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4『キスの味』

 気づくと窓の外はすっかり暗くなり、室内の蛍光灯が眩しく私を照らしていた。いつの間にか寝てしまったらしい。携帯で見ていた動画はとうの昔に終わり、今は三時間を超える作業動画が流れている。画面内で机に向かい続けるのは、名前すら知らない男性だった。


「また制服で寝ちゃったよ」


 誰に言うでもなく、私は一人呟いた。その声に反応する者は、悲しいことに誰もいない。私は動画を止め、目を擦りながら起き上がった。右側のベッドでは少年が携帯ゲームに勤しんでいる。その周りにウミガメは居らず、病室には私と少年の二人しかいなかった。


 時刻は午後七時を過ぎ、私の腹の虫がグーっと鳴る。まだ食堂はやっているのだろうか。何時に閉まるかも分からない場所に、わざわざ階段で向かうのは億劫だった。私の腹の虫に呼応するように、誰かの腹も同じようにグーっと鳴った。二人しかいない病室では、誰かになすりつけることは不可能だった。

 少年はゲームをしながら、恥ずかしそうに俯いている。髪に隠れてはいるが、耳が僅かに紅潮しているように見えた。私は口角を上げながら少年の方を向き、「何食べる?」と問いかけた。少年の全身は出会った頃よりも透けており、窓から見える星空と同化し始めていた。病名通り、本物の幽霊のようだった。


「せっかくだし焼肉でも行く?」


 何がせっかくなのか、自分でも分からなかった。端から見れば「今日で死ぬのだから美味しいものを食べよう!」と言っている非常識者だ。けれど、死にゆく者を見て言わないなんてできなかった。

 死んでしまったら、焼肉も寿司も食べられなくなる。好物のお菓子も、好きな子からのチョコレートも、二度と食べることは叶わない。ならば非常識であろうとも、こう提案するのが正しいのだろう。たとえ間違っていたとしても、死んでしまってからでは遅いのだ。少年は携帯の画面を閉じると、俯いたままこう言った。


「外はちょっと」


 彼が健常者からどう見られているかは、食堂で身をもって体験した。動物園の動物のように見られるのは、思った以上に傷つくものだ。それが病院の外であるならば尚更だろう。外の人たちは、想像している何倍も無情だ。

 私は閉じた携帯画面を開き、宅配サービスの画面を開いた。家まで届けてくれるそのサービスは、わざわざ外出せずとも店の料理が食べられる。まさに少年のためにあるようなものだった。


「ピザ好き?」


「え……あ、はい。好きです」


「じゃあピザにしよっか」


 私はピザ屋の画面を開き、そのまま少年に手渡した。携帯を受け取った少年は困惑し、「え?」と気の抜けた声を発する。


「デリバリーって知ってる?」


「それは、はい。どんなものかは」


「その携帯で食べたいやつ頼んでいいよ。私の奢り!」


 約五万円ほどの貯金を使い切るのは、どう考えても一人では無理だ。たとえ毎食デリバリーにしたとしても、二万円は超えないだろう。ならば少年に奢るくらい問題ない。むしろ奢らせてほしいぐらいだ。


「でも」


 しかし少年は困ったような表情を浮かべ、手に持った携帯をじっと眺めていた。


「僕はもうすぐ死ぬわけですし、別に食べなくてもいいかなって」


 少年は生を諦めている。初めて会ったときに抱いた印象は、日の暮れた今でも変わらない。生命を維持するための食事も、その生命が終わるのならば必要ない。それを言えば、私だって食事をする必要はない。けれど、それでも私は食事をする。最後の最後まで私であるために、今までと変わらない生活をしたい。これだけは何があっても譲れない。


「いいから、好きなの選んで!」


 私は少年の様子を無視し、早く選ぶよう催促した。少年は画面内のメニューをまじまじと見つめ、「これがいいです」と指で指し示した。


「了解!」


 私は少年の選んだものの他にピザをもう一枚と、サイドメニューを幾つか注文した。その際、備考欄に『到着したら電話をください』と書き加えた。ピザが到着するまでの時間、少年は飽きることなくゲームに没頭した。

 あまり詳しくない私はそのプレイ風景を無言で眺め続け、二回ほどやらせてもらった。ゲームのルールも操作方法も、私にはよく分からなかった。けれど困るたびに少年は優しく教えてくれた。少年の説明は分かりやすく、こういう人が教師に向いているんだろうと思った。だが、それを少年に伝えるような真似はしなかった。


