彼が恋に落ちた瞬間
侍女が呼びにきたので、セドリック様をお兄様の部屋に案内するように言って、私は急いでキッチンに戻った。
少し心臓の鼓動が速い。ここに来るのに速足になったからだろうか。いや、そうではない。
薬缶を火にかけながら、意識的に呼吸をゆっくりにした。
落ち着いて、と自分で自分に言い聞かせる。
何故だか私は動揺しているらしい。
初めて見るセドリック様の表情が何度も脳内で再生された。赤面したあと照れたようにうつむく横顔はいつもの大人びたセドリック様ではなく、年相応の十代の青年のそれだった。
「痛っ」
鋭い痛みを感じてその部分を見ると、ケトルからポットに移そうとして、こぼれた熱湯が手に当たってしまっていた。
慌ててボウルに水を張って手を浸す。少し水ぶくれになってしまっている。
……何をやっているんだろう。
なんだか自分が無性に情けなくなって、長いため息を吐いてしまう。
大体、痛いではなく熱いだ。私は自分に起こっていることすら正しく認識できないのか。いつもそうだ。いつも私は自分の感情に鈍い。
自分より五つも歳下のデイジーは、自分の状態や望みを常に熟知していて、迷いなくそれを人に伝える術を持っているというのに。
その自分とはまるで違う性質に感心はしても、羨んだことなど今まで一度もなかったはずなのに、今は彼女が羨ましいと思ってしまった。
少しわがままだけど天真爛漫なデイジーと、いつも穏やかに微笑んでいるセドリック様は、きっとお似合いのふたりになるだろう。
セドリック様が、ひと目見た瞬間にデイジーに惹かれているのも、無理はない。
頭では冷静にそう考えているつもりなのに、もやもやしたものが胸につかえている。
これは、じんじんと痛む手のせいだろうか。
そう思ってそっと手を握りしめても、痛みは消えるどころか強くなるばかりだった。
手ではなく別の場所が痛むせいだと薄々わかっていながら、私はそれに気づかないふりをした。
デイジーとその友人達、そしてセドリック様とお兄様にお菓子とお茶を出し終えても、いつものように植物園の様子を見に行く気になれず、しばらく自室に戻ってぼうっとしていた。
侍女がセドリック様のお帰りを告げに来るまでそうしていたので、結構な時間が経過してしまったらしい。
エントランスホールまで見送りに出ると、既に外套を着て準備を終えたセドリック様と、見送りのお母様とお兄様が立っていた。
三人で談笑をしている。
「すっかり長居をしてしまいました。ここは、とても居心地の良い屋敷ですね。住んでいる方の人柄が出ているようだ」
「まあ、そんな。何のお構いもできませんで、申し訳ありませんわ。古いだけが取り柄みたいな家ですけれど、良かったら懲りずにまたいらっしゃってね」
「ぜひそうさせていただきたいです」
そう言いながらこちらに目をとめて、笑いかけてくれる。それからふとその笑顔をくもらせた。
「手をどうかした? さっきお茶を出してくれた時も、少し庇っていただろう」
つくづく気がつく人だ。
あの後水で冷やして、薬草から作った軟膏を手に塗って布で巻いていた。もう痛みは無い。
患部は手首に近い場所だし、いつもの作業用ワンピースの上から袖の長い上着を羽織っているので、普通なら気づかないはずなのに。
「ちょっと、お湯が跳ねてしまって。大したことはありません」
「大丈夫なのか。火傷なら、よく冷やさないと」
「もう冷やしました」
「そうそう、この子ったら、小さい頃から土いじりばかりでしょう。植物によくかぶれたり、細かな切り傷も絶えませんのよ。おかげでその辺の使用人と比べても、負けないくらい手の皮は厚いんですわ」
つっけんどんな私の返答を、お母様がフォローしてくれる。肯定するように私も頷いた。この程度で心配をかけてしまっては申し訳ない。
「お茶とお菓子を、ごちそうさま。君のお手製だと聞いて、驚いたよ。とても美味しかった」
「この子の数少ない特技ですわ。またいらっしゃってください。いつでもご馳走いたしますわ」
「嬉しいです。でも、彼女は忙しいんだから、まず自分のことを優先してもらいたいな」
「あら、お茶を淹れるのは、この子の趣味なんですのよ。気分転換に丁度いいんですって。ねえ、ローズ」
お母様に言われて頷いた。お世辞かもしれないが、自分の作ったものを褒めてもらって、信じられないぐらい嬉しかった。
