8『夕焼け空とシフトレバー』
曲が静かに終わりを迎えると、男性は乾いた喉をブドウジュースで潤した。私はそんな男性に拍手を送り、その横顔に顔を近づけた。
「なんで失恋ソングにしたの?」
カタッと物がぶつかる音がして、こちらを向いた瞳と視線がぶつかった。
「このメロディが好きで。何回も聞いてるんだ」
「失恋したからじゃないの?」
「恋人なんてもう何年もいないよ」
ハハッと乾いた笑い声が静寂の中に響いた。男性の言葉は、過去に恋人がいたことを意味している。フラれたのか、フったのか。はたまた自然消滅か。なんにせよ、男性はその人にとって結婚する相手ではなかったのだろう。当の本人も失恋を引きずっている様子はない。
「飲み物持ってくるけど、何にする?」
いつの間にか空になったコップを手に、男性は私に問うた。ドリンクバーに何があったか覚えていない私は、再びコーラを頼んだ。二つのコップを手に部屋を出て行く後ろ姿を見ながら、失恋はきっとこんな感じなのだろうと想像した。相手の心も体も、私から静かに遠ざかって行く。かつては愛し合った仲だが、それも年月を経るごとに消えていくのかもしれない。
恋は三年で消えるらしいが、その三年間で少しずつ、緩やかに冷めていくのだろう。同じ人と何年も添い遂げるなんて難しいことこの上ない。けれど、私がそれを実体験として語ることはできない。恋人がいたことはないし、初恋だってまだだ。想い人と手を繋ぐことも、キスを落とすことも、身体を重ねることも、私はまだ知らない。恋によって生じる胸のトキメキは、この世の何よりも素敵だと友達は言った。
特定の人がキラキラと輝いて見えたら恋だと、幼馴染は言った。無言が苦痛じゃなくなったら相性が良いんだと、姉は言った。私は「そうなんだ」としか言えず、ついに体験することは叶わない。いや、残り二日で恋人ができる可能性は否定できない。しかし、それは限りなくゼロに近い確率だ。初恋もキスも、二日でできるほど簡単ではない。仮に容易だとしたら、私には既に恋人がいるだろう。私はそんな過去を知らない。
知らないことが多過ぎて、死に際でようやく自分の無知さに気づく。十七年間、私は一体何をしていたのだろう。勉強だけでは得られない知識は、この世界にごまんとある。それを知らない私は、果たして本当に生きていたのだろうか。
男性と過ごす日常も、看護師たちとのトランプも、もしかしたら全て私の妄想かもしれない。本当は既に死んでいて、今見ているものは死後の世界かもしれない。真っ暗で何もない世界ではなく、死後の国にもカラオケが存在するかもしれない。車窓から見た街並みも、他の人間も、現世と同じように生活している。そうであったらいいと、私はコマーシャルの流れるテレビを見ながら思った。
男性が帰ってきたのはそれから少ししたときで、両手に握られたコップには並々と液体が注がれている。その色は先程と少しも変わりはなく、デジャブのようでさえあった。男性が戻るタイミングを図ったかのように、続いて扉がノックされた。
「失礼します」
未だ二曲しか歌っていない部屋に、制服を着こなした女性が入ってくる。女性はメニュー名をいいながら、手にしていた大皿を机に置いた。最初に運ばれてきたのはパーティセットと焼きそばだった。女性は箸やフォークの入ったケースを置くと、軽い会釈とともに部屋を後にした。
パーティセットの大皿にはフライドポテトに唐揚げ、チキンナゲット、枝豆が乗っている、その中央にはマヨネーズとケチャップの入った小皿がある。焼きそばは思った以上に量があり、残りの料理が食べ切れるか不安になった。黒い机に別の色が加わったが、その殆どが茶色だった。わんぱく料理を選び過ぎたかもしれない。
追加でサラダを頼むにしても、食べ切ることはほぼ不可能だ。時間をかければあるいは食べれるかもしれないが、夕飯までカラオケというのは避けたい未来だ。箸たちとともに運ばれてきた小皿を手に、私は焼きそばを半分に分けた。そして大皿の方を男性の前に置き、私は焼きそばを一口口にした。
ソースの味が口いっぱいに広がり、美味しさに思わず口角が上がる。飲食店でなくともこの料理はとても美味しかった。けれど、焼きそばを食べ進める度に母の料理が食べたくなった。同じ焼きそばでも、母の作るものの方が数倍美味しかった。食べ慣れているというのもあるのだろうが、あの味が私はこの上なく好きだった。
