13『おやすみ。おやすみ』
車は男性の宣言通り、暫くして病院の出入り口に横付けされた。自動ドアの向こう側に見える受付は暗く、その奥の廊下に見える僅かな明かりしか見て取れなかった。私と少女は後部座席から降り、男性の白い車を真横から見つめた。男性は昨日と同じように助手席の窓を開け、私たちの顔をしっかりと見ながら手を振った。
「じゃあね。二人ともおやすみ」
「おやすみなさい」
「樹雨くんもおやすみ〜」
お互いに別れの挨拶をすると、助手席の窓は僅かな音を立てて閉まっていく。その窓が閉まり終わると、止まっていたタイヤは前方へゆっくりと進んでいった。私たちは走り去る車に手を振って、その姿が見えなくなるとどちらからともなく手を繋いだ。
病院内で手を繋ぐということになんの違和感も持たない私たち。二人の間には友情しかないけれど、端から見ればそれ以上の関係に思えるだろう。けれど、それをわざわざ否定するつもりはなかった。
手を振り終えた私たちは、背後にある自動ドアをくぐった。何度見ても不思議な二重扉は、門限を過ぎてもその役目を全うしている。このドアが開かなかったどうしようかと考えていたが、どうやら杞憂だったらしい。
無事に二つのドアを通り抜けた私たちは、病室のある階にしか行けないエレベーターに乗り込んだ。エレベーター横の専門受付には誰もおらず、上手くすれば個人情報が覗き放題だった。エレベーター特有の圧迫感は、私たちに不思議な感覚を抱かせる。無重力のような浮遊感に、押し付けられているかのような重量感。耳の奥が詰まるような感覚に加え、個室の中は嫌なほどしんと静まりかえっている。私はほんの少しだけこの感覚が嫌いだった。
上部に取り付けられた回数表示が八という数字を光らせるのとほぼ同時に、キツく閉まっていた目の前の扉が左右に開く。まだ数日しか生活していない空間でも、実家に帰ってきたかのような懐かしさを覚えた。手を繋いだままの私たちは、二人一緒にエレベーターから降りた。人を運ぶという役目を終えたエレベーターは、私たちの背後で静かに閉まっていった。
「あ! やっと帰ってきた! 時間はとっくに過ぎてるわよ」
まるで実の母親のように、山田は私たちを見てそう口にした。
「ごめんなさい。気づいたら時間過ぎちゃってて」
「もう! 心配したのよ。どこかで事故にでも遭ったんじゃないかと思って……。でも、無事に帰ってきてくれてよかった」
山田は私たちの傍までやってくると、温かい腕でそっと抱きしめてくれた。私たちの母親にしては若すぎるけれど、彼女は正真正銘私たちのお母さんだった。
「さ、お風呂に入って早く寝ようね」
抱擁を終えると、山田は私たちの頭を優しく撫でた。本来ならば気恥ずかしさ故に「子ども扱いしないで」と言うべきなのだろうが、私は案外それが嫌ではなかった。
たった数日でも、私は愛情に飢えていたんだと思う。両親によって大切に育てられたという実感が、発症してからは感じられなくなってしまったから。これまでの人生で幾度となく実感していた感覚が消えるほど、この四日間は精神的に苦しかった。
これが仮に普通の病気だったなら、こんな思いをせずに済んだのかもしれない。たらればを並べたって過去は変わらないけれど、そんな別の未来を夢見たってバチは当たらないような気がした。
私たちは自分の病室に戻り、着替えを持って大浴場へと向かった。初日と同じその浴場は、いつ見ても立派な温泉施設のようだった。脱衣所で服を全て脱ぎ、水滴が無数についたガラスの扉を開ける。湿気で溢れる向こう側は、足を踏み入れた私たちをあっという間に包んでいく。
「広い……」
「初めてきた?」
「うん。昨日は個室の方を使ったから」
少女の目は大きく見開かれ、信じられないとでも言うようにその場で辺りを見渡した。
「ここを私たちだけで使っていいなんて、病院は太っ腹だよね〜」
「そうだね……。なんか勿体無いよ」
「うんうん。でも死ぬ前の贅沢だと思ったら、案外いい気がしない?」
温泉を貸し切るなんて、普通の人間では出来ないことだ。どれもこれも、奇病に罹ったから出来たこと。感謝などするつもりはないけれど、豪族になった気になれるのは少しだけ魅力的だった。私は少女の手を掴んで、壁沿いに設置されたシャワーの元まで向かった。
