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6『三日目』

 眩しい野外とは裏腹に病室内は暗かった。窓から取り込まれた光は廊下まで届かず、私の右半分のみを照らしている。だだっ広い部屋に一人なのは少しだけ寂しかった。


 こんなことになるのであれば、個室の方が良かったのかもしれない。そうすれば主の居ない五つのベッドを眺めることもなかった。


 シミラーゴースト症候群が世に知られ始めてから、彼らは一体何人の患者を見送ってきたのだろう。真っ白な枕にはたくさんの涙が浸み込んでいることだろう。私は着ていた服を捲り上げた。昨日まではハッキリとした色を持っていた腹が、今では薄らと透けている。白いTシャツが肌の色と混ざり、薄いベージュに変化していた。


 私の体は着実に無に帰ろうとしている。私はそれに抗うことなく身を委ねる。命あるものはいつか死ぬ。それが私は他の人よりも早かっただけだ。それ以上でも以下でもない。死という平等が、この世に生きている人の足元にあるだけだ。


「今日も暑そう」


 外から蝉の声が聞こえる。彼らは一週間しか生きられないけれど、それも気の持ちようだと思う。一週間しか、と思うのか。一週間も、と思うのか。考え方を変えれば少しぐらいポジティブになれるような気がした。


 起床後の体温と血圧を測り終えた私は、二度寝をする気になれなかった。目が覚めてしまったとういうのもあるが、早起きは存外気持ちが良かった。昼間に比べて気温は低く、窓を開けても汗ばむほどではない。透け始めた肺いっぱいに空気を吸い込むと清々しい気分になった。


 早起きで得をするかは知らないが、そういう気持ちになるのは素敵なことだと思う。しかし、暇を持て余すのはどうにかしたい。私は当てもなくベッドから下り、ベッド横の棚を引き出した。そこには数着の着替えや写真立てがあり、その隅に透明なケースに入ったトランプを見つけた。


 そういえば家を出るとき鞄に入れたな、と思い出したものの、トランプは一人ではできない。神経衰弱なら出来るかもしれないが、楽しいかと言われれば疑問だ。病院には同じ患者が数人居ると思っていたが、珍しい病気故に発症者は少ない。見事に当てが外れたというわけだ。手に取ったトランプをしまうのは忍びなく、私はそれを持ったまま廊下を覗いた。


 視線の先にはナースステーションがあり、三人の看護師が私と同じように暇を持て余していた。八階にいる看護師は奇病患者を専属で見る人たちのようで、一般病棟の看護師よりも仕事量が少ないらしい。患者が私一人なのだから、それも致し方ないように思う。


 本日の業務と言ったらあとは採血ぐらいしかない。それも終えると、同僚と語らうぐらいしかなさそうだ。私はトランプを手にしたまま、視線の先にあるナースステーションへと向かった。


「あら、空ちゃん。どうかした?」


 噴水の場所を教えてくれた女性の看護師が言った。私はトランプを顔の前に掲げ、カウンター越しに声を発した。


「トランプしませんか?」


 女性は同僚と顔を見合わせ、困ったように眉を下げた。


「採血までの時間でいいんです! 暇で死んじゃいそう」


「じゃあ、採血までね」


 女性はしょうがないなぁとでも言いたげな表情で、妥協するように言った。私は透明なケースからトランプを出し、そのトランプを両手でシャッフルした。


「お兄さんたちもしますか?」


 ナースステーションの奥の方にいた男性二人は、私の誘いに頷いた。私はシャッフルしたトランプを片手で持ち、もう片方の手で四つに配り分けた。トランプを使った遊びはたくさんあるけれど、ババ抜きが一番無難で面白い。心理戦も交えるので、ポーカーフェイスの練習にもなる。もっとも、私にそんなスキルは必要ないのだけれど。


 トランプを配り終えると、私たちはそれぞれ一束ずつ手に取った。見やすいように扇型にカードを広げ、揃ったカードをカウンターの上に出していく。そうすると手元に残るのは僅か数枚。そこから順番決めのジャンケンをし、ババ抜きが始まった。


 時計回りにカードを引いていくババ抜きは、やはりテンポが速い。カードが揃うたびに「揃った!」と声を上げ、前のカウンターにカードを出す。私のカードは左側の男性看護師が引き、私は女性看護師のカードを引く。年齢は違うはずなのに、旧友と遊んでいるかのように安心できた。それは相手が看護師だからなのか、私の感性がおかしいからなのか。真相は誰にも分からなかった。


 分かっているのはこのババ抜きが楽しいということ。一枚だけ他のカードより上に出しておいたり、両手に分けてみたり。試行錯誤して相手を惑わせ、ババであるジョーカーを引かせる。簡単なのに難しいこの遊びはよくできていた。


