もう1人
その後たいした話も出来ないまま、あっという間に自宅付近までやってきた。
「あ、あの、広瀬君……うんうん、何でもない。また明日」
「えっと……朝、ちゃんと迎えに行くから待ってて」
「うんっ!」
車から降りようとしたところで高崎さんの声で振り返る。
何か言いたそうな彼女だったが、ぐぐっと言葉を飲み込んだ。
俺の態度や言葉のニュアンスに不安な様子が出てしまっていたかなと思いながらも、富田さんに頷く形で挨拶して2人を見送った。
家まではわずかな距離だが、その間もスマホでモールのイベントスペースを調べて当日の自分を思い浮かべる。
(うーん……)
頭を捻り素早く駒形さんにメッセージを打ち玄関を開けた。
すでにいい匂いが漂っている。香織の靴もあった。
どうやら陽菜が夕食の準備を始めているらしい。
「あっ、お兄ちゃんおかえり」
「おお、ただいま……んっ?」
陽菜は台所で、香織はといえばソファ机にクロッキー帳を広げ何やら作業をしている。
「……おいおい、まだ無理するなよ。痛くない、のか?」
「……」
「そのくらいなら痛みもないみたい。凄い集中力でしょ。ほら原作ラノベ読んで、自分が手も怪我しちゃったからさ、あすみにこれでもかって感情移入しちゃったみたい」
「ああ……」
香織の表情は真剣そのもので、俺の帰宅すら気づかない様子。
だからか、陽菜が代わりに答えてくれる。
「さっき二人でアニメも見てたし、そうなるの無理ないよね。悩んだり不安に思っているほど、あすみの台詞、行動、仕草、そして2人の関係性は突き刺さるし、心動かされちゃうからさ。おお、陽菜大変いいこと言ってる」
「……今や陽菜も完璧なりそヒロファンだな」
香織が包帯の巻かれた右手で描いている様子をそっと覗きこむと、そのイラストはどれもあすみで、それはクロッキー帳にぎっしりと埋め尽くされていた。
影響を受け、心動かされたというのはそれを見れば明らかだ。
元からりそヒロのアニメを見て好きだったはずだけど、今の様子は心底ハマっているようにも感じる。
やっぱり推し作品を大好きになってくれると嬉しいな。
「当たり前じゃん。私もう、2人のファンでもあるしね。ほら、お兄ちゃんこっち手伝ってよ」
「お、おう……」
エプロンを付け陽菜と夕食作りをしているときも、時々香織の様子を見ながら考えを巡らせていた。
だからよそ見も多かったのか危うく指を切りそうになり、陽菜に集中してないと小言を吐かれる始末だ。
そんな時に駒形さんから電話がかかってきた。
「あとは私がやっておくから。出ていいよ」
「お、おう」
台所から離れ、階段付近で電話を受ける。
『メッセージ見たわよ。嫉妬のヒロインのことへの考えも同意見。なにか仕掛けてきそうね。私は来週のイベント後は直帰出来ることになってる。つまり広瀬に協力できるわ』
「よかった。ありがとう」
『や、安っぽいお礼はいいわよ。それより、あなたのことだからもうモール内の位置図は頭に入ってるわね?』
「う、うん……俺も富田さんも万が一を考えて高崎さんの傍を離れない方がいいと思う」
『そうね。私もいま見てるけど……たぶん、ステージ袖が2人の立ち位置かしら。そうなると背後が完全な死角になるわね。加えて、イベントを成功させるのは大前提、そのために広瀬は神崎さんの様子を逐一確認する必要がある。マネージャーのお仕事を疎かに出来ないもんね。となると、真正面に見える不審な動きに注意するくらいがせいぜい、なんじゃない?』
「……だと思う」
『……私の言いたいことわかるでしょ?』
(そうなんだ。どう考えても……)
「3人だけの視野じゃ、ステージを見てる人全員を把握するのは無理」
『ええ。たとえ左利きってことがわかっていたとしても、一人一人見分けるのは時間がかかるし、モールってことは人の入れ替わりも激しいでしょ』
「……」
『それに広瀬はあの先輩たちの気づきからも、敵意や悪意に満ちた視線をなんとなく感じる力はあると思うけど、そういう感覚に優れてる人じゃないと大勢の中からその1人を見つけるのは……って言わなくてもわかってるわね』
「うん、駒形さんはその点安心して任せられる」
『っ! ほ、褒めたってなにも出ないわよ。ああもう、なに言おうとしたのか忘れちゃったじゃない……そ、そうだ。力を貸してくれそうで、そういう感覚に優れてる人が最低でももう1人必要ねってことよ』
「そうなんだよね、ちょっと考えてみるよ。ありがとう」
『……そ、それじゃあ私はお風呂に入るから。何か気づいたことあったらいつでも連絡しなさいね。こっちも当日のシミュレーションはしておくわ』
「っ! お、おう」
大きく息を吐いて電話を切る。
台所に戻ると、すでにテーブルには料理が並んでいて香織もその匂いを嗅ぎつけたのか、いつの間にか椅子に腰かけていた。
「じゃあ、いただきましょう」
陽菜がパシャリと画像に収め、食事が始まる。