銀色のハンドルを捻ると、シャワーヘッドから水が噴き出した。最初こそ冷たかった水は、ものの数秒でお湯へと変化していく。私はシャワーヘッドを少女の方に向け、出続ける水で綺麗な黒髪を濡らした。訳も分からず濡らされた少女は、もう一つのシャワーで私に向かって放水した。乾いていた半透明な肌は一瞬で濡れ、髪からは水滴がポタポタと滴っている。
「おあいこね!」
水の止まったシャワーを握りながら、少女は満面の笑みを浮かべた。お互いに全身はびしょ濡れで、海に入ったときよりも酷い有様だ。けれど、そこに存在するのは笑顔しかない。怒りや哀しみなどのマイナスな感情を、今の私たちは持ち合わせていなかった。シャワーを元の位置に戻し、私たちは透明な湯船に足を入れた。広すぎる浴槽は二人では到底埋まらず、もの寂しいような感覚になる。温かな水面は室内の照明を反射させ、揺れるたびにその形を変えていった。
「あったかいねー」
「夏でも温泉っていいもんだね」
湯船の温度は夏にしては熱く、冬にしては冷たい。そのちょうどいい湯加減の中に身を委ねれば、あまりの心地よさに微睡んでしまう。まだ寝るには少しだけ早い時間だけれど、今ならぐっすり眠れるような気がした。私があくびをひとつすると、隣にいた少女も同じようにあくびをした。あくびが伝染するのはよくあることで、それが何故なのかは少しも知らない。それを解明するのは専門家だけで十分だった。
「なんか眠くなってきちゃった」
少女は半透明な腕を真上に伸ばし、その後で湯船に頭ままで浸かった。プハッと息を吐き出す音とともに、湯船が僅かな水音を上げる。水面は大きく揺らめき、縁の方で水が外に出ていくのを見た。
「じゃあさっさと上がって寝よっか!」
私が立ち上がると、音の響く浴場にサバーッと水の落ちる音が響いた。その音を聞いていたのはこの世で二人だけ。しかし、覚えているのは一人だけだった。全身をくまなく洗い、私たちは熱った体のまま更衣室へと向かった。
更衣室は浴場よりも湿度が低く、濡れた体は微かに寒さを感じる。備え付けの畳まれた白いバスタオルはふわふわしていて、肌触りは家にあったものよりも格段に良い。有名なタオルメーカーのものなのかもしれない。そのタオルは肌触りだけでなく、水も想像以上によく吸った。
タオルとしての役目を大いに果たす、優秀な一枚だった。あっという間に水滴が無くなった肌の上に、私たちは下着と服を着た。寝巻き代わりの白いTシャツと黄色のハーフパンツ。まるで高校の体育着のようで、懐かしさに似た言い知れない感情が胸を占めた。
少女は襟のついたシャツ型のパジャマに腕を通し、膝丈のパンツを腰まで上げた。上下ともに、ペールピンクの生地に細い線で猫の柄が散りばめられている。本当にピンクが好きなのだと、その姿を見て密かに感心した。それを言うと、私の持ち物は比較的黄色が多い。今日買った麦わら帽子も、今着ているハーフパンツも、同じ黄色と呼ぶ色だ。私も大概黄色が好きらしい。
使用したバスタオルを専用のカゴに入れ、今まで着ていた服を手に更衣室を後にした。八階はいつ来ても涼しく、快適という言葉がピッタリだった。しかし気温の下がった夜は、空調の温度が僅かに上げられているらしい。冷えた中で寝るのは風邪を引く元で、夏だからと言っても温度は下がらない。キンキンに冷えた部屋の中で布団を被るのが、私流の夏の楽しみ方でもある。だからといって無理に上げてもらうつもりは毛頭なく、反論をするつもりもさらさらない。
私の前を行く少女の髪から雫が落ち、ペールピンクの服にシミを作る。夏だからと怠けないで、更衣室にあったドライヤーで乾かすべきだっただろうか。しかし、やはり夏だからなぁと言い逃れをする私もいた。私たちの使う病室には、私たち以外の人間はいない。新入りが入ってこない病室は寂しさを醸し出している。けれど、その寂しさが続けばいいと思った。不幸になる人は少ない方がいい。
「うわぁぁ。すっごく綺麗!」
持っていた服をベッドの上に置いた少女は、大きな窓の向こうに映る夜景を眺めて言った。室内の照明が反射する窓は、外の景色を見るには適していない。私は使用済みの服を鞄の中に放り込んでから、入り口横にあった電気のボタンをパチンと押した。すると広い室内は一瞬で闇に包まれ、代わりに夜景が暗闇を照らした。
反射するものが無くなった窓は、目下にある景色を鮮明に透過する。白やオレンジの光が、静かになりつつある世界を照らし出していた。引き戸につけられたすりガラスによって、廊下側の様子が少しだけ分かる。廊下の電気が消える素振りは今のところなく、誰かが近づいてくる気配もない。少女は窓向こうの景色を食い入るように眺め、閉まっていた窓の鍵を開錠した。
