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11『麦わら帽子とかき氷』

 打ち寄せる波は止まることを知らず、端から見れば私たちは半身浴をしているように見えるだろう。肌を見せている人が殆どの中、服のまま海で遊ぶ様は変に目立っているように思う。その証拠に、レジャーシートで休憩する人々は皆揃って私たちを眺めている。浅瀬で座っているのは、どこを見ても二人だけだった。


「見てあれ。幽霊病ってやつだよね?」


 背後で聞こえる聞き慣れた言葉。外出するたびに指を指さされるけれど、それに心を痛めるのには疲れてしまった。いちいち反応していたら、それこそ時間はどんどん溶けていく。見たい人は見ればいい。指を指したい人は指せばいい。日付が変われば忘れてしまうのだから、私だってそんな事実ごと忘れてやろう。心無い人たちに私が傷つく必要はない。


 けれど、少女はまだ私のように強くはない。透明になった四肢で外に出るのは今日が初めてで、即ち好奇の目に晒されるのも初めてだ。外出デビューでいきなり外なんて、私の配慮が足りなかったとしか言いようがない。食堂とは比べ物にならないほどの鋭い視線が、私と少女の背中に突き刺さった。少女は海を見たまま硬直し、水平線を捉えていた視線は半透明な足先を凝視している。


 珍しいものを見る人々によって、私たちは普通ではないと改めて痛感する。動物園のシロクマになるには時間を要し、そう簡単に成し得ないものであることも理解する。シミラーゴースト症候群は、心の準備をする前に突然やってくる。


 日常を生きていた者が、数時間後に檻の中にいることも珍しくない。観客から演者になるように、人間から客引きパンダになるように、発症した瞬間に立場が変わる。見える世界が変わる。世界は異質になってしまった人を快くは思わない。排斥し、出来ることなら存在までもを消してしまう。もしかしたら、奇病を生んだのはそういう思考なのかもしれない。


「春夏ちゃん」


 名前を呼んでも少女には届いていないようだった。彼女は今、暗い淵の前に佇んでいる。私は立ち上がり、少女目掛けて海水をかけた。手で掬うことなく、腕を前後させて何度も何度もかけた。


 余計な思考が海と一緒に流れてしまえばいい。水の音で周囲の声が聞こえなくなればいい。彼女を傷つける人たちも、どこか遠くに飛ばされてしまえばいい。そうして残った思いやりのある人たちに囲まれて、訪れる最期の瞬間まで笑っていたらいい。そんな優しい世界になって欲しいと、少女に海水をかけながら思った。


 砂浜の上では五つのカメラが私たちを捉えている。水着姿の女性たちが一台、大勢の男性グループが三台。皆構えた携帯の後ろで、面白いものを見たとでも言うようにニヤけている。太陽の光で温まった体に、氷の矢が無遠慮に刺さり続けている。


 けれど、それを帳消しにしてしまう男性が一人。その人も同じように笑顔を湛えているけれど、凍るような冷たさは含まれていない。微笑ましい光景を見守る父親のように、握られたカメラは思い出の一片を記録する。見えている携帯は同じものなのに、使う人によって表す感情を変える。例えそれが同情であったとしても、指を指されるよりずっといい。


「春夏ちゃん」


 私は少女の隣に座り、全身を濡らした横顔をそっと見た。少女はぎこちなく私の方を向き、唇をぎゅっと噛み締めている。悲しくて、哀しかったことだろう。少女はまだ十六歳で、他の人と同じ高校二年生なのだから。


「怖かったら泣いてもいいのよ。春夏ちゃんの傍には私がいる。樹雨くんもいる。一人じゃない」


 気休め程度にしかならないかもしれない。今は少女の傍に居れる私も、明後日にはそれも叶わない。男性だって今日の男性ではない。少女の傍にいるなんて、見方を変えれば嘘になる。けれど、それ以外にかける言葉が見つからない。嘘であっても、その場限りの慰めであっても、目の前にいる少女が少しでも救われるのなら。そうなるなら、私は喜んで羊飼いになろう。真実を疑われても、それを上回る想いが届けばいい。


「空ちゃん……」


 潤んだ瞳から涙の雫が落ちたのは、私の名を呼ぶまさにその時だった。私は返事の代わりに少女を抱きしめ、背中をポンポンと優しく叩く。するとダムが決壊したかのように、少女は私の腕の中で号泣した。その涙には今日以外のことも含まれているだろう。いや、それ以外の方が大半を占めているのかもしれない。


