後悔はしたくない
高校に入ってから、休日に学校に来るのは初めてのことだった。
うちの学校は進学コースというものがある。
どうやらそのクラスは土曜日でも授業をしているらしく玄関は施錠されてはいなかった。
校庭で運動部の掛け声が木霊しているのを横目にしながら校舎へと入る。
そのまま階段を上がり教室へと向かった。
自分の机の中を覗き込むが、そこには……。
「ノートが、ない。教室じゃないとすると……あっ!」
昨日は移動教室があったことを思い出す。
そうだ。高崎さんが気合入っているのが気になって、もう一度彼女からの連絡事項を確認しようと持っていったんだ。
急いで移動教室先へと向かい座っていた席を確認する。
「よ、よかった……」
高崎さんとのノートが机の中にあり心底ほっとした。
午後の授業だったから助かった。他のクラスがそのあと使っていたらと思うとぞっとする。
今度からは忘れることがない様にしないとな。
無事に目的を果たし、駒形さんに聞きたいことがあるという趣旨のメッセージを送る。
話を聞いた以上、高崎さんの問題にもなりそうな件は出来る限ることはやっておきたい思いだ。
そのまま玄関まで向かおうとしたが、奥にある美術室から明かりが漏れているのが気になった。
休日ということもあり、文科系の部活はほとんど休みのはず。
現に教室からこっちに来るときも誰かとすれ違うこともないし、話し声もしなかった。
ゆっくりと近づいてそのドアの隙間から中を覗き込む。
奥の方にキャンバスをじっと見つめている香織が目に入った。
その手は止まっていて、何だか考え込んでいる様子でめずらしくため息をついている。
どうやら美術部員で登校しているのは香織だけのようだ。
話しかけるような雰囲気ではなかった。
なにより学校で2人きりで話すのはやはりためらいもある。
だから、そのまま後退り帰ろうと思った。
でも……。
「うわっ、上手いな」
キャンバスにかかれたその絵を目にした瞬間思わず声を上げてしまう。
「えっ……」
「……よ、よう」
「潤……ど、どうしたの?」
俺の上擦った声に香織が振り返る。その瞳はビックリしたように大きくなったいた。
そのまま帰ることも出来ないので、俺はゆっくりと香織に近づいていく。
「ちょっと忘れ物しちゃってさ」
「そ、そうなんだ……」
俺の顔をじっと見た彼女はそのままなぜか顔を伏せる。
「なあ、これって……」
「うん。なにを描こうかなと思ってたんだけど……潤と陽菜ちゃん、それから私」
キャンバスには昔住んでいた団地を背景に3人の子供が広場で遊んでいる様子が繊細なタッチで描かれていた。
「そっか……雰囲気出てるしこれ懐かしいな」
「……」
「なんだよ、浮かない顔だな。よく描けてると思うけど……」
「背景はそうかもしれない。でも人物の方はこれじゃ……」
確かにこの構図だと人物の方に自然と目が行くが、俺たち兄妹は笑顔なんだけど香織の表情は引きつったような口元で否が応でもそこが目立ってしまっていた。
「……ねえ、幼い私はいつもどんな感じだった?」
「どんなって……よく笑ってたと思う」
「……そ、そうだよね。わかってるつもりなんだけどなあ、何か今になって私……」
小さいころころから香織がこんなふうに悩んでいる姿はあまり見たことがない。
勉強も運動も苦手なことなんてないようになんでも器用にこなしてた。
だから大きくなっていくごとに俺は香織を頼りにするようになったんだ。
もしかしたら今までもこんなことがあったのかもしれない。
けど、そんな様子を俺に見せたりは一度もしていなかった。
だから心底らしくないと思ってしまう。
「……」
「……」
なんて声を掛けたらいいのか考えているとスマホが振動した。
「……出ていいよ」
「おう、悪い」
発信者を見て少し躊躇した俺を見て香織の方が促してくれる。
「……もしもし」
『どうしたのよ、何かあったの?』
「いや、ちょっと電話じゃ話しにくいことなんだ……忙しいところ悪いんだけどさ、夜にでも少し時間作ってくれないか?」
『そう、いいわよ。それじゃあ仕事が終わったら連絡するってことでいい?』
「ああ……」
『なに申し訳なさそうな声出してるのよ。広瀬には助けてもらってるんだし、話を聞くくらいたいしたことじゃないわ。あっ、やばっ、呼ばれてるから行くね』
「ありがとな、それじゃあまた」
手短な駒形さんとのやり取りだったが、香織はじっと横目で様子を見ていた感じだった。
「……」
「ちょっと駒形さんに意見を聞きたいことがあってさ」
「そ、そう……」
我ながら言い訳くさいなと感じる。
だが、少しむっとした香織の表情を見せられたのだから仕方がない。
俺がここにいると集中出来なそうだな。
「その、なんだ……邪魔したな。頑張れよ」
「うん……」
話し出せばなんてことはなく今はもうやり取りもできる。
だが俺は何とも言えない重い空気に耐えかねて、その場から遠ざかって行く。
(……いいのか、このままにして?)
頭の中ではそんな自分の声が聞こえていた。
香織が何かに悩んでいるのははっきりした。
それでも頑張ろうとしているのもわかってる。
「また上手くいかなかった……」
「……」
彼女の口から洩れた弱音にも聞こえるその言葉が俺の動きを止めた。
俺の知ってる桐生香織は明るくて、いつも笑顔でそれがすごく魅力的で、だからこそあの時……。
そうだ。告白は失敗したけど、今思えばその行動に後悔はない。
また話が出来るようになって嬉しかった。
だから失敗のあと自分の取ってしまった態度を深く反省している。
今ここで明らかに悩んでいる香織を放っておけば、俺はきっと、また……。
(二度とごめんだ。もう後悔だけはしたくない)
それに、やっぱり頑張っている姿を見せられるとどうにも放っておけなくなるし応援したくなってしまう。
それは神崎結奈を駒形ことはを助けようとしたときと同じだ。
いくつもの感情が入り混じり、自分の背中を強く押してくれる。
「な、なあ、なんか俺に出来ることがあるんなら言ってくれ」
再び香織に近づいていくと、言葉は自然と出てきた。
だが、なにをどうすれば力になれるのかは見当もついていない状態だ。
この1年くらいの香織のことを俺は知らない。
だから本人から何に悩んでいるのか聞く必要がある。
「えっ!」
「いや、絵のアドバイスはたいして出来ないけど、それでも何か手伝えるなら何でもする。ていうか、悩み事がわからないけどさ、それでも……」
「もうなにそれ……でも、なんか潤らしいね。ならさ、とりあえずもう少しそこにいてくれる?」
「えっ、ああ、もちろん。それで手助けになるんだな?」
「うん。ちょ、ちょっと考えたいから、そ、傍に居てほしいの。な、何か話すかも、しれないし」
香織は途切れ途切れの言葉と共に少しその表情を赤くしていく。
だが僅かだが笑みがこぼれた気がして、それだけでちょっと嬉しくなる。
彼女の傍に椅子を持ってきて俺はそこに腰を下ろし、香織の次の言葉を待った。




