2『隣の少年』
私は施錠した扉を背にマンションを後にする。最初で最後だと備え付けのエレベーターに乗ったが、余韻に浸る間も無くドアが開いた。別にいいものではなかった。
私は市役所とは反対方向に向かって歩いた。荷物が重くて挫けそうになったが、歩き続ける以外に選択肢はなかった。途中、コンビニに寄って安いアイスを買った。レジ打ちの男性は、私の指先を見るや同情の眼差しを向けた。別に、あなたに同情されるほど私は可哀想じゃない。
私はアイスを食べながら目的地に向かったが、アイスは食べる端から溶けていった。おかげで私の手はべとべとになり、一刻も早く手を洗いたくなった。そう思っていた矢先、私の目の前に大きな建物が現れた。市役所で貰った紙に印刷されていた、奇病の研究を行っている場所。これが睦美之病院だ。
八階建てのその病院は、他のどの建物よりも大きかった。真っ白に塗られた外壁が、太陽の光をあらゆる方向に反射させている。そのせいか、病院は恐ろしいほど輝いていた。私は肩にかけていた鞄を背負い直し、正面に位置している入り口から室内に足を踏み入れた。
病院内はたくさんの人でごった返していた。診察を終えて支払い待機している人。診察待ちで長椅子に座っている人。お見舞いに来た人。目的は様々だった。その中に、一際閑散としたエリアがあった。壁に掲げられた案内には、『喪失幽霊化症候群窓口』と書かれている。専門病院なだけあって、それ用の窓口もあるのだろう。私はその窓口に向かって真っすぐ歩いて行った。
「こんにちは」
窓口に座る男性が朗らかに言った。私も同じように挨拶をした後で、鞄の中から一枚の紙を取り出した。市役所で貰った紙だ。
「あの、これを見たんですけど」
「かしこまりました。では、こちらの紙にご記入お願いします」
男性は一枚の紙とペンを差し出した。私は紙に氏名と年齢、住所、家族構成などを記入し、男性に手渡した。
「少々お待ちください」
男性はそう言って記入された紙を確認した。それを待つ間、この窓口に他の患者が来ることはなかった。
「確認が済みましたので、ご案内しますね」
いつの間にか私の隣に立っていた女性は、人好きのする笑顔でそう言った。受付をしてくれた男性は忽然と姿を消してしまっている。私は女性とともに、受付横にあったエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉はひとりでに閉まり、階数のボタンを押す前に上昇を始めた。個室の中は驚くほど静かだった。
背後しか見えない女性は、この状況をどう思っているのだろう。働いたことのない私には、女性の気持ちなんて少しも分からなかった。
上昇していたエレベーターが止まったのは、病院の最上階である八階だった。
「どうぞ」
女性は開いた扉を手で押さえ、私に出るよう促した。言われるがまま、私は恐る恐る足を踏み出す。これから生活するフロアは静まり返っており、看護師以外の人間は見当たらなかった。
「病室はこっちです」
女性の優しい声に、私の中にあった緊張感が和らいでいくのを感じた。案内された病室は八階の端、廊下の突き当りに位置していた。扉を右にスライドさせると、広々とした個室が現れる。真っ白なベッドに大きな窓。備え付けの浴室には大きなバスタブが設置され、それとは別に綺麗なトイレが完備されている。そこらのワンルームよりも遥かにランクが高かった。
大部屋に案内されると思っていた私は、目の前の光景に声が出なかった。こんなに素敵な部屋を、私一人で使っていいらしい。大豪邸よりも魅力的だった。けれど、冷静になると「これは違うな」という思いが脳内を掠めていった。
「あの……」
私は小さな声で呟いた。横に立っていた女性は、返事をする代わりに私の顔を見つめた。
「大部屋ってないんでしょうか」
「個室は嫌でした?」
「いえ。嫌というか、寂しいなと」
死ぬときは孤独だ。それでも、せめて死ぬ直前までは誰かと一緒にいたい。同じ話題で語らい、笑い合い、遊んでいたい。若くして死ぬのだ。それくらいは許してほしい。
「そうでしたか。ではこちらへどうぞ」