母は今どうしているだろうか。何事もなく健康に過ごせているだろうか。働き過ぎて体調を崩してはいないだろうか。会いたいと思う反面、それを許さない自分もいる。一目でも見てしまったら、きっと母の名前を呼んでしまう。「お母さん!」と叫んで抱きついてしまうに違いない。
見ず知らずの人に抱きしめられたら、母であっても拒絶するだろう。私の中にいる母は一人だけだが、その母の中にいる娘も同じく一人しかいない。空なんて名前の女を、母は知らない子と認識する。そんなの耐えられない。ならば会わないほうがいい。
「この焼きそばおいしいね!」
大皿を手に焼きそばを食べる男性は、そう言って大口で頬張っている。箸の持ち方は美しく、けれど食べ方は少年だ。大人っぽい見た目の中に見える幼さは、余計な思考を綺麗に掻き消していく。楽しい時間を満喫するためには、こういう人が必要なのかもしれない。私は焼きそばをそこそこに、フライドポテトやナゲットに箸を伸ばした。こちらも同じくらい美味しかったけれど、個人的には大手チェーン店の方が好みだった。
「失礼します。ピザとオニオンリングタワー、ポップコーンです」
両手いっぱいに持ってきた女性は、再び慣れた手つきで机に皿を置いていく。殺風景だった机上は、あっという間に料理で埋め尽くされていた。心の健康は食事から。その言葉を体現している光景だった。
「ご注文は以上でよろしかったですか?」
「はい。ありがとうございます!」
私がそう言うと、女性は微笑を浮かべながら退出した。男性は出来上がったばかりのマルゲリータピザを引き寄せ、ピザカッターで六等分に切り分けていく。そして三角になった一切れを持ち上げると、上に乗っていたチーズが綺麗に伸びた。ピザ屋のコマーシャルほどではないものの、見た目と良い香りによって腹がぐぅと控えめに鳴った。
私も男性と同じように一切れ摘まみ、上に持ち上げた。伸び続けるチーズを箸で掬い、そのまま口に運ぶ。チーズの優しい甘さが口いっぱいに広がり、フライドポテトの残り香を一瞬で掻き消していく。チーズで満たされた口の中にピザを入れれば、トマトと生地の旨さが口内を上書きしていく。いろんな味のする料理に飽きることはなく、私たちは手を動かし続けた。
ピザと焼きそばを平らげ、机の上にはオニオンリングが数個と半分ほど残ったパーティセット、殆ど手の付けられていないポップコーンが残っている。正直言って、もう何も食べられない。フライドポテトの一本も、ポップコーンの一粒も、胃袋に入る余地はない。横に座る男性は、食事を終わらせるようにアイスコーヒーを飲んでいる。遠回しに私に全て食べるよう促している。
何もせずちまちま食べていたら、病院の門限である八時になってしまう。私は大人しくタブレットで曲を選択し、放置されていたマイクを握った。そうして立ち上がり、流れる音源に合わせて歌詞を口にした。引かれたとしても、この際しょうがない。いっぱいになってしまった胃袋を開けるには、少しでも動かなければならないのだ。
歌い終わった私は、間髪入れず次の曲を選択した。同時に数曲入れたことで休憩なく歌うことができる。バラード調の曲を始めとして、私は様々な曲を歌った。それこそ喉が枯れるのではないかと思うほどの曲を歌いこなし、とうとう最後の曲になった。
自分を追い込むべく選択したその曲は、早口な歌詞を息継ぎなく歌うようなものだ。私は乱れた呼吸を整えながらイントロに耳を澄まし、肺に空気を行き渡らせるように深く息を吸った。歌い始めは成功。しかしだんだんと苦しくなり、曲のリズムについて行くことが難しくなった。そこへ、カシャッと写真を撮る音がした。私が静かに背後を振り向くと、男性が携帯のカメラをこちらに構えていた。曲のメロディが部屋中に響く中で、私はマイクに向かって「撮った?」と問いかける。
「ごめん。撮る前に聞くべきだった」
