願いが叶うということ
妻が病に倒れてから、もう何ヶ月たっただろう。治療の甲斐なく、先は長くないと医者に言われた。いわゆる死の宣告だが、その時俺はなぜか悲しみをほとんど感じなかった。
妻を愛していないわけではない。俺はただ、妻がもうすぐいなくなるというパッとしない事実を、人よりすんなりと受け入れられただけなのだと思う。
気がつくと、家の食料がほとんど底をついていた。妻のことで精一杯になっていて自分の事まで気が回らなかったのだろう。本当なら妻の傍にいてやるべきなのかもしれないが、それによって俺の食事を疎かにし、俺まで倒れてしまったらシャレにならない。ひとまず近所のスーパーに何か買いに行くことにして、今俺はその道を歩いている…はずだったのだが。
近所の公園の、桜の木の下のベンチ。まったく意識せずにそこに座り込んだまま、縛られたように動けなくなっていた。俺自身の気持ちがそうさせているというのはすぐに分かったが、体はそれに抗おうともしなかった。ここに座ってどのくらいたつのか、もうよく分からない。
体を後ろにのけぞらすと、茶色く染まった桜の葉が顔に降りかかった。手で払いのけると、敷き詰められた枝と葉が虫取り網のように俺を取り囲んでいるのが目に入った。外だというのに、それは家以上に閉塞感を感じさせる。何枚もの葉が休む暇もなく散っていくが、その包囲網は一向に無くなる気配がない。隙間から見える青空が、余計に遠く感じられた。
「おとなり、よろしいですか」
若い印象の男の声だった。顔を起こすと、ベンチの前に紺色のスーツが見えた。
身長は170中盤といったところで、黒ぶちの眼鏡の奥には柔和そうな目が覗いている。
ああ、と短く返事をしてやると、男は軽く礼をしてから俺の横に座った。俺と違い、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま前方を見据えている。何を考えているのかいまいち分からないが、別に知りたいとも思わない。
「しかし、こんなところで何をされているのですか?」
男が沈黙を破り、俺の領域に踏み込んできた。俺の何に興味を持って話しかけてきたかは知らないが、たまたま隣に座ってきた見ず知らずのやつにいろいろ言われる筋合いはない。
「なんでそんなこと聞くんだ?何しようが俺の勝手だと思うが」
「はは、それはそうなんですけれども」
何故か小馬鹿にされているようだった。今は誰かと会話をする気分ではないし、こいつには早々にどこかへ行ってもらいたいのだが、面と向かって「どっかいってくれ」などと言うのは良識のない行動だ。テキトウに相手をして、タイミングを見て帰ってもらうことにしよう。
「…まあ、たまにはこうしてみるのもいいかと思ってな」
「そうですか。確かに、四六時中奥さんの看護ばかりではあなたの身がもちませんからね」
「なに?」
こいつ…何でそんなこと知って…。
実はこいつ、俺の知り合いか?俺の覚えていないうちにどこかで会って、妻の事を話したのだろうか?……いやいや、そんなはずはない。親戚はそんなに多くないし、その中にこんな顔はいなかった。第一、妻のことはまだ俺と妻の両親にしか話していない。
「あんた何者だ?」
それを確認せずにはいれらなかった。
目の前にいる男は、まだ自分の前方に目をやっている。しかし、俺とはそいつと向き合っているような感覚に襲われた。まったく姿勢を崩さないまま、俺を完全にとらえているのだ。急に目の前の男に畏怖の念を覚えた。崩れない笑顔が逆に恐ろしい。
「申し訳ないとは思いましたが、あなたのことがどうしても気になってしまいまして…ここ数日、あなたの行動を観察させていただきました」
なんだ、ただのストーカーか。…っておい。俺のことが気になるとか、行動を観察とか…要するに、生粋の変態ってことか?
「あの、そういうわけではないのですが…とりあえず、話を聞いてもらえますか?」
苦笑いをしていた。ん?俺、今何か言ったか?
落ち着くことにした。こいつが何者であれ、ここで話を聞いておいたほうがいいのだろう。
「ああ、分かった。俺としてもあんたにいろいろ聞きたいしな」
「ありがとうございます。えーまず…先ほども言ったとおり、私はあなたに多大な興味を寄せています。ストーカーまがいの云々についてはお詫び申し上げますが、あなたは私にそうさせるほど奇抜な存在なのです」
ああ、やめてくれ。鳥肌が立つ。
「もっとも、私があなたに注目したのはもっと昔…あなたがまだ小学生の頃です。あなたには、他のどの人間も持たない何かを感じさせました」
俺が小学生の頃?
