黒塗という名のバケモノ
今よりも夜が暗かった時代。
今よりも闇が深かった時代。
日ノ本の国に一匹の妖怪が産まれた。
「黒塗」と名付けられたその妖怪は他に類を見ないほど強力な妖力を持っていた。
ある時、近隣の妖怪たちを束ねる「頭」が黒塗の元を訪れこう言った。
「俺の群れの傘下に入れ、そうすれば腹心にしてやろう」
黒塗はそれに承諾し、妖怪たちの群れの2番手となった。
勢力の拡大に喜んだ「頭」は自らの拠点である御山で大層な宴を開いた。
「そのうち俺達は朝廷の術師達にも引けを取らぬ勢力となろう、お前も俺の元で存分にその力を振るうがよい」
豪勢な酒と魚、そして肉を食べた黒塗はこう返した。
「飽きたからもういい」
雷撃を操る強力な鬼であった「頭」は黒塗に食われて死んだ。
配下の者達は驚きはしたが黒塗に逆らおうとは思わなかった。
群れの「頭」は最も強き妖怪が成るべきである。
妖怪の世界では当然のことだからだ。
首を垂れる配下たちに対して、黒塗はこう下知した。
「もういいって」
山に集まっていた配下の妖怪数百匹も黒塗に食われて消えた。
これにより近隣の勢力図が激変する。
妖怪たちが消え空白となった地域に、別の群れの妖怪たちが侵攻をかけてきたのだ。
だが別の群れの妖怪達もすべて消えた。
これを何度か繰り返した段階になって、妖怪たちはようやく気付いた。
「あの地域には、触れてはならぬ妖の王が居る」
この話は妖怪達だけでなく朝廷の元にも届いた。
それほど強力な力を持つ妖の王であれば朝廷としても無視は出来ない。
帝の威信の元、討伐隊が組まれ何人もの術師や武人が送り込まれたが、当然のように帰還しなかった。
だが人間は妖怪達と違い諦めが悪い。
二桁にも及ぶ討伐隊派遣により情報を集め、各地で黒塗を疎ましく思っている妖怪達との取引を行い、幾千もの兵を犠牲にしてようやく。
ようやく黒塗を追い詰める事に成功する。
地に縫い付けられた黒塗はこう言った。
「凄い凄い、こんなに苦しんだのは初めて」
「けど」
「けど殺せないよ」
「私の事は殺せない」
「確かに貴方たちの結界は私をこの地に縫い留めたけれど」
「殺すには全然足りないの」
「ク、クケケ、どうするの?」
これに対して術師の長はこう返した。
「殺す必要はありません」
「このまま結界ごと地中深くに埋めます」
「貴女はもう誰も食うことは出来ない」
「誰の心も乱すことは出来ない」
「永遠に闇の中で」
「生き続けてください」
黒塗を封じた結界は特殊な物であった。
中からは決して破ることは出来ない。
その分、外からは簡単に破ることができる。
もし黒塗に仲間がいたのであれば、即座に救い出すことができただろう。
だが黒塗には仲間はいない。
輩はいない。
全て食らってしまったから。
「いいの?殺さなくても」
「生きていれば私はいずれここから」
「這い出るよ」
「這い出てまずお前を」
「お前の家族を」
「お前の子孫を」
「食べてあげる」
「内臓を引き裂いて、生きたまま食べてあげる」
「私は死なないよ」
「永遠に死なない」
「だから」
「だからこれは決まっていること」
「クケケケ」
「私は決して忘れないよ」
「お前の顔を」
「お前の声を」
「お前への恨みを」
黒塗を封じ込めた結界が地の底に沈んでいく。
その様子を見ながら、術師の長は諭すように。
「私の家族は」
「私の子供は」
「もう貴女が食べてしまったではないですか」
「私もこのあと死にます」
「私の血族も、もう誰も残ってはいません」
「だからあなたが永遠に生き続けようと」
「私と会うことはもうありませんよ」
「さようなら」
「さようなら」
そう呟く。
それを最後に、結界は完全に埋まり。
黒塗の視界は暗闇に覆われた。
「私は死なないよ」
「私は死なないの」
「例え数千年の時を経たとしても」
「私は死なない」
「いつか」
「いつか必ず」
「もう一度地上に」
「地上に出て」
「ク、クケケ」
事実、黒塗は死ななかった。
喰う物も飲む物も無い状態で生き続けた。
十年が過ぎた。
黒塗の周りはまだ暗闇に覆われたままだ。
百年が過ぎた。
幾つかの振動を感じ取った。
