5『人生を形として残す手帳』
「空ちゃん、朝ですよ〜」
女性の声が微睡む私の耳に届く。優しい声音は心地よく、起きようと思う思考とは裏腹に再び眠りの中に沈んでいく。けれど、女性は決してその行動を許さない。私の肩を軽く叩き、再度朝だと告げてくる。私は閉じた瞼を薄らと開け、目覚めきらない体を強引に起こした。
「体温測ってね」
女性の看護師は私に体温計を差し出した。初日とは違うその看護師は、私を慈愛に満ちた目で見ている。私は体温計を脇に差し、太陽の昇った空を見た。綺麗な窓ガラス越しに見る青空は快晴で、夏らしい陽気だった。太陽の照らす世界はきっと今日も暑いのだろう。絶好のアイス日和だった。
ピピッという機械音が鳴り、私は体温計を看護師に差し出した。何度だったかは分からないが、看護師の様子を見る限り熱はなさそうだ。看護師は私の体温を紙に記入すると、血圧計を手に取った。それを私の腕に巻き、機械のスイッチを押した。
指までだった半透明化は腕にまで伸び、同じように足も透けている。着々と死に近づいていることを実感し、私は深いため息を吐いた。残された時間は、今日を含めて四日となった。
「はい、ありがとうね」
看護師は私の腕に巻いた血圧計を外し、ステキな笑顔でそう言った。女性が部屋から去るのを見届けた私は、そのまま後方に倒れた。バフッという音が静かな病室で聞こえ、それ以外は何の音もしなかった。人の話し声も、蝉の鳴き声も、私の耳には届かない。私は睡眠欲に勝てず、そのまま瞳を閉じた。
真っ暗な世界が私を包み、無音の世界がどこまでも広がっている。かなり疲れていたのだろう。昨日はいろんなことがありすぎた。あんなに歩いたのは小学校の遠足以来だと思う。運動不足の足には少しばかりキツかった。
それにしても、昨日の夜食べたピザは美味しかった。デリバリーなど滅多に頼まないが、たまにはいいものだ。いろんな味を楽しく食べるなんて、友人ともしたことがない。………昨日は一人でピザを食べたのか? 誰かと一緒だったんだっけ?
「空ちゃ~ん、採血のお時間だよ」
再び肩を叩かれ起床した私は、意志に反して閉じていく目を右手で擦った。その間に看護師は駆血帯を私の腕に巻きつけ、慣れた手つきで肌に針を刺す。痛みなど少しもなく、私はお礼の代わりに大きなあくびをした。どれだけ寝ても寝足りないのは、私の寝方が悪いからなのか。はたまた成長期だからなのか。専門家でない私には分からなかった。けれど、そんなのはどうでもいい。とても眠いという事実だけで十分だ。
「今日はどこかに出かけるの?」
針を刺した場所にガーゼを当てながら女性が問うた。私はそのガーゼを押さえながら、首を横に振った。正午前後にある採血の時間が終わると、私たちは自由になる。門限である八時までに帰って来ればどこまで出かけても怒られない。出かける前に外出する旨を伝えなければならないが、それ以外に私たちを縛るものは何もなかった。病院からもたらされたせめてもの自由だ。
女性は首を振った私を見て「そっか」と呟いた後、小さな正方形の絆創膏を腕に貼ってくれた。そうして回診車に手をかけながら、「そうだ」と口にした。
「中庭に大きな噴水があるの。綺麗だからよかったら行ってみて。今日も暑いみたいだから、熱中症には気をつけてね」
可愛らしい笑顔を浮かべた女性は、そう言い放って病室を後にした。
「噴水かぁ」
昔、ライトアップされた噴水を見たことがある。勢いよく放たれる水が様々な色に変わり、思わず見惚れたのを覚えている。あれ以上のものはそうそうお目にかかれないだろう。まさに圧巻だった。この病院にあるという噴水は、記憶にあるものとはかけ離れているだろう。そもそも、病院に目を引くようなものがあるとは思えない。仮にも病気を治す施設だ。私のような暇人が入院するような場所ではない。
「行ってみるか」
真夏は暑いと相場が決まっている。けれど、水を見れば少しは涼しくなるかもしれない。水浴びは出来ずとも、気持ち的に涼しくなれれば十分だった。私はベッド横の棚から着替えを取り出し、部屋着代わりのTシャツから着替えようとした。そのタイミングで、病室の引き戸が何者かによって開けられた。
扉の先には高身長な男性が立っていた。カーキ色のTシャツを着こなし、手には黒い手帳のような物を持っている。私はその男性を見た瞬間、「ウミガメ」と発してしまった。なんでそう言ったのかは分からない。けれど、彼は確かにウミガメと呼ばれていた。誰に呼ばれていたかは思い出せないけれど……。