スピーカーから流れる音源が、低いベースの音を奏でている。どうして私の後ろ姿を撮ったのか。その理由は男性自身も分かってはいないようだった。無意識のうちにシャッター切るほど、今の私は美しいのだろうか。消えかけの高校生など、美しくも綺麗でもない。そんなの私が一番よく分かっている。けれどその感情を表に出すようなことはしない。自分からこの部屋の空気を悪くする必要はない。最後まで平和に、それこそ楽しく終わらせたい。死ぬ前の思い出に苦みなど要らない。
「別にいいよ! せっかくだし二人で撮ろうよ!」
マイクを机の上に置き、私は男性の隣に座った。肩が触れ合うほど近く、お互いの呼吸音が聞こえてくるようだった。外カメラだった画面は内カメラに切り替えられ、携帯には私と男性が映し出されている。横向きになった携帯を、男性はその大きな手でしっかりと握っている。
「撮るよ」
「うん!」
その言葉に、私は満面の笑みを浮かべた。対する男性は控えめな笑みを浮かべ、年上であることを実感した。友達のように言葉を交わしているが故に、年が離れているということを忘れそうになる。私は十七歳。対する男性は二十三歳。五歳の壁は、私たちの間に確かに築かれている。これほどまでに近くに居ても、同じ空間で話していても、私たちの壁が取り壊されることはない。
死ぬ者が生から拒絶されるように、真の意味で分かり合えることはない。私は男性になれないし、男性もまた私にはなれない。世の真理というのは、何人たりとも覆すことは出来ない。カシャッと再び乾いた音が響いた。制止した私たちが、男性の携帯画面に映し出されている。私たちのことを知らない人が見れば、本物の恋人同士に見えるだろう。男女が一枚の写真に写っていれば、正誤を問わず恋人という称号がつく。それは例え兄妹であったとしてもだ。周囲の目は固定概念に満ちている。
「その写真私にも頂戴!」
「分かった、送るね」
男性はそう言って、写真を私の携帯に転送した。友達との写真を全て消した私の端末に、一枚だけ画像が表示される。写し出された写真には、当然のことながら私がいる。黒い服から伸びる腕には、背後のソファが薄らと透けて見えていた。腹や胸は服に隠れているものの、その下で色を透過していることだろう。明日になれば頭部も背景を透かすようになる。写真上で普通の人間で居られるのは今日が最後というわけだ。
男性とのツーショットも、今のが最初で最後。明日は「撮って」とお願いすることも、「撮ろう」と提案することもない。奇病に罹った私を捉えた写真は、この世に一枚しか存在しない。私は携帯の画面を閉じ、そのまま鞄にしまった。そして皿の上に置いた箸を手にし、オニオンリングを口に運んだ。
タマネギの甘さが、痛んだ傷口を慰めていくようだった。私は残りの料理を次々に口に運び、咀嚼しては飲み込んでいく。その様を、隣で男性がじっと眺めていた。食べ終わった皿を重ね、その手でポップコーンを鷲掴んだ。それをそのまま口内に放ると、バキバキと音がしそうな勢いで嚙み砕く。たくさん残っていたはずの料理は、ものの数分で空っぽになっていた。
容量の減った胃袋に投入された新たな栄養によって、私は再び満腹になった。これでは夕飯が食べられそうにない。私は仕方なく夜の予定を明日にずらすことにした。満腹になった私は歌う気分になれず、それは男性も同じなようだった。
「もう帰る?」
「樹雨くん全然歌ってないじゃん」
「歌うの好きじゃないって言ったでしょ」
「でも上手だったよ」
「それでも嫌なんだ」
死んでも歌わないと言わんばかりに、男性は僅かに残ったコーヒーを呷った。私も半分ほど残ったコーラを一気飲みし、ソファに置かれたコサッシュを肩にかけた。男性は握っていた携帯をショルダーバッグにしまうと、伝票を持って扉へと歩いて行く。最初同様、男性は扉を開けると閉まらないようにそのまま支えていた。
私はお礼を言いながらその扉から出て、男性とともにフロントへと向かう。フロントに立っていたのは男性で、最初に受付をしてくれた女性の姿はどこにもなかった。伝票を差し出すと、男性は機械でバーコードを読み取った。金額を示す緑の数字が表示され、男性はその数字を読み上げた。私はコサッシュの中から財布を取り出し、一万円を銀のトレーの上に置いた。
「俺が払うよ」
「ううん、私が払う。手持ちを使い切らないといけないから」
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして」