 私の携帯が着信を告げたのはそれから一時間ほど経った頃だった。私は貯金箱から取り出したお金を握りしめ、エレベーターで一階に向かった。エントランスを抜けて外に出ると、目の前には制服を身に纏った男性がいた。その傍にはバイクが停まっている。


「ありがとうございます」


 私は男性にお金を渡し、男性は私に商品を渡した。


「毎度ありがとうございました!」


 男性は私にお釣りを渡すと、お辞儀をした後に颯爽と去っていった。私は温かなピザを抱えて再びエレベーターに乗り、少年の待つ病室に戻った。少年は携帯を閉じ、病室の窓から外を眺めている。洋服だけが宙に浮いて見える光景に、何も知らない人なら腰を抜かすことだろう。


「零くん食べよー!」


 私はそんな少年に声をかけ、少年のベッドに備え付けられた机にピザを広げた。二枚のⅯサイズピザは、それだけで机を埋め尽くした。蓋を開ければいい匂いが辺りを満たし、空いた腹が食欲を増幅させる。サイドメニューは、ベッド上に敷いたビニールの上に置いた。これらは全て私と少年のものだ。二人だけで食べることが許されているものだ。その事実に少年は目を輝かせ、「わぁ」と感嘆の声を上げた。


「いただきます!」


 私は両手を合わせ食前の挨拶をした。それに少年も慌てたように続く。同い年に見えても少年はまだ中学生。ゲームが好きな子どもだ。


「美味しい?」


「はい! すごく美味しい!」


 少年は手に取ったピザを口いっぱいに頬張った。その食べっぷりの良さに、私はふふっと微笑んでしまう。出会ったばかりなのに、まるで本当の弟のようだった。口の端にトマトソースを付けた少年の手は止まることを知らない。死ぬと分かっていても、やはり食事というものは大切なのだ。


 届いた夕食を三十分足らずで平らげた私たちは、少年の案内で浴室へと向かった。同じフロアにある浴室は、温泉となんら変わらない。唯一異なる点を挙げるとすれば、大浴場とは別に個室があるということだ。全身が透ける病気ゆえに、こういった配慮もされている。ここより設備が充実している病院はそうないだろう。

 私と少年は入り口で分かれ、私はそのまま大浴場へと向かった。広い脱衣所で服を脱ぎ、大浴場へと続くガラス戸を開ける。湿度の高い浴場は温泉と遜色ないほど立派なもので、病院にいるということを忘れそうになった。その上、ここには私以外誰もいない。つまり、この広い浴場は私一人で使っていいということ。ここが貸切なんて、大富豪にでもなったかのようだ。


「幸せだー!」


 病気になっても幸せを感じられるなんて、最初は思いもしなかった。私はこのとき初めて入院してよかったと思った。いつもより三倍ほど長い入浴を終え、私たちは病室のベッドに寝転んだ。消灯時間はとうに過ぎ、ベッド上部の間接照明だけが二人を照らしている。少年はもう居ないだろうか。そう思って右側を見ると、薄らと人影が浮かび上がる。少年はまだ生きていた。


「やっぱり怖いですね。死ぬってどんな感じなんでしょうか」


 透けた唇は微かに震えていた。死んだことのない私は、少年にかけるべき言葉が見当たらない。怖くないよ、なんて安易に口にするものではない。少年の言葉を、私が簡単に否定するわけにはいかなかった。私は「そうだね」と言った後、天井を眺めながら口にした。


「死ぬって、なにもかも無くなるってことなんじゃないかな」


「無くなる?」


「そう。真っ暗な世界で誰にも会うことなく、ただ存在し続けるの」


「それが、天国ですか?」


「そうかもね。でも、天国だったら一面花畑がいいね。その方が素敵」


「そうですね。暗闇より遥かに魅力的です」


 少年はそう言ってふふっと笑った。天国というものが存在しているかは分からない。もしかしたら、私が言ったように死後の世界は暗闇かもしれない。何もない世界で、誰も居ない空間で、一人寂しく過ごすのかもしれない。その答え合わせは、私が死ぬまで取っておこう。一足先に少年は逝ってしまうけれど、どんな世界だったか聞くのはやめにした。死を待つ者の楽しみはそれくらいしかないのだから。