ウミガメと呼ばれた男性は私の顔を凝視し、そしてこう言った。
「君の他に、この病室に誰か居なかった?」
男性が何を言おうとしているのか、私にはさっぱりだった。どこを見てそう思ったのだろう。この広い部屋には私以外居ない。居るはずがなかった。
「さぁ」
私は首を傾げながら言った。男性は「そっか」と呟き、手に持っていた黒い手帳を閉じた。そしてそれを同じく黒いショルダーバッグにしまった。私は着替えようとしていた手を止め、男性を真っ直ぐ見据えた。この人が誰かは分からないが、少なくとも患者ではないのだろう。その証拠に、男性の指先は透けていない。
男性は私の視線の気づいたのか、鞄から小さな紙を取り出した。そしてそれを私に差し出し、私は恐る恐る受け取った。小さな長方形の紙は名刺だった。上部には小さな文字で『睦美之病院専属記者』と書かれている。その下には、名前らしき文字が並んでいた。
「海波……きあめ?」
「きさめ。樹の雨と書いてきさめって読むんだ」
「珍しい名前ですね」
「だよね。俺もそう思う」
男性はハハッと笑い、恥ずかしそうに右手で頭を掻いた。私は貰った名刺を棚の上部に置き、束ねられていたライトブルーのカーテンを引いた。私と男性はカーテンによって分断されたが、それに反応を示す者はいなかった。男性から私を隠すように引かれたⅬ字のカーテン。その向こうでは、私のものではない呼吸音が聞こえる。
「私に用があるんじゃないんですか? 今着替えるので、その間なら聞きますけど」
私はベッド上に置いた服を手に取り、着ていた服を脱いだ。私の声に男性は「じゃあ」と呟き、カーテン越しにこう言った。
「俺、シミラーゴースト症候群患者の記事を書いてて。だから、君に密着させてくれませんか?」
「死ぬまで?」
「そうです」
男性はハッキリと言い切った。私が死ぬまでの四日間。この人は私についてくると言う。とんだ物好きがいたものだ。
「いいですよ。でも、樹雨さんは私のことなんて忘れちゃうでしょう? それでどうやって記事を書くんです?」
私は綺麗に畳まれた服に腕を通し、黒い短パンに足を入れた。ベッドに脱ぎ捨てた服は、畳むことなく旅行バッグの中にしまった。今の問いは、少しばかり意地悪だっただろうか。けれど、私は奇病を発症している。明日には健常者から記憶が消えてしまうなんて、専属記者なら知っていて当然だ。それをあえて言わせるなんて、意地悪以外の何者でもない。
「それなら大丈夫です! 今日あったことは全て手帳にメモしてるんで」
男性の声とともに、鞄のチャックを開ける音がした。手帳というのは、最初に手にしていたものだろう。その手帳には、これまで取材してきた患者について書かれているに違いない。彼自身も覚えていない人の事を、手帳はしっかりと記憶している。
新しい服に着替えた私は、引かれていたカーテンを元の場所に戻した。ライトブルーだった視界が一気に色を取り戻す。男性は黒い手帳を体の前に掲げ、自信満々な表情を浮かべていた。私はその手帳を手に取り、男性の許可なくページを捲っていく。一ページ目からぎっしり書き込まれた出来事は、今は亡き人間の足跡だった。
名前や年齢はもちろん、好きな食べ物や初恋相手、いつどこに行ったかなどが事細かに書かれている。こうまでしないと記事が書けないのだろう。感心するとともに、なんとも言えない気持ちになった。私の人生を記憶していてもらうことの難しさを痛感した。
「これから食堂行くつもりなんですけど、一緒に行きます?」
私は手帳を閉じ、そのまま男性に返却した。
「行きます!」
男性は嬉しそうに言ってから、人好きのする笑顔を湛えた。そんな男性を他所に、私は手ぶらで病室を後にした。食堂で食事をしている限り、私の貯金額は一向に減らない。かと言って、わざわざ外へ出かけるのも気が引けた。猛暑の中を歩くのは二度とごめんだ。私はひんやりと冷えた廊下を進み、エレベーター横の階段へと繋がる扉を開けた。鉄製の扉は程よく冷えていて、このまま触れていたくなった。
「エレベーターは使わないんですか?」
男性はエレベーターを指差し、私を真っ直ぐ見据えて言った。
「それに乗ると一階に行っちゃうので乗りません。私が行きたいのは三階の食堂なので」
「なるほど」