大きな窓ガラスが開け放たれると、障壁のなくなった世界は鮮烈さを増していく。黒の中にも濃い薄いがあること。遠くにあるはずのショッピングセンターの明かりが僅かに見えること。帰路についているのであろう無数の車が同じ方向に走っていること。私たち以外の人間が生きていることを、目の前の景色が示している。いつもと変わらぬ営みがあることを、私たちに見せつけている。俯瞰で見ている私たちは、まるで殿上人のようだった。
人々の暮らしぶりを高みから見物し続けていると、自分のことがどうでもよくなってくる。諦めるとか受け入れるとか、それ以前の話だ。私はベッド横の棚からひとつの小さな鞄を取り出し、景色を食い入るように眺める少女の背をつついた。少女は乾き始めた髪を揺らしながら振り向くと、「ん?」と小さな声を発した。
「これ、よかったら」
ピンク色のコサッシュを差し出すと、少女は首を傾げながら手に取った。
「くれるの?」
「私にはもう必要ないから……。要らなかったら捨てる」
好きな色でも、お気に入りのブランドのものでもない。けれど、その大きさは使い勝手が良かった。大きすぎず、かと言って小さすぎない適度なサイズ。携帯や財布がゆとりを持って入れられるそのコサッシュは、発症の三か月ほど前に購入したものだ。お古であることに変わりはないが、比較的綺麗な方だと思う。
「じゃあ貰っちゃお!」
少女は嬉しそうにニコッと笑い、手に持ったコサッシュを抱きしめた。夜空に浮かぶ月はその光を地上に届け、控えめに明るく照らしている。少女のシルエットは月明かりによって白く縁取られ、儚さを見事なまでに演出していた。
彼女の背後には見事な夜景。美しいそれらが合わさると、今にも少女が消えてしまうのではないかと思わずにはいられない。私より長く生きるはずの少女が目の前で消える恐怖に、心身が耐えられなかった。私は両手を広げ、少女のことを抱きしめた。離さないように、離れないように、ぎゅっときつく抱きしめた。
「空ちゃん?」
少女の声が耳のすぐそこで聞こえる。触れ合った肌からは体温を感じ、呼吸音だってちゃんと聞こえる。何も怖がる必要はないのに、来るかもしれないという可能性が怖かった。
「春夏ちゃん、私より早く死んじゃダメだよ」
抱きしめる腕により一層力がこもった。
「死なないよ。だって私にはあと三日あるんだから。ちゃんと空ちゃんのこと見送る」
慰めでも、気休めでもない。誰が作ったか分からないルールの元で、私たちは今日も生きている。明日の夜は一人じゃない。それは少女が生きているという未来だ。必ず来る明日だ。
「絶対だよ?」
「絶対」
「約束だからね?」
「うん、約束」
少女は首を傾げるようにして、私の頭に寄りかかった。そして片手を背中に回すと、宥めるようにぽんぽんと軽く叩いた。これではどちらが姉か分からない。いや、最初から少女の方が姉に向いていたのかもしれない。私はただ強がっていただけで、性格も精神も未熟だったのだろう。仮にどちらも成長していたのなら、感情を露わにすることはきっとない。大丈夫と声をかけられながら宥められることもない。友達に心配をかけるようなことは、多分しないんだと思う。
「一緒に夜景見よ! キラキラしてて、本当の宝石箱みたいだよ」
「うん。一緒に見る」
抱きしめていた腕を解くと、少女は代わりにそっと手を繋いでくれた。繋いだ手から感じる自分のものではない体温に、ゆっくりと心が静まっていくのを感じた。感情が穏やかになると、それだけで安心感が身体中を占める。明日も無事に終わりますように。そう願いを込めながら、暫くの間そうして景色を眺め続けた。
夜景を見ながら夜風に当たっていると、デジタル時計は二十二時三十分を示していた。
「さすがに寝たほうがいいよね」
という少女の提案に、私は二つ返事で頷いた。開け放った窓を閉め、ついでに施錠もしておく。今日が最後の夜景だったかもしれないと思うと名残惜しいけれど、明日の予定を二度寝で潰すわけにはいかなかった。
明日はどんなことをして過ごそうか。遊園地に行くのもいいし、久しく行っていない動物園に行くのもいい。三人で屋上に寝転び、日がな一日を過ごすのも悪くないだろう。目覚めた私たちが何を選択するのか、考えただけでわくわくしてしまう。
