表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

2『隣の少年』

 私は施錠した扉を背にマンションを後にする。最初で最後だと備え付けのエレベーターに乗ったが、余韻に浸る間も無くドアが開いた。別にいいものではなかった。


 私は市役所とは反対方向に向かって歩いた。荷物が重くて挫けそうになったが、歩き続ける以外に選択肢はなかった。途中、コンビニに寄って安いアイスを買った。レジ打ちの男性は、私の指先を見るや同情の眼差しを向けた。別に、あなたに同情されるほど私は可哀想じゃない。


 私はアイスを食べながら目的地に向かったが、アイスは食べる端から溶けていった。おかげで私の手はべとべとになり、一刻も早く手を洗いたくなった。そう思っていた矢先、私の目の前に大きな建物が現れた。市役所で貰った紙に印刷されていた、奇病の研究を行っている場所。これが睦美之病院だ。


 八階建てのその病院は、他のどの建物よりも大きかった。真っ白に塗られた外壁が、太陽の光をあらゆる方向に反射させている。そのせいか、病院は恐ろしいほど輝いていた。私は肩にかけていた鞄を背負い直し、正面に位置している入り口から室内に足を踏み入れた。


 病院内はたくさんの人でごった返していた。診察を終えて支払い待機している人。診察待ちで長椅子に座っている人。お見舞いに来た人。目的は様々だった。その中に、一際閑散としたエリアがあった。壁に掲げられた案内には、『喪失幽霊化症候群窓口』と書かれている。専門病院なだけあって、それ用の窓口もあるのだろう。私はその窓口に向かって真っすぐ歩いて行った。


「こんにちは」


 窓口に座る男性が朗らかに言った。私も同じように挨拶をした後で、鞄の中から一枚の紙を取り出した。市役所で貰った紙だ。


「あの、これを見たんですけど」


「かしこまりました。では、こちらの紙にご記入お願いします」


 男性は一枚の紙とペンを差し出した。私は紙に氏名と年齢、住所、家族構成などを記入し、男性に手渡した。


「少々お待ちください」


 男性はそう言って記入された紙を確認した。それを待つ間、この窓口に他の患者が来ることはなかった。


「確認が済みましたので、ご案内しますね」


 いつの間にか私の隣に立っていた女性は、人好きのする笑顔でそう言った。受付をしてくれた男性は忽然と姿を消してしまっている。私は女性とともに、受付横にあったエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉はひとりでに閉まり、階数のボタンを押す前に上昇を始めた。個室の中は驚くほど静かだった。


 背後しか見えない女性は、この状況をどう思っているのだろう。働いたことのない私には、女性の気持ちなんて少しも分からなかった。

 上昇していたエレベーターが止まったのは、病院の最上階である八階だった。


「どうぞ」


 女性は開いた扉を手で押さえ、私に出るよう促した。言われるがまま、私は恐る恐る足を踏み出す。これから生活するフロアは静まり返っており、看護師以外の人間は見当たらなかった。


「病室はこっちです」


 女性の優しい声に、私の中にあった緊張感が和らいでいくのを感じた。案内された病室は八階の端、廊下の突き当りに位置していた。扉を右にスライドさせると、広々とした個室が現れる。真っ白なベッドに大きな窓。備え付けの浴室には大きなバスタブが設置され、それとは別に綺麗なトイレが完備されている。そこらのワンルームよりも遥かにランクが高かった。


 大部屋に案内されると思っていた私は、目の前の光景に声が出なかった。こんなに素敵な部屋を、私一人で使っていいらしい。大豪邸よりも魅力的だった。けれど、冷静になると「これは違うな」という思いが脳内を掠めていった。


「あの……」


 私は小さな声で呟いた。横に立っていた女性は、返事をする代わりに私の顔を見つめた。


「大部屋ってないんでしょうか」


「個室は嫌でした?」


「いえ。嫌というか、寂しいなと」


 死ぬときは孤独だ。それでも、せめて死ぬ直前までは誰かと一緒にいたい。同じ話題で語らい、笑い合い、遊んでいたい。若くして死ぬのだ。それくらいは許してほしい。


「そうでしたか。ではこちらへどうぞ」


 女性は頷き、個室から左に四部屋目の部屋に案内された。その部屋は、先程の個室よりも広かった。その代わりに、左右に三つずつベッドが並べられている。これこそが私の想像していた世界だった。