女性は頷き、個室から左に四部屋目の部屋に案内された。その部屋は、先程の個室よりも広かった。その代わりに、左右に三つずつベッドが並べられている。これこそが私の想像していた世界だった。
目の前に現れた病室は殺風景だった。真っ白なベッドと同じく白い内壁。入り口の向かいに位置した窓には青空が広がり、ベッドを区切るライトブルーのカーテンは壁際に束ねられている。その束ねられたカーテンを揺らすのは、天井に埋め込まれた冷房だ。低めに設定された冷風は、入り口にいる私の元にもやってくる。冷たい風は熱を持った体を冷やし、同時に鞄の中の温度を下げていく。
「こちらをお使いくださいね」
案内してくれた女性は、右側中央に位置するベッドの傍で言った。私はお礼を伝えてから、肩にかけていた鞄をベッド上に置いた。心なしか肩は痛み、首が凝ったように感じる。来る途中にあったバス停でバスを待ち、それに迷わず乗ればよかった。お金なら使い切れないほどあるのだから。
「新入りさんですか?」
どこからかそんな声がした。高くもなく低くもない声音は、中性的という言葉に違和感なく収まる。私は鞄に向いていた視線を上げ、隣のベッドを視界に入れた。そこには、私よりも小柄な半透明人間がいた。身につけている服だけが宙に浮き、肝心の体は背景を透過する。
「こんにちは」
私は目の前の人物に、大して驚くこともなく声を発した。ここは日本国内で奇病を扱う唯一の病院。自分以外にも死を待つ者がいるということは、ここに来るまでの道のりで理解していた。
「今日から隣でお世話になる、立花空と言います」
空の青さと肌の色が混ざり合い、意識をずらすと認識するのに時間がかかってしまう。隣にいるのにいないような、不思議な感覚に陥った。窓際のベッドに座っていた人物は、正座をしてこちらに向き直った。そして、再び中世的な声で言う。
「柳零です。ちなみに、今日で五日目になります」
目に入りそうな長い前髪の奥に、私のことを真っ直ぐ見つめる瞳がある。その瞳は僅かに光を消し、諦めのようなものを感じた。「五日目」という言葉を真の意味で理解しているのは、目の前の若者だけだ。私はまだ一日目しか経験していない。四日後にどう思うかなんて、想像こそすれ理解はできない。
「おいくつですか?」
「十五歳です。お姉さんは?」
「十七」
「ってことは高校生ですか。いいなぁ、僕も高校行ってみたかったな」
彼はそっと視線を落とし、悲しげな声音で言った。彼の思いは、たとえ天地がひっくり返ったとしても実現しない。その現実が、十五歳の少年に重くのしかかっている。どうしたって逃れることの出来ない運命に、もはや諦める以外の選択肢はなかった。
せめて治療薬が開発されれば。そうすれば、絶望に打ちひしがれることは無くなるのだろうか。そんな未来が来るには、あとどのくらいかかるのだろう。該当年齢者が怯えない未来は、そう簡単に来るはずもなかった。
だから私たちはその流れに身を任せるしかない。抗うことなんて、少しも許されてはいない。
「零くんって呼んでもいいですか?」
「はい。お姉さんは……」
「空で」
「空さん」
「はい」
初対面の私たちは、お互いに呼び名を決めた。今日限りのその呼び名は、着実に私を暗闇の中に連れて行く。死というものを実感させる。
「零くんは、死ぬの怖い?」
消失を明日に控えた者に聞くような内容ではなかった。それでも、私は彼の口から彼の言葉が聞きたかった。
「まぁ……どういう世界か分からないですから。知らない場所は怖いです。空さんは?」
彼は落ち着いた声音で言った。その声から感情を読み取ることは難しく、彼がどんな人であるのかも分からなかった。分かっているのは明日消えるということと、生きるのを諦めているということ。私はそれが酷く悲しく感じた。
「私も最初は怖かったんです。検査結果を見て、初めて死というものを身近に感じた。でも、よく考えたら別に不思議はなくて……。だって、人間はいつか死ぬわけで。それが早いか遅いかは人によって違うけど、どの人も絶対に死ぬんです。私がたまたま早かっただけ。そう思ったら全然怖くなくなった」