 遠くの地である北海道から一人本州に渡ってきた少女は、一体何を思っているのだろう。病院に着くまでに何があって、今日までどんな感情を抱いていたのだろう。少女でない私は考えることしかできない。その辛さを、痛みを、苦しさを、正しく理解することは不可能で……。


 私が少女になれないように、悲痛を叫ぶ思いを分けてもらうことはできない。ただ抱きしめて胸を貸すことしか無力な私に出来ることはない。少女の心を救うには何が必要なのだろう。砂浜でカメラを構えていた男性は、少女が泣き出すとそれを鞄の中にしまった。そうして波打ち際まで歩いてくると、靴を脱いで波に触れた。


 男性の指先を海水が掠め、何事もなかったかのように引いていく。湿った砂浜に両足で立てば、寄る波が妙にくすぐったく感じるだろう。波が引くときに砂も持っていくので、男性の足は砂の中にどんどん埋まっていく。


「思ったより冷たいね」


「でしょ? 気持ちいいよね」


 海水に浸かりながら抱きしめ合う私たちは、青春映画の主人公のようだった。揺れる水面は尚も宝石のように輝き、夜景にも劣らない美しさを演出している。真上の太陽はどんなものにも平等に陽光を降り注ぎ、私たちの肌をジリジリと焼いていく。日焼け止めを塗っていないことに気づくも、全て手遅れだった。


「樹雨くん、写真撮らない?」


 足首から先のみを濡らしている男性は、私の提案に笑顔で頷いた。黒のショルダーバッグからしまったばかりの携帯を取り出すと、ロックを外すことなくカメラを起動させる。外カメから内カメになった携帯の画面には、全身を濡らす私たちも映っていた。


「春夏ちゃん、写真撮ろ!」


 目を赤くした少女は、頬を流れる涙を拭いながら控えめに頷いた。カメラを構える男性と、ピースをする私。少女は止まらぬ涙をそのままに、じっとカメラを見つめている。男性がボタンを押すのと、乾いたシャッター音が響くのは同時だった。


 カメラは私たちの一瞬を記録し、そのまま端末に保存する。こういう写真が未来で教科書に載るのかもしれない。小学校で配られるシミラーゴースト症候群の冊子には、患者と思われる人たちの画像が印刷されていた。その人たちの病気の進行はまちまちだったけれど、全員に共通していたものがある。それは、どの人も笑顔だったということ。


 カメラを構えられたら誰だって笑顔になるのかもしれない。けれど、彼らは周囲の冷たさを知っている。私たちと同じように、感情のないカメラを向けられたことだってあるだろう。それでも、冊子の中で生きる彼らは楽しそうだった。死を前にしても輝くほどの笑顔で存在していた。カメラの裏で泣いていたとしても、そう思わせないほど生き生きとしていた。私も、そんな彼らと同じようになりたい。どうせ残すなら、可愛く笑っているものを残したい。欲張りなんて言わせない。私は自分の笑顔を見た人に思い出して欲しいだけだ。


「泣くのもこの辺にして、あっちの売店に行かない?」


 私の指した先には、小さめの売店が建てられている。食事はもちろん、浮き輪やシャツなども売られているだろう。せっかく来たのだから専門店も行っておきたい。


「私は……」


 少女は濡れたスカートの裾をぎゅっと握っている。人の目が怖い彼女には、若者で溢れる売店は些か厳しいようだ。


「分かった! じゃあ樹雨くんと待ってて」


 勢いよく立ち上がると、服の裾からポタポタと雫が落ちていく。緑の短パンは当然のことながら海水でぐっしょりと濡れ、白いTシャツは半分ほど水を含んでいる。私は右手を肩口で拭い、放り投げたエコバッグを手に売店へ駆け出した。


 人々の視線は私を追いかけ、その数は進むたびに増えていく。これまでと同じ世界だけれど、ひとつだけ違うところがあった。それは、人の波が私を避けていかないということ。じっと見てはいるものの、恐れたり怖がったりする人は少ない。奇病について、つい最近までしつこく聞かされていたからだろう。内容の変わらない病気の実態を、それこそ暗記するレベルで記憶している。


 罹る可能性に怯えた日々をついに終わらせた者。今現在も怯え続け、罹らないことを願っている者。ここにはそんな人たちしかいない。奇病に対する理解者は案外多いのかもしれない。