見たところ、こいつは俺と大して年の差が無いように見える。ということは、こいつはその頃の同級生なのか?だとしたら、思い出せないのも頷ける。妻のことを知っている理由は分からないが。
「当時の周囲の人々は、あなたを変わり者ととらえていたようです。しかし、私はその一言であなたを片づけるのは忍びないように感じました」
「変わり者、か。いや、否定はしないが…」
「それで、ここからが重要です。よく聞いてください」
ぐいと顔を近づけてきたので、図らずも再び恐怖を覚えた。別の意味の。
「…俺にとって本当に重要か?」
「もちろんです」
即答された。
「私は、あなたに贈り物をしようと思いました。誰とも違うあなたとなにか関わりを持ちたかったという、ただの自己満足ですけどね。…ですから、私は特別に、あなたの願いを一つだけ叶えて差し上げることにしました」
「俺の願い?」
何を言いたいのかはわかる。自身がランプをこすっている描写が頭の中で組み上げられた。
残念なのは、俺はそういう類のものを信じていないということなのだが。
「なんというか…そういう冗談はよそでやってくれないか」
「冗談ではありません。まあ、疑われることは何となく分かっていましたが」
男が唐突に立ち上がった。何かと思ったが、少し前まで進み出て、こちらに振り返ってから上を向いた。それから視線をこちらに下ろし、上を指さして見せた。そっちを見ろ、ということらしい。
何とも胡散臭い行動だが、別に拒否する理由もない。どうせ上には、俺を包囲する桜の葉が枯れ果てて並んでいるだけだ。何があるというのだろう。
……ひら……
そんな音が聞こえたようだった。
上を向いた俺の鼻頭に、淡いピンク色の破片が舞い降りた。
「……これは……」
俺の頭上で犇めいていた茶色い葉はそろって姿を消し、代わりにきめ細かい花びらが集まって白っぽい包囲網を編み出していた。包囲網、という表現が申し訳ないほどに。しかも、それの範囲は驚くほど狭いものだった。その木だけが、ではなく、俺の真上だけが、円を描くように季節を踏み外しているのだ。
非現実的なのも手伝って、不覚にもその光景に見入ってしまった。俺でなくとも、おそらくこうなるのではないだろうか。
「信じていただけますか?」
男の声に、意識が現実に引き戻された。変わらない笑顔が、今度は神々しく見える。
これを嘘とは断言できない。なら、なおさらこの質問は外せない。
「…もう一度聞く。あんたは、何者なんだ?」
先刻の質問を繰り返すと、今度は可笑しそうに笑って見せた。
「おやおや、これはまたずいぶん冷静ですね…」
「…ふん」
「…そうですね、何者でしょう…神かもしれませんし、悪魔かもしれません。そのどちらでもないかもしれませんが、別になんでもいいじゃありませんか、私の正体なんて」
ごもっともだ。仮に神と言われたとしても、今度こそそれを信じる気はない。
確かに、こいつが何であるかは重要ではない。こいつの言った「願いをかなえる」、それが本当かどうかが俺にとっては重要なのだろう。
頭上で満開だった桜も、いつの間にか雪のように舞い散り、元の茶色い枯葉どもが帰ってきていた。
「願いをかなえる、と言ったな」
「はい。何でも、ただし一つだけ」
「例えば、死んだ者を蘇らせるとか、大金持ちになるとか、そんな絵空事みたいなのでもか?」
大金持ちになるのを絵空事にした俺は、きっと一生成功者にはなれない。
「ええ、あなたがそれで構わないのなら」
引っかかる言い方だが、それはすべて本当だと考えていいだろう。あの桜がトリックだったとしても、ここまできて断るのはひどい頑固者くらいだ。万一悪戯だとしても、あそこまで手が込んでいるのだ、引っかかってやらなければ悪い。
いや、そもそも俺はあれをトリックとは思っていないのだが。
「そうだな、願いか……」
考え込むポーズをとる。男は別にはやし立てるでもなく、そこに立ったまま俺を見据えている。
一番に浮かんだのは、やはり妻のことだ。
妻の病気を治してほしい。これほど簡単で、わかりやすい願いもない。それが不治の病なのだから、その切実さは二割増しだ。それに、ここで自己中心的な願いを言うのは世間的にも立場がなくなる。誰かが聞いているわけでもないのだが、そこは気になってしまう。
少し悩んだが、他に思いついた願いはどれもパッとしない。やはりこれが妥当なのだろう。
「妻の病気を治してほしい」
途端に、男の表情に失望のようなものが現れた。
「なんだ、何か問題でも?」
「いえ…予想していなかったわけではないのですが、やはり拍子抜けしますね…その願いは、あまりにも平凡ですから」
その気持ちはわからんでもない。こいつが俺に願いをかなえてやると言ってきた理由を考えれば、それはごく当たり前でもある。だが、ここで妻の治療を望むのは人として当然とも言っていいのではないか。ここで妻を捨てると、自分が底なしの愚者になってしまう気がした。
「あなたなら、もっと予想だにしない答えをくれると期待したのですが」
「あまり俺を買いかぶるな。世間体だって気になるし、妻を見捨てるのは人としてどうかと思うしな」
「そうですか…」
ここまであからさまに落ち込まれると、こいつの目に俺はどう映っていたのか非常に気になってくる。
「…じゃあ、行きましょうか。奥さんのいる病院へ」
「あ、ここじゃ無理なのか」
「近くでないと効果が及ばないので」
妙な部分で不便極まりない。それくらい出来てもよさそうなものだが…。と、こいつに愚痴っても仕方ないか。買い物の途中だった気もするが、優先順位はこっちが先だ。
「…言っておくが、妻に何かあったら承知しないからな」
「ここまできて疑うんですか?心配なのはわかりますが」
「慎重なだけだ」
これ以上こいつと会話すると血管が切れそうだ。さっさと連れて行こう。
ドン
ドサッ
…今の音は?
