14『言えなかった、おはよう』
細く開けた瞼の隙間に、明るくなった世界が差し込んでくる。暗闇に慣れてしまった目には眩しく、私は何度か瞬きを繰り返した。目を擦りながら起き上がると、隣で寝ていたはずの少女がいないことに気づいた。
シングルベッドの端っこで寝ていた私の片足は、ベッドの縁に沿ってプラーンと力なく垂れ下がっている。指先は空調によって僅かに冷え、それを温めるように布団の中に戻った。狭いベッドの反対側が空いていると、閑散とした病室がより一層寂しいものに感じる。
まるで私以外の人間が全員居なくなったみたいで、広い世界にぽつんと一人だと錯覚する。けれど病院の外から車のクラクションが聞こえ、心なしか電車の走行音も聞こえてくる。近くに線路はあっただろうか。そんなことを考えながら、季節に反して冷たい床に足をつけた。
床の冷たさなど一瞬で、歩を進めるたびに足裏は冷えては温まるを繰り返す。それは自分の足跡を残すようで、少しだけ愉快な気分になった。
「春夏ちゃんは……トイレかな?」
少女のベッドを一瞥してから、私は閉じた病室の扉を開けた。相変わらず向こう側の廊下には人がおらず、あるのは不気味なまでの静寂だった。
私は防壁代わりに引いた扉を閉め、背後に広がる街中を見た。夜景とは違う表情を持った景色は、昇ったばかりの陽光を浴びて活気を取り戻していく。雨が降っていたのか道には水溜まりができ、家々の屋根がしっとりと濡れている。通常時では見れない朝の輝きは、なんだか特別な雰囲気を漂わせていた。
私は朝の清い空気を吸うために、大きな窓へと足を向けた。足を踏み出すたびに、私の姿は少しずつ明るくなっていく。眠気から覚めきった私の脳は、無意識に今日の日程を組み立てていった。
一つ目のベッドを通り過ぎ、私の使うベッドも同じく通り過ぎる。そこで視界の端に白い何かを見つけ、私はゆっくりとそれを視界に入れた。それは備え付けの枕だった。それぞれのベッドに同じように置かれた枕は、私の使用するベッドの側に落ちている。床に落ちた枕は、皺をつけながら微動だにしない。誰のだろう。そう思うのと同時に昨晩の記憶が蘇った。
これは、昨日一緒に寝た少女のものだ。きっとベッドから出る際に落としてしまったのだろう。私は枕の表面を軽く払い、ベッド上に置かれたもうひとつの枕の隣にポンと置いた。白い掛け布団に、白い枕が二つ。それらは仲良く身を寄せ合い、お互いの存在を確かめ合っているようだった。
「……………あれ……………………………?」
あれ、なんでだろう。私は、どうして少女のことを覚えているのだろう。少女の腕は確かに透けていた。見間違えるはずがない。彼女は確かにシミラーゴースト症候群に罹っていた。奇病患者のことは日付が変わると同時に忘れてしまう。それは、相手が健常者だろうが奇病患者だろうが変わらない。
男性が私のことを忘れるように。千葉が、川澄が、山田が、私との会話内容を覚えていないように。私は、彼女のことを忘れていなければならなかった。忘却しない薬が開発されたのならまだしも、あいにくそんな万能薬はない。シミラーゴースト症候群の特効薬なんて、私が死ぬまでに完成するはずがない。
「春夏ちゃん………!」
私は向かい側に位置する彼女のベッドを見た。綺麗に敷かれた掛け布団にはシワの一つもなく、見当たらない枕は尚も私のベッドの上。ベッド脇にある棚の上部には大きなリュックが置かれ、その上には昨日買った麦わら帽子が被せられている。備え付けの机の上にはピンクのコサッシュがあり、その横には無造作に携帯電話が置かれている。何より、ベッド横の床には一足のスニーカーが放置されていた。目の前の光景は寝る前と何一つ変わっていない。変わったのは…………。
私は扉を乱暴に開け、ナースステーションに走った。病院内を走るなんて言語道断だけれど、このフロアには幸いにも人がいない。人がいなければぶつかることはできず、何も気にせず足を前に出した。
「おはよう、空ちゃん。そんなに慌ててどうしたの?」
書類の整理をしていた山田は、私の姿を見るや疑問を口にした。裸足で廊下をペタペタと駆けてくる姿が、このひとにはどう映ったのだろう。少なくとも普通のことではないと、そう感じてもらえただろうか。私は混乱した頭で、必死に口から声を出した。けれどどれも上手く出ず、ただ空気を吐き出している人に成り下がっていた。
