第7話 少年が見たケモノ
「くそっ、かったりいな」
武彦はどさっと道端に座り込んだ。勢い勇んで少女を追いかけ始めたはいいが、日頃の運動不足と不摂生、それに毎日の喫煙が体にたたってか、逃げる少女にまったく追い付くことなく、体力が尽き果ててバテてしまったのだ。
「後はキヨシに任せればいいか。あいつは中学のとき陸上部に入っていたから、走るのは速いからな。おれはここらで一休みさせてもらうとするか」
武彦は肩でぜいぜい息をしながら、当たり前のようにタバコをくわえた。疲れきっている肺を、さらに酷使するように一口吸う。すっかりと日が落ちた蒼い闇に向かって、ふぅーと白い煙を吐き出す。
「へへ。だけど女を狩るなんて初めてだな。シンゴのやつ、女を捕まえてから、どうするつもりなんだろうな。やべえぜ。なんだか、すげえ興奮してきた。おい、キヨシ、早くあの女を捕まえて戻ってこいよ」
武彦は自分でも知らぬうちに、イヤラしい笑みを唇に浮かべていた。
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三人で追い掛けていたはずが、気が付くと自分ひとりだけになっていた。最初に武彦が、おれはダメだ、と言って道端に座り込んでしまい、次に伸吾が、あとは任せる、と言って抜け落ちた。清も立ち止まって少し休みたかったが、少女を追い掛ける人間がいなくなってしまっては困るので、なんとか少女の背中を遠くに見ながらも走り続けた。
「くそっ。あの女、陸上でもやってんのかよ!」
清と前を行く少女との距離は、まったく縮まらなかった。十メートルほどの距離を置いて、付かず離れずで走っている。
十棟近いマンションが立ち並ぶ敷地内を走り続ける清の体力も、限界が近かった。横腹に鈍い痛みが生まれ、両膝はがくがくと震え出し、足を一歩前に踏み出すのもやっとといった状態だった。そして、とうとう清はその場に立ち止まってしまった。このまま今のペースで走り続けたら、心臓が内側から爆発しそうだった。
「……か、か、必ず……捕まえて……やるからな……」
荒い息継ぎをしながら、清は前方を行く少女に目をやった。
「……くそっ……」
思わずしゃがれた声で呻いた。
まるで清が来るのを待っているかのように、少女はその場で立ち止まったまま、清のことを見つめていたのだ。
能面のように表情がなかった少女の顔に、不意に変化が起きた。十メートル近く離れていて、なおかつ夜の暗い空間の中でも、清はその表情を読み取ることができた。
少女は口元に薄ら笑いを浮かべたのである。清のことを明らかに嘲笑したのだ。
「……くそっ、くそっ……くそっ……。狩ってやる……狩ってやる……。絶対におまえのことを、狩ってやるからな!」
清は重い足を引きずるようにして前に出すと、再び少女を追うべく走りだした。限界に近い体力の中で、歩いているのとほとんど変わらない速度で前に進む。意地で体を動かしているようなものだった。
一方、少女の方はといえば、その場でくるっと振り返ると、一番近くのマンション内へ入っていった。
清は少女が姿を消したマンションの下までなんとかたどり着くと、そこで頭上に人の気配を感じた。すっと見上げる。
そこにいた。マンションの階段の踊り場から少女が顔を出して、清を見下ろしている。
「くそっ。そこで待ってろっ!」
手にしたバッグをその場に投げ捨て、清はマンションに駆け込んだ。一階の部屋のドアからちょうど外に出てきた主婦が、疲れと怒りで歪んだ顔をして必死に走る清を見て、すぐに部屋の中に舞い戻り、バタンと勢い良くドアを閉める。
マンションの階段に、清の靴音と息遣いだけが響く。ときどき清が階段の途中で休むと、決まって上の階段の隙間から少女が冷たく見下ろしてくる。
すでに体力の限界はとっくに過ぎているが、怒りをエネルギーにしてなんとか階段を上り続ける。時間の感覚さえなくなる中、ようやく最上階――十階まで上りきった。
十階の廊下に出る。
廊下の一番先に少女は立っていた。清の姿を確認すると、背後のドアの中へさっと姿を消した。
「――バカか。屋上に逃げ場はないんだぜ」
少女の行き先を読んで、清はにたりと不敵な笑みを浮かべた。疲れはピークだったが、逃げ場のない場所ならば、あの少女を捕まえるのは容易なことだ。
清はここで気が付くべきだった。なぜ少女はマンション内に逃げたのか。そして、なぜ逃げ場のない屋上に逃げたのか。
清は廊下を走り、その先のドアを開け、屋上に降り立った。屋上は清の胸ほどの高さの金網フェンスで囲まれており、サビの浮いた給水塔が隅にポツンと一基だけ立っていた。
「隠れる場所なんて、そこしかねえだろう」
清は当然のように給水塔に向かって歩きだした。
地上十階という高さのせいか、清の体に強い風が吹き付けてくる。耳に風の音が入り込んできて、まわりの音が聞こえにくかった。
「なあ、出てこいよ。そこにいるのは分かってるんだぜ」
返事はない。
「おい。出てこいって言ってるだろうが! かくれんぼはもう終わったんだぜ!」
そのとき、清は自分の声とも風の音とも違う、別の声を耳にした。
「なんだ?」
清が耳を澄ませると、ちょうど風が止んだ。静寂が屋上を支配する。その静寂の底から、さっきの声が聞こえてきた。
喉の奥から出す低い唸り声。敵意を丸出しにした声。今にも飛び掛かってきそうな声。それはまぎれもない野性の獣の声だった。
清の瞳に不安の色がよぎった。だがすぐに、屋上に獣なんているわけがないと思い直した。
きっと風の音が獣の声のように聞こえただけさ、と思ったとき――。
違う。風は止んでいたはずだ!
