9『爽やかな風』
ピヨピヨピヨという無数の鳥の囀りによって、私の意識はこの世界へと戻ってきた。重い瞼をゆっくりと開ければ、目の前には真っ白な天井が目に入る。空の色は紺から水色へと変わり、昇る太陽の周辺は鮮やかなオレンジで縁取られている。
時刻は午前五時で、体温を測るには少しだけ早い。私は眠りから覚め切らない体を無理やり起こし、ぼーっと虚空を見つめていた。昨日履いたまま寝たはずの靴は床に置かれ、体には布団が掛けられている。おそらく看護師が気を利かせてくれたのだろう。誰かは分からないが、会ったらお礼を言うことにする。
身に付けていた服は昨日のままで、汗をたくさん含んでいる。私はそっとベッドから下り、棚から着替えを取り出した。そしてそれを抱えたまま、病室の引き戸をゆっくりと左側に引いた。その隙間から僅かに顔を出すと、そこには誰もいなかった。
廊下にも、ナースステーションにも、人影はおろか気配すら感じない。おまけに電気は全て消えており、辺りは僅かに薄暗かった。清潔さを維持した廃病院のようで、私は少しだけ怖くなる。けれどこのままベッドに戻り布団を被るわけにもいかず、私は恐る恐る足を踏み出した。一歩でも外に出てしまえば、次に出る二歩目はなんと軽いことか。怖かったのが嘘みたいに、感じていた恐怖心は消えてしまった。
私はそのまま廊下を歩き、浴場へと向かった。向かっている途中も、足跡は私のものしか聞こえてこない。このフロアには本当に私だけなのだろうか。物陰の裏に誰か隠れているんじゃないかと思い、ナースステーションの中を見回した。当然のことながらそこには誰もおらず、他の病室も同様だった。
大人しく浴場の前まで行くと、大浴場の入り口には立て看板が置かれていた。そこには使用時間と思われる『九時から二十三時』の文字が表示されている。私は仕方なく、使用制限のない個室の浴室を使うことにした。
一畳ほどの脱衣所には、真っ白なバスタオルが数枚畳んで置かれている。私は脱いだ服をバスタオルの横に畳んで置き、浴室の扉を開けた。浴室はいたってシンプルで、正方形の中にバスタブとシャワー、備え付けのシャンプー類のみが設置されている。一人で使う分には問題なく、家の浴室を彷彿とさせた。
私は温泉にあるようなアーチハンドルを捻り、シャワーヘッドから水を出した。頭からかかる水は肌を伝い、全身をしっかりと濡らしていく。一日の汚れが落ちていくようで気持ちが良かった。私は慣れた手つきでシャンプーを掌に出し、髪をわしわしと洗っていく。それを洗い流すと、続けてリンスで髪を整える。そうして全身を洗ってから外に出ると、さっぱりとした私が出来上がった。
バスタオルで体を拭き、綺麗な服に腕を通す。今日の服装は白いTシャツに緑の短パンで、Tシャツの胸元には英語の羅列が印刷されている。あいにく私にはその英語の意味は理解できないけれど、どうせ禄でもないことが書いてあるに違いない。私は湿ったバスタオルを使用済みのカゴに入れ、ほこほこの体のまま外に出た。
温まった体は病院内の冷房によって少しずつ冷やされていく。火照った体の体温が冷えていく過程が、私は案外好きだった。汚れた服を抱えた私は、そのまま自分の病室へと歩いて行く。その途中にあるナースステーションには、いつの間にか二人の看護師が立っていた。私はバレないようにゆっくりと近づき、カウンターの陰に隠れた。看護師たちは私に気づいていないようで、そのまま話し続けている。
「今いる患者さんは立花空ちゃん、蒼井春夏ちゃん、西東靖志くんですね。空ちゃんは十七歳で今日が四日目。春夏ちゃんと靖志くんはともに十六歳の二日目です。朝の確認はこのくらいでいいですかね」
声だけで、それが看護師の川澄であることが分かった。
「そうだね。あと、昨日は空ちゃんとトランプをしたみたい」
カサッという紙の擦れる音がして、別の人の声が聞こえた。僅かに低いその声は、川澄とともにトランプをした千葉だった。名前は千葉なのに出身は埼玉らしく、そのちぐはぐさが面白かった。
「それにしても、こうやって毎日確認しているのに忘れちゃうなんて、厄介な病気ですよね」
「そうだね。看護師が患者さんのことを忘れてしまうなんて、あってはならないことだし。でもこればっかりはどうにも出来ないんだよ。研究が進んできた今でさえ、記憶が無くなるというメカニズムは解明されてない」
「解明される日は来るんでしょうか」
「そう祈るほかないだろうね。俺たちにできるのは、彼らに寄り添うことぐらいだから」
「そうですね」
