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7『カラオケ』

 私たちはエレベーターに乗り、そのまま一階へと向かった。繋いだ手はとうに離している。勢いのままに握ってしまったけれど後悔はしていない。人の体温というのは案外いいものだなと、私は一人静かに思っていた。


 正方形の個室に二人きりという状況に、少しだけ気まずさを感じた。それは、私よりも男性の方が強く感じているのかもしれない。知らない女と二人きりなんて、気まずいを超えて居心地が悪いだろう。私はエレベーター上部に取り付けられた数字を見た。オレンジに光るその数字は、ゆっくりと一に向かって動いている。そして一がオレンジ色に光ったとき、目の前の扉がひとりでに開いた。


 私は男性が降りるのを待つことなく、その個室から一歩踏み出した。八階とは違い、一階は様々な人でごった返している。繁盛していると言えば不謹慎だが、それなりに儲けているのだろう。奇病患者の一人や二人タダで泊めたとて、そう簡単に潰れたりはしない。この先もこの病院は安泰だろう。


「どこに行くの?」


 私の後を降りてきた男性は、柔らかい声音で言った。私は振り返り、今日の樹雨に言う。


「カラオケ行きたい!」


「カラオケね。……ちょっと遠いね。車で行こっか」


 男性は携帯で近くのカラオケ屋を調べてくれた。そこは私の家の近くで、歩いていくには気が重い。ここは彼の提案に有難く乗ることにする。男性は病院の正面玄関へと向かい、私はその背中を追いかけた。


 自動で開くガラス戸は、優秀なことに私のことも認識する。それは素直に嬉しく、私は出たり入ったりを数回繰り返した。病院の玄関が二重扉になっている理由はなんだろう。駆け込みを阻止するためだろうか。それともデザイン性を重視したのだろうか。どちらであっても、自動ドアにしたのは正解だ。回転ドアだったなら、私は延々に回っていたことだろう。


 二つ目の自動ドアを抜けると、一気に外気の気温が上がった。私を取り巻く空気は湿度が高く、息を吸い込む度に喉の奥に張り付くようだ。その上温度も高く、肺全体がジリジリと焼かれていく。首筋にはいつの間にか汗が滲み、立っているだけで熱中症になりそうだ。それに加え、なんだか怠さが増したように感じる。足どころか指先を動かすのも億劫で、出かけるのをやめようか迷うほどだった。


「空ちゃん! こっちこっち」


 男性が病院脇にある駐車場で手招きをしている。その横には白い普通車が止まり、男性は私が着くのを待たずに運転席に座った。肩で汗を拭きながら、私は助手席のドアを開けた。車内は車外よりも暑く、座るのを一瞬躊躇った。けれど、これも車が動き出すまでの辛抱だ。冷房が効き始めればあっという間に涼しくなる。カラオケに着く頃には、全身に滲んだ汗もひいていることだろう。私は黒色の椅子に座り、左側にあったシートベルトをつけた。するとエンジン音がしたのち、車は滑らかに発車した。


 男性の運転姿はかっこよく、うっかり惚れる人もいるだろうと思われた。端正な顔立ちは、横顔であってもその綺麗さを維持している。こういう人はきっとドライブ中に告白するのだろう。海の見える海岸沿いを走りながら、隣に意中の相手を乗せて。それはどう考えても私ではなく、またそんな未来は訪れない。死にかけの学生に告白するほど多くの人は相手に困っていない。そして未来を考えるのなら、同じく未来ある人を選ぶ方が賢明だ。私だってそうする。


「空ちゃんは歌うの好きなの?」


 左端に取り付けられた吹き出し口からゴーという音とともに風が吐き出される。最初こそ生ぬるかったものの、今では病院に劣らないほどの冷風になっている。


「好きってわけではないけど、嫌いってわけでもない。だけど音楽は好き」


 好きなアーティストの曲。恋愛ドラマの主題歌。服屋で流れる流行りの曲。午後五時に流れる馴染み深い曲。そのどれもが好きだった。それを的確な言葉で表すなら、聞き専というところだろうか。歌う歌わないの問題ではない。イヤホンから流れる音楽を聴くと心が満たされる。聴いているだけで満足だった。