「そういえば、お姉さんたちのお名前ってなんですか?」


 今日で三日目になるというのに、看護師の名前は一人だって知らない。短い付き合いとは言えど、名前が分からないと不便なこともあるだろう。知っておいて損はない。


「俺は千葉です。あ、揃った」


 私の手からカードを引いた男性は、名前を告げながら二枚のカードをカウンターに置いた。


「千葉県出身なんですか?」


「埼玉だよ。千葉なのに埼玉なんて、ちょっとおかしいよね」


 千葉はハハッと笑いながら左側の男性にカードを差し出した。千葉のカードは残すところ三枚になった。


「俺は川澄です。好きな食べ物は肉!」


 千葉よりも僅かに髪の長い男性は、引いたカードをそのまま手札に戻した。彼の手持ちは五枚で、それを女性が引いて四枚になる。


「私は山田です。はい、空ちゃんの番よ」


 女性はそう言って私に手札を向けた。私は広げられた四枚をじっと眺め、一番右の一枚を引き抜いた。新しく手元に来たカードはダイヤの七。幸いなことに、私の手元には七がある。私はペアになったカードを抜き、四人の中央に捨てた。


 なんの小細工もすることなく、私はカードを千葉に向けた。三枚になったカードは少しだけ物寂しい。千葉は私の顔を伺いながら中央のカードを手に取った。すると彼の顔は僅かに曇り、反対に私の顔は晴れやかになった。ゲーム開始時から持っていたジョーカーは、千葉の手によって貰われていった。


 私たちはそうやってババ抜きを数回、ジジ抜きを数回、そして七並べを二回した。太陽の位置は回を重ねるごとに変化し、あっという間に昼間になった。


 携帯ゲームに負けず劣らないそのゲームは、会話をしながら行うにはちょうどよかった。三人の看護師は、入社当初は一般病棟勤務だったこと。最年長である山田は、この階の担当になってから五年経つということ。三つ離れた千葉と川澄は家が近く、幼馴染だということ。知らなかった人の、知らない部分。それを知るのは思った以上に楽しかった。


 話の流れで、私のことも少しだけ語った。父と母と姉がいるということ。クマのぬいぐるみはお気に入りで、幼少期に誕生日プレゼントで貰ったこと。そして、私の名前はソクラテスから取られたこと。


 三人の看護師は私の話をよく聞いてくれた。面白くもないだろうに、相槌を適宜はさみながら。聞き上手なのは職業柄なのだろうか。それとも、元からそうだったのだろうか。いずれにしても、話を聞いてもらえるということは有難いことだ。その内容を忘れてしまうのだとしても、私の中には伝えたという事実が残る。悔いなく死ぬためには、そういった些細なことも大切だ。やり残したことがあっては成仏だってできやしない。


「十二時だね。採血しよっか」


 山田はそう言って、ゲームを終えたカードを整えた。そしてそれを透明なケースにしまうと、私に座るよう促した。私はナースステーションの中にあった椅子に座り、女性の持ってきた肘掛けに左腕を乗せた。


 座った椅子は妙に高く、宙に浮いた足がぶらぶらと力なく揺れた。二日前までは色を保っていた私の肌。それも今では肘掛けが薄らと透けている。五日目には全身の透明度が上がり、消えるようにこの世を去る。綿菓子を水につけたみたいに、跡形もなくいなくなる。消えた綿菓子は水の中に甘さを残すけれど、私は苦ささえ残せない。残るのは身につけていた衣服と、持ち主のいない雑貨のみ。


 私が死んだら、クマのぬいぐるみはどうなるのだろう。ゴミとして捨てられるのだろうか。それとも小児科の子どもたちに渡るのだろうか。燃やされるぐらいなら、誰かに貰ってほしいと思った。可愛い顔のクマなのだ。きっと別の場所でも愛でられることだろう。


 肘掛けに置いた私の腕に、山田は透明な駆血帯を巻く。その圧迫感によって、私は生きていることを実感する。消毒の冷たさも、針を刺すときの些細な痛みも、私自身に生の感覚を植え付ける。それとは反対に、抜かれた血液を見て死を実感した。


 健康なときとは明らかに違う色。通常時が真紅だとしたら、採血管内の液体は桃色だった。昨日よりも遥かに薄い。明日はもっと薄くなるのだろう。そうして最後は色を無くす。何度考えても虚しくなる。


「はい、お疲れ様」


 腕に貼られた絆創膏が宙に浮いているように見える。嫌に目立つそれは、簡単な比較対象になった。視覚からの情報は目に毒だ。


「今日はどこか行くの?」


「うん! 樹雨くんと出かける!」


 私は椅子から下り、山田の問いに元気よく答えた。今日の予定は樹雨には伝えていない。けれど、きっと彼はついてくるだろう。私の生きた痕跡を残すために、黒い手帳とボールペンを握りながら。


「気をつけて行って来てね。八時までには戻るように」


「はーい」


 私はナースステーションから一歩だけ外に出て、エレベーターを真っ直ぐ見た。温度の感じないその扉は、今日はいつ開くのか。シミラーゴースト症候群に理解のある男性は、私に同情の眼差しを向けない。それは三人の看護師もそうなのだが、それ以上に接し方に特別感を出さない。それは患者と記者という立場だからなのかもしれない。