 目の前に現れた病室は殺風景だった。真っ白なベッドと同じく白い内壁。入り口の向かいに位置した窓には青空が広がり、ベッドを区切るライトブルーのカーテンは壁際に束ねられている。その束ねられたカーテンを揺らすのは、天井に埋め込まれた冷房だ。低めに設定された冷風は、入り口にいる私の元にもやってくる。冷たい風は熱を持った体を冷やし、同時に鞄の中の温度を下げていく。


「こちらをお使いくださいね」


 案内してくれた女性は、右側中央に位置するベッドの傍で言った。私はお礼を伝えてから、肩にかけていた鞄をベッド上に置いた。心なしか肩は痛み、首が凝ったように感じる。来る途中にあったバス停でバスを待ち、それに迷わず乗ればよかった。お金なら使い切れないほどあるのだから。


「新入りさんですか?」


 どこからかそんな声がした。高くもなく低くもない声音は、中性的という言葉に違和感なく収まる。私は鞄に向いていた視線を上げ、隣のベッドを視界に入れた。そこには、私よりも小柄な半透明人間がいた。身につけている服だけが宙に浮き、肝心の体は背景を透過する。


「こんにちは」


 私は目の前の人物に、大して驚くこともなく声を発した。ここは日本国内で奇病を扱う唯一の病院。自分以外にも死を待つ者がいるということは、ここに来るまでの道のりで理解していた。


「今日から隣でお世話になる、立花空と言います」


 空の青さと肌の色が混ざり合い、意識をずらすと認識するのに時間がかかってしまう。隣にいるのにいないような、不思議な感覚に陥った。窓際のベッドに座っていた人物は、正座をしてこちらに向き直った。そして、再び中世的な声で言う。


柳零(やなぎれい)です。ちなみに、今日で五日目になります」


 目に入りそうな長い前髪の奥に、私のことを真っ直ぐ見つめる瞳がある。その瞳は僅かに光を消し、諦めのようなものを感じた。「五日目」という言葉を真の意味で理解しているのは、目の前の若者だけだ。私はまだ一日目しか経験していない。四日後にどう思うかなんて、想像こそすれ理解はできない。


「おいくつですか?」


「十五歳です。お姉さんは?」


「十七」


「ってことは高校生ですか。いいなぁ、僕も高校行ってみたかったな」


 彼はそっと視線を落とし、悲しげな声音で言った。彼の思いは、たとえ天地がひっくり返ったとしても実現しない。その現実が、十五歳の少年に重くのしかかっている。どうしたって逃れることの出来ない運命に、もはや諦める以外の選択肢はなかった。


 せめて治療薬が開発されれば。そうすれば、絶望に打ちひしがれることは無くなるのだろうか。そんな未来が来るには、あとどのくらいかかるのだろう。該当年齢者が怯えない未来は、そう簡単に来るはずもなかった。

 だから私たちはその流れに身を任せるしかない。抗うことなんて、少しも許されてはいない。


「零くんって呼んでもいいですか?」


「はい。お姉さんは……」


「空で」


「空さん」


「はい」


 初対面の私たちは、お互いに呼び名を決めた。今日限りのその呼び名は、着実に私を暗闇の中に連れて行く。死というものを実感させる。


「零くんは、死ぬの怖い?」


 消失を明日に控えた者に聞くような内容ではなかった。それでも、私は彼の口から彼の言葉が聞きたかった。


「まぁ……どういう世界か分からないですから。知らない場所は怖いです。空さんは?」


 彼は落ち着いた声音で言った。その声から感情を読み取ることは難しく、彼がどんな人であるのかも分からなかった。分かっているのは明日消えるということと、生きるのを諦めているということ。私はそれが酷く悲しく感じた。


「私も最初は怖かったんです。検査結果を見て、初めて死というものを身近に感じた。でも、よく考えたら別に不思議はなくて……。だって、人間はいつか死ぬわけで。それが早いか遅いかは人によって違うけど、どの人も絶対に死ぬんです。私がたまたま早かっただけ。そう思ったら全然怖くなくなった」