暗めの声が頭上の方から聞こえてくる。千葉が言ったように、シミラーゴースト症候群については未だに分からないことの方が多い。どのようにしてこの病気が生まれたのか。発症する条件は何なのか。それこそ、忘却はどのような原理で起こるのか。研究が始まってからかなり経つが、それが判明するのにはもう少し時間が必要だろう。少なくとも、私が死ぬまでに判明することはなさそうだ。
私に残された時間は今日を含めてあと二日。もうすぐそこまで迫って来た死という存在に、私は抗うことなく向かい合う。抗ったところで、それから逃れることは不可能だった。私は病室へ向かおうと思ったが、脚は思うように動かなかった。
仕方なくカウンターに寄りかかり、頭上で話し続ける看護師の会話を聞き続けた。カウンター上に置かれた電子時計は六時を表示し、私は空腹を感じるようになっていた。動かなくなっていた足はいつの間にか元に戻り、私はゆっくりと立ち上がった。世間話をしていた二人は私を見て驚き、「早起きだね」と優しく言った。
「お風呂入ってたの」
「浴場開いてなかったでしょ? 開けておけばよかったね」
「ううん、あんな広い場所を一人で使うなんてもったいないよ」
私はハハッと笑ってから、スキップのような足取りで病室へと戻った。私は病室の引き戸を開けて、使用済みの服を鞄の中にしまった。私の使うベッドの向かい側は、掛布団が僅かに盛り上がっている。誰かが寝ているのだろうと察しは付いたが、わざわざ声をかけようとは思わなかった。いずれにしても八時には起こされるだろうし、名前はそのときに聞けばいい。もっとも、看護師の会話で名前は知っているのだけれど。相手は私のことを知らないのだから、自己紹介も兼ねるとする。
それにしても、もう一人の患者はどこに居るのだろう。上げられた名前からもう一人いることは分かっているが、この部屋にはいないようだった。隣の病室か、はたまた個室か。後で看護師に訊ねてみることにしよう。私は性別の分からないもう一人の患者を起こさないように、静かな足取りで窓際へ立った。
綺麗な朝焼けは見る影もなく、視界は美しい青空を捉えていた。ところどころに夏らしい雲が浮かび、まるでわたあめのようだった。私はベッド脇に置かれていた椅子に座り、窓を少しだけ開けた。開けた窓からは生暖かい風が柔らかく吹き込み、私の髪をそっと撫でていく。まだ人が本格的に活動を始める時間ではなく、世界中の空気が澄み渡っているように感じた。
辺りに漂う雰囲気は、未だ微かに夜をはらんでいる。私は窓のサッシに肘をつき、小さな街並みを一望した。目下で小さな車が走り去り、小さな人がランニングをしている。皆自分の人生を生き、今日も何気ない日常を謳歌するのだろう。夏にしては涼しいと言える早朝は、冷房すら要らないと感じるほどだった。
その心地よい気候に、私はだんだんと気分が良くなっていく。それこそ明後日死んでしまうということを忘れるほど、私は日常を平然と過ごしていた。私は窓のサッシに手を置いて、その上に頭を乗せた。頬と接した手は二日前から透けていて、今ではもう見慣れてさえいる。こんなことに慣れていいわけないけれど、心のどこかでやっぱり納得していた。受け入れていた。それはもはや諦観ですらあったが、十代が抱かなくてもいいものだとどこかで思っていた。
神は、どうしてこの病気を作ったのだろう。何の意図があって世界中にばら撒いたのだろう。人間の私が考えたって、崇高な神の心理は測れない。人間は人間らしく、与えられた運命を背負うほかないのかもしれない。たとえそれが残酷なものであっても。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ」
私は目の前の雲を吹き飛ばすように、肺の中の空気を吐き出した。けれど雲が吹き飛ぶことはなく、その場でただ漂っていた。優しい風がふわりと前を通り過ぎ、花の香りが僅かに鼻腔を掠めた。どこかで花が咲いているのか、シャンプーの匂いなのか。出所が気にならないほど、その香りは心地がよかった。
濡れていた髪はいつの間にか乾き、覚醒した体がゆっくりと沼地に沈んでいく。もう指の一本だって動かせない。開けていた瞼が重くなり、私の意思に反してゆっくりと閉じていく。青空を捉えた視界は狭まって、ついに目の前は真っ暗になった。穏やかな世界は眠気を誘う。例に漏れず、私もその誘いに乗ってしまった。今日の二度寝は、非常に自然的だった。
「空ちゃん」
