2-1
何だか異様に思えるほどに、身体が軽く感じていた。まるで、水の中を浮遊しているかのよう。
私の瞳は閉じられているのだろうか、視界は真っ暗で何も見えない。
ただ、あのコーヒーの香りはしっかりと漂い続けている。その香りのせいなのか、こんな自分の状況が把握出来ない状態であるにも関わらず、私の心はやけに穏やかだった。
しかし、次第にコーヒーの香りが薄れていくと、それまで感じていた浮遊感は無くなってくる。
そして完全にコーヒーの香りが途絶えると、一気に身体の重みが復活した。また、それと同時に身体をなぜられているような感覚を覚える。
(この感じ……風?)
急激な感覚の変化に気だるさを感じながら自問自答している――その時だった。
「――お嬢さん! 私の声が聞こえるかっ!? おい、しっかりするんだ!!」
聞き覚えのない男性の声が、私の耳に届いていた。そして声に合わせるように生じる、軽く身体を揺すられる感覚。
(いったい……誰? カフェの人の声じゃないし……!?)
そこまで自問し、ようやく気付いた。
そうだ、私は学校から逃れるために通ったことのない道を進み、これまた一度も入ったことのない『読書カフェ』に入ったはず。
そして、そこでカフェの店員さんと思しき男性と話した後……私、どうしたんだろう?
カフェで男性と話し、コーヒーと文庫本を差し出され、コーヒーをすすりながら文庫本の中身に目を通し始めようとした、その後の記憶がない。
その事実も、もちろんかなりの問題。
……でも、それよりも今は『カフェから外に出た記憶がないのにも関わらず感じる風と、聞き覚えのない男性の声が聞こえる』という事実の方が問題だった。
いくら記憶を呼び起こそうにも、記憶にないものを呼び起こすことなんて不可能に決まっている。
そんなことを考えている間にも、聞き覚えのない男性の声は私に言葉を掛け続けている。状況の理解も出来ぬまま、正体不明の男性に声を掛けられている状態。……恐怖を感じずにいられるわけがない。
いっそのこと、このまま目を閉じたまま、声に気付いていないフリをしていた方が良いのだろうか。
そうしたら、声を掛け続けている正体不明の男性は私の元から離れてくれるだろうか。
――しかし、そんな私の思惑はすぐさま崩れ去る。
「――リント、このままにしておくのは危険だ。お嬢さんを連れて……どうした? 何を呆けている?」
「あ……いえ、何でもありません」
「そうか、なら良いが。……とにかく、お前はこのお嬢さんを連れて先に戻るんだ」
聞こえてきた会話は、私の周りに前から聞こえていた声の主だけではなく別の男性も存在しているという事実を知らしめるものだった。
そして、私をどこかに連れていこうとしているということも。
(どうしよう、このままじゃ私……。――ダメ、怖い!)
そう感じると、身体は勝手に動き出していた。
「……わかりました。アレン様は?」
「俺はこのまま見回りを――お、おいっ!!」
眼前に広がる世界は、やっぱり私の記憶に少しもないものだった。当然、あのカフェの景色などではけしてない。
でも、今はそんなことを気にしてなどいられない。
――私はただ、今この瞬間に突きつけられている恐怖から逃げるため、見たこともない世界を走りだしていた。