清の体に言い知れぬ震えが走った。振り向いて屋上のドアに戻っていこうとした。
「――逃げるの」
背後で人の声がした。感情をすべて排除した氷のような声。
「怖いんだ」
その声はさらに続けて言った。
清は立ち止まった。ここで逃げることは簡単である。しかし、それは負けを意味していた。
くそ。くそ。くそ。くそ――。
首筋に冷たい視線が突き刺さるのを感じながら、清は心中で毒づいた。
決断は早かった。相手は女一人だ。負けるわけがない。ありったけの精神力を集中させて清は振り返った。そして、目の前の光景を見て、一瞬のうちに精神力は霧散した。振り返ったことを後悔した。
給水塔の前にあの少女が立っていた。その少女の脇に、まるで少女を守るかのようにして一匹の『獣』が従っていたのだ。
大きさは小牛ほどもあり、その背中の高さは少女の胸のあたりまであった。蒼白く輝いた毛並みに包まれた体のラインは、ドーベルマンのようでもあったが、顔つきはまったく違った。まるで角のようにぴんっととんがった耳。鋭く細長い目に、真っ赤に輝く瞳。口元からは、どんな獣とも異なる恐ろしく長い牙が顔をのぞかせている。
「……バ、バ、バケモノかよ……。そいつは、なんなんだよ……」
清は震える声でつぶやいた。それは確かにバケモノとしかいいようがない獣の姿だった。
清の声に反応したかように、獣が喉から声をもらした。トンネル内を高速で走るトラックがあげる、なにもかもひき潰してしまいそうな狂暴な走行音に似た低い唸り声だった。
獣が清に一歩近付いてきた。
清の精神は、そこで許容範囲を越えた。振り返って、ドアに向かって必死に走りだす。
その清の体の上を、なにかが軽々と飛び越えていった。あの獣だった。五メートル近い距離をものともせずに飛ぶ姿は、この世のものでは決してありえなかった。
清の目の前に、獣がすとんと舞い降りた。体重を感じさせない、重力を無視した跳躍だった。屋上のドアは獣の背後にある。これで出口は完全にふさがれた。清は全身固まったまま獣と対峙した。
獣が前へ出る。清は必然的に後ろへと後退りする。獣が前へ。清は後ろへ。獣が前へ。清は後ろへ。獣が前へ。清は後ろへ。獣が前へ。清は後ろへ――後退りできなかった。
清の背後には屋上のフェンスが迫っており、かかとの先がフェンスに届いていたのだ。これ以上後方へは逃げられなかった。
「じょ、じょ、冗談……だろう……?」
清は目の前の獣から一瞬だけ目を離し、ちらっと少女に視線を向けた。
「冗談でもこの高さから落ちたら死ぬわね」
少女は冷淡な目で見つめ返してきた。
「なあ、やめてくれよ……。あれは、シンゴが言い出したことなんだ……。おれは止めようぜって言ったんだ……。でもよ、シンゴは止めないし、シンゴの言うことには逆らえないし……だからさ、しょうがなく――」
清はその場で必死に命乞いを始めた。
「しょうがなく殺したっていうの?」
「そ、そ、それは……違うんだ。本当に違うんだよ。いいから、オレの話を聞いてくれよ――」
清のその言葉をかき消すように獣が咆哮を張り上げた。そのまま清に向かって飛び掛かっていく。
「うぎゃああああああああーーーーーっ!」
身長百八十センチの清の体が屋上から消えた。