次に私が音を拾ったのは、それから一時間ほどしてからだった。窓際で寝こける私の肩を千葉が優しく叩いた。
「寝るならベッドにしたら?」
「うん。でも朝の風は気持ちが良くて」
私は伸びをしながらそう言って、腕の外側を指で撫でた。サッシの跡がくっきりとついた腕は、面白いほどの凹凸が刻まれている。半透明な腕についた跡は大して目立つこともなく、千葉は少しも気づいていないようだった。私は座っていた椅子を元の場所へ戻し、もう一度大きく伸びをした。そこで向かい側のベッドで寝ていた少女と目が合い、私はゆっくりと腕を下ろした。
「こんにちは」
そう言うと、目線の合った少女は軽く会釈をした。人見知りなのか、それとも喋れないのか。どれであっても、私以外の患者に初めて会えたことが嬉しかった。嬉しいと言うのは不謹慎なのかもしれない。若くして死ぬ人が一人増えただけで、喜ばしいことなど何一つとしてない。けれど同志に出会えたような、RPGで仲間が増えたような、そんな心情だった。
「空ちゃん、彼女は蒼井春夏ちゃん。昨日からここで暮らしてる」
「春夏ちゃん……もう一人はどこにいるの?」
「知ってたんだ」
「さっき話してるの聞いちゃった」
両手を合わせてごめんと言うと、千葉は柔らかい微笑みを向けてくれた。患者と看護師が、その役割を超えて近づくことはあり得ない。恋人は千葉みたいな人がいいと思っても、それを口に出すことは許されない。教師と生徒よりも、私たちの関係を壊すのは難しい。
「靖志くんなら個室にいるよ。廊下を真っ直ぐ行った突き当たりの部屋」
「そっかぁ」
もう一人の患者に会いたい気持ちはある。けれど、会ったところで何かあるわけではない。名前に聞き覚えがあるわけもなく、奇病患者なら知り合いだったとしても思い出せない。懐かしむことなんてできない。私たちが覚えていられるのは、健康な人間との思い出だけだ。
「初めまして! 立花空です」
私は女性の傍で右手を差し出しながら自己紹介をした。女性は戸惑ったように視線を彷徨わせた後に、小さな声で「蒼井春夏です」と告げた。ゆっくりと伸びてくる手を、私は迎えるように勢いよく掴んだ。
そうして強めに握ると、女性も同じように握り返してくれた。生まれたばかりの赤ちゃんに指を掴まれると嬉しいように、握り返されたことがこの上なく嬉しかった。歳の近い者同士、今日も明日も仲良くしてほしいと思った。こうやって握手をした事実さえ、明日になれば綺麗さっぱり忘れてしまうのだろうけど。
「二人とも起きてるし、少し早いけど体温測っちゃおうか」
千葉は人好きのする笑顔を湛えた。体温計を脇の間にさしながら、私は携帯の画面を開いた。消したトークアプリがメッセージを受信することはなく、登録している漫画サイトの更新は今日ではない。ルールの分からないゲームをプレイする気にはなれず、私は静かに携帯の電源を落とした。今日はどうやら休日らしい。
私の大切な人たちは、どこで何をしているのだろう。そこに私がいないことを、誰か疑問に思ってはくれないだろうか。「そういえば空ってどこにいるの?」と、そう口にされるだけで救われるような気がした。けれどそれを確かめる術はなく、私は自分の脳内で妄想した。今頃、居なくなった私を総出で捜索しているに違いない。家出少女は現在、とある病院で療養中だ。体温計がピピッと鳴り、私は自分の体温を確かめることなく千葉に渡す。少女は現れた数字をじっと眺めた後、私と同じように千葉に手渡した。
「千葉さん、食堂ってもうやってる?」
「まだかなぁ。八時半からだった気がするよ」
「そっかぁ」
早起きをしたがために、私の腹は空腹を訴えている。けれどコンビニに行くためだけに外出をする気にはなれず、私は再びベッドに横たわった。真っ白な天井には、僅かに黒い汚れが付着している。じっと見ていると顔にしか見えなくなり、その視線から逃れるように勢いよく体を起こす。そこで時間を潰す最高のアイデアを思いつき、私は「春夏ちゃん!」と声を発した。
「屋上行ってみない?」
「屋上?」
「階段が上にも続いててね、そこから出れると思うの」
少女は僅かに首を傾げながら、私と同じタイミングで立ち上がった。体温を記録していた千葉は、そんな私たちを制することはしなかった。ただ「気を付けてね」とだけ言い、手を繋いで部屋を出て行く私たちを見送った。
私たちは静かな廊下を進み、鉄製の扉を開ける。そこはやっぱり蒸し暑く、嫌に空気が籠っていた。私と少女は尚も手を繋ぎながら、上へと続く階段を上っていく。少女は一言も口にはせず、私の後ろを俯きがちについてくる。まるで幼い妹と歩いているようで、愛おしくすら思った。