「空さん、ひとつお願いを聞いてもらえませんか?」


 少年は起き上がり、私の方を向いて言った。


「なに?」


 私も同じように起き上がり、風景と一体化しそうな少年を視界に入れた。少年は僅かに視線を落とした後、私の目を真っ直ぐに見据えてこう言った。


「キス、してくれませんか」


 ベッド上に落ちた少年の影が僅かに揺らめいた。私は少年の言葉に思考を停止させ、自分の耳を疑った。少年にキスをお願いされた。出会ったばかりの人にキスをするなんて、到底考えられない。それに、私たちは恋人同士ではない。奇病を患った患者同士だ。なぜそんな考えに至るのか。私には訳が分からなかった。


「僕、まだキスしたことないんです。それで言うと初体験もなんですけど、この際それは別にいいかなって」


「それで、私とキスしたいってこと?」


「死ぬ前に、せめてどんなものか知りたくて」


 私はふーっと息を吐き出した。お年頃の少年は、もちろん他の人と同様にそういうことに興味を持ったのだろう。してみたいという欲は、ときに理性をも凌駕する。その好奇心を抑えられる者は、あいにくこの場にはいなかった。


「別にいいけど、私零くんのこと忘れちゃうよ?」


「分かってます。それを言うと、僕も空さんのこと忘れちゃいます」


「そうだね」


 それはつまり、キスをした事実ごと無くなるということ。私も、少年も、未体験のまま終わる。その方がお互いに良いのかもしれない。私は足をベッドの外に出し、裸足のまま床に下りた。そして数歩進み、ベッドに座る少年を見下ろした。


 間接照明によって、体の半分が明るく照らし出されている。ベッドに落ちる影がなければ、そこには誰も居ないように見えるだろう。少年の顔も、近づかなければはっきり見ることはできない。私は少年の顔の位置を確かめるように、彼の頬に手を伸ばした。


 少年は頬に添えられた手に視線を送ってから、静かに瞼を閉じた。私は目の前の人間に顔を近づけ、唇にキスを落とす。手から伝わる少年の体温は確かに温かく、反対に唇は僅かに冷たかった。少年は閉じていた瞼を開けると、嬉しそうに目を細めた。


 そうして再び私の顔に近づくと、二度目のキスを落とした。そこに恋愛感情は少しもない。あるのは心ばかりの同情と、宙に向けられた憂いだけだった。


「キスってこんな感じなんですね」


 少年がヘラッと笑ったのを、私は間近で見つめた。年相応のその笑顔は、可愛さを十二分に含んでいた。ここで死んでしまうのは惜しい。出来ることならこの先何十年も生きていてほしい。高校生になって、大学生になって、社会で活躍してほしい。けれどその願いは呆気なく砕け散っていく。私に出来ることはこれ以上ない。


「おやすみなさい、空さん。明日は快晴ですよ」


 少年は満面の笑みを浮かべ、そのまま窓の外を眺めた。月の浮かぶ夜空には雲ひとつない。けれど、それがかえって虚しくもあった。窓ガラスに反射する私の体。鏡のようになったそれは、少年をはっきりと映し出しはしなかった。


「おやすみ、零くん。良い夢を」


 私は目を逸らすように視線を外し、布団を頭から被った。自分の呼吸音だけが耳に障り、鬱陶しいことこの上ない。息もしづらく、このままでは窒息死するかもしれない。それでも、私は布団から顔を出すことができなかった。


 今布団から顔を出したら、自分とは違う呼吸音が聞こえるかもしれない。私とはリズムの違うそれは、少年の存在を嫌なほど鮮明に映し出す。そしてその呼吸音が消えたとき、少年は私の隣にはいない。人の居た形跡だけを残して、本人は跡形もなく消えている。私の中に居る少年も、みんな纏めて消え去るのだ。私はそれが恐ろしいほど怖かった。


 自分は忘れられてもいい。母や父、姉にさえも忘れられ、友人たちにも存在を消されている。それは検査結果が出たときから覚悟していたことだ。少しも悲しくなんかない。けれど、今日をともにしていた人を忘れてしまうのは嫌だった。

 柳零という少年を消してしまうのが嫌だった。心の準備なんかできていない。その時が来ると思うと、そこでやっと自分の無知さに気がつく。他人の死がこれほど恐ろしいなんて、私は知らなかった。



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