「そうですか…………強いんですね」


「強くなんかない。これはただの虚勢」


 本当のところは、死ぬのが怖かった。怖くないわけない。人から忘れられて、遺体も残らず消えるなんて、どうしようもなく怖い。それでも私は怖くないと言い続けるしかない。自分を騙し本心を隠すことでしか、残りの日々を生きられない。そうでもしないと、私はこの現実から逃げたくなってしまう。それは性に合わない。


「お腹空いちゃった」


 荷物をベッド横の棚にしまいながら、今日はアイスしか食べていないことを思いだした。そろそろちゃんとしたご飯が食べたい。


「看護師さんが来るまでは食べちゃダメですよ」


 足を伸ばした少年は、携帯ゲームをやりながらそう言った。この病院のスケジュールは何ひとつ分かっていなかったが、彼がそう言うなら従うほかない。私は鞄の中から取り出したクマのぬいぐるみを枕の横に置き、筒状の貯金箱を手に取った。その貯金箱は底の部分が開閉できるようになっている。


 私は貯金箱の底を開け、中身をベッド上に広げた。中には小銭が数枚と、千円札が十枚。五千円札が三枚に、一万円札が二枚入っている。これらの正体はお小遣いやお年玉で、地道に貯めていた私の全財産だった。

 死ぬまでの五日間で、私は五万円弱を全て使うつもりだ。


「まぁ! 結構貯めてるのねぇ」


 私の背後で声がした。振り返ると、そこには制服に身を包んだ女性の看護師がいた。看護師は私の肩越しにベッドを覗き込み、広げられたお金を見て感嘆の声を上げた。


「こんにちは」


 少年は看護師に向かって言った。背後にいた看護師は少年の言葉に同じように応えた。女性は物の乗った回診車を引きながら、私にも「こんにちは」と声を発する。その声に私も挨拶を交わしたが、その平静ぶりに少しだけ怖くなった。


 私はベッド上に広げたお金を再び貯金箱に戻し、離れていく看護師を見やった。看護師は少年の横まで行くと、優しそうな笑みを浮かべた。少年は言われる前に左腕を差し出し、携帯を傍らに置いた。半袖の服から伸びる手は、私よりも細く見えた。ちゃんとご飯を食べているのだろうか。


「零くんとも今日でお別れかぁ」


 看護師は、消毒液の染みた脱脂綿で少年の腕を拭いた。女性の発した言葉は、まるで死刑宣告のようだった。そして、その声音は悲愴感を少しもはらんでいない。共通の思い出のない患者が死んだところで、この女性は何も感じないのかもしれない。

 感じたとしても、明日になれば忘れてしまう。痛む心も、流した涙の正体も、当事者でない彼らはあっさりと忘却する。けれど、少年には記憶がある。この病院に来てからの思い出が存在している。彼にとって、目の前の看護師は初対面ではない。


「そうですね」


 彼はへへっと笑いながら言った。その笑顔の裏に、一体どんな感情を秘めているのだろう。忘れ去られるということの真理は、まだ私には分からない。


 看護師は消毒をした少年の腕に針を刺した。その針は彼の血管に刺さり、色の薄い血液を吸い上げる。彼の血は綺麗な管を通り、その先にある採血管に溜まっていった。真っ赤とは言えないその血液は、病気の進行を残酷なまでに見せつけていた。視覚から得られる情報は、現実から目を背けることを許さない。


「これで押さえててね」


 少年は看護師に言われるがままガーゼで腕を押さえた。看護師は採血管を鉄製の試験官立てに立てると、小さな正方形の絆創膏を手に取った。そして押さえられていたガーゼを取り、針の刺した場所に貼った。


「じゃあ、次は空ちゃんね」


 看護師はそう言って、少年の腕から外した駆血帯を見せてきた。まぁそうなるよな、とどこか腑に落ちた私は、大人しく看護師に腕を差し出した。女性は慣れた手つきで私の腕に駆血帯を巻き、先程と同様にガーゼで肌を拭いた。


「注射嫌い?」


「いえ、別に」


 子どもの頃は確かに嫌いだったけれど、今ではそんなに嫌いじゃない。透明な容器に自分の血が流れ込んでいく。その様子が、むしろ好きでさえあった。私の知らないところで、確かに血液が流れている。心臓が動き、意識しなくとも呼吸を行う。私は今日も、しっかりと生きている。そう実感する。