箱が潰れるような音。そのあと、肉を地面にたたきつけるような音。
まさか?
男も怪訝そうな顔をしている。一瞬顔を合わせた後、音のしたほうを見た。
公園の横の道路に大きなトラックが停まっている。それは停めたというより、停まったと言ったほうが正しいのかもしれない。運転手が意志をもって停車しようとしたのなら、道路に斜めに停めるはずがない。
駆け寄ってみた。植え込みに隠れていた部分が、それであらわになった。
運転席で頭から血を流して気絶する男性。転がっているサッカーボール。飛散した赤い飛沫。そして…その真中で、うつぶせになって倒れている少年。
何が起こったのか、あらゆるものが事細かに説明していた。
「救急車を!」
男がそう叫んだので、あわてて携帯を取り出した。
少々呂律がうまく回らなかったが、公園の名前を挙げると数分で着くと言われた。携帯をしまうと、二人のけが人の容体が気になった。
「運転手は?」
男が運転手の男性を確認していた。
「大丈夫です、大事には至っていません。それより、その子のほうが重傷なのでは…」
「…重傷じゃなくて、重体だ。いや…手遅れかもしれない…」
少年は、まだ十歳ほどだろうか。体は小さいのだが、飛び散っている血液の量があまりにも不釣り合いだ。彼の全身の血をばら撒かない限り、こんなことにはならないだろう。
救急車が間に合うとは、到底思えない。
第一、間に合うよりも以前に、これを治すことなど果たして可能なのだろうか。
素人目から見ても、それは豆腐を縫い合わせるに等しい行為と分かった。
絶望的だ。助かりっこない。
…俺なら?
確かに、助けられる。
この子を助けて、そう願えば。
「……なあ」
「はい?」
「この子を助けることも、お前には可能なのか?」
「ええ、まあ……あなたが望めば、ですけど」
「そう、か」
俺は確かに、妻の治療を望んでいたはずだ。
しかし、目の前の少年を見捨ててまで、それは叶えなければならないのか?
妻も、確かに生きている。その意味では、この少年と平等のはずだ。
なら、俺と関わりの深い妻を優先するのか?
否。それこそ、不公平に違いない。こんな時ばかり冷静になる自分が恨めしい。
二つに一つ。
どちらか一人。
…そもそも、これはそんな簡単な二択の問題なのか…?
救急車の音が近づいてくる。それでも俺は、悩むことを止められなかった。
半年が過ぎた。
俺は花を買っていた。妻に渡すためだ。明るい色の、しかし落ち着いた雰囲気の花を二、三種類ほどまとめて買った。
今年の冬は寒かった。それだけに、最近暖かくなってきたのは喜ばしいことだ。
「お久しぶりです」
あの男だ。半年振り。
「…なんだ、何しに来た」
「いえ、まあ、いろいろとね…」
ずいぶん曖昧な返事だな…やはりこいつとの会話はイライラする。
「今日はどちらへ?」
無粋な質問だ。別にかまわないが。
「妻に報告だ、課長に昇進した」
「なるほど…祝ってくれますかね?」
「死者に祝ってもらおうとは思わないな」
妻が聞いていたら怒り出しそうだな。この花で機嫌が直るといいが。
「…ひとつ聞いていいですか?」
…。やはりそれを聞きに来たのか、こいつは。
「なぜ、どちらも助けなかったのですか?」
こいつもこの半年間、それを聞きたくて仕方がなかったのだろう。俺だってこの半年間、誰かに言いたくて仕方がなかった。
「…その必要を感じなかったから」
「……あれは、必要…だったのではないでしょうか」
「そう思ったさ、俺も。助けられるなら助けたかった…けどそれは、倫理に反しているような気がした。妻は病気で、あの子は事故で死ぬ…それは運命で、一人の人間が捻じ曲げていいような物じゃない気がした。それだけさ」
…口に出して言ってみると、かなり恥ずかしい内容だな…。
「…やはりあなたは、誰とも違っていますね。私、本当に興味がわきてきましたよ」
「やめてくれ、俺にそんな趣味はない」
「ああ、そうだ。あなた結局、まだ願いを私に言っていませんよね。奥さんの事は取り下げてしまいましたし」
「…で?」
「願い事をお願いします」
なるほど、それでまた俺の前に現れたのか。こういう奴は、言う通りにするまでテコでも動かないからなぁ…。
「……とっとと俺の前から失せてくれ」
男は観念したように苦笑していた。そして唐突に、その姿が消えた。
意味もなく、淀んだため息が出た。