それでも必死に声を出し続け、ようやく出た言葉は「春夏ちゃん」。彼女の名前を口にするのが精一杯で、用件などとてもじゃないが伝えられなかった。これで山田が分からないと言ったらどうしよう。本当に私しか覚えていないんじゃないか、という可能性が脳内を掠め、規則正しく動いていた心臓が早鐘を打った。
「あー……えっとね」
私のことを真っ直ぐ見ていた瞳が外側を捉え、そのまま手元の紙に視線が落ちる。言い淀んでいるのは明白で、ハッキリしない物言いは私の中に作られた可能性を確信へと変えていく。少女は。彼女は。蒼井春夏は…………。
「春夏ちゃんは、昨日の夜にね。その……屋上から飛び降りたみたいで……」
「屋上………………」
病室の窓から飛び降りたのではなく。車に轢かれたのではなく。首を括ったのではなく。彼女は、昨日の朝私とともに行った屋上から身を投げた。私が入眠したのを確認してから、彼女は一人屋上へと向かったのだろうか。辺りを一望できる見晴らしの良い場所で、宝石のような夜景を眺めながら……。
そのとき、彼女は何を思っていたのだろう。自らの命を奪うような素振りは一切なかった。寝るときに言う「おやすみ」は、起床後の「おはよう」がセットなのに。彼女は片方を言い捨てたまま消えた。相手がいなくなった私は、一体誰に言えば良いのだ。
「まさか死んじゃうなんて……、私もびっくりで」
彼女はこうして自分の話題を持ち出して欲しかったのだろうか。死んだ後も、その面影をこの世のどこかに残したかったのだろうか。本当にそれが彼女の真意なのかは、私には絶対に分からない。
「…………………………………………屋上」
脳内の整理がついてくると、山田の口にした場所が気になって仕方なかった。なぜ数ある場所の中から屋上を選んだのか。それは夜景が好きだから。夜になったらきっと綺麗だと、私がそう言ったから。では、彼女が死んだのは私のせい? 春夏ちゃんが寿命を待たずに死のうと決意したのは……私のせいなのか? そう思うと、何も入っていない胃から何かが迫り上がってくるのを感じた。
私は慌てて手で口を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。床を見つめたまま、どこも見ることはできなかった。私の様子に、山田を含めた女性看護師三人が声をかけてくれた。けれど、どれだけ優しく背中を撫でられても、私が落ち着きを取り戻すことはなかった。平常心になんて戻れるはずがなかった。
だって、私が屋上に連れていかなければ。あのとき大人しく部屋で会話していれば。きっと最悪の事態は防げたはずだ。今も彼女は生きていて、「今日はどこに行こうか」と声をかけてくれたはずだ。私は……。私は、間接的に彼女を殺したんだ。死に追いやったんだ。どれだけ後悔しても事は既に終わっている。今は後の祭りでしかなかった。
切り揃えられた前髪が揺れる。夏だというのに結っていない髪が靡く。段差を通過するたびに振動が伝わり、体が僅かに上下する。今日の服装は真っ白なワンピース。腰の後ろには白いリボンが縫い付けられ、リボンの端は太腿の辺りまで伸びている。
スカートは膝丈で、裾には控えめなレースが付いている。時間を経るごとに透けていく体は、白いワンピースの存在をより一層際立たせていた。それはまるで白装束のようで、本物の幽霊にも劣らないような気がした。
行き過ぎる街を開けた窓から眺め、どこに行くとも分からず車に揺られる。行き先は隣でハンドルを握る男性のみが知り、訪ねても「秘密」としか言ってくれなかった。これまでと変わらず正午過ぎに現れた男性は、私に会うや否や「残念だったね」と口にした。
どうしてそんなに他人事なのか。私と同じように昨日の記憶を持ちながら、彼女が死んでも悲しくないというのか。同じものを食べ、同じ時間を共有していたのに……。私は男性のことが信じられず、沈んだ気持ちと相まって口数が少なくなった。友達を失ったのだ。これまで通り生活することも、昨日のように笑うことも、私には到底できなかった。
車が赤信号で止まると、吹き込む風も連動して止まる。二日前もこんな光景を見たような気がする。けれど、私の横には自転車に乗ったおじさんはいない。代わりに私服の若者が行き交い、それはそれは楽しそうに笑い合っている。たった二日。僅か四十八時間。その間に、私の心情は大きく変わった。いろんなことがあった。いろんな場所に行った。本当にここ数日であったことなのかと疑問に思うほど、人生の中で濃過ぎる時間だった。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