一万円がレジにしまわれ、代わりにお釣りである紙幣が数枚帰ってくる。私はそれを受け取って財布にしまうと、軽い足取りで階段を下っていった。
入り口のガラス戸を開けると、空には綺麗な夕焼けが広がっていた。時刻は午後六時を過ぎた頃で、もう少しすると世界は暗闇に包まれる。街灯や町の明かりが綺麗な、キラキラと輝いた世界がやって来る。病室の位置は高いので、素敵な光景を飽きるまで見ることができる。消灯後の楽しみはそれくらいで、誰にも邪魔されることなく堪能できた。
これも入院してよかったと思ううちの一つだ。私たちは日陰に停められた白い車のドアを開け、中の空気に「うわぁ」と声を上げた。三十五度を超える猛暑日の中、この車は数時間外に放置されていた。いくら日陰であったとしても、車内の温度は外と同じくらいかそれ以上になる。それは日差しの落ち着いた夕方でも変わらない。
私たちは肌に張り付く温かい空気に文句を言いながら、同じく熱を持った座席に着席した。ただでさえ暑いのに、座面がその熱をさらに高めていく。尻や背中が非常に温かく、じわりと汗が滲むのを感じた。
「あっついね」
車のエンジンが起動し、ドアの窓が開けられる。密室である車内より、心なしか外の方が涼しく感じる。エンジンが起動したことで、オンになっていた冷房がゴーッという音を立て始めた。けれど吐き出される風は生温かく、少しも気持ち良くはなかった。走行を始めなければ、この冷房が冷風を吐き出すことはない。
「他にどこか行きたいところある?」
男性の問いに、私は腕組みをしながら考えた。門限までに行ける場所は限られている。大好きなテーマパークは数分では物足りないし、ショッピングもしたいとは思わない。かと言って、早々に帰宅するのは有意義ではない。門限までの約二時間を、私は一秒だって無駄にしたくはない。
「ドライブってあり?」
「もちろん」
「じゃあドライブで!」
車で出かけることは子どもの頃から好きだった。移り変わる街並みも、開けた窓から吹き込む風も、心地良いことこの上ない。ぼーっと行き去る世界を眺めているのは、何も考えなくていい時間だった。
テストで悪い点を取ったって、友達と喧嘩をしたって、ドライブ中は全て忘れられる。そうして新たな気持ちで問題と向かい合い、純粋な思いで取り組むのだ。私にとってドライブは、気持ちの整理をつけるための大切な行為だった。
今回はその整理をつける感情がないのだけれど、好きなことを思い切りするのは気分がよかった。男性はサイドブレーキを外し、シフトレバーをⅮに合わせた。そうしてアクセルを踏むと、車は滑らかにタイヤを回転させた。
太陽の沈みかかった世界は、一面がピンク一色だった。空も雲も、建物の外壁も、陽光によってピンクに塗り替えられている。この時間が長くは続かないということを、私はこれまでの人生で知っていた。瞬きをするくらいの時間で、視界の色はピンクから紫に変わる。そして黒よりも明るい紺色の世界になり、空には小さな光の粒が浮かび上がる。
一日のうちで僅かな時間しかない、圧巻とも呼べる美しい世界。そんな景色を見るために人々は生まれてくるのかもしれない。綺麗なものを山ほど見て、そうして命を終えていくのだろう。
それは私だって同じだ。走行を開始した車は、車内にたくさんの風を取り込んでいる。前方にある冷房は冷たい風を作り出すけれど、窓を閉める気にはなれなかった。それを察知したのか、男性が冷房のスイッチをオフにする。
「窓閉めた方がいい?」
「いや、だいぶ涼しいから開けとこっか」
昼間よりも気温の下がった夜。蝉は鳴くのをやめ、地上は温度の上昇を諦める。秋ほど涼しくはないけれど、過ごしやすい気温であることに変わりはなかった。私は頷きながら再び外を眺め、多くの風を顔面に受けた。風に靡く前髪が目に入り、僅かな痛みが一瞬走る。しかしそれで眺めるのをやめるわけもなく、後方に流れる景色を視界に入れ続けた。
明かりの灯る街灯が前から後ろに。帰路に着く学生が前から後ろに。長い尻尾を揺らしながら歩く猫が前から後ろに。同じ景色など二度と見ることはできない。明日同じ時間にこの道を走ったって、学生はいないし猫もいない。一瞬一瞬がかけがえのないものであると、身に染みて感じていた。
