『人語』
吹雪が荒れる冬のことである。
ある雪原で、年老いた虎と男が対峙していた。
古い虎は長年、群れを、一族を統率して強い雄であった。
男も若くなかったが、勇敢な精神と経験を持っていた。
「わしはお前を知っておる」
虎が男に話しかけた。
「産声をあげるのと引き替えに母親を失い、その時の涙はまるでそれを悲しんでいるようであった」
恐ろしい獣がじりと男との間合いを詰める。
虎は飢えているのだ。
男は目をそらさず、それを迎えうつ。
「ゆえにお前はあれに惹かれたのだ。そして、お前は知らぬが、お前はわしの子よ」
男は動じない。それはオウムのように繰り返される言葉の反復。
この獣は自分の吐いている言葉の意味も知らずに、それを発語し、人を惑わすのだ。
男は邂逅する度に幾度も聞いていた。
「雄々しくなったものよ。本来なら、わしの後継者の成長を喜ぶべきだが──そうはいかん」
虎の眼光が鋭く光り、強靱な顎が大きく開いた。
「わしの生はこれまで苦痛にまみれたものであった。何度も泥をすすり、地面にのたうちまわった。常に敵がいたからだ。力が弱かった頃、やつらに生殺与奪を握られ、それゆえ屈辱に身をよじらせ、地に伏せられた。今でもやつらのわしを侮蔑した表情を忘れられん」
虎は言葉を続けながら、男の隙をうかがう。
「次にわしは強くなり、やつらに復讐を果たしてやった。得たものは、力の証明と自尊心、そして、恨みと憎悪のこめられたやつらの眼だけよ。力には力の反抗が常にあった。圧倒的な力で勝てば勝つほどな。互角ならば、ある種の均衡があり、別の心持ちがあったかもしれん。だが、恨みを晴らせば、恨みを買い、地面は血で染まっていた──だが、後悔はしておらん」
剥き出しの敵意。
「土の中には金銀に勝る財宝が埋まっておる。それは凍える冬の中、夏の光、眩い輝きのごとく価値のあるものだ。血塗られた土、屈辱の泥、憎悪の土塊の中でな。そして、わしは穢れた大地を踏みしめ、それを守っておる──はっはははっ、わしは足下によくよく縁があるようだ。ゆえにそれは渡さん。わしのものだ」
年老いた虎は牙をむき、吠えた。
それは男との一瞬の運命の交差であった。
次の邂逅はない。
絶命の寸前、虎の目に星の輝きが映った。
吹雪は知らない間に止んでいたのだ。
「わしは土に執着するのでなく、空を見上げて生きていくべきだったかも知れん──」
虎は自嘲気味に笑う。
それは初めて聞く言葉であった。
次回『瓦解』