 その曲を時々口ずさんだり、今日のようにカラオケで歌ったりすることはオマケでしかない。プロのアーティストに素人が勝てるわけでもあるまいし、それを趣味にするつもりもない。それに、私は合唱が好きではない。クラス全員で同じ曲を歌う意味が分からないし、必要性が分からない。協調性を養いたいのであれば、もっと他のことにしてほしい。こう言うと、私は歌うのが好きではないと思われるだろう。それでいい。私は素人のままがいい。


「樹雨くんは歌うの好き?」


「俺はあんまり。上手くないしね」


「そうなんだ」


 社会人になると歌うという行為はしないのだろうか。仕事をしながらカラオケに行くなんて、多くの人はできないのかもしれない。そう思うと、学生は時間があっていいなと思う。


 いや、時間があるのは私だけかもしれない。友人たちは今日も学校で勉学に励んでいるだろう。私とは正反対の生活は、この数日で縁遠いものになった。気に入っていた制服に腕を通すことはもう二度とない。鞄の中にしまった携帯で誰かに電話することも私にはできない。時間に余裕があって、平日でも自由に行動できるのに、今の私は何かに囚われている。自由でありながら不自由だった。


 私はフロントガラスから見える景色をぼーっと眺めた。前から後ろに流れていく景色は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。どんな街でも、昼間より夜の方が美しいものだ。信号の青も、道横に立つ街灯も、夜には美しく輝く。イルミネーションには劣るものの、人の目を惹くには十分だった。

 暗闇に佇むようにひっそり生きる灯りが、私は他の何よりも好きだった。


 友人には根暗だとか病んでるだとか散々否定されたけれど、そんなのが気にならないくらい魅了されている。


 男性の運転する車が信号の赤で止まったとき、私の横には自転車に乗ったおじさんがいた。向かいの歩行者用信号も同じく赤色に光り、その前を黒い車が通り過ぎていく。車通りの少ないこの道は、黒い車の他に通り過ぎていく車両はない。自転車に乗ったおじさんは当たりを見回した後、未だ赤の信号を無視して道を横断した。けれどそれを咎める者はおらず、自転車のタイヤが止まることはない。


 これは、別に珍しいことではない。車が来ないのをいいことに信号を守らない人は多く、横断歩道のない道を横断するなんて珍しくない。先程のおじさんだって、きっとこれからも当たり前のようにするだろう。そしてそれを見ていた私たちも、「行っちゃったよ」と思いながら見過ごすのだ。そう思ったことも、五分もすれば忘れてしまう。人間は端から記憶力のいい生き物ではない。どうでもいいことは六十秒と覚えていない。


「お腹空いちゃったなぁ」


 そう言葉にして初めて、今日はまだ何も食べていないことに気づいた。早く起きたことで、空腹感はいつにも増して大きい。トランプなどせず食堂で朝食を取るべきだった。しかし、好奇の目に晒されるのはいい気がしない。気を紛らわせてくれる人もいない中、一人で食べる食事など喉を通りそうもない。ジロジロ見られるなんて、少しばかり不本意だ。そもそも、患者のことを凝視するものではない。すぐに死んでしまうとしても、その瞬間は生きているのだから。


「コンビニ寄る?」


 男性がアクセルを踏むと、車の走行音が耳に入ってくる。止まっていた視界は息を吹き返したように動き始め、再び前から後ろに流れていく。


「ううん、カラオケで食べる」


 私は前方を向いたまま首を横に振った。幸いお金には困っていない。むしろ使い切れるか不安ですらある。だから、こういうときにできる限り使わなければならない。使いきれなかったなんて、昔の私に申し訳が立たない。未来の自分が使えるようにと我慢してきたのだから、その思いには応えなければ。言ってしまえば、それが私の生きる意味なのかもしれない。


 病院内で使い切るのは不可能で、それゆえに外出しなければならない。外の世界は、病院内よりも奇病に対する反応がシビアだ。ギョッとする人もいれば、エイリアンを見たような反応をする人もいる。もちろん幽霊病と揶揄する人も、わざとぶつかってくる人もいる。どの人も私より遥かに年齢が上で、社会人として何年も働いている人間だ。


 彼らも私たちと同じ恐怖を抱いていた時期があるはずなのに、罹る恐怖が無くなると冷たくなる。たった五年間だけれど、それは記憶に刻み込まれるには十分すぎる時間だ。刺激的で、脅迫的で、特異的。忘れようと思って忘れられるものではない。けれど彼らは忘れてしまう。そんな事実ごとなかったみたいに、奇病に罹った者に厳しい目を向ける。そうして舌打ちをかました後に、機嫌悪く去っていく。