「樹雨くんはさ」
「うん?」
「明日になったら、今日のことは忘れちゃうんだよね」
「……忘れないよ」
「誰とカラオケに行ったか。助手席に誰を乗せたか。それは忘れちゃうでしょう?」
「そうだね。空ちゃんはシミラーゴースト症候群だから」
「うん」
空はピンクと紫が入り混じる曖昧な時間。黄昏時が終わり、本格的な夜へと移り変わっていく。隣でハンドルを握る男性は、あと六時間もすれば私のことを忘れてしまう。名前を聞いても覚えがなく、今日のことを聞いても自分以外の登場人物を思い起こすことはできない。今しているドライブだって、彼は一人でしたと記憶するだろう。理由なんてない。ただそういう気分だったから。それだけだ。
今日という日が無くなってしまうことに、私は少しだけ寂しくなった。けれど泣くほどではない。昼間に男性と再会したときから、こういうものだと思い込むことにした。嘆いたって現実が変わるわけではない。泣く時間があるのなら、私はその分をもっと楽しいことに使いたい。時間は有限。時は金なりだ。
「樹雨くんにも覚えていてほしかったなぁ」
「俺は厳しいけど、代わりに手帳が覚えてるよ」
「そうだけど、そうじゃないよ。私は手帳じゃなくて樹雨くんに覚えていてほしいの。カラオケ楽しかったなぁって。ご飯美味しかったなぁって。思い出として覚えていてほしい」
「うん」
「それで、明日になったらこう言うの。今日もカラオケ行く? って。そうしたら、私は行かないよって言うの。カラオケじゃない、別の場所に連れて行ってほしいって。思い出になるような楽しい場所に、二人で行きたいんだよって伝えるの」
「うん」
「今日みたいに二人で、明日はどこに行くんだろうね。病院はもう飽きたから、どこか遠くに行きたいな。でも門限までに帰らないといけないから、旅行は厳しいかもね。美味しいご飯屋さんでもいいよ。高級料理なんか食べちゃったりしてさ。お金ならあるから問題ないし、人生で一度はコース料理食べたいじゃない? あ、私海行きたいなぁ。最後に海水浴をするって名案かも。でも私水着持ってないや。服のまま入る? ……着替え持っていけば問題ないか」
「うん」
「今って海水浴シーズンなのかな? 砂浜にパラソル立てて、レジャーシート敷いて、友達とふざけたりするんだろうなぁ。日焼け止め塗りあったり、麦わら帽子被って海岸を走ったり。ナンパされたり? ふふっ、私に限ってそんなことないよね。透けてて見えないよ。恋愛ドラマの見過ぎ! だけど少しは憧れるよね。好きな人に追いかけられるってどんな気分なんだろう。ね、樹雨くん」
「うん」
「ちゃんと聞いてる? 帰ったら手帳に書いておかなきゃいけないんでしょ? 忘れるなんて、私許さないから——————」
私は窓の外に向けていた視線を男性に移した。
「樹雨くん」
暗くなった世界は、もちろん車内も暗くする。けれど、周囲の明かりによって隣の人の顔くらいは認識できる。今はちょうど帰宅ラッシュ。勤務を終えた社会人は、自前の車に乗って家へと帰っていく。前方に止まる車のテールランプが、走り去る対向車のヘッドライトが、男性の顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「何で、泣いてるの?」
男性の目から光の筋が一つ落ちている。それは様々な明かりによって、存在感を昼間よりも明確に表していた。男性は私の声が聞こえなかったみたいに、「うん」と言ったきり何も口にはしなかった。悲しいことを思い出したのだろうか。私の言葉で彼を傷つけた? 男性の泣いている理由が、私には全く分からなかった。
明日は何をしようかと考えていただけで、隣の男性は涙を流した。私は鞄の中を弄り、偶然入っていたティッシュを一枚取り出した。それで男性の代わりに流れる涙を拭う。車が止まる気配は微塵もなく、ドライブはこのまま続くようだった。
「ごめん」
男性は鼻を啜り、片手で目元を拭った。
「あの、私……」
「空ちゃんのせいじゃないよ。なんか、なんかね、申し訳なくって」
「申し訳ない?」
「そう。俺が今日のことを忘れてしまうのが申し訳なくて」
「それは、しょうがないことでしょう?」