「そうですか…………強いんですね」
「強くなんかない。これはただの虚勢」
本当のところは、死ぬのが怖かった。怖くないわけない。人から忘れられて、遺体も残らず消えるなんて、どうしようもなく怖い。それでも私は怖くないと言い続けるしかない。自分を騙し本心を隠すことでしか、残りの日々を生きられない。そうでもしないと、私はこの現実から逃げたくなってしまう。それは性に合わない。
「お腹空いちゃった」
荷物をベッド横の棚にしまいながら、今日はアイスしか食べていないことを思いだした。そろそろちゃんとしたご飯が食べたい。
「看護師さんが来るまでは食べちゃダメですよ」
足を伸ばした少年は、携帯ゲームをやりながらそう言った。この病院のスケジュールは何ひとつ分かっていなかったが、彼がそう言うなら従うほかない。私は鞄の中から取り出したクマのぬいぐるみを枕の横に置き、筒状の貯金箱を手に取った。その貯金箱は底の部分が開閉できるようになっている。
私は貯金箱の底を開け、中身をベッド上に広げた。中には小銭が数枚と、千円札が十枚。五千円札が三枚に、一万円札が二枚入っている。これらの正体はお小遣いやお年玉で、地道に貯めていた私の全財産だった。
死ぬまでの五日間で、私は五万円弱を全て使うつもりだ。
「まぁ! 結構貯めてるのねぇ」
私の背後で声がした。振り返ると、そこには制服に身を包んだ女性の看護師がいた。看護師は私の肩越しにベッドを覗き込み、広げられたお金を見て感嘆の声を上げた。
「こんにちは」
少年は看護師に向かって言った。背後にいた看護師は少年の言葉に同じように応えた。女性は物の乗った回診車を引きながら、私にも「こんにちは」と声を発する。その声に私も挨拶を交わしたが、その平静ぶりに少しだけ怖くなった。
私はベッド上に広げたお金を再び貯金箱に戻し、離れていく看護師を見やった。看護師は少年の横まで行くと、優しそうな笑みを浮かべた。少年は言われる前に左腕を差し出し、携帯を傍らに置いた。半袖の服から伸びる手は、私よりも細く見えた。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
「零くんとも今日でお別れかぁ」
看護師は、消毒液の染みた脱脂綿で少年の腕を拭いた。女性の発した言葉は、まるで死刑宣告のようだった。そして、その声音は悲愴感を少しもはらんでいない。共通の思い出のない患者が死んだところで、この女性は何も感じないのかもしれない。
感じたとしても、明日になれば忘れてしまう。痛む心も、流した涙の正体も、当事者でない彼らはあっさりと忘却する。けれど、少年には記憶がある。この病院に来てからの思い出が存在している。彼にとって、目の前の看護師は初対面ではない。
「そうですね」
彼はへへっと笑いながら言った。その笑顔の裏に、一体どんな感情を秘めているのだろう。忘れ去られるということの真理は、まだ私には分からない。
看護師は消毒をした少年の腕に針を刺した。その針は彼の血管に刺さり、色の薄い血液を吸い上げる。彼の血は綺麗な管を通り、その先にある採血管に溜まっていった。真っ赤とは言えないその血液は、病気の進行を残酷なまでに見せつけていた。視覚から得られる情報は、現実から目を背けることを許さない。
「これで押さえててね」
少年は看護師に言われるがままガーゼで腕を押さえた。看護師は採血管を鉄製の試験官立てに立てると、小さな正方形の絆創膏を手に取った。そして押さえられていたガーゼを取り、針の刺した場所に貼った。
「じゃあ、次は空ちゃんね」
看護師はそう言って、少年の腕から外した駆血帯を見せてきた。まぁそうなるよな、とどこか腑に落ちた私は、大人しく看護師に腕を差し出した。女性は慣れた手つきで私の腕に駆血帯を巻き、先程と同様にガーゼで肌を拭いた。
「注射嫌い?」
「いえ、別に」
子どもの頃は確かに嫌いだったけれど、今ではそんなに嫌いじゃない。透明な容器に自分の血が流れ込んでいく。その様子が、むしろ好きでさえあった。私の知らないところで、確かに血液が流れている。心臓が動き、意識しなくとも呼吸を行う。私は今日も、しっかりと生きている。そう実感する。