 一体私たちが何をしたというのだろう。ただ普通に生きているだけで奇病に罹り、余命五日だと宣告されただけだ。なりたくてなったわけじゃない。私だってみんなと同じように学校に行きたい。退屈な授業をあくび混じりに聞き、友達と机を囲んで弁当を食べたい。放課後は部活で汗を流し、夜は家族でテレビを見たい。多くの人が享受されている日常を、私も同じように過ごしたいだけ。


 普通でいたいと願うことも、私たちには贅沢だと言うのだろうか。若いのだから多くを望むなと、血も涙もないことを言うのだろうか。私はただ明日を生きたいだけなのに。それすらも許されてはいない。


「車を運転するってどんな感じなの?」


 私はハンドルを握る男性の横顔を見た。当然のことながら私の方を見ることはないけれど、その耳が私の声を拾ったことだけは分かった。


「どんな感じ……緊張はするかな」


「そうなんだ。やっぱり運転って怖いの?」


「うん、責任はあるからね。常にいろんなことに気を配らないといけない。命を奪ってしまってからじゃ遅いから」


「そっか。私も運転してみたかったなぁ」


 あいにく私はまだ十七歳で、免許の取れる年ではない。それは即ちハンドルを握らずに死ぬということだ。アクセルやブレーキの踏み心地も、運転する時の緊張感も、私には知れない。教習所がどんなところかも、初めて免許を手にしたときの感情も、想像の域を出ることはない。運転と同じように、私には経験できないものが世の中にたくさんあるのだと思う。それこそ働くことの大変さは真の意味で理解できない。


 今年ある修学旅行も私は参加できない。飛行機に乗ったこともなければ、沖縄に行ったこともない。綺麗な海を肉眼で見るなんて、夢のまた夢だ。そう考えると、私の人生は思った以上に短い。今の人類は百年近くまで生きられるらしい。そのうちの十七パーセントなんてなかったも同然だ。自分で考えておいてなんだが、少しだけ悲しくなってきた。


 私は気を紛らわせるために、右側にあったシフトレバーを指先でつついた。シフトレバーはそれだけで動くほど柔くはなく、私の興味は一瞬で冷めてしまった。男性との話題は特になく、私は静かに車のドアに寄りかかった。窓ガラスはほのかに温かく、冷房の吹き出し口からは尚も冷風が吹き出している。そのアンバランスさが、かえって心地よかった。


 快適な動く箱は、それから暫く走り続けた。そうして着いた場所は三階建てのカラオケ屋。親切なことに、一階は全て駐車場になっている。カラオケ屋の駐車場は思った以上に空いていた。平日の真昼間にカラオケをするなんて、暇人か学校をサボった学生しかいない。もちろん私は前者で、男性はそんな私に付き合わされているだけだ。同情こそすれ、慰めたりなんかしない。奇病専属の記者はそれも仕事のうちなのだから。




 快適なドライブを終えた私は停車した車のドアを開けた。建物に遮られた駐車場は薄暗く、真夏の日光は差してこない。けれど気温の高さは変わらず、それは日陰であっても変化はない。日向でないことがせめてもの救いだが、所詮気休めでしかなかった。


 私たちは駐車場の横にあるガラス戸を押し開け、建物の中に足を踏み入れた。店内はやはり程よく冷やされていて、快適としか言いようがなかった。私は深呼吸をしながら、目の前にあった階段を上る。もちろん階段の横にはエレベーターが設置されていたが、一階から二階に上がるだけで使うほど老いてはいない。それに、私は透けているだけで他は健康なのだ。


「カラオケなんていつぶりだろ」


 後ろを歩く男性はそう呟きながら当たりを見回した。物珍しいものが置いてあるわけでもあるまいし、そんなに見なくてもいいだろう。けれど、そんな男性の姿は少しだけ面白い。私よりも長く生きているくせに、カラオケに来る回数は少なそうだ。そう言う私も大して多くはないけれど。