「そうだけど………でもね。空ちゃんが明日の俺に会ったら、絶対にまた傷つくでしょ? 今日と同じように、作らなくていい傷を作るんだ」
私は何も言えなかった。それが当たり前の事象だと、そう思って疑っていないから。私はともかく、男性は傷ついたりしない。私との思い出がないのだから、心が痛んだりはしない。最初に採血してくれた看護師のように、私は珍しい病気に罹った内の一人。それ以外の存在になることも、なる気もない。
「今日のことを話されても覚えてない。いや、事実としては知っているんだろうけど、話ができるほどの記憶はない。昨日食べたらしいかき氷だって、手帳を見るまでは一人で食べたと思っていたんだ。空ちゃんと共有した時間は確かにあったはずなのに、俺はそれすらも記憶から消した。カラオケ楽しかったねって、明日の俺はきっと言わない。言えてもそこに心はこもってない」
「分かってる。忘れられることくらい、私はへっちゃらだよ」
「平気なわけないだろ」
私は男性の横顔から視線を外した。風が私の結んだ髪を揺らし、後頭部で力なく揺れる。風なんてなくなればいい。傷つく心なんて消えればいい。悔しさなんて感じなくなればいい。そうすれば、零れ落ちそうな涙は存在を消すだろう。頬を伝う前に引っ込んで、「本当は平気なんだよ」って笑いかけられるのに。今の私にはそんな言葉言えなかった。
「平気なわけがない」と言われたことで、抑えていた感情が溢れ出しそうになった。忘れられることに慣れたわけではなかった。そうあろうと努力し、慣れた気でいただけだった。本当は未来永劫覚えていてほしい。それこそ死ぬ直前まで私のことを思い出してほしい。「楽しかったなぁ」と呟いて、笑顔で思い浮かべてもらえたなら。そうすれば私の生きていた意味があるような気がした。
私は手の甲で目尻に浮かんだ涙を拭い、数回だけ深呼吸をした。そうして口にした言葉は、「私なら大丈夫」。何がどう大丈夫かなんて、私だって分からない。けれど大丈夫と口にしないと、私の中の何かが壊れるような気がした。私が私でなくなってしまう予感がした。弱さを認めないのは欠点だ。今日の私は誰よりも弱い。
「弱音ぐらい吐いたっていいんだよ」
「うん、ありがとう。でも今はやめとく」
私は乱れた前髪を軽く直し、再び車窓から外を眺めた。何よりも好きな夜の街であるはずなのに、私の目には美しく映らなかった。ただの寂しい闇が、ほんの少しだけ嫌いになりそうだった。私たちはそれから暫くドライブを堪能した後に、現在の家である病院で停車した。入り口に横付けした白い車は、闇夜の中でも一際目立って見えた。それは僅かな光を反射させているからだろうか。白というのはいい色だ。
「ありがとう、樹雨くん。おやすみなさい」
「おやすみ、空ちゃん。また明日」
助手席の窓越しに男性の声が聞こえた。私は返事の代わりに手を振って、背後の自動ドアをくぐった。時刻は午後七時五十分。律儀に門限を守るなんて、私はできた女子高生だ。そう自分を褒め称えながら、私は人気のないエレベーターに乗った。ボタンを押さずとも目的の階に行けるそれは、静かに真っ直ぐ上っていった。
階を示す光る数字が八を指したとき、目の前の扉がひとりでに開く。私はそのまま目の前の廊下を歩き、見慣れた病室の扉を開ける。消灯までにはまだ時間があり、病室内は蛍光灯によって明るく照らし出されていた。光を反射させるベッドが六つ。私のベッドは右側の中央で、掛け布団が少しだけ乱れている。私は肩にかけていたピンクのコサッシュを手に、ベッドの脇に座った。
お風呂も歯磨きも明日でいいや。今日はもう、とりあえず寝てしまいたい。そう思い、髪を纏めるゴムを片手で乱暴に外した。癖の付いた髪を、首を振って元に戻す。その際、向かい側のベッドが目に入った。昼間までは誰もいなかったそこに、一人の少女が座っていた。少女は手に携帯を持ち、こちらをじっと見つめている。
「こんばんは。挨拶は明日でもいい? 忘れちゃうから」
柔らかな声を心掛けたつもりだった。けれど、発せられた言葉は少しだけ尖っていたように思う。女性は「はい」と小さく頷いた後、目線を外すように携帯を見つめ始めた。今日はなんだか疲れてしまった。私はそのままベッドに横になり、静かに瞼を閉じた。