 私はまず雑貨屋に入り、麦わら帽子を三つ購入した。巻かれたリボンの色はピンク、黄色、緑。それを一つに重ねて私の頭に乗せた。私はそのまま横にあったお店でかき氷を三つ頼んだ。暑い日のかき氷ほど美味しいものはなく、仮に毎日食べたって飽きない自信がある。ただ氷を削っただけなのに、どうしてこんなに美味しいのか。全ては太陽が知っているような気がした。カップに盛られていく氷の欠片は、綺麗な白い山を形成した。そこへイチゴ味の赤いシロップがかけられると、溶けるように下へと崩れていく。


「お待たせしました」


 一列に並べられたかき氷は、どれも頂点を赤く染めている。ストローで作られたスプーンをさせば、よく見るかき氷の完成だ。私は器用に三つを持つと、早歩きで二人の元へと向かう。その途中で二人組の男性に声をかけられたが、持ち前のコミュ力でやんわりと断った。初めてのナンパにテンションは上がり、浮き立った素足は砂浜をしっかりと捉える。ぽかぽかと温かい砂は指と指の間に入り込み、全身の体温を一気に上昇させていく。かき氷の入ったカップの冷たさが際立って、私の指先はひんやりと冷たくなっていた。安定しない地面に足を取られることはなく、出来たてのかき氷は私を待つ二人の手に渡った。


「それと、二人ともこれ被って!」


 私は重ねていた麦わら帽子の一番上を男性に、二つ目を少女に手渡した。緑のリボンが巻かれた帽子を持つ男性は、朗らかな笑顔とともに「ありがとう」と口にした。ピンクのリボンが巻かれた帽子を持つ少女は、喜びと困惑を混ぜたような顔をしていた。


「空ちゃん……私、お金持ってない」


 止めどなく流れていた涙は止まり、溶け始めたかき氷がカップの側面を伝う。伝った雫は少女の指で止まり、カップと接する肌を甘い液体がコーティングする。


「お金なんて要らないよ! 私が買いたくて買ったんだし、二日で手持ちを使い切らないといけないから」


「でも……」


「春夏ちゃんの被ってる姿が見れればそれで十分!」


 私はストロー製のスプーンを右手に、赤い山の頂点を一掬いした。海のように色を失わないその一口は、削られた欠片のひとつに及ぶまで同じ色を保っている。表面をキラキラッと輝かせ、海よりも遥かに魅力的だった。これが俗に言う花より団子というものだろうか。


 スプーンに乗った一山を口の中に運べば、ひんやりとした冷たさと程よい甘さが口の中いっぱいに広がる。汗を滴らせながら食べるかき氷は格別で、どんな高級料理よりも美味しかった。私の様子を見ていた少女は、握っていた麦わら帽子を深く被った。可愛らしい顔は大きなつばに隠れ、切り揃えられた前髪は目にかかってしまっている。


「そんなに深く被るものだっけ?」


 帽子の下に隠れる少女の目を覗き込むように、私は屈んで少女の顔を仰ぎ見た。少女の頬は僅かに赤らみ、前髪の隙間から見える目は嬉々として輝いている。色を保った耳の端は紅潮し、口元は微かに笑顔を作っている。照れるようなことを言った覚えも、嬉しくなるような言葉を言った覚えもない。それ故に、少女の見せた反応は意味が分からなかった。


「樹雨くん?」


 少女の傍に立っていた男性は、誰よりも早くかき氷を食べ進めていた。一口も口にしていない少女と比べるとその差は歴然だった。彼の名前を呼びながら背筋を伸ばすと、男性はスプーンを咥えたまま力強く頷いた。私も真似をしてスプーンを口に咥え、疑問を表すように首を傾げた。すると男性は再び大袈裟に頷き、液体になった氷を飲み干した。男性が何を言わんとしていたのか、あいにく私には少しも分からなかった。けれど負の感情でないことは確かで、それならば理解できずとも良いと思い直す。


「溶けちゃうよ?」


 少女の持つカップに盛られた山は、当初よりもだいぶ小さくなっている。かき氷と言うよりもシロップジュースと言い表す方が正しいと思うほどだ。


「うん。……美味しい」


「よかった!」


 元気いっぱいに放った言葉は周辺にまで届き、それを波の音が一瞬で掻き消していく。頭上からはピーヒョロロローという甲高い鳴き声が聞こえ、天を仰げば青空の中を一羽のトンビが旋回している。目を凝らせば小さなシルエットが見え、空の色とは違う翼を大きく広げている。上空からは私たちがどんな風に見えているのだろう。海よりも圧倒的に小さく、それこそ米粒ほどにしか見えないのかもしれない。