「そんなに来てないの?」


「高校生ぶりかも」


「てことは五年も来てないんだ」


「来るほど好きじゃないのかもね」


 男性はハハッと笑い、二段飛ばしで階段を上ってくる。対する私は一段ずつ上り、あっという間に男性に追い抜かれた。一足先に二階にたどり着いた男性は、私を待つことなくフロントへと向かう。フロントに立っていた若い女性は、一見私と同い年ぐらいに見える。けれどなんの確証もなく、私は男性の少し後ろで様子を窺った。


 女性と男性が部屋や機械の種類を選ぶ中、私は上部に取り付けられた値段表を見上げた。平日と休日でそれぞれ値段が違い、やはりどこも同じなのだなと納得する。そして今日は平日の昼間。休日よりも二百円ほど安く歌うことができる。お金を使いたい私にとってはマイナスだが、世間一般ではお得な値段だった。


 フロントの右奥にはドリンクバーエリアがあり、幸いなことに誰もいなかった。自宅から比較的近いこの場所は、知り合いと出くわす可能性が高い。相手は覚えておらずとも、私はそれが知り合いだと気づいてしまう。そう考えるだけで、少しだけ気まずくなってしまう。さらに部屋から漏れ聞こえる音もなく、少なくとも利用者が多くないことは明白だった。


 閑散としたカラオケ屋は、機械の種類が選びたい放題だった。男性は女性に薦められるがまま最新機器を選び、女性は四人用の部屋番号を告げた。


「大人と学生一名ずつでよろしいですか?」


 女性の問いに、私はコサッシュから財布を取り出した。こういった場所では、学生である証を見せなければならない。大人二人でも問題ないのだが、そう問われた以上学生証を出す必要がある。しかし、いくら探しても学生証は見当たらない。ポイントカードに紛れていないか一枚ずつ確認したが、不思議なことにカケラすら出てこない。


「あの、学生証なくって」


「大丈夫ですよ」


 女性は笑顔混じりにそう言った。私は軽く会釈をしながら財布をコサッシュにしまう。そこで気づいた。私の手足が、今では学生証の代わりだった。小さな白いカードがなくとも、体全体で学生であることを示していた。便利な体になったことに、私は心の中で拍手を送った。こういう些細なことでしか自分で自分を褒めることはできない。


 女性は長方形の黒いカゴにマイクを二本と透明なコップを二つ入れ、そのまま男性に手渡した。私たちは女性にお礼を言ってから、使うよう言われた番号の部屋へと向かった。フロントの左に伸びる廊下を進み、右手前から三つ目の部屋。そこが今日使う個室だ。先を行く男性は部屋のドアノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引いた。黒い扉の中央には縦長のすりガラスがはめられている。


「どうぞ」


 私は男性に言われるがまま、無人の部屋に足を踏み入れた。冷房が止まっているのか、部屋の中は蒸し暑かった。私は壁に取り付けられた冷房のスイッチを押し、温度を十八度に設定した。低すぎかと思ったが、寒くなったら止めればいい。個室の右壁にはテレビが置かれ、その下には音量が調節できる機械が置かれている。テレビの前にはタブレットらしきものがあり、曲を選択できるようになっていた。その向かい側にはⅬ字に置かれた黒いソファと、長方形の同じく黒い机。男性はその机の上にカゴを置き、マイクとコップを取り出した。机の上に並んで置かれた二本のマイク。何もない卓上で、それらは存在感を高めていった。


「何飲む?」


 両手に持ったコップを顔の前に掲げながら、男性は私に問うた。


「私行くよ?」


「じゃあ一緒に行こ」


 右手に持ったコップを差し出して、男性は少年のように言った。その顔に一瞬キュンとしたが、きっと見た目とのギャップゆえだろう。私が透明なコップを受け取ると、男性は楽しそうに閉まった扉を開けた。個室内より廊下の方が僅かに涼しく、その開放感に気分も上がった。


 二人して来た道を戻り、女性が立っていたフロントを通り過ぎる。若い女性はそこにはおらず、フロントには誰もいなかった。三台のソフトドリンクサーバーには、お茶からジュースまで幅広く入っていた。私は氷の出るサーバーの下にコップを置き、ひとつの透明なボタンを押した。カラカラと小さな氷が無数に排出され、コップの中に溜まっていく。言い表せないほどの愛おしさに目を細めながら、私はソフトドリンクサーバー上のコーラのボタンを押した。


