く輝いた途端、ほの白い炎が青年を嘗め尽くした。
闇夜を切り裂く絶叫。
それをあげたのは、司祭の方だった。
青い瞳に、激痛に蹲る司祭が映る。
司祭の利き腕は、見るも無残に焼け爛れていた。
「『おれ』を浄化するには、あんたじゃ力不足か」
どこか茫洋とした眼差しは、この結果を予測していたように思えた。
「中途半端な呪詛返しは、身を滅ぼす。——呪術の基本だとさ」
人を呪わば、穴二つ。それと、同じように。
「地獄に堕ちろっ! 異端者がっ!!」
「もう、堕ちてる」
司祭の罵倒に、淡々と返事を返し。
青年の落とす闇が、密度を増した。
◆◆◆
「——『教会』の権威も、地に堕ちたか——」
「——酷い、死に様だったらしい——」
そんな囁きに恍惚とした忘我の境地から引き戻され、寝転がっていた少女はむっくりと起き上がる。そして、鋭い瞳で不機嫌に辺りを見回した。
赤銅色の髪の少女に気付いた幾人かが、ぎょっとしたように動きを止める。
引き攣った悲鳴を聞き流しながら、少女は一つ欠伸をした。
畏怖と恐怖が入り混じった視線の中に、尖ったものを感じたが、少女は気にも留めない。
少女はふと己の足元を見下ろす。
柔らかな青草の上には、清々しい香気を塗り潰す、鉄錆と汚物が入り混じった臭気が漂う。
汚らしい斑の中、穢れぬことが奇跡のような白があった。
雑草と変わらぬ、小さな花。
けれど、少女には不思議と美しく思えた。
少女は、土ごと根を掘り起した花を、両手で大事に抱える。
我が君は、褒めてくれるかな?
彼の人の微笑を夢想すれば、主君の下へ急ぐ足は、自然と弾んだものとなった。
王鞘が放置プレイをしょっちゅうかますため、お城の人達は出来立ての死体の臭いには慣れっこです。