女性は私の腕に針を刺した。綺麗な管を、真っ赤な血液が流れていく。私と少年とでは、血液の色が明らかに違う。私の血液も数日後には薄くなるのだろうか。見た目だけではなく、体の中も変化していく。私が私でなくなるようで、少しだけ気味が悪かった。
「空ちゃん、本当に入院なんかしちゃっていいの?」
女性は採血管を見ながら言った。
「いいんです。忘れ去られるぐらいなら、せめて何かの役に立ちたい」
私から採取された血液が役に立つかなんて分からない。私は医者じゃないし、科学者でもない。それでも、今が少しだけ変わるきっかけぐらいにはなるかもしれない。そうでなくとも、数多くある選択肢のひとつが消えるかもしれない。
もしそうなったら、私は死んだ後も生き続けることになるのではないだろうか。奇病に罹った患者のおかげで病気について知れたように、私の死も長い目で見れば有意義なものになるような気がした。
彼らはもういないけれど、奇病に関する情報があるということは生きていた証拠だ。語る者がおらずとも、生きた証がしっかりと残っている。私と少年も、その証を残す者の一人だ。
「はい終わり。お疲れ様」
私の腕に絆創膏を貼った女性は、回診車とともに病室を後にした。女性にとって、私たちは数ある患者の一人。採血だって、看護師にとっては業務の一つ。他の人はどうか知らないけれど、少なくとも先程の女性にとって私たちは何者でもない。心の端を向ける価値は、あいにく少しもない。
「空さん、ご飯食べに行きましょ!」
少年はそう言って携帯を服のポケットにしまい、床に置かれた靴を履いた。どうにもならないことを考えても仕方がない。どれだけ頭を悩ませても、解決へと導く良い案は思いつかないのだから。
「病院食が運ばれてくるんじゃないの?」
医療ドラマから入手した浅い知識。入院している患者の元には、決まった時間に病院食が運ばれてくる。ここも病院なのだから、そういう制度はあるはずだ。
「僕たちは確かに患者ですけど、悪いところなんてないんですよ。他の患者さんのように栄養面を気にする必要はありません。それに、死ぬまでの時間が短いんです。だったら、好きなものをお腹いっぱい食べた方がいいじゃないですか」
少年の輪郭は、窓から差し込む陽光によってオレンジ色に縁取られていた。その顔には無邪気な笑顔が湛えられている。
「なるほど。たしかに」
「行きましょ!」
少年は私の手を取ると、小走りで病室の外へと走って行く。ベッド上で小柄に見えたその体は、思ったほど小柄ではなかった。私と同じくらいの身長で、握られた手は僅かに骨ばっている。走るたびに揺れる長めの髪は、彼の幼さを上手く隠していた。
消失へと向かう彼の手は確かに温かく、生きていることを実感させる。私の半透明な指も、少年に同じ体温を分けているだろうか。温度を感じるということは、即ち生きている証拠だ。少年は私と同じように生を実感できているだろうか。
まだ死んではいない。いつか死ぬとしても、今はまだ呼吸をしている。私も、少年も、灼熱の太陽が照らす世界で生きている。
「零くんって走るの早いんだね!」
「そうでもないですよ。学校じゃ下から数えた方が早かったです」
「みんな陸上部だったんじゃない?」
「そんなわけないじゃないですか」
少年と私は走りながら話し、エレベーター横の階段へと向かった。階段の中は冷房が効いておらず、嫌に蒸し暑かった。全ての階に冷房が完備されているのだから、階段にもつけてほしいものだ。
「エレベーター乗らないの?」
「あれに乗ると一階に行っちゃうので」
少年は尚も私の手を握っている。
「あぁ、確かに。ご飯ってどこで食べるの?」
「三階に食堂があるんですよ。ここのご飯が美味しくって」
私と少年は揃って階段を下りていく。私たちの他に階段を使っている者はいない。エレベーターがあるのに、わざわざ階段を使う変わり者は私たちだけだろう。
見た目も行動も、八階に住まう者は周りと少しだけ違う。意図せず起こるその違いが時に棘となることを、私たちは覚悟しなければならない。