男性は納得したように頷き、私の開けた扉が閉まらないように支えた。そうして私たちは揃って階段を下り、先程と同じように鉄製の扉を開けた。蛍光灯の明かりだけが照らす階段とは違い、三階のフロアは窓からの光で明るかった。その上湿度は低く、過ごしやすい温度だった。
扉を開けた私には例の如く視線が集まり、前に進むたびに前方の人混みがさっと避けていく。束の間のスター気分を味わいながら、冷たい視線は見なかったことにした。私の後ろを歩く男性は、何も言わず静かにメニューを眺めている。
「味噌ラーメンください」
私は受け付けの女性に注文し、手前にあるおぼんを手に取った。様々な料理が並んでいる中で、私は餃子とプリンをおぼんの上に乗せた。男性のおぼんの上には、白米はもちろん、焼き魚に味噌汁、漬物が乗せられている。私にはそれが健康的な朝ごはんに見えた。しかし、私がこの場でそれを食べるかと言うと話は別だ。食事のできる回数が決まっている今、健康に気をつけている暇はない。
「お待たせしました」
女性は両手でラーメンの皿を持ち、私の持つおぼんの上に置いた。私はお礼を言いながら歩き、窓際の空席に腰を下ろした。会計を済ませている男性を眺めていると、前の席の女性と目が合った。その女性は、同じテーブルに着いている女性にこう言った。「あの子、タダでご飯食べてるの?」と。すると話し相手の女性は私の腕を見て「幽霊病だからでしょ」と皮肉混じりに言った。
「幽霊病だからってタダ飯はダメでしょ。ちゃんとお金払わなきゃ」
「病院がそういう方針なんだからしょうがないじゃない。文句なら病院に言ってよ」
「でもズルいと思わない?」
女性たちは、私に聞こえるのも構わず会話を続けた。私のことが羨ましいなら奇病に罹ればいいじゃないか。そうすればこの病気の無情さも、今の私の気持ちも、痛いほど分かるだろう。こんな苦しみなんて無い方がマシだ。
「お待たせ! 先に食べててもよかったのに」
男性は私の向かいに、さも当たり前のように座った。
「別に待ってません」
私は手を合わせて挨拶をし、誰よりも早く麺を啜った。箸を持つ手は半透明。腕も、短パンから見える足も半透明。ちゃんとした体が残っているのは、腹と胸と頭のみ。こうやって私の体は蝕まれていく。幽霊病の進行を抑えることは、現在の医療では不可能だった。
死を待つだけなら自ら命を絶つ。その選択をする同年代の患者は、きっと私と同じ心境だったことだろう。苦しんでまで生きるなら、早いうちに死んでしまいたい。そうすれば、他人から向けられる言葉に傷つくことも、虚無感に苛まれることもない。
「この後の予定って何かあるんですか?」
男性は美味しそうにご飯を頬張りながら問うた。私は餃子をひとつ食べた後に「中庭に行こうと思って」と返答する。親しくもない人と同じテーブルで食事を取っている現状に、私は内心おかしくて仕方なかった。そして平然とこれからの予定を話すことも、違和感を感じざるを得ない。きっとこれが患者と記者の関係なのだろう。不自然なのも私たちらしくていい。
「中庭なんてあるんですね。二年も専属記者やってるのに知らなかったなぁ」
男性は味噌汁を啜った。
「樹雨さんは何歳なんですか?」
「二十三です。二十歳で短大を出て今の会社に入ったんです。……そういえばお名前聞いてませんでしたね」
私はプリンの入ったカップを机の上に置き、背筋を伸ばして言った。
「立花空です。十七歳の高校二年生」
「ありがとうございます。空ちゃんと呼んでも?」
「どうぞ」
男性は鞄の中から手帳を取り出し、ペンでメモを取っていく。
「あの、漢字って」
「立つに花、そらは青空の空」
握られたペンはスラスラと紙の上を滑る。私の名前を綴り、年齢を書き留め、学年を記憶する。私の軌跡が、男性の手帳に刻み込まれていく。死んだ患者と同じように、その存在を事細かく記載する。そうでもしないと私は生きていけない。
私はスプーンを手にし、プリンを一口掬った。卵色のそれは、外から差し込む光によって美しく輝いている。口に含めば優しい甘さが広がって、心をじんわりと満たしていく。荒みかけた精神を、しっかりとこの世に繋ぎ止めてくれる。やはりデザートは格別だった。
「ごちそうさまでした」
お腹を満たした私は、目の前の男性に視線を向けた。手中にあったペンは箸に変わり、器用に焼き魚の身を摘んでいく。最後の一口を平らげた男性は私と同じく手を合わせ、意図せず視線がぶつかった。