屋上へと続くであろう階段の前に、灰色の扉が行く手を塞ぐ。開けろと言わんばかりにつけられたドアノブを捻ると、向こう側への道が簡単に切り開かれた。防犯面が心配になりながら、私たちは屋上へと足を踏み入れる。開けた屋上には何もなく、背丈よりも高い落下防止のフェンスが周辺を囲んでいるだけだった。
九階に相当する屋上からの眺めは、八階よりも遥かに良いと言わざるを得ない。遠くの方まで見える街並みは、本当のマッチ箱を見ているようだった。空から見れば、もっと遠くの方まで見えるのだろう。人の姿は米粒ほどになり、見ることすら難しくなるのだろう。そんな体験は二日で出来るものなのだろうか。
スカイダイビングをしようにも事前予約が必要に違いない。飛行機だって、チケットがなければ乗ることすらできない。最後の希望と呼べるのは、空の上に天国があるのかもしれないということだ。雲の上から地上を見下ろすことができますようにと、願うことしかできない。
「綺麗な景色ですね」
少女は私の手を握ったまま、目の前の絶景に声を漏らした。
「春奈ちゃんって、どこから来たの?」
「北海道からです」
「遠いねぇ」
北海道には行ったことがない。海鮮が美味しいと聞くたびに行きたいと思うけれど、未だその思いが叶うことはない。
「家族って……」
そう口にしてから、聞かないほうがいいのではないかと思ってしまった。親族に忘れられるほど辛いものはない。
「北海道にいます。でも……私のことは覚えてなくて」
「……そうだったんだ」
「お母さんって呼んだら「誰?」って返されて………ふふっ。私一人、家の前に追い出されました」
自嘲するように、少女は微笑を浮かべながら言った。可愛らしい外見に反して、心の中には何もないのだろう。親によって家から追い出された瞬間に、少女は生ける屍のようになったのだろう。それこそ生きる意味が分からないとでも言うように。
「春夏ちゃんの好きなものってなに?」
「好きなもの……?」
「私は夜景が好き!」
少女と繋いでいた手を解き、両手を大きく伸ばしながら前方に駆けて行く私。目覚めた世界に吹き付ける風は熱を帯び、遠くの方で鳴く蝉の声を運んでくる。横から私のことを照らす太陽は、その陽光を弱めるようなことはしない。下に存在するあらゆるものに、容赦なく光を届けている。
「私も! ……私も、夜景好きです」
「お! 一緒だ」
私の顔を太陽が照らす。きっと背景が透けて、表情なんて分からなくなっていることだろう。四日目を迎えた人間の姿を少女に見せるなんて、私は悪魔か何かに違いない。自分も私のようになるのだと残酷な現実を突きつけて、一体私は何がしたいのだろうか。絶望を突きつけるだけで、彼女の心を救うことには繋がらない。むしろ端の方から蝕んで、ゆっくりと腐らせていくだけだ。少女のことを思うなら、私は姿を見せない方がいい。手など繋がず布団を被っている方がよっぽど親切だ。けれど、そのためだけに自分の時間を無駄にはしたくない。私には私の人生がある。
「夜ここに来たら綺麗なんだろうなぁ」
フェンス越しに見る景色はひし形に区切られ、大きなパズルを完成させたかのようだった。目の前に見える大きなマンションも、新しく建てられた市役所も、全て人の手によって作られたらしい。そんな技術があるなんて、人間が築いた文明は偉大だ。
「ずっと先まで見えますし、宝石箱みたいになりそうですよね」
「それめっちゃいい! 宝石箱になる街が見てみたいね!」
勢いよく振り返ると、少女は幼さの残る笑顔を浮かべていた。同い年と言っても過言ではない少女は、大人っぽい中に幼さが垣間見える。妹がいたら、きっとこんな気分になるのだろう。私の姉も、今の私と同じ想いを秘めていたのだろうか。
「それにしてもいい天気だね」
私は晴れ渡った空を仰ぎ見た。心なしか頭上が熱いような気がする。私はそのまま地面に座り、大の字で寝転んだ。背中から伝わる温度が心地よく、微睡みに身を委ねそうになる。
「寝るんですか?」
「んー、どうしよっかなぁ。暇じゃんね」
言いながら瞳を閉じると、睡魔がすぐそこまで来ていることを感じた。と同時に、私の横に人の気配がした。薄目を開ければ、少女も私と同じように屋上で寝転んでいる。
「汚れるよ?」
「払えば落ちますよ」
少女は私の手をそっと握り、静かに瞼を閉じた。
「気持ちいいですね」
「だね~」
夏の空気を肺いっぱいに吸い込んで、私たちは再び眠りの中に落ちていった。