「着いてからのお楽しみ」
ダメ元で聞いてみたけれど、返ってくる返答は少しも変わらない。男性が行き先を教える気はないんだと、私は改めて実感した。ため息を吐きながら、青から赤へと変わっていく斜め前の信号を眺めた。目の前を通り過ぎていく車は無くなり、代わりに私の乗る車が動き出す。微動だにしていなかった前髪がサラサラと揺れ、白いワンピースの胸元が皺をつけていく。平和な街並みを眺めながら、私は車の座席に身を任せた。静かに瞼を閉じると、風の流れを顔全体で感じた。
「海だったりする?」
「残念。ハズレ〜」
男性は楽しげな声音で言ったけれど、そのテンションに乗れるような心境ではなかった。前から後ろへと流れていく景色は、街中から緑の多い町外れへと変化していく。登山でもするのだろうか。緑の生い茂る山の中は確かに癒されるけれど、最終日に行く場所にしては不適切だと思った。
私は別に登山が好きなわけではない。行くならもっと賑やかな、例えば公園やテーマパークがいい。白い車はウィンカー音を鳴らし、前の車の後ろについて右折した。そうしてそのまま直進し、前方を走っていた数台の車と同じように、左側に見えた駐車場へと侵入する。私たちは案内されるがままに奥の方へと進んでいき、空いていた場所に駐車した。
広い駐車場には無数の車が止まり、皆前方へと歩いていく。反対にこちら側に戻ってくる者もいて、私はその姿を目で追った。男性はエンジンを止めてからシートベルトを外し、ショルダーバッグを背負って車外へと出ていった。私も同じように車外へ出ると、燦々と輝く太陽が脳天を瞬時に焼いていく。
「帽子でも持ってくればよかったな」
そう口にして、病院に置いてきた麦わら帽子のことを思い出した。けれどそれと同時に彼女のことも思い出し、掻き消すように首を横に振った。
「こっちだよ」
数メートル離れた場所で、男性は振り返ってそう言った。周りからはデートだと思われているかもしれないが、男性と私は初対面だった。ほんの一時間前に出会ったばかりで、男性の中に私との記憶はない。私も彼女とともに屋上から落ちればよかっただろうか。そうすれば、男性は昨日の出来事を全て覚えていただろう。私がそうしなかった理由は一体なんなのか、自分でも分からずにいる。
私は呼ばれるがままに男性へと向かって歩き出した。本人は私が近づいてくるのを律儀にその場で待ちながら、辿り着いた私の横を軽快に歩いていく。歩幅で言えば男性の方が遥かに大きいが、私の前を歩いていこうとはしない。意識してやっているのか、それとも無意識か。なんにせよ、気を遣われているようでいい気はしなかった。
私たちの前後には家族連れや恋人がおり、その中には小さな子どももいた。今は夏休みなのだろうか。きっと課題がたくさん出ているに違いない。整備された砂地の道の脇には小さな花が咲き乱れ、辺りを色鮮やかに彩っている。足元では一匹の蟻が仕事に励み、一瞬のうちに遠くの方へと歩き去ってしまった。あの蟻は何のために働いているのだろう。女王蟻に褒められることもなく、仕事中に踏み潰されることだってある。本人はそんなこと考えていないのかもしれないが、ならば生まれた意味はどこにあるのだろう。一族の命が繋がれば、自分のことなどどうでもいいのか……? 私は、それだけで終わる命が勿体無いと思った。
「わぁぁ! すごいね!」
背後のカップルが上げた歓声に、私は視線を前方に向けた。開けたそこには、数えきれないほどのヒマワリが咲き誇っている。真上にある太陽を目掛け、頭を真っ直ぐ伸ばす黄色い花。一面が黄色一色で、まるで大きな絨毯を敷いたかのようだった。圧巻という言葉がこれほど似合う場所を、私は他に知らない。
「すごい……」
思わず立ち尽くした私に、男性は得意気に「でしょ?」と言った。悔しいけれど頷くことしかできない。ヒマワリ畑は語彙力を失わせ、悲しい出来事や苦しい思いを全て持って帰っていく。私の胸中に残されたのは、感動とは名ばかりの感情だった。
「ほら、中歩いてみようよ」
男性はそう言って片手を差し出した。これまで、私たちは一度だって手を繋いだことがない。それは家族ではないからで。友達と呼べる関係ではないからで。恋心と表す感情はカケラもなくて。手を繋ぐ必要性も、意味も、どれだけ考えたって浮かびはしない。私に、差し出された手を握る権利はない。