「行きますか!」
私は男性に笑顔を向けた。上手に笑えていたことだろう。男性は私に応えるように笑顔を見せ、「行きましょう!」と言った。私たちは食器を片付けると、同じように階段を使って下に下りた。エレベーターでも良かったのだが、きっと食堂と同じ扱いを受けるだろう。逃げ場のない個室は、私だけでなく相手にとっても避けたい場所だ。
それで言うと、一階と八階を繋ぐ直通エレベーターは有難かった。同じ患者か関係者しか使わないので、健常者に会わなくて済む。他人と自分を比べる必要がなくなる。私は前方を歩く男性に視線を向けた。
男性は振り返ることもなく静かに階段を下っていく。ここで私が足を止めたとして、彼はそれに気づくのだろうか。それとも平然と下っていくのだろうか。私は気になって、後方で静かに足を止めた。男性との距離は少しずつ開いていく。この人も私を置いていくのか。私を置いて、未来へと歩いて行ってしまうのか。私はどこまでも一人だ。
階段で足を揃えて立つ私は、そこから一歩も動けなくなってしまった。このまま時が過ぎ去ればいいと思うと、前に進むのが怖くなった。
「どうしたの? お腹痛い?」
そんな私を振り返り、声をかける人が一人。前方にいた男性は足を止め、こちらを気遣うように仰ぎ見る。
「ううん」
そうは言ったものの、私の体は動かない。男性を捉えていた視界は、今では自分の両足を視界に入れている。自分でも自分の感情が分からなかった。どう消化すればいいか分からなかった。
「体調悪い? ちょっと階段下りるペース早かったかな」
男性は下りた段を再び上り、私の元に近づいてくる。一歩、また一歩と近づく気配に、私は酷く悲しくなった。食堂で話していた女性のように突き放された方がまだマシだった。寄り添われると、私は恐ろしいほど弱くなるのだ。
「大丈夫! 噴水どんなかな〜」
私は男性との距離が完全に埋まる前に、そう言って顔を上げた。無理やり上げたテンションは、些か不自然だったことだろう。けれど、今の私にはこれしかできない。ならば全力でやるのみだ。
「本当に大丈夫なの?」
「うん。だって元気だもん」
私はそれを見せつけるように階段を軽快に下り、残りの三段を飛び下りた。
「ならいいけど」
ゆったりと階段を下りる男性は、優しげな声でそう言った。そして一階のフロアに繋がる鉄製のドアを開けた。眩い光が薄暗い階段に差し込み、私は咄嗟に目を細めた。目の前に広がる世界は別世界のようだった。
私たちは会計待ちをしている人たちを横目に、裏側にある入り口へと向かった。正面側とは違い、こちらにはさほど人がいない。足音だけが響く静かな場所だ。綺麗に掃除された廊下を進み、ガラスでできた自動ドアをくぐる。すると右側に広場のような空間が現れ、その中央に噴水が設置されていた。
白い円形の土台には水が張られ、中心部にはサイズの違う皿が三枚積み上げられていた。押し出された水はその皿を順に通り、再び土台の水溜めへと戻る。水が下の皿へと落ちていく様は、花のように綺麗だった。水の音は耳に心地よく、まるで子守唄のようだ。
「こんな場所があったなんて……もっと早くに知るべきだったな」
男性は感嘆の声をあげ、鞄から取り出した携帯で写真を撮った。写真映えをする噴水は、看護師が言っていたように綺麗だった。ライトアップはされずとも、人の目を引くには十分すぎる。この音を聞きながら読書がしたい。あわよくば昼寝も。私はそんな思いを胸に、噴水内の水を触った。水は灼熱の太陽に熱され、さすがに冷たくはなかった。それでも、こうして水に触れることは楽しかった。幾つになっても水遊びは楽しい。
「それにしても暑いね」
男性は肩で汗を拭いながら噴水の土台に座った。日光が水面に反射し、男性の服に光を向ける。カーキ色の服は、水面のように揺蕩っていた。私は男性の横に座り、背後に迫る水面に手を差し入れる。冷たくないとは言っても、外の空気よりは遥かに冷たかった。
「樹雨さん」
「なぁに?」
「樹雨さんは、どうして記者になったんですか?」
噴水の周辺には日光を遮るものはなく、私たちの脳天を陽光がジリジリと焼いている。視線の先にある木には蝉が止まり、その存在を辺り一体に示していた。男性の横顔はどこか凪いだ様子を醸し出しており、私は内心焦っていた。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。誰にだって触れられたくないものはあるんだと思う。私にはそういうのはないけれど。