恐らく地上で天変地異が発生したのだろう。
人間が数万人ほど死んだのかもしれない。
黒塗を封じ込める結界に揺るぎはなかったが。
それでも地上の人間が苦しんでいると思うと少しなりとも気が晴れる。
「そうだよね、人は死ぬものだから」
「私を封じたあの術者も、死ぬと言っていたよね」
「クケケ」
「人間達は死んでも次々と生まれてくるけど」
「記憶の継承はできない」
「私の事を忘れてしまった人間達が」
「知らずに私を掘り返すこともあるかもしれない」
「私はのんびりそれを」
「待てばいいだけ」
「クケケケケ」
千年が過ぎ。
黒塗の望む機会が訪れた。
数年前から続いていた地震がとうとう地面に亀裂を発生させたのだ。
黒塗の元に、久方ぶりの感覚が届いた。
空気だ。
空気の匂いだ。
恐らく亀裂は地表から地中の奥深く、結界が埋まる深部にまで達しているのだろう。
無論、それだけで結界は微動だにしない。
だが。
「地上の人間が」
「私の事を忘れているのなら」
「きっとこの亀裂を調べに来るはず」
「朝廷の人間か、地方の豪族か、近隣の村人か」
「盗賊だってかまわない」
「誰かがここに来るのであれば」
「クケケケケ」
「私はそいつと取引できる」
「契約できる」
「そうすればあとは」
「とてもかんたん」
黒塗は待った。
千年以上待ったのだ、数日待つことなど容易い。
その甲斐あって、黒塗の前に1人の来訪者が現れた。
ドチャリ。
現れたというか、結界の目の前まで落下してきた。
地上から亀裂を通ってここまで落ちてきたのだろうか。
その人物は結界の前に倒れ伏したまま、びくりと動かない。
その身体の周りに、血だまりが広がっていく。
地上からこの地中まで落ちてきたのだとしたら、かなりの怪我を負っているのだろう。
小柄で髪が長い、恐らく女か。
年齢は判らない。
見かけない衣装を着ているが、その材質は上等なようだ。
両家の家の娘なのかもしれない。
問題は。
「ねえ、生きてる?」
黒塗が声を掛けると女はびくりと動いた。
幸い死んではいないようだ。
だがこの傷では長くは生きられないだろう。
黒塗は舌なめずりをした。
これならば契約を交わすのは容易いだろう。
「貴女、このままだと死んじゃうよ」
「その命、助けてあげようか?」
黒塗の妖力であれば他者の傷を癒すことなど容易い。
そして、簡単な契約さえ結ぶことが出来れば。
黒塗は外に出る事が出来る。
再び地上に戻ることができる。
(どんな人間なのかは興味ない)
(知る必要もない)
(さあ)
(言え)
(助けてほしいと)
期待する黒塗に対して帰ってきた言葉はこうだった。
「いりません」
声の質からして予想よりも若いようだ。
恐らく10代前半。
消え入るような声だった。
末後のような声だった。
いつ息絶えてしまっても不思議ではないのだろう。
内心歯噛みしながら黒塗は思考を続ける。
地上に居た頃であれば人間達に何かを要求するのは簡単だった。
「従わなければ殺すよ」と言えばいいだけだ。
少し実演してやれば皆が黒塗に従った。
だが今は。
今は違う。
結界に封じられた黒塗には何もできないのだ。
出来る事と言えば声を掛ける事だけ。
相手が契約を結ぶ意思を持たなければ何もできない。
慎重に立ち回らなくてはならない。
言葉を選び相手に契約の意志を持たせなければならない。
千年以上待ったのだ。
この機会を逃すわけには行かない。
黒塗は更に言葉をつづけた。
「助けるだけじゃなくて地上まで連れて行ってあげるよ?」
「いりません」
「地上で豪勢な食事を食べさせてあげるよ?」
「いりません」
「この国の指導者にしてあげる事だってできるよ?」
「いりません」
「男も女もみんなが跪くんだよ?」
「いりませ、ん」
埒が明かない。
時間的猶予があるのであれば問答を続けてもいいが。
如何せん、この少女は死にかけているのだ。
時間をかけるわけには行かない。
黒塗は慎重に彼女を観察した。
落下した時に負った傷から血が流れ出ている。
その中に、異物を見つけた。
刃物だ。
刃物が彼女の脇腹に深く刺さっている。
落下時に事故で刺さったのか?