俺はといえば頭の中では高崎さんの心配と不安で、口数は減り黙々とカレーを掬い口へと運んでいた。
ぶつくさと何かつぶやいてしまっていたかもしれない。
その間も陽菜と香織が最近食べすぎかなあと話している声は何となく耳に届いていた。
「もう、ほんとりそヒロ面白いね。あすみを応援したくなる。困難を乗り越えてそれまで以上のイラストを完成させるところなんてほんと涙が出ちゃうよね」
「……だろ! あそこアニメも凄いんだよ」
「うん。しゅう君に対して素直になれない気持ちとかもわかるし……」
考えを巡らせていたが、りそヒロの話題とあれば思わず声を上げてしまっていた。
「そうなんだよ。あの何とも言えないじれったさもたまんないんだよな」
「そうそう。アニメだとあすみの声優さんの声がまたすごくマッチしてて、これでもかって訴えかけられちゃって……」
「ふふーん。神崎結奈さんは生で見てもほんと凄かったからね」
「えっ……陽菜ちゃん、神崎さんも直接見たことあるの?」
「あっ……う、うん。ほら駒形さんと知り合った時に……」
「いいなあ。声優さんは詳しくないけど、神崎さんは私も生で見たいし、会いたかった」
「そ、それは、お兄ちゃんに言えば簡単じゃないかな……」
「えっ、なんで……? むっ、何か私だけ事情が分かってないのかな?」
俺が高崎さんのことを周りに話していないことを察していたはずの陽菜だったが、この時ばかりは語りたい欲に逆らえなかったらしい。
その気持ちは痛いほどわかるし、いつまでも隠して置けることでもないからな。
香織は陽菜と俺を交互に見やってくる。
「あ、あのなあ香織……」
「もう、なにその顔? なにかあるの、私にはなんかいいにくい話?」
「……そういうわけじゃないんだが。ちょっと長いぞ」
「うん……」
小首を傾げている香織に、高崎さんが実は……ということと神崎結奈のマネージャーをしていることを伝える。
話すにはいい機会かなと思った。
ここ最近の香織とのやり取りがあったからこそ、そう思ったのかもしれない。
「……だいたいそんな感じだ」
「ちょ、ちょっと待って。高崎さんってこの前自己紹介してくれた子?!」
「そうだよ」
「あ、あの子があすみ役の神崎結奈さん……」
香織はしばらく呆けていた。
無理もないかもしれない。
影響をもろに受けているキャラを演じている本人が物凄く身近にいることを知らされたんだ。
俺ほどではないにしろ衝撃だろう。
目を見開き瞬きをしていた彼女だが、次第に頬が赤みを帯びてきたかと思ったら、1人で納得し始める。
「だから潤はあんなに仲良く……うんうん、絶対それだけじゃないよね……あの子のマネージャーまでしてるんだもんね……」
「あの香織さん……?」
「おっと、ごめん。それで神崎さん、なんかあったの? さっきまで心ここにあらずって顔だったけど……」
「えっ、それは……」
「私でよければ話聞くし、手伝えることなら手伝うよ」
「頼りなよ、お兄ちゃん。少なくとも私たちに話をすれば少しは気もまぎれるし。来週がどうとかってさっきぶつぶつ言ってたじゃん。まあ、陽菜は来週だと部活で手伝えないけど……」
「いや、だけどなあ……香織はまだコンテスト用の絵、仕上がってないだろう。負担を掛けるのは……」
「もう心配性だなあ。平気だよ。手伝うことで何か気づくこともあるかもしれないでしょ」
「それはまあ、でも……俺は香織の悩みも解決出来てないのに……」
「それも心配ないよ。ほらほら、話してみなよ」
「……」
香織はどこか安心感のある笑顔を向けた。
それはこっちの躊躇いや不安を察しての態度。小さいころからよく目にしていたものだ。
そうだった。俺にもことあるごとに世話を焼いてくれていたことを思い出す。
昨日と違って、少し吹っ切れた顔している彼女なら……。
まてよ、そういえば香織もあの先輩たちのことに気づいてたな。
自分が上手く立ち回れなかったとも言っていた。
もしかして、うってつけなのでは……そんな期待を持ってしまったこともあり……。
「実はなあ……」
俺は2人に、今の現状をゆっくりと伝えていく。
「なるほどね……そういうことなら力になれると思うよ。私、そういう感覚優れてると思うし、あはは」
「お前、それって……」
「それに、私も潤の仕事ぶりを間近で見てみたいしね。だから手伝わせてください」
「……わかった。そこまで言ってくれるなら頼らせてもらうよ」
こっちの言葉を打ち消すように、香織は自分の想いを言葉にした。
俺はその気持ちをありがたく受け取り香織に頷く。
そんな夕食の時間があり、今夜も駒形さんに改めて電話を掛ける。
寂しがっていないか確認しながらも、香織のことを報告する。
『へえ、あの子がねえ。広瀬は幼馴染だから理解してるんでしょうけど……私も能力があるのか把握しておきたいし、うん、明日テストするわ』
「て、テスト……」
駒形さんの声を聴いて思わず呟いていた。