「あの、もし良かったら、またお淹れします」
「うん。ありがとう。……迷惑じゃなかったら、また来た時にでも」
また来るというのは、社交辞令ではない気がした。
その予想を裏付けるように、セドリック様は私の背後に何かを見つけると「ちょっと失礼」と言ってそちらへ行ってしまう。
振り返ると、予想通り、見送りに現れたデイジーと、そちらへ向かっていくセドリック様がいた。
——こうやって見ると、本当にお似合いだな。
デイジーはまだ少し幼いが、あと三年もすれば、十五歳になる。その頃にはセドリック様は二十一歳になるから、丁度良い感じの年の差だろう。
楽しげに何か話している。少し離れているので会話の内容は聞こえないが、身長差があるので、セドリック様が少し身を屈めて顔を寄せるようにしていた。
私とも何度か同じ温室で過ごすことはあったが、あんな風に見つめ合って話したことはない。そもそも、ちゃんとした会話を交わした事すらあまりないのだ。
あまりに歴然とした差を見せつけられて、わかっていたことなのに、また胸がもやもやとする。ひいていた痛みが戻ってきたような気がして、思わず上着の上から手を握りしめた。
ほどなくしてセドリック様はこちらに戻って来た。
少し照れているように見えるのは、気のせいだろうか。
「じゃあ、これで。ルイス、……ローズ。また学園で。良いお年を」
軽く発せられた挨拶だったが、名前を呼ばれたのは初めてで、それだけで心臓が跳ねた。馬鹿らしいとは思いながらも、勝手に反応する身体を止めることはできない。
せめて表情に出ない体質で良かったと思った。
翌日の朝食の時間、デイジーはずっとセドリック様の話をしていた。
「もう、兄様ったら、あんなに素敵なお友達がいるのに、どうしてもっと早く紹介してくれなかったの?」
「そうよ。昨日だってデイジーのお茶会がなかったら、もっとちゃんとしたおもてなしができたのに。夕食も食べていってもらいたかったわ」
「そうは言っても、急に決まったことだったからな」
「あれだけの方だから、当然恋人はいるんでしょう? どんな家の方かしら」
「そういう話は聞かないがな……少なくとも、婚約はしてないんじゃないか」
デイジーとお母様がきゃあーと歓声を上げた。さっきからふたりに質問攻めにあっているルイスお兄様も、何となく疲れた顔になってきている。
私は三人の会話を聞くともなく聞きながら、自分でブレンドして淹れたお茶を飲んでいた。少し苦かったかもしれない。
「そうね、セドリック様に釣り合う方なんて、そうそういないわよね。変な人と婚約しても、彼がかわいそうだし。ねえ、あたしなんてどうかしら?」
「……五年早いだろ」
「あら、いいじゃない。王族だって婚約だけならデイジーよりうんと若い歳にするんだから」
お母様も乗り気のようだった。
「そうよね。ねえ、兄様、セドリック様、またうちに来るかしら」
「来るだろ。ローズのお茶も気に入ってたみたいだし。……あいつ、何なんだろうな。ローズのことになると、やたら口うるさいんだよ。馬鹿にするなだの、こき使うなだの」
お兄様がそんな事を言うので、少しどきりとしてしまう。
「まあ、お優しいのね」
「姉様みたいな人って学園にもそういないだろうから、珍しいのじゃないかしら」
「……そうね」
デイジーの言葉に納得してしまう。そうか、珍しがられていたのか、私は。
「セドリック様も、結構残酷なのね。そうやって誰にでも優しくするから、勘違いする女性もたくさんいるんじゃない? お姉様はそんな事ないわよね。なんと言っても、人間に興味がないんですもの」
くすくすと笑うデイジーに返事をすることが難しい。
「……植物達の様子を見てくるわ」
食事も早々に立ち上がって、逃げるように食堂を後にした。
年が明けて少したった頃、セドリック様のランバート伯爵家から使いの者が来て、先日の謝礼だという贈り物を届けてくれた。
デイジーには美しい手鏡を。私には、貝殻を容器にした軟膏を。
手荒れにも火傷にも効くのだという。
「うちに薬を贈るなんて、おかしいわね。ここの薬草園の規模と、薬師の腕をご存じないのかしら」
デイジーはそう言って笑っていたが、私は嬉しかった。些細なことだったのに覚えていてくれたのだ。
私はそっと貝殻を握りしめた。