事情
翌日土曜日、目が覚めるとすぐに神崎結奈の予定表を鞄から出す。
もう何度も見てしっかりと頭に入っているが念のための確認だった。
今日はイベントなどは入っていないので、実質オフにしてもらっているのだが……それでも頭にかかった靄は一刻も早く晴らしておきたい。
話があります。という短いメッセージを富田さんに送ったとき、鞄に中にあるはずのものがないことに気づく。
「あー、高崎さんとのノート教室の机の中に入れっぱなしだ!」
俺もノートの内容を誰かに見られたくはないし、それに何かふと書きたいと思うこともあるし、手元に置いておきたい。取りにいかないと……。
すぐにと思い慌てて準備していると、富田さんからの返事が来る。
『OK! それじゃあ……』
予想通り高崎さんが一緒にいない時を指定される。
学校に寄ってると間に合わないか。
陽菜も部活があるというので妹と一緒に俺も家を出た。
『目的地はどこなの?』
あすみナビを起動して、目的地である高崎さんが通う養成所を入力し道案内してもらう。
駅から電車に乗って、そこから徒歩で少し歩くと覚えのある風景が目に入る。
ちょうど路肩にハザードランプを点けた富田さんの車が停止していた。
時間的に高崎さんを送ってきた直後なのだろう。近づいていって車内を見るも富田さんしか乗っていない。
「おはよう、広瀬君……」
「……お、おはようございます」
特に驚いている様子もない所を見ると、メッセージを送ったのは予想外でもないらしい。
「んっ? なんか急いでるの?」
「い、いえ、学校に忘れ物をしちゃって取りに行きたいだけです」
「忘れ物か……休日に取りに行こうとするってことはよっぽど大事なものなんだね」
「うっ、誰かに見られたくないだけですよ」
「そういうたぐいの物なんだ」
「ちがっ……」
富田さんはいつもの悪戯っぽい笑顔を向ける。
この人にあまり関係のない話をするのは揶揄われるのでよくはない。
そう思いながら助手席へと乗り込む。
「ちゃんと宿題は見てくれたみたいだね」
「ええ。その上で理由を直接聞きに来たんですけど……」
「君ならそう来ると思ったよ」
「……」
助手席側のホルダーには買ってきたばかりのカップが置かれていた。
「珈琲の方が良かったかな? 随分寝不足みたいだし」
「……宿題が思うようにはかどらなくてというか、何度も見入っちゃってというか」
「それはそれは……少しドライブしましょうか」
富田さんは変わらずの笑顔だったが、声が少し緊張したような印象を受ける。
車はゆっくりと動き出し、彼女は少しの間何も言わずハンドルを握っていた。
「……」
「何か疑問に思うものは映ってませんでしたよ」
「そっか……やだなあ、そんなむっとした顔しなくても、君には事情を話すよ……ちょうど結奈ちゃんがメディアに露出し始めた頃からだったかな? 事務所に嫌がらせの電話や誹謗中傷が増えたりして来てね……」
「それって具体的にいつ頃ですか?」
「ウェブラジオ収録が行われた後くらいだった、かな」
「……じゃあ俺をマネージャーにスカウトした時にはもう」
「そうだね」
なるほどな。
富田さんが過保護みたく高崎さんを学校まで送ってたことも、聖地巡礼の時やけにタイミングよく表れた理由も彼女を心配してということか。そして、
「同校の俺なら富田さんの目の届かないところでも何かあれば対応できるって思ったんですか?」
「思わなかったとは言えないね。あの日、カフェで君と話した時、この子は神崎結奈の力になってくれるっていう確信めいたものはあったからね」
「……」
学校という狭い空間でも駒形さんを妬んだり嫉妬したりする人がいた。
アニメが放送されていて、メディアへの露出が高まれば多くの人が高崎さんを知り、見ることになる。
その中には成功している彼女に恨みを抱いたりする人も……高崎さんも例外じゃないのはわかる、わかるけど……。
手に持ったままのカフェラテを一度喉に流し込む。
少し手が震えていたのを認識した。
それを誤魔化すように外の景色に視線を向けた。
「その程度の嫌がらせや悪戯は有名人なら日常的に起こるものかもしれない。脅迫じみたものは警察にも相談もしたけど、なかなか私が期待しているような対応は望めないのが現状かな」
「……でも、なにかあってからじゃ遅いんじゃ」
「そうだね。前にも言ったけど、みんながみんな純粋に応援してくれているファンとは限らない。嫉妬や妬みを持ったり、逆恨みしたり、好きという感情が何かのきっかけで反転することだって……」
「そ、それはわかります。でも、嫌がらせなんかは一時的なものなんじゃありませんか? 富田さんは、その、なにか高崎さんの身に危害が及ぶと考えているみたいに話を聞いてると思うんですけど……」
言葉にするとそれだけでさらに震えてきてしまう。
それは起こっている現状を拒否したくての反応かもしれない。
持っているカップが揺れ、中身に波立つ。
「なんとなくだけどね、無言電話、その次には匿名での誹謗中傷、そして脅迫。段階を踏んでいるというか同一人物ならどんどんエスカレートして行っているように私は感じるんだよね」
彼女は俺にスマホの画面を見せてくれる。
そこには匿名で書かれた誹謗中傷の手紙が数枚写っていた。
「っ!……」
「そんな険しい顔してるところ悪いけど、ちょっとスライドしてみて」
「……こ、これって……」
「1つイベントが開催されるごとにどんどんファンが増えているのを実感するでしょ?」
「はい……」
「……それが今の彼女の正しい現状かな」
スライドした画像は、段ボール箱にファンレターらしきものでびっしりと埋め尽くされているものだった。
そうだよな。大多数の人は応援してくれてるんだよな。
そう思うと少しだけ気持ちが晴れる。
「批判や誹謗中傷なんてほんの少数だよ。結奈ちゃんの場合極端に少ないくらいかな。まあだからって油断せず、ちゃんと想定して動いていないといざってときに助けられないからね……」
「そうですね」
「……なんかごめんね。本当は君にも話さなくてすむならそれでいいと思ったんだよ。でも、私ひとりより信頼できる味方で、なにより結奈ちゃんの為に動ける広瀬君なら話して協力したほうが対処できるって判断したの。あのDVDは私も何度も見てる。時期的にも何か手掛かりがあるんじゃないかなって思ってね」
「……だいたいの事情は分かりました。話してくれてありがとうございます」
「何もなければそれに越したことはないけどね。こういうことは警戒してた方がちょうどいいの。そんな顔してると結奈ちゃんに心配されちゃうよ」
「うっ……」
「深刻にならなくても大丈夫。いざってとき、結奈ちゃんの安全は私たちで守ろうって話なだけだよ」
「はいっ」
心にかかってしまった靄は晴らすことが出来ず、富田さんとはドライブ後、学校近くまで送ってもらった。
俺がいつも通りじゃないと、高崎さんを不安にさせてしまう。
その上で念のため警戒しないと行けなくて、マネージャーの仕事はやらないといけない。
(なんか、ハードルが上がったな)
でも高崎さんのことなら放っておくことはできない。
それをわかっていて話すのを躊躇してたし、話してくれたとってところか。
少し足取りが重くなる。それでも自分に出来ることを考えながら、休日の学校へと俺は足を進めた。