 過度な肩入れをしない代わりに、一歩引いて接してくる。クラスメイトの一人に話しかけるような、部活の先輩に声をかけるような。そんな感じがする。ならばと、私は昨日までと話し方を変えることにした。


 男性をさん付けではなくくん付けで呼ぶと決めた。それから敬語をやめて、距離が近いのだと錯覚させることにした。前日の記憶が無い男性は、そんな私にどう接するのだろう。全ての患者に敬語で話すわけではあるまいし、同じように砕けた言葉で話すかもしれない。手帳に敬語と書かれていたならば、話し方は変わらないのかもしれない。


 入院によって暇を持て余した私には、これくらいしか楽しみがない。もし気分を悪くしてしまったら、「子どもの悪戯だから大目に見て」と言うことにしよう。両手でハートを作って、可愛らしく謝るのもいいかもしれない。今を楽しむ手段だと言えば、誰も文句は言えまい。


「お洒落しなくていいの?」


「……した方がいいかな?」


「その服のまま行くよりは楽しくなるはずだよ」


 白いTシャツに黒い短パン。部屋着らしい部屋着姿に、女性は微笑みながら言った。このまま外に出ても大丈夫だとは思ったが、女性の言ったことも一理ある。可愛い服に身を包んで出かけると、心の中から楽しめるような気がする。こんな状況の私でも自信が持てることだろう。髪を弄ってみるのもいいかもしれない。


「着替えてこよ」


 私はそう呟いて病室へと向かう。その最中にエレベーターの扉が開き、中から男性が降りてきた。紺色のTシャツにジーンズを着こなす男性の胸には、昨日と同じようにショルダーバッグがかかっている。


「こんにちは」


「こんにちは、海波さん。今日も暑いですねぇ」


「そうですね。気温がもう少し低いと過ごしやすいんですけどね」


「年々気温上がってますもんね」


 山田と会話をする男性を、私は少し離れたところから眺めていた。好青年に見える男性は、コミュニケーション力もあるらしい。女性と軽い会話を終えた男性は、私の方を振り返った。海波樹雨は、昨日と同じ男性だった。しかし、その瞳の奥は僅かに違った。


 昨日とは少しだけ私の映り方が違う。病気が進行しているという事実は抜きにして、目の前の男性は知らない人だった。直近の記憶を持たないというのは想像以上に残酷だ。


「立花空ちゃんですか?」


 昨日と同じ声で問う男性。私の名を呼ぶその声は、昨日のものとは纏う雰囲気が違う。それが嫌に胸に刺さり、一瞬だけ呼吸ができなくなった。けれどそれも次の瞬間には元に戻り、いつものように笑顔を向けた。


「そうだよ、樹雨くん! 今日は出かけるよ!」


「どこへ?」


「カラオケ! 着替えてくるからちょっと待ってて」


 私は明るい声でそう言って、軽い足取りで病室へと向かった。勢いよく開けた白い引き戸は、私の背後でゆっくりと閉まっていく。カーテンの引かれていない病室は見晴らしが良く、一人であることを痛いほど突きつける。私は枕横に置かれたクマのぬいぐるみを抱きしめ、そのままベッドに腰を下ろした。


 気持ちを落ち着けようと閉じた瞼の隙間から、僅かに涙が滲み出た。悔しかった。悲しかった。昨日までは平気だと思っていたのに、いざその光景を目の当たりにしたら涙が溢れそうになった。忘れられることは覚悟したはずだった。昨日一緒にかき氷を食べたことだって、私だけが覚えていればいいって。それだけでいいんだって思った。


 でも、やっぱり忘れてほしくなかった。


 男性を見たら「昨日のかき氷美味しかったね」って、そう言いたくなった。男性の記憶に昨日の私はいないのに。男性からしたら私は初対面の患者だ。それ以上にはならない。


「………………………………よし」


 私は立ち上がって深呼吸をした。残された時間を無駄にするわけにはいかない。今日の私はカラオケを満喫すると決めたのだ。声が枯れるほど歌うと、そう誓ったのだ。泣いている暇なんてない。


 私は抱きしめていたクマのぬいぐるみをベッド脇に置き、棚から服を取り出した。白いTシャツを脱ぎ、黒いTシャツに腕を通す。黒い短パンを脱ぎ、赤いスカートを履く。スカートの丈は膝よりも短く、ミニスカと言うには長かった。肩まで伸びた髪は黒いゴムでポニーテールにした。


 夏っぽい服装に、沈んでいた気持ちが少しだけ晴れやかになった。やはりお洒落は自信とテンションを上げてくれる。着替えて正解だ。それから私はピンクのコサッシュに財布と携帯を入れ、肩から斜めにかけた。


「行ってきます!」


 私はクマの頭を撫で、閉じた引き戸を勢いよく開けた。目の前には男性が立っている。私は男性の手を取り、元気いっぱいに駆け出した。


 背後で「お、行くの!?」と驚いた声が聞こえ、私はフロア一帯に響くほどの声で「うん!」と言った。今日はまだ始まったばかりだ。秒針が日にちを跨ぐまで、私は精一杯生きることにする。

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