 私にも大きな翼があったなら。空を飛ぶ魔法が使えたなら。疑問に思ったことを今すぐ解消できるだろう。自らの羽で羽ばたく世界は私の目にどう映るのか。それを確認する術はどこにもない。空想の羽は持っていても、大空へと飛び立つ立派な羽は持っていない。


 私は溶け切ったジュースを呷り、それを持ったまま海へと駆けた。黄色いリボンが巻かれた麦わら帽子を被る十七歳の私。右手にはストローでできたスプーンを持ち、左手には空になったカップを持っている。左腕にはキャラクターもののエコバッグがかかっており、中には衣服と財布と携帯電話。他の人と違うのは全身が半透明なことだけで、精神年齢に至るまでその辺の女子高生と変わらない。そんな私は明日までしか生きられない。


 それに加え、正確なタイムリミットは自分でさえ分からない。一時間か、はたまた六時間後か。明日の私はそうやって怯えて過ごすのだろう。気丈に振る舞うその裏で怖がっている自分が、今の段階ではっきりと想像できる。私は他の人が思うほど強くない。ただ強く見せようと、自分なりに頑張っているだけだ。


 目の前の水平線から視線を外し、私は後ろを振り返る。波の来ない安全な場所で、少女と男性は私のことを眺めている。似たような光景の中で、彼らはお揃いの麦わら帽子を被っている。私と同じ形で、異なるリボンのついた帽子。脳天を容赦なく焼いていく日光から頭を守り、気持ち程度の日陰を顔の辺りに落とす。


 麦わら帽子はその役目をしっかりとこなし、同時に真夏を演出する。青空と、積乱雲と、麦わら帽子。そして、パステルブルーと白と、薄オレンジ。私にはそれ以外何も要らなかった。


「帰ろっか! このままじゃ日焼けしちゃう」


 私は足で海水を蹴り、乾いた砂浜を軽く濡らす。けれどその程度の水はすぐに乾き、あっという間に元通りになる。明日はもっと暑いだろう。明後日はさらに気温が上がるかもしれない。


「その前に更衣室で着替えておいで。車は冷やしておくから」


 少し離れた場所にいる男性は、少女と私を交互に見ながら言った。衣服はとうに乾いているけれど、塩水をたっぷりと含んでいる。上手くすれば少量の塩ぐらいは取れそうだ。

 私は海の中をバシャバシャと気を遣うことなく歩き、水の滴る足で砂を踏んだ。足の裏には砂の粒がびっしりと付き、歩を進めるたびに足の甲にも付着する。


「空ちゃん、ゴミちょうだい」


 伸ばされた手に空のカップを差し出すと、少女は自分のカップに私のものを重ねた。その手にはもう一つのカップも重ねられ、反対の手には同じだけのストローが握られている。両手が空いた私は自分の靴と少女の靴を持ち、防波堤を上がっていく男性と別れた。


 更衣室は売店のさらに奥に位置し、シャワールームとは別になっている。私たちはゴミを捨てた後、そのまま更衣室の中へと向かった。更衣室の中には四連のロッカーと、カーテンに区切られた個室が数個並んでいる。ロッカーの前にはすのこが置かれ、足が汚れない配慮までされている。私たちは偶然空いていた個室の中へ揃って入り、桃色のカーテンをシャッと閉めた。そしてエコバッグ内の服を取り出し、備え付けの小さな棚に置く。


 脱いだしょっぱい服は足元のカゴの中に入れ、柔軟剤の香る服に腕を通す。着替えたことで、今年の海が終わってしまったことを痛感する。明日も来ることはできるけれど、私はきっとその選択をしない。願った望みを二回も叶えるほど、私に時間的余裕はなかった。


 本日二度目の服装は、レモン色のノースリーブカットソーにジーンズの短パン。少女の服装は桜色のノースリーブワンピースで、スカートの裾は脛の半分ほどを隠している。いずれも麦わら帽子とよく似合い、意図せずリボンと同じ色の服になっていた。私たちは足についた砂を払い落とし、靴の中に押し込んだ靴下を履いた。

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