少女二人は空を見上げた
絹川緑
相良秋子
藤堂真理恵
「ねえ、秋」と絹川緑は、ふと思いついて言った。「最近、藤堂さん、ますますカリカリしてない?」
「うーん、言われてみればそうかも」と相良秋子は頷きながら言った。
二人は教室のベランダで、手摺にもたれ掛かりながら話し込んでいた。眼下には花壇があり、その向こうに校庭が広がる。日差しは少し暑いくらいに当たっていた。
「女王蜂にも、何か問題が起きるんかねえ」と秋子は腕組みをして言った。
「一緒にいる人たちと、あまり反りが合わないのかな?」
「確かにあの取り巻き連中、あんまり頭良くなさそうだもんね」
「ということは、藤堂さんは頭が良いってこと?」
「なんかそう見えるけどな。あの性格じゃあ、せっかくの頭も、使い道に困るだろうに」
話題の当人である藤堂真理恵は、教室の中だった。緑はちらりとそちらを振り返って見た。三人の取り巻きに囲まれて、何やらお喋りをしているようだ。
真理恵は文句なしに美人だった。ファッション・モデルのような端正な顔立ち。しかし鷹のような鋭い眼光。アクション映画のヒロインみたいだ、と緑は思っていた。彼女はとても気が強く、鮮やかに燃え盛る魂を持っていた。それは学校の教室なんかにはとても収まり切るものではなかった。
だからだろうか、いつもやり場のない不満を抱えているように見えた。取り巻きに命令して動かすことだけが日々の楽しみといった様子だ。それは少しばかり不健全なのではないかと、緑は何となく気になっていた。
「近づきがたいというのは前々からだけど」と秋子は言った。「ここのところ、さらに苛々してるかもね。何だろう、何かあったのかな?」
「分からない。家庭の事情かな?」と緑。「何事もないといいけど」
「何事……って、教室のほう? 家庭のほう?」
「うーん、教室のほうのつもりだったけど……。家庭のほうも、何事もないほうがいいな」
「優しいなあ、みどりんは」
「こっちに出てくるかもだし」
「ああ、そういう……。あんた、意外と魔性の女だよね」
「ましょう?」
「まあ、私たちが願ったってどうにかなるものでもないけどね」
「んー……、まったく」
緑と秋子は、真理恵が率いているグループとはほとんど関係がなく、それなりに平和に過ごすことができていた。しかし道路を渡るときには自動車に注意せざるを得ないのと同じように、そこそこ気を付けなければいけない瞬間というものも、たまにはある。緑と秋子がベランダで話をしながら、ときどきそっと背後を伺うのは、そういうことだ。
「あ、飛行機雲」と秋子が空を指差した。「緑先生、どうですか?」
「そうね……。雲が長く残っているので、上空の気温は低くなっていると思われます。寒冷前線が南下してきているのでしょう。明日は秋を思わせる冷え込みになると予想されます」
「さすが、気象予報士、目指してるだけある」
それから二人は顔を見合わせて笑った。
*
しかし問題をやり過ごせないということも、場合によってはあるらしかった。例えて言うなら、きちんと信号待ちをしていたのに、よそ見をしていた自転車にぶつかられた、というようなものだ。
それは秋子が珍しく風邪で学校を休んでいた日のことだった。
数学の授業が終わった後、緑は机に突っ伏していた。彼女は数学を嫌っているわけではないが、得意でもない。気象予報士やそれに近い仕事を目指したい彼女にとって、将来はきっと使うことになるものなので、きちんと学んでおきたいとは思っている。しかし――不遜かもしれないが――教師の解説があまり上手とは言えないのだった。この学校に最も長くいるという噂の、お爺さん先生だ。あの人は、どういうわけか授業が下手なのだ。
休憩というのは素晴らしい。休憩は練習と同じくらい大切、と吹奏楽をやっている秋子も主張していた。
休み時間をその名前の通りに使う、という使命を果たそうとしていた緑のところに、人がやって来た。
藤堂真理恵に、その取り巻きが三人。
緑は半分ほど突っ伏した姿勢のまま、顔だけ上げて彼女たちを見た。そして事態の深刻さに気付き、がたがたと震え出した。
いったん目をつけたらどこまでも迫ってきそうな、猛禽類を思わせる目つきが、緑のことを見下ろしていた。秋子の姿をつい探してしまいそうになった。
一人のときを狙って来たのだろうか? きっとそうだろう。狩りの常識に違いない。