明日になれば死んでしまうのだ。ぐちゃぐちゃに絡み合った感情ごと、何もかも無かったことになるのだ。どうせ無くなるのに、ここで手を繋いだって虚しいだけだ。そう思うのに、私はゆっくりと手を差し伸べてしまった。男性の手を取ってしまった。私は何をしているんだ。頭の片隅でそう思うと同時に、男性は重ねられた私の手をぎゅっと握った。
振り払うことなんてできない。強く握られたわけではないけれど、繋がった手を離すことはできなかった。その代わりに、私の頬を涙が伝った。男性の手は温かかった。私とは異なる温度は、炎天下の中でしっかりと形を持っていた。彼女の手も温かかった。
それと、別の誰かと繋いだ手も温かかったような気がする。それが誰だかは少しも思い出せないけれど、おそらくとても大切な友達だった。その人も、繋いだ手には温もりがある。当たり前のことを当たり前に感じられることが、今は他の何よりも有難かった。
「行こ!」
かつての少時代年に戻ったように、男性は私の手を引いて歩き出した。溢れ出した涙が止まる気配はなく、頬を伝って顎から下へと落ちていく。白いワンピースに水跡ができ、それは次第に数を増していった。
「…………………ふっ………うぅぅ…………………………」
口から漏れた嗚咽が小さく響く。すれ違う人々は私の様子を心配そうに窺うけれど、誰ひとりとして好奇の目を持ってはいなかった。指を指されることもなかった。男性に手を引かれ、私たちはヒマワリ畑の中に足を踏み入れた。遠くで見るのとは違い、真っ直ぐ生えたヒマワリは私よりも大きかった。
自分の目線より上に花弁があることで、私の姿は一目で見えなくなる。誰かの話し声がする場所を通り抜け、私たちはそのまま奥へと進んでいく。花の蜜を集めるミツバチはそこかしこで仕事に励み、私は手の甲で涙を拭った。
「ヒマワリっていいね。元気貰える」
一輪のヒマワリをそっと撫でながら、男性は愛でるような視線を向ける。太陽のように咲く花は確かに元気をくれるけれど、私にはそれが眩しすぎた。あいにくヒマワリが似合うような生き方はしてきていない。
「空ちゃんは……やっぱり消えるのは怖いって思うの?」
どういう了見でその問いを口にしたのかは分からない。美しいヒマワリ畑の中に居ながら、会話内容は病院内にいるときと少しも変わらない。夜に彼女と交わした僅かな会話。あの子は、何と言っていただろうか。運が良かったと、そう言っていたような気がする。
「怖いよ。何度考えても怖い。怖くない人なんていないんじゃないかな」
見ることのできない世界は怖い。暗いのか明るいのかも分からない世界で私はどうなるのか。それは誰に聞いても答えの出るものではない。一足先に逝ってしまった彼女は、この答えを持っているのだろうか。その目で、肌で、どんな世界かを感じているのだろうか。もしできるなら、それを私に伝えてはくれないだろうか。夢枕に立って、どんな場所かを語ってほしい。そうすれば身を覆うほどの恐怖と向き合えるような気がする。
「でもね」
私は足元に生えた雑草を指で摘み、そのまま上に持ち上げた。小さな雑草は根っこに砂をくっ付けながら、いとも簡単に全貌を露わにする。
「私がそれよりも怖いと思うのは、今日が最初で最後だということ。カラッと晴れた青空を見ることも、広大な大地に生えるヒマワリたちを見ることも、この瞬間が最後になる。どれだけ願っても、明日また訪れることはできない」
通路を二つほど挟んだ向こう側で、五歳ほどの男の子が両親に向かって叫んだ。「ずっとここに居たい!」と。その男の子を追ってきた父親は彼をヒョイっと抱き上げ、「また今度来ような!」と言いながら頭を雑に撫でた。
「私には明日がないから………『また来よう』なんて言えない。その言葉に含まれる未来は、私にとっての明日なんだ。あの父親にも、男の子にも、樹雨くんにも当たり前に来るだろうけど、私の元へはやってこない。叶わない夢でしかない」
生きとし生けるものは必ず死ぬ。私はそれが人より少し早いだけで、どんな人もいずれは同じ道を辿るから、私だけが不幸なんじゃない。そう思うことで、私は自分の心に壁を作った。どうせ死ぬなら後悔なく死にたいと、そう思ってあらゆる場所へ足を運んだ。
けれど、私だって生きたいと思うんだ。明日も明後日も明明後日も、みんなと同じように生きていたい。この地を踏み締め、熱を持った空気を肺いっぱいに吸い込みたい。それだけのことなのに……。どうして私には許されていないのだろう。多くの人が手に入れているものを、私だけはダメだと取り上げられる。平等に配られることはない。