「ごめんなさい。余計なこと聞きました」
噴水の脇に座っていた私は、そう言ってから立ち上がった。男性の顔を正面から見ることはできず、私は振り返ることなく歩き出す。今日あったことも、彼は明日になれば忘れてしまう。私の問いに不快感を覚えたとしても、当の本人は覚えてすらいない。だからと言って傷つけていい理由にはならないけれど、未来ある人が安らかに生きていけるのであればそれでいい。私のことなんて忘れてもらって構わない。
「空ちゃん」
背後で小さな声がした。私はその声に足を止め、ゆっくりと振り返る。私のことを真っすぐに見据える男性の目は、まるで覚悟を決めたかのようだった。
「俺ね、覚えてはないんだけど、兄さんが居たらしいんだ」
居たらしい。確証のないその言葉で私は静かに悟った。この人の兄は、私と同じ病気だったんじゃないかと。生まれて間もない頃に亡くなっている可能性は否定できないけれど、きっと私の予想は当たっている。じゃなきゃ、男性の表情に説明がつかない。こんなにも苦しそうに話す人を、私は見たことがなかった。
「家族写真に知らない人が映っててね。気になって調べてみたんだ。そしたら、戸籍上は俺の兄だった。でも覚えてないんだ。一緒に過ごしていたはずなのに兄との記憶はない。名前にも覚えがなくて、これがあの病気なんだなって初めて思った」
「お兄さんのお名前は?」
「葉一。海波葉一って言うらしい。十九歳で亡くなってた」
私より二つ年上の葉一。弟である男性は兄の年齢をとうに超え、奇病に罹ることのない年齢になっている。安全とされる二十一歳まで僅か二年。二年でこの恐怖から逃れられたのに、男性の兄は発症した。そして家族から忘れ去られ、誰にも看取られることなくこの世を去った。
私よりも未来に希望を抱いていただろう。明るい明日はもうすぐそこまで迫っていたのだから。男性の兄は、どのようにして消失していったのだろう。少なくとも私より寂しかったに違いない。
「だから俺は、その人の人生を形として残しておきたいと思ったんだ。覚えている人が居なくても、確かに生きていたって証を残したい。そう思って記者になった」
「私も、その中の一人……」
教科書に載っている偉人のように。書店に並んでいる伝記のように。私の人生も文章になるのだろうか。読んだ人が立花空という人物を知り、同じように生きていたのだと実感するのだろうか。私が死んだ後も、もっと言えば五十年後も、私はそういう形で生きていく。人々の記憶の片隅に、私という人間が存在する。
「嫌だった?」
「ううん、嫌じゃない」
私の目から涙が一筋零れた。三日後に私は死ぬけれど、本当の意味で死ぬわけではない。生まれてこなかったわけでもない。海波樹雨によって、私はこれからも生きていく。シミラーゴースト症候群でも生きていていいと、そう言われたような気がした。
「空ちゃん!?」
男性は慌てたような声を上げ、ショルダーバッグの中を探り始めた。けれど目当てのものがなかったのか、より一層焦った素振りを見せる。私は手の甲で涙を乱暴に拭い、ニカッと笑ってこう言った。
「暑いですねぇ!」
額を汗が伝っていく。涙の跡はその汗によって簡単に掻き消え、拭ったはずの手の甲はカラッと乾いている。私が泣いていたなんて他の誰も思いはしない。私の前にいる男性だって少しすれば忘れてしまう。この気持ちは私だけが知っていればいい。私さえ覚えていれば、それで十分だ。
「近くにかき氷屋があるらしいですよ! 一緒に行きましょ!」
私がそう言うと、男性は笑顔を浮かべながら立ち上がった。今日はアイス日和だ。
「外出するって言いに行かないとね」
「お金も持ってこないと」
私たちは口々にそう言って、最上階への直通エレベーターに乗った。外よりも遥かに涼しい室内は、肌を流れる汗をゆっくりと冷やしていく。私は風邪をひく前に財布を手に取り、看護師に外出宣言をした。
女性の看護師は「いってらっしゃい」と爽やかに告げ、私はその声に敬礼した。子どもである私がいろんなことを考えたところで、結果は何も変わらない。病気について頭を悩ませるのは専門家の仕事だ。私は精一杯人生を謳歌することにしよう。
そうして私と男性は、病院近くのかき氷屋で午後の暑さを凌いだ。かき氷特有のキーンという痛みは、思い出とともに私の脳内に刻み込まれた。