 女性は私の腕に針を刺した。綺麗な管を、真っ赤な血液が流れていく。私と少年とでは、血液の色が明らかに違う。私の血液も数日後には薄くなるのだろうか。見た目だけではなく、体の中も変化していく。私が私でなくなるようで、少しだけ気味が悪かった。


「空ちゃん、本当に入院なんかしちゃっていいの?」


 女性は採血管を見ながら言った。


「いいんです。忘れ去られるぐらいなら、せめて何かの役に立ちたい」


 私から採取された血液が役に立つかなんて分からない。私は医者じゃないし、科学者でもない。それでも、今が少しだけ変わるきっかけぐらいにはなるかもしれない。そうでなくとも、数多くある選択肢のひとつが消えるかもしれない。

 もしそうなったら、私は死んだ後も生き続けることになるのではないだろうか。奇病に罹った患者のおかげで病気について知れたように、私の死も長い目で見れば有意義なものになるような気がした。


 彼らはもういないけれど、奇病に関する情報があるということは生きていた証拠だ。語る者がおらずとも、生きた証がしっかりと残っている。私と少年も、その証を残す者の一人だ。


「はい終わり。お疲れ様」


 私の腕に絆創膏を貼った女性は、回診車とともに病室を後にした。女性にとって、私たちは数ある患者の一人。採血だって、看護師にとっては業務の一つ。他の人はどうか知らないけれど、少なくとも先程の女性にとって私たちは何者でもない。心の端を向ける価値は、あいにく少しもない。


「空さん、ご飯食べに行きましょ!」


 少年はそう言って携帯を服のポケットにしまい、床に置かれた靴を履いた。どうにもならないことを考えても仕方がない。どれだけ頭を悩ませても、解決へと導く良い案は思いつかないのだから。


「病院食が運ばれてくるんじゃないの?」


 医療ドラマから入手した浅い知識。入院している患者の元には、決まった時間に病院食が運ばれてくる。ここも病院なのだから、そういう制度はあるはずだ。


「僕たちは確かに患者ですけど、悪いところなんてないんですよ。他の患者さんのように栄養面を気にする必要はありません。それに、死ぬまでの時間が短いんです。だったら、好きなものをお腹いっぱい食べた方がいいじゃないですか」


 少年の輪郭は、窓から差し込む陽光によってオレンジ色に縁取られていた。その顔には無邪気な笑顔が湛えられている。


「なるほど。たしかに」


「行きましょ!」


 少年は私の手を取ると、小走りで病室の外へと走って行く。ベッド上で小柄に見えたその体は、思ったほど小柄ではなかった。私と同じくらいの身長で、握られた手は僅かに骨ばっている。走るたびに揺れる長めの髪は、彼の幼さを上手く隠していた。


 消失へと向かう彼の手は確かに温かく、生きていることを実感させる。私の半透明な指も、少年に同じ体温を分けているだろうか。温度を感じるということは、即ち生きている証拠だ。少年は私と同じように生を実感できているだろうか。

 まだ死んではいない。いつか死ぬとしても、今はまだ呼吸をしている。私も、少年も、灼熱の太陽が照らす世界で生きている。


「零くんって走るの早いんだね!」


「そうでもないですよ。学校じゃ下から数えた方が早かったです」


「みんな陸上部だったんじゃない?」


「そんなわけないじゃないですか」


 少年と私は走りながら話し、エレベーター横の階段へと向かった。階段の中は冷房が効いておらず、嫌に蒸し暑かった。全ての階に冷房が完備されているのだから、階段にもつけてほしいものだ。


「エレベーター乗らないの?」


「あれに乗ると一階に行っちゃうので」


 少年は尚も私の手を握っている。


「あぁ、確かに。ご飯ってどこで食べるの?」


「三階に食堂があるんですよ。ここのご飯が美味しくって」


 私と少年は揃って階段を下りていく。私たちの他に階段を使っている者はいない。エレベーターがあるのに、わざわざ階段を使う変わり者は私たちだけだろう。

 見た目も行動も、八階に住まう者は周りと少しだけ違う。意図せず起こるその違いが時に棘となることを、私たちは覚悟しなければならない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