いや、違う。
この傷には悪意が感じられる。
「相手を傷つけよう」という意志が感じられるのだ。
つまり。
「刺されたんだ」
「……はい」
的中。
こちらの提案を全てを否定するのは少女の心が絶望に染まっているからか。
ならば話を持っていく方向は決まった。
「刺されて落とされたんだ」
「……はい」
「わざとだよね」
「……はい」
「知ってる人からやられたの?」
「……はい」
クケケケ。
思わず笑みが漏れる。
こういうのは得意だ。
どんなに絶望に染まっていても。
例え死に欠けであろうとも。
きっと彼女は、この言葉を無視できない。
「痛いよね?」
「……はい」
「辛かったよね?」
「……はい」
「復讐、手伝ってあげようか?」
「いりません」
……。
……。
……。
あれえ?
「ああ、勿論直接手を下すのは君がやってくれていいよ?その方が気が晴れるよね?」
「いりません」
……。
……。
……。
おかしいな、何か思ってたのと違う。
この人、何で死にかけてるのに何も望まないの?
殺されかけたのに復讐を望まないの?
「ひょっとして何か病を患ってて先が長くないとか?それなら治してあげれるけど」
「身体は健康でした」
カハっと彼女は血を吐いた。
現在進行形で彼女は死につつある。
黒塗は焦った。
(何を言えばいいの?)
(何を言えば彼女は受け入れてくれるの?)
(何を)
(何を)
彼女の呼吸が少しずつ弱くなっていく。
何度も見てきた。
死にゆく人間の姿は何度も見てきた。
だから黒塗には判る。
彼女はあと数十秒で死ぬ。
(何か)
(何か言わないと)
(とりあえず延命させないと)
(そもそもこの少女は刺されて落とされたんだ)
(つまりそれは人間の悪意が介入しているという事)
(悪意ある人間が誰かを殺した証拠を隠滅しようとするなら)
(この亀裂は埋められてしまうかもしれないよね)
(そうなれば)
(そうなれば)
(また私は)
(また私はあの暗闇の中で)
(待たないといけない)
(そんなのは嫌だ)
(いつまでも待ち続けるのは嫌だ)
(けど)
(けどなにも)
黒塗は咄嗟に何かを口に出そうとした。
けれど思考は言葉にならない。
何の理屈も編み出すことは出来ない。
だからその時出た言葉は。
「ひ……」
思考により生まれた言葉ではなく。
感情から生まれた言葉だった。
「ひとりに、しないで」
その言葉に、彼女は反応した。
死にかけの状態で、それでも身体を起こそうとする。
こちらに視線を送ろうとする。
「あなたも、ひとりなの?」
「……そ、う」
「それ、な、ら」
「……それなら」
彼女はそっと、死にかけた手を伸ばす。
黒塗の方に。
黒塗は歓喜した。
(やった)
(やった)
(心を掴んだ)
(例えそれが哀れみによる同情だったとしても)
(構わない)
(ここから出れるのならそれでも構わない)
(クケケケ)
(本当はここから出さえすれば契約を無理矢理破って)
(殺してやっても良かったんだけど)
(それはやめておいてあげるよ)
(さあ)
(さあ、言え)
(望みを言って、契約を結べ)
(時間が無いんだ)
(それがどんな願いでも)
(絶対にかなえてあげるから)
彼女の手は、もう黒塗に届く。
黒塗も、結界の中から手を伸ばした。
二人の手が触れるその時。
彼女は願いを言った。
「それなら、私が一緒に、死んであげるね」
「……え?」
黒塗は結んでしまった。
その契約を、結んでしまったのだ。