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バラとひなぎく  作者: 田仲絵筆
ローズ
3/37

ここに来る理由は

 鐘の音が聞こえる。


「ああ、午後のチャイムだ。もう行かないと」

 セドリック様は呟くと、読んでいた本をぱたりと閉じた。


 ここはいつもの学園の温室だ。

 それなのに、何故かセドリック様がいる。

 薄暗い温室のわずかに日が射す一角に図書スペースがある。調べ物や書き物をするための文献と机だけの、ささやかな空間だ。

 そこの書斎机でくつろぐ彼の姿は、もう見慣れてしまった光景だった。



 セドリック様が再びこの温室を訪ねて来たのは、あれからいくらもたたない午後の休憩の時間帯だった。

 ひとりでこの温室に現れたのだ。表情には出ないが驚いている私に、少しだけここに居させてほしいと言うと、椅子に座って、静かに眼を閉じていた。


 知らない人とふたりきりでいる経験などない私は、まったく落ち着かない。一刻も早く出ていってくれないだろうか、そうでなければあの兄でもいいからここに来てくれないかなんて思ってしまったものだった。


 いったい全体なんでこんな辺鄙な場所に学園の人気者がやって来るんだ。ここにある植物は実用一辺倒で、美しく花を咲かせる種などほとんど無いので、生徒は基本的に寄り付かない。

 花を愛でたい者は中庭に行く。庭園の中心にはこの学園の名所のひとつでもある薔薇園があって、ちゃんと専属の庭師も付いている。

 今なら晩秋の薔薇が、さぞ風情たっぷりに咲いているだろう。

 この人もそちらの方がうんと似合うのに。


 私の内心など知らぬ顔で、セドリック様は椅子に腰掛けたまま、目をつぶってしばらくじっとしていた。

 最初こそ動転してしまった私だが、セドリック様が特にこっちに話しかけてきたり温室内をうろうろしたりしないと分かるとほっとして、再び作業に没頭することができた。始業のチャイムが鳴るまでそうやっていた。


 予鈴がなっても動く様子がないので、おそるおそる様子を見に行ってみると、かすかに寝息を立てていた。

 普段は私や、私よりも小柄な老教師が使っている椅子は、セドリック様には少し窮屈そうだ。

 長い足を持て余すように伸ばして、机に頬杖をついている。よくこんな体勢で眠れるな。


「……セドリック様」

 小さく呼んでみても目を開ける気配がないので、仕方なく肩を叩いてみた。最初はそっと触るように。次は思い切って揺さぶるように。


「わっ」

 びくりとセドリック様が身体を揺らしながら起きたので、椅子ががたんと鳴った。同時に私も少し飛び退いた。


「あ、俺、……私は、眠ってしまっていたのか」

 掠れた声で少し驚いたように周りを見渡すセドリック様は、いつもと少し雰囲気が違って見える。思い切り素が出ている感じだ。


「申し訳ない。ほんの少し休ませてもらうだけのつもりだったのに。すっかり迷惑をかけてしまったようだ」

 別にずっと放置していただけなので、特に迷惑をかけられてはいない。そう言うとセドリック様が少し照れたように笑った。


「最近、少し多忙で。不思議なことに昼間忙しいと夜寝られなくなるんだ。そんな時にここを思い出して、また来たくなった。ここはとても懐かしいにおいがするんだ」

「懐かしい?」

 お兄様が臭いと言ったこの温室の匂いがですか? と詰め寄ろうかと思ったけど流石にやめた。失礼なのは兄であってセドリック様ではない。


「うん。私が生まれ育ったランバート領は、大部分が森という田舎で、収入のかなりの割合を林業でまかなっているんだ」

 もちろんランバート領のことは知っている。この国でも有数の良質な樹々を抱える森林があることで有名だ。

 広大なブナやオークの林の樹木はさまざまな用途に加工され、建材、家具、香り付けの樽、どれに使っても一級品とされる。


 セドリック様が言うには、幼い頃自分の庭のように遊んだ森とこの温室とは、同じ匂いがするらしい。

 ここで発酵させている腐葉土は、柏や楢の葉が多い。そのせいもあるのだろう。

 今は学園寄宿舎で暮らしているが、王都は良くも悪くも都会的なため、どこにも森の匂いがしなくなった。それを自分でも気づかないうちに、さびしく感じていたらしい。

 それがここに来た時、とても懐かしい感じがしたという。


「それにここはとても静かだろう。それが好ましくて。賑やかなのも嫌いではないが、人の中にいると、たまに少し疲れるんだ、田舎出身だから」

 おどけたように自虐してみせたが、いつも人に囲まれているイメージのセドリック様にまさかそんな悩みがあるとは思わなかった。人気者も案外大変らしいと普段あまり考えが至らないところに気がつく。


「だからきっと、すっかり気が緩んでしまったみたいだ。すぐに退出しようと思っていたんだが」


 私はその時、丹精込めて世話をしているこの温室を好ましいと言われて、すっかり気を良くしていたのだ。だから、普段なら絶対に言わないだろう言葉を言ってしまった。

「よければ、いつでもいらしてください」

 思い返してみても魔が差したとしか言いようがない。この私が、他人を誘うなんて、初めてのことだった。


「作業の邪魔になったりしない?」

「別にここは私の私室ではないので」

 私には何の権限もない。植物の世話をしていると落ち着くので、居させてもらっているだけだ。本当は、誰もがここへ来る権利がある。


 私はいつも言葉が足りないので、お兄様がここにいたらきっと叱られたに違いない。

 でもセドリック様は気を悪くしたふうでもなく、嬉しそうに笑ったのだ。


「じゃあ、そうさせてもらう。ありがとう」

 嬉しそうにセドリック様の笑顔が笑う。眩しくてやっぱり私は直視できずに、斜め下に視線をずらした。


 それでもその時は、社交辞令だと思っていたのだ。まさか3日と空けずここを訪れるようになるとは思わなかった。



 来ても何をするわけでもなく、ふらりとやって来て本を読んだり、まどろんだりして、また出て行く。

 たまに先生と鉢合わせして、専門的な話をすることもあった。

 そんなことが続くうちに、私も慣れて、不意の来客が気にならなくなった。人の気配を心地良いとさえ感じるようになったのは、自分にとっても驚きだった。


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