 カラメル色の液体は、シュワシュワとした炭酸音とともにコップに注がれる。無色透明だった氷たちが一瞬で色づき、水面にプカプカと漂っている。横を見れば、男性のコップにはグレープジュースが注がれている最中だった。藤よりも深い紫色は、コップの底にいくほど濃くなっていく。狭い容器の中はさながら海底のようだった。


 私たちは液体の入ったコップを手に、再び個室へと戻った。人の声も、街中の雑音も、一切がシャットアウトされた空間。どちらかが口を開かない限り、この部屋に音が現れることはない。私はコーラを煽るように飲み、立てかけられたタブレットを手にした。


「先に歌っていい?」


「どうぞ」


 優しく放たれた声は、宙をふわふわと漂いながら私の耳に入ってくる。うん、好きだ。この人の声が私の波長にピッタリとハマる。心地良いことこの上ない。


 私は胸の前に掲げていたタブレットで、パッと思いついた曲の題名を入れた。それは毎週火曜日に放送されるドラマの主題歌で、ハイテンポな曲調だ。それでいて各所にトキメキが散りばめられている。非常に可愛らしい歌だ。私は机上からマイクを一本手に取ると、両手で包み込むように握った。


 立った方がいいだろうか。でも初っ端からテンションを上げたら引かれるかもしれない。そう思った私はソファに座ったまま歌うことにした。部屋の上部に取り付けられたスピーカーからイントロが流れ出す。私は息を深く吸い、テレビに表示されるカウントに合わせて声を出した。


 マイクを通した私の声は、想像以上に反響していた。目を閉じると、そこは大きなステージに様変わりする。私の目の前にはたくさんの観客がいて、他の誰でもない私の歌声を聴きに来ている。カラオケは人気アーティストに誰でもなれる、最高の空間だった。


「すごく上手だね」


 歌い終わった私に、男性は大きな拍手を送ってくれた。巨大ホールで貰うような全身を包むものではなかったけれど、嬉しさは何倍も上回っていた。


「次、樹雨くんの番」


 タブレットを押し付けるように渡すと、男性は渋々といった風に受け取った。私はマイクの代わりにメニュー表を手にし、中身にさっと目を通した。


「何食べよっかなぁ。パーティセットは頼むとして、問題は主食だよなー。ピザもいいけど、焼きそばもいいなぁ。ラーメンは昨日食べたし、炒飯は気分じゃない。あ! オニオンリングのタワーあるじゃん!」


 カラオケのメニューは、飲食店に引けを取らないほど充実していた。これだけあっては迷ってしまうが、あいにく胃袋は一つしかない。食べたいものを全て頼んでも食べ切れないことは目に見えていた。


「じゃあ俺ピザ頼むから、空ちゃんは焼きそば頼んだら? で、半分こすればいいよ」


「それだ!」


 二人いるのだから、二つ頼んで分け合えばいいのだ。そんな単純なことに気づかなかったなんて少し恥ずかしい。私はメニュー表を持ったまま、備え付けの電話の受話器を取った。ボタンを押さずとも繋がるその電話は、ツーッという電子音の後に人の声を発した。選曲に手間取っている男性を横目に、私は一人注文をしていく。


 ピザに焼きそば、フライドポテトなどが乗っているパーティセット、オニオンリングタワー、ポップコーン。二人で食べるには些か多過ぎるような気もしたが、なんとかなるだろうとたかを括った。そうして注文を終えたとき、スピーカーからイントロが流れ始めた。


「ジャストタイミングだね!」


「いやぁ、なかなか決まらなくて……。曲には疎いんだ」


「あはは、普段曲聞かないの?」


「ピアノアレンジぐらいしか」


 男性はそう言って息を深く吸い、握ったマイク目掛けて声を放った。マイク越しに聞く男性の声は、同一人物だとは到底思えなかった。歌が下手だと言っていたのは何処の誰だっただろうか。少なくとも、今聴こえる歌声は下手ではない。これを聴いた多くの人が「上手すぎる」と言い表すだろう。


 男性が選曲したのは、落ち着いたテンポの失恋をテーマにした曲だった。知っている曲が少ない中、どうしてこれを選んだのだろう。久々に歌うのであれば、もっと幸せな曲を歌えばいいのに。男性について、まだまだ知らないことは多そうだ。

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