失敗
妹の泣いている顔を見たのは幼稚園の時以来だった。
小さいころから両親は共働きで帰りはいつも遅く、小学生になったばかりの俺が迎えに行くことも多くて、あの時は淋しさに耐えられなくて涙を流したんだ。
「あ……お、お兄ちゃんおかえり。ごはん、ちょっと遅れるかも」
「えっ、ああ……」
それでも陽菜はいつも通り振舞おうとする。
流れている涙は隠せていないけれど、必死でせき止めようとして鼓舞するみたいに立ち上がった。
その様子を見ている方が痛々しい。
「は、はやかったじゃないか……感動する映画でも見たか? アニメなら作品教えてくれないか……?」
「…………別に、なんでもないから」
だというのに俺が咄嗟にかけられる言葉は、そんな場にそぐわぬ空回りするようなものしか出なかった。
その不甲斐なさを恥じて思わず両手に力がこもる。
陽菜はそれ以上何も言わず、ソファに投げ出してあった楽器ケースをもって自分の部屋へ向かおうとする。
素の姿はみるからに弱弱しいが、それでも自分を鼓舞するように歯を食いしばっていて……
あっ、そうか。
自分の失敗に気づいて、こんなはずじゃと悔しさで唇を噛んで、現状を打破しようとしていた高崎さん。
でも、金縛りにあったように体が動かなくて言葉が出てこなくて、それでも何とかしようと、現状に抗い頑張ろうとする姿、今の陽菜はあの時の高崎さんと重なるんだ。
何があったかわからない、でもどうしても陽菜をほっておけなくて、部屋に戻ろうとする妹の手を、すれ違いざまに掴んでしまう。
「っ! ……な、なに? 手、痛いんだけど」
「えっと、その、何かあったのか?」
「……何もないって言ってるでしょ」
「けどっ!」
「うるさいな!」
「っ!」
普段もそれとなく注意されたり、邪険にされたりもしたことはある。
だけど今のは、それとは比べ物にならないほど冷たい言葉に感じられて、思わず掴んだ手を放してしまう。
妹はそれに反応してか、下を向いてぼそりと謝罪の言葉を口にする。
「……ご、ごめん」
「いや……部活で何があった?」
話せば多少楽になる、それは最近自分自身が体験したこともあって俺はあえて踏み込んで行く。
陽菜が部活のことで普段からナーバスになっていることは何となくは察していた。
今まではその部分について腫物を扱うように言葉に気を付けていたんだ。
でも、その姿が高崎さんと重なってしまった今は……もうみて見ぬふりは出来なかった。
「……」
「その、なんだ……お前のことだ、練習のし過ぎでちょっと調子崩してるだけだろ?」
「……なにそれ?」
「いや、なにそれって……思うとおりに行かないときもあるさ。たまには失敗、だって」
明らかにムッとしている陽菜の顔を見て、多少躊躇はしたがそこまでは言葉を詰まらすことはなかった。
だが、失敗という言葉を発した途端に自分の中でストップがかかる。
富田さんの高崎さんが失敗しても……そのグラついたような言葉が頭を駆け巡り、今しがた口にしてしまった自分自身の言葉に途端に後悔し始め……それは、
「そのたった1度の失敗が命取りになるんだよ!」
陽菜の言葉で間違いを犯してしまったことを確信する。
「うちの吹奏楽部は本気で全国狙ってる。コンクールメンバーになるには今度の演奏テストで失敗なんて出来ないの!」
「そ、その悪い……ただ俺は……」
失敗という言葉がぐさりと突き刺さる。
「あのさあ、お兄ちゃんは何か陽菜に意見を言える立場なの?」
「えっ……?」
「今まで本気で目標に向かって何かに取り組んだことないでしょ。だから今の陽菜の気持ちはお兄ちゃんにはわかりっこないよ」
それは冷たく鋭く尖った言葉だった。
そのままじっと睨みつけられた後、妹は、はっ! と我に返ったような顔をして、目を合わさずに自分の部屋に戻っていく。
階段をドタバタと踏みしめて上っていく音が響く。
それは完全に怒ったと言葉以外で伝えているようでもあり、あからさまに自分に腹を立てているようでもあった。
(やっちまった……)
言っちゃダメな言葉だった。
頑張っている、頑張ってきた人に失敗してもいいだなんて。
特に言われるのが俺じゃ陽菜には逆効果なのに。
俺はどこかで失敗することに対して反発してたはずなのに。
何やってんだよ!
また俺は、失敗したのか。
自分自身が情けなくて、悔しくて、いつも助けてもらっている妹が苦しんでいるだろう時に励ましてあげるどころか、よりにもよって怒らせてしまうなんて。
ちょっとばかり高崎さんへの応援が上手く行ったからっていい気に、なってたのかな?
この日の夕食は、妹と一緒には取れなかった。




