番外編『星無時に頑張る子供』その5
赤々とした夕日が沈み、夜が来て、東の空が明るくなり始めた時。
——終わりが見え始めたから、気が緩んでしまったのだろう。
燃え続けていた炎の壁に揺らぎが生じるのを見て、子供は総毛だった。
「——ブリジッドっ?!」
焦ったような男の声が、あたりに響く。
子供は、籠っていた聖鎧を脱ぎ捨て、娘がいる方向を見た。
娘から湧き出すのは、異質な気配。
娘の閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開かれる。
そしてあらわれたのは、秘められた意志の失せた虚ろな瞳。
その眼差しを、子供は知っていた。
嫌になるほど。
——何度も、何度も、子供が見てきた、人がヒトでなくなった瞳。
——ヒトは、何の代価もなく力を振るえるか、と誰かが問いかけるのならば。
子供は躊躇わずに、否と答える。
武具の扱いに、修練が必要なように。
呪具の扱いに、身の破滅が待つように。
……神器は、隙あらば使用者を取り込もうとする。
限りなく神器と同化し、半ば不老不死と化した子供はまだましな方だ。
より無残なのは、魂さえも喪われ、ただただ、神器の一部となった虚ろを曝す方だろう。
「——神器に呑まれるなっ!!! 馬鹿者っ!!!!!!」
子供は声の限りに怒鳴った。
そして、娘へ駆け寄ろうとして。
子供は、少女に弾き飛ばされた。
「むぶっ」
受け身をとれずに再び地面にへばりつく子供を、少女は一瞥たりともしない。
「——我が君」
少女の声は、妙に平坦だった。
「我が君はもう、我が君じゃなくなっちゃったの?」
どこか冷えた少女の目が、己が主君を映す。
どこからともなく響く、金属を打ち鳴らす、剣戟にも似た音。
少女の手の甲から鈍色の紋様がいくつも浮き出て、ふわりふわりと宙を舞う。
脱力したような躰は、しかし、瞬く間に敵を屠り尽す爆発力を有していて。
その時を見極めるために、少女は、主君から目を逸らさない。
——王鞘。
それは、王のための剣を納める鞘であり、王のための権を治める鞘である。
触れたもの全てを切り裂く世界の呪詛を身に納め。
堕ちた主君を刈り取る責を担う。
生涯唯一人の主君を選び、その為に生き、その為に死ぬ。
——それ故に、王鞘は第一の忠臣と呼ばれるのだ。
人形のような娘の面に、見逃してしまいそうに小さな漣が走った。
「——り、あ」
辛うじて残った娘の人の部分を示すように、娘の頬に一筋の雫が伝う。
「ブリジッド!!!!!」
「……ろ……て」
娘を抱きしめる男の怒声に押されるように、紅いままの唇が願いを紡いだ。
——殺して。
まだ人でいるうちに、死なせてほしい、と。
泣き出しそうな顔をした少女に対し、子供の胸に僅かな光が差した。
「——まだ、まだ間に合うのだっ!!!!!」
立ち上がる時間すらもどかしく、子供は娘の下へ駆け寄ろうとした。
「むぐっ」
少女に首を鷲掴みにされ、子供は息が詰まった。
確かに子供と少女の間には、圧倒的な機動力の差が存在している。少女が子供を運んだ方が余程速いのも分かる。が、しかし、もう少し違う運び方はなかったのか……。
一瞬本気で首と胴体が分かれる危惧を抱いた衝撃の後、子供の顔面は豊かな谷間に押し付けられた。
「むぎゅ」
子供の脳裏に窒息死の危険性が過ったが、彼は己のすべきことを忘れてはいない。
感じ取るのは、娘の炎剣。
共鳴するのは、子供の聖鎧。
必要なのは、己の意思一つ。
鎧の内には、娘を。
鎧の外には、炎剣を。
内を守護し、外を撥ね退け、隔絶する。
子供が、娘の魂に癒着しかけた炎剣を引き剥がせたと確信したとき、娘の躰から、ぐったりと力が抜けた。