「あんたさぁ、授業中に私のこと見てたって?」
真理恵は腕組みをして言った。どうして知っているんだろう、と緑は思ったが、そう言えば取り巻きの一人は、緑の席よりも一列後ろにいるのだった。ちらりとその一人を見てみると、その口元に微かな笑みが浮かんでいた。やはり彼女が告げ口したのだ。
「ねえ、何か面白いことでもあった? あったなら聞くけど」
もちろん聞いて終わりにする、などという意思は微塵も感じられなかった。棘のある声が言っているのは、緑が何かまずいことを言ったが最後、この学校にはいられなくなるということだ。しかし何と答えればいいのか。授業中になぜ見ていたかって? 本当に何となく、無意識のうちに観察していただけなのだ。面白いかどうかって? いや、学校の最古参であるという理由で優遇されているお爺さん先生の眠たい授業に比べれば、他のどんなことだって面白いに決まっているじゃないか。
「えっと、あの、その……」と緑は言い淀みながら、適切な言葉を探した。
まるで喉の渇きに喘ぐ砂漠の旅人がような気分を味わうことになったが、しかし運良く、必要な言葉が降って湧いたように現れた。
「藤堂さんの髪、綺麗だな、と思って」
それを聞いて真理恵は怪訝そうな顔をした。
「髪?」と言って彼女は自分の髪に触る。
「手入れが行き届いているし、
「…………それだけ?」
真理恵は目を細めて緑を見た。たった一言なのになかなかの威圧感だった。
「う、うん、そうだけど……」と緑は消え入りそうな声で、なんとか絞り出すように言った。
声が震えたりしたら相手の中の火薬を刺激してしまうのではないかと気が気でなかった。
真理恵はまだ疑いが拭えないといった目で緑を見下ろしていたが、やがて、ふんと鼻を鳴らすと踵を返し、自分の席のほうへとすたすた歩いて行ってしまった。
「あ、真理恵!」
取り巻きたちも慌ててその後を追った。
嵐は去った。何だったんだろう、いったい……。面倒臭くなったのだろうか。
とりあえずまた目をつけられたら敵わないので、できるだけ彼女たちのほうを見ないようにして休み時間を過ごした。
次の授業が終わったあと、問題の昼休みがやって来た。
緑はいつも秋子と一緒に弁当を食べているが、今日はその盟友はいない。教室で一人で食べるとすると、どうしても藤堂真理恵の存在が気になってしまう。仲間を募る、あるいはどこかのグループへ入れてもらえないかと周囲を見回すも、さっきの事件のためなのか、どうもクラスの皆と距離が感じられる。ほとぼりが冷めるまでは、緑に近づかないでおいたほうがいい、ということなのだろうか? 充分にあり得ることだ。身を守るための賢さというものを誰しも持っていて、それは時に薄情さと表裏一体であることを、これまで生きてきた十六年の歳月から、知らないはずはなかった。それにこんな状況に置かれれば自分だってそうするかもしれない、と想像もできてしまうので、特に恨もうとは思わなかった。
それより一人のランチが問題だ。
彼女は屋上に行く決心をした。校舎の屋上の大部分は立ち入り禁止だが、教室があるこの建物のものは生徒のために開け放たれている。最後の手段めいているが、実際にはときどき秋子も一緒に行っているので、慣れているといえば慣れている。普段、海藻のごとく水面下にいて目立たない彼女が、これほどクラスで浮いて見えてしまうというのも、おそらく今日だけのことのはずだ。というか、早く終わってくれないと困る。特に雨が降ったりしたら大変だ。
彼女は階段を上って行き、屋上に出る、やや重い扉を押し開けた。
ベンチに腰掛けると、彼女は弁当箱を開き、一人で空の様子を眺めながら食事を始めた。雲が高いところをゆっくりと流れていた。上空の風は弱いらしい。
落下防止の柵の向こうには、彼女の座っている場所からは見えないが、住宅地が広がっている。近所に学校の屋上よりも高い建物はないので、空がそのまま見える。
視界が空で埋め尽されれるというのは、彼女にとって、とても気持ちの良いことだった。気持ち良いし、それにちょっとスリルもある。空に向かって落ちて行きそうな感じ、というやつだ。人によってはその感覚を恐れるけれど、彼女はそのスリルも含めて楽しく思えるのだった。そんな自分の性癖を他人にばらしたことはない。変に思われるかもしれない、とは薄々感じているので口には出さないようにしている。じつは親友の秋子にも秘密だ。