それは自分の余命を忘れるには十分で、むしろ少しも思い出すきっかけにはならない。起きたときの楽しみがあるなんて、これほど幸せなことはない。私は綺麗に敷かれた掛け布団を捲り、靴を脱いでその中に入る。布団の中は僅かに温かく、冷房の効いた室内といいバランスを取っていた。
そのまま後方に寝転べば、枕の横にはクマのぬいぐるみ。どんなときも傍にいてくれるそれは、信頼のおける相棒のようだった。私はクマのぬいぐるみの頭部を優しく撫で、か細い声で「おやすみ」と口にした。私の声に応えてくれることはないけれど、なんとなく「おやすみ」と返してくれたような気がした。
「空ちゃん」
目を閉じたとき、静かな室内に声が響いた。
「なぁに?」
「一緒に寝てもいい?」
その声に体を起こすと、ベッドの上で枕を抱き抱える少女が見えた。表情までは分からないけれど、どこか心細そうだと思った。
「いいよ。おいで」
私がそう言うと、少女は裸足のままベッド脇にやってきた。布団を捲ってあげれば、少女はその隙間に吸い込まれるように体を収めた。一人用のベッドだからか、快適とは程遠い睡眠環境だった。二人して天井を見上げると、腕や脚がピッタリと密着する。かと言って向き合って寝るのは気が引けるし、背を向けて寝るのは仲が悪いみたいで気が進まない。結局、私たちはそのまま仰向けで寝ることにした。
「空ちゃんはさ」
「ん?」
「死ぬの怖い?」
「そうだなぁ」
月明かりが天井に反射して、暗がりの中に光の模様を描いていた。
「んー、怖いかなぁ。だって、どんな場所か分からないんだもん」
見たことがない世界は怖い。外国に行くのだって勇気がいるのに、死後の世界にそれが必要ないわけがない。そしてその世界を見るためには、命を失わなければならない。気に入らなかったり、予想と違う場所であっても、こちら側に帰ってくることはできない。ミイラのように体が残っていようとも、蘇生魔法が使えなければ意味がない。
「私はね、怖くないの」
「どうして?」
「だって、なんだか面白いなぁって思ったの。幽霊みたいに透けて消えるなんて、まるでおとぎ話みたい」
「おとぎ話……」
「最初は死ぬのが怖かったの。でも私は昔話の主人公なんだって思ったら、そんなのどこかへ行っちゃった」
「だけど、私たちが語り継がれることはないでしょ?」
「そうだね。私には昔話みたいな壮大なストーリーはない」
少女が天井に伸ばした腕は、月明かりに照らされた天井を僅かに透過する。今見えている腕も、三日後にはもっと透けているのだろう。顔の前に掲げた私の掌も、明日になれば時間を追うごとに透けていく。それを見たら、私はどんな感情を抱くのだろう。迫り来る死という概念に、なんと声をかけるのだろう。
「私、今日思ったの」
「何を?」
「幽霊病は素敵なんじゃないかって」
素敵な病気など存在してほしくはないけれど、私は黙って少女の声を聞き続けた。
「日に日に透明になって、最後には空気に溶けるみたいに消えるんでしょ? 学校ではそう習った。もしそれが本当なら、痛くも苦しくもなくて、最後まで笑っていられる。他の誰かと話していることができる。他の病気よりよっぽど素敵」
生物が死ぬとき、まず初めに呼吸が止まるらしい。その次に心臓が止まり、次第に全身の細胞が死んでいく。呼吸が止まるときは、きっとそれなりに苦しいだろう。心臓が止まるときに痛覚があるかは知らないが、あったならば同じく苦しく、痛みだってあるかもしれない。そう考えると、苦しみとは無縁のこの病気は羨ましがられるものかもしれない。
忘れられるという精神的な苦しみはあれど、悶えるほどの痛みは感じない。本当にただ透けて、背景と同化するだけだ。少女の言う通り、見方を変えれば奇病も素敵なものに成り代わる。言い換えれば、私たちは変に運が良かったのだ。他の人が体験する苦しみを味わう必要はない。けれど、出来ることなら罹りたくなかったと思ってしまう。老いるまで生きていたかったと、最後を目前にして考えてしまう。運を持っているなら、宝くじでも買えばよかったのだろうか。そうすれば病気になることはなく、大金も手に入れられて一石二鳥だった。今考えても仕方のないことだけれど、これで最後にするからと誰かに言い聞かせた。
「おやすみ、空ちゃん」
少女は言うだけ言って、一足先に眠りの中に落ちていった。
「おやすみ、春夏ちゃん」
規則正しく聞こえる寝息を子守唄に、私は静かに瞼を閉じた。夜特有の静寂が体を包み、私の意識はあっという間に深い深淵へと落ちていった。




