四
今にも途切れそうな『彼』の意識に、その男の声は滑り込んできた。
——重畳、重畳。
そう言って。
楽し気に、満足気に。
笑う、嗤う、哂う。
——素晴らしく最低だ。
——なんという素材の宝庫。
——そして、狂笑。
狂い果ててしまった世界で、余計に耳につく気狂いじみた笑い声。
それに引き寄せられるようにして目を開けた『彼』が目にしたのは、貴族めいた男の姿。
一際目を引いたのは、闇に溶けきらぬ赤銅色。
その瞳と髪の色は、乾いた血の色にも見えた。
黒のフロックコートに山高帽。白皙の面には銀縁の片眼鏡。
男の右手に握られた、繊細な装飾が施された杖が、虚ろな音をたてる。
腐臭と糞尿の臭いが入り混じった、皮膚さえ侵されそうな強烈な臭気に満ちた空間。
濃い影を踏みしめて、男は泰然とした笑みを浮かべた。
さて、と男は酷く芝居がかった動作で両腕を広げる。
——この場の亡者どもは、どのように踊るのだろうな。
踏み躙り、食い散らかすヒトガタを見据えながら。
楽しみだ、という言葉が合図。
そして、『彼』の煉獄が生温く思えるほどの地獄が、その咢を開いた。
***
纏わりつくような薔薇の香りに、『彼』は意識を浮上させた。
「おや、起きたかねリオン君」
「相変わらず薔薇臭い」
自己主張の激しい芳香に思わず顔を顰めると、何が可笑しいのか男は爆笑した。
意味が分からない。
彼らの関係が始まって数年になるが、『彼』が男について理解していることはそれ程多くない。
『彼』が男について自信を以て断言できることは唯一つ。
狂ってる。
それぐらいだ。
尤も、腐りかけた血肉が散乱する部屋の中、同族を食らう相手を前にして楽しげに嗤う人間が『当たり前』だというのなら、そんな世界は滅んでしまった方がましだろう。
「リオン君、今日も愉しく呪殺といこうじゃないか。まだまだこの国には腐った獲物が多いからね」
ああ、この前はとてもいい死に方をしてくれたなぁ、と、背後に花が咲いていそうないい笑顔を男は浮かべる。
『いい死に方』をした領主を思い出し、呪殺の一手を担っていた『彼』は顔を顰めた。
変態的な嗜虐嗜好により、老若男女問わず多くの人間を死に追いやったその領主の最期は悲惨の一言に尽きた。
——緩やかに緩やかに、内側から腐っていく躰。通常ならば発狂するほどの激痛であるのに、意識はどこまでも正気を保ったまま。愛する者を奪われた領民達の暗くぎらついた目。刺され砕かれ引き千切られ、八つ裂きにされて尚、死なない、死ねない。仮初の蘇りの度に目にするのは、腐敗の度合いを増す、己の体。最初から最後まで、醜悪に顔を歪めていた領主が、救いたる死の御手に気付いたのかは分からない。
「次はどの様な死がいいだろう」
赤銅色の髪を弄りながら、男は子供の様に顔を輝かせている。
『彼』は目の前にいる男を、冷めた目で見やった。
この男は呪術を得意としており、できる限り凄惨な死を対象に与えることを目標として、日々呪殺に励んでいた。
「死に方なんぞ、苦しめばどうだっていいだろう」
「それでは私が楽しくないではないか! ——それに、愛しき我が君は見せしめをお望みだ。折角手間暇をかけるのだから、有効活用した方がいいのだよ」
前半の言葉にダダ漏れの本音が、男の人間性を如実に示していた。
こんな男が己以外の生物に頭を垂れることは、ある種の奇跡と言っていい気がする。
『彼』は男の主君の正気を常々疑っているのだが、とんだ狂人を扱うその女は、哀れなほどに『まとも』であった。
その女にあったのは、常軌を逸した冷徹さと決断力。
儚く思える願いを手にするために、女は血と狂気と憎悪に塗れた道を突き進む。
女が足を止めないのは、自らの救いを必要としていないからだ。
——哀しいくらいに、強いひと。
『彼』の彼女の印象は、そんなものだった。
「次の対象は『教会』の司教だ。異教徒には全く優しくない御仁でね。流石にその程度の理由で民を減らされては困るのだ」
男は唄うように言葉を紡ぐ。
「聖職者を呪殺できると?」
『彼』の皮肉に、男は狂った嗤い声を上げた。
「本当に貢献しているのなら、彼のカミサマが助けてくれるさ。——ああ、『信じる』って素晴らしいね、リオン君。どんなことをしようとも、勝手に救われるのだからね」
人が動かす国に生まれ育ち、『神の救済』を信じぬ男はそう嘯いた。