ただ、道を歩いていてそのような青空スポットを見つけると、彼女はこっそり記憶しておく。一番最初に登録したのは小学生の頃、どこかの山に登ったときだ。親の友人で登山を趣味にしている人がいて、緑たち一家を連れて行ってくれた。木々の立ち並ぶ山道を抜けると、今度は岩を登るような形になり、落ちたらどうしようと子供心に怖くなったのを覚えている。その登山の一番最後に、彼女は山頂の岩に登って空を見上げた。視界が端から端まで、痛いほどに澄んだ青空で埋まった。たぶん一生、あのときの気持ちは忘れられないだろう。
不覚にも思い出に浸っているうちに、いつの間にか弁当を食べ終わっていた。作ってくれた母親に申し訳ない気もするが、まあ、いつもと変わり映えのない味であることは事実なので、大した後悔は生まれなかった。ありがとう、ごめんなさい、とだけ心の中で呟いておく。
彼女が弁当箱の蓋を閉じるのとほぼ同時に、ばたんと大きな音を立てて校舎への扉が開いた。屋上に誰かが出てきた。いったい誰がそんな急いで……と思いながらそちらを見た緑は、そのまま固まった。
真理恵と、その取り巻きたちがやって来たのだった。
なぜ? わけが分からなかったが、もう今度こそ本当に駄目だろうと緑は思った。もはや肉食獣に襲われる直前のバンビみたいなものだった。
真理恵は緑をじっくりと睨みつけた。それから取り巻きたちに向かって言った。
「あんたたちは帰りな」
「えっ?」と取り巻きの一人が言った。
えっ、と緑も心の中でまったく同じことを思った。理由が全然分からなかった。まさか、取り巻きにも見せられないような凄惨なことをするんじゃ……。
「あの……、真理恵?」と取り巻きAは言った。
「いいから、さっさと帰りな」と真理恵は彼女たちのほうを見ずに言った。
さすがに長い付き合いということなのか、彼女たちも逆らわないほうがいいということを感じ取ったようで、そそくさと屋上から出て行った。
真理恵はつかつかと遠慮なく至近距離まで歩み寄ってきた。緑は相変わらず震えていた。しかし人数が減っても威圧感がほとんど変わらないということは、要するに取り巻きたちの影響力など、ほとんどなかったということだ。
「あんた」と真理恵は緑の鼻先で言った。「もったいないよ。単に括ってるだけじゃ」
何を言われているのか、さっぱり分からなかった。
「えっと……」と緑は少し勇気を出して口を開いた。「ごめん、何の話?」
「髪だよ、髪」と真理恵は当然のことのように言う。「後ろで括ってるでしょう? すごく大雑把に」
「あ、ああ、うん」
「それがダサいっての」
「え、ダサ……。あ、あの、じゃあ、どうすればいいの?」
すると真理恵は、ふん、と鼻を鳴らした。
「そうだね、例えば……」
彼女は緑の後頭部に腕を伸ばしてきた。髪留めのゴムを外し、解けた髪を持ち上げると、房にしてみたり、軽くねじってみたりした。やがて満足したのか、頷きながら言った。
「これがいいんじゃないかな。ハーフアップ」
ハーフアップ。後頭部の髪は降ろしたまま、耳に掛かっている部分だけを持ち上げて、後ろにぐるりと回す。そして先程のゴムで留めれば出来上がりだった。
「まだちょっと偽物だけどね。シュシュやリボンにしないなら、後ろは結わうほうがいいと思う」
緑は自分の髪に触ってみた。今まで試したことのない髪形だと、どうもくすぐったく思える。
「あの、藤堂さん。わざわざ私なんかの髪形を変えるために屋上まで来たの?」
「違うよ」と真理恵は腰に手を当てて言った。「一回、サシで話そうかと思ってさ。髪を褒めてきたのが不気味で、何だこいつって思ってたから」
「え、そんなふうに思われていたんだ……」
「でも、話したかったことの一つが、あんたの髪形のことだったのは事実だからね。気になったことはさっさと潰しておかないと」
何とも物騒な言い方だ。
真理恵は少し後ろに下がって、緑の全体像を見た。
「髪形、というほど大層なものじゃなかったけれど、そんなに気になったの?」と緑は少しほっとしながら言った。
「ああ、気になる。特に一度気になった後はね」
「もしかして、……趣味?」
「うん、まあ……ね。そうかもね。うちが美容院のせいかも」
「ああ、だからセンスがあるんだ」
「それはどうか知らないけど」
