三
「あはははははははははは、ぃいっぱいだぁ~」
きゃらきゃらと笑いながら、赤銅色の髪の少女が眼下を指差す。
砦の前の、どこまでも広がっているように見えた草原には、大地を埋め尽くさんばかり、という表現が相応しい敵国の大軍。
その数、二十万。
青い空の下、蠢く黒々とした軍勢は、不気味な対比を成していた。
一方、砦に控える兵は一万にも満たない。
圧倒的ともいえる戦力差によって、絶望が侵食する味方の士気は地に落ちた。
もとより、腐臭を放つこの国の軍の士気は高くもない。一般兵の中には、密やかではあるものの、このまま侵略されてしまった方がましだという囁きさえあるのだ。
ほぼ勝敗が決してしまっているような状況にもかかわらず、少女と共に見張り台に立つ女は、どこまでも静かな瞳で相対する敵軍を見つめている。
「早く始まらないかなぁ、我が君」
詰まらなそうな、それでいて、何かを待ちわびるような少女の言葉に呼応したかのようだった。
突如、進軍してくる敵軍の上空に、魔法の行使の証である淡い光の陣が複数浮かび上がった。
「——招喚門?」
微かに眉を顰める女の横で、期待に顔を輝かせながら少女が身を乗り出す。
濁緑の光で形成された陣は、脈打つように輝いたと思うと、その中心に光を収束させていく。
耳鳴りのような世界の不協和音と共に、束ねられた光の中に黒い染みが生まれた。
急速に広がる染みは、歪な輪郭を形成する。
「うわぁ」
少女が感嘆の声を上げるのと同時、悲鳴のような咆哮と共にそれは世界に生れ落ちる。
それを端的に説明するなら、悪魔だ。美しき誘惑者ではなく、怪物的な意味での。
辛うじてヒトガタと断じることができる躰には、崩れた鳥類の翼。赤黒い皮膚に金色の瞳が目立つその姿は、醜悪だ。目測では、人族の十倍以上の大きさがあろう。
異界の生物を呼び出す招喚術によりこの世界に招かれた異形達は、空を駆り、一直線に砦を目指す。
「うふっ、——————ぁはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは——————」
殺戮を望む怪物達の歓喜の咆哮、敵軍の雄叫び、自軍の悲鳴——それら全てを掻き消さんばかりに少女は狂った笑声を発した。
「コーディリア」
気狂い染みた世界を切り裂くような女の声に、少女はピタリと哂い止む。
「征こう」
「はい、我が君」
少女は跪き、女の靴の爪先に口付けた。
この国特有の、臣下の主君に対する絶対的な忠誠の証。大概の人間には屈辱的な行為故、実際に行う者は滅多にいない。
女と少女の頭上に影が差す。
巨大な異形の拳が振り上げられ、——そして、振り下ろされることなく地に落ちた。
少女は甘ったるく嗤う。
「駄目だよぉ~」
次の瞬間、異界の魔物の輪郭が崩れ落ちる。
撒き散らされた怪物の血肉は、砦を毒々しく飾り立て、それを見ていた敵軍に動揺をもたらした。
再び笑い出した少女の声は、戦場に狂気を添える。
——どこからともなく、金属を打ち鳴らす、剣戟にも似た音がする。
少女の手の甲からいくつもの鈍色の紋様が浮かび上がって、虚空を舞い踊る。
奇妙な鈍色の紋様は、少女の手に絡みつく、血濡れの鋼糸の周囲に吸い寄せられた。
ほとんど予備動作もなく、少女の体は宙に舞い上がる。
少女には角も、発達した牙も爪も、被毛も鱗も見当たらない。
身体的な特徴は人族そのものの、しかし、人族としては異常な跳躍力を見せた少女は、赤い糸と共に踊る。
哀れな悪魔達は、少女が操る鋼糸に触れるなり、呆気なく切り刻まれていった。
赤銅色の髪の少女が手に持つ糸で手繰り寄せるのは、相対する者の死だ。
響き渡る少女の哄笑を聞きながら、女は虚空へ両手を差し伸べる。
女の眼前で空間が引き裂かれるのと同時、女の周囲が燃え上がった。
触れるものを悉く灰燼に帰す赤は、けれど、女には何の害も与えない。
女の手には、一振りの剣。
緋色の刀身を有する諸刃の剣には、余計な装飾が一切ない。
女の細腕には随分と無骨な印象を受けるその剣は、ゆらゆら揺らめく炎を纏っていた。
女が炎の剣を胸元に引き寄せると、女の周囲に広がる業火は一層その勢いを増す。
『——神々の黄昏時は、炎剣を以て終焉に至る』
兵士や怪物の断末魔、少女の狂声、肉が断たれる音——世界の負の面に属する様々な音が入り混じるその場において、女の声は不思議とよく通った。
『世界を侵す炎華。王は黙し、偽神は嗤い、後には灰が残るのみ』
蒼の画布を淡い光の幾何学模様が彩る。それは、招喚門の陣とは比べ物にならないほど——二十万もの大軍を覆い隠さんばかりに巨大な陣であった。
『腐敗した女王は見守り、散らされる灰は、新たな夜明けを告げる』
女の詠唱の終了と共に、戦場に落ちた静寂は一瞬。
「うわぁ~、綺麗ぃ~」
少女が、嬉しげな声を上げた。少女の体には、傷一つ、血痕一つなく、ほんの数秒前まで、己の十数倍はあろうかという怪物を相手取っていたとは思えないほど身綺麗だった。
少女の笑い声だけがよく、響く。
——敵軍の大半を燃料に、滅びの焔が燃え盛る。
天をも舐めんとする火炎は、その熱量故にゆらゆらと空を歪める。
女によって生み出された業火は、臭いや音すらも焼き尽くしてしまうのだろうか。超大規模な魔法により捻じ曲げられた世界の悲鳴や、肉が焼ける音や焦げる臭い、生きながらに焼かれる兵の叫びさえも、砦には届かない。
それを眺めていた女の瞳に、僅かばかりの揺らぎが生じ、誰にも気付かれることなく霧散する。
どこか幻想的でさえある光景は、焼け爛れた大地のみを残して、呆気なく消え去った。
終わりの予兆を見て取って、女は静かに瞼を下す。
己の背に振り下ろされる、剣の存在を知りながら。
「あぁ~、悪い子だぁ~」
持ち主の両腕ごと細切れにされた剣は、女を貫くことなく石畳の上に散らばった。
自分に何が起きたのかを悟る前に、砦の兵を束ねてきた男の首が宙を飛ぶ。
「……残虐王が……」
吐き捨てられる言葉に、女が振り向くことはない。
呪詛も怨嗟も覚悟の上。固く握りしめていたものは、当の昔に置いてきた。
鉄錆の臭気が一際強くなり、湿った音が複数聞こえた。
また、女の足元に骸が転がる。
それでも、女に足を止める気はなかった。
血と肉に彩られた骨の道の先にしか、見たいものはなかったから。