こんなに真理恵と喋ったのは生まれて初めてだ。こんなに喋っていていいのだろうか、とつい考えてしまうほどだった。何しろ相手は女王蜂。こちらの命運など、いくらでも、どうにでもできるはずだ。
「たぶん特技だよね、これって」と緑は言った。「クラスの子に似合う髪形を教えてあげたら喜ぶんじゃないかな」
「そこまでしたくはないよ。でも、そうだなぁ……」
真理恵はベンチにどさりと腰掛けた。緑が立っているところの隣だ。緑も元の位置に座って、二人はまるで旧知の仲のように並ぶこととなった。なぜこれほど気さくに話しかけてくるのだろうか。
「少なくともさ」と真理恵。「あんたのことは気になってはいたんだ。もったいないな、って」
「前々から?」
「そう、前々から。何となく、だけど」
「そうだったんだ……。あのさ、将来は美容師の予定?」
緑にそう訊かれた真理恵は、やや小難しそうな顔をして、考え込むような姿勢になった。真理恵のそんな姿を見たのは初めてだった。今日はきっと記念日として登録すべき日なのではないか。
「まだ決まったわけじゃない、……と思う」
真理恵は言った。勢いがあるときもあれば、妙に慎重なときもある。意外に幅がある人のようだ。教室で見せる姿は、周りの人を意識して、演出しているのだろうか。
「まあ、そのうちいつか自然に決まるよ、きっと」と真理恵は言った。
「将来か……。将来、どうするか悩むよね。だいたい、どうするかって決めたって、その通りになる保証はどこにもないし。世の中、変化が激しいっていうし」
「そうだね。いつまで仕事があり続けるか分からないし。で、あんたはさ……って、絹川、下の名前は?」
「緑」
「そうだった。緑は、進む方向、もう決めてる?」
「私は、あの……、なれるなら気象予報士かなあ」
「気象予報士」
「うん、天気を当てるの」
「それって」
「小さい頃から自分で天気予報を試してたんだけど、だんだん当たるようになってきて面白かった。今は多分、外れのほうが少なくなっていると思う。結局のところ、その続き、みたいな感じかな。あの……、できれば、だよ? もちろん」
「ふんふん」と真理恵は頷いて言った。「えっと、あれだよね、あのテレビに出てるやつ。お天気お姉さん」
「ああ、それはちょっと違うけどね。私は天気の研究を……うっ」
真理恵が突然、右手で緑の口元を掴んできた。両頬を指で押さえられ、『う』の口のまま身動きが取れなくなった。真理恵は緑に顔を近づけた。彼女の息が鼻先に掛かった。
「あんたさ、頭も顔も悪くないんだから、なれるよ、絶対」
彼女は強い口調でそう言ってから、頬を挟んでいた手を離した。解放された緑は、ほっと安堵の息をついた。
「そっか、なりたいものがあるのか……」と真理恵は言って、後ろの壁に寄り掛かって空を見上げた。「みんな、あんまりそういう話、しないよな。やっぱり決まってないからかな」
「決まってないというのもあるけれど、恥ずかしいっていうのもあるんじゃない? みんなと違ってるのが嫌で」
「そっか……、ああ、そうだったんだ」
「え?」
「今、分かった。恥ずかしいんだ、私」
「えっと、まり……、じゃなかった。あの、藤堂さん、どういうこと?」
「真理恵でいいよ、もう」と彼女は微笑んで言った。「話していい? じつは、ずっと昔から隠していたことがあったんだけど」
緑が返事をする前に、真理恵は耳元に口を近づけ、そっと囁いた。
「あのね、私――」
相変わらずマイペースな人だった。緑は青空には白い雲がちらほら見えた。それはまるで、澄んだ心にぷかぷかと浮かんでいる、ちょっとした迷い事のようだ。
真理恵は緑の耳元から顔を離した。
「本当に?」と緑は訊いた。
「うん」と真理恵は小さく頷いた。
それは彼女が見せた中で一番可愛い仕草だった。
「ただね」と彼女は続けた。「未来があるのかどうかは分からないよ」
「みんなそうだよ。この前、秋子とも話したけどね。分からないから、その方向に走れなくて困ってたりする」
「みんなと同じは嫌なんだけどな……」
「そっか、ごめん」
「いいよ。でもあんまり言わないようにね」
「恥ずかしいってこと?」
「それもある。誰一人笑わなくても、私は恥ずかしいんだよ」
「複雑だね。あと、健気」
「単なる不便」と真理恵は言い、そして笑った。
彼女は背中を壁にくっつけるようにして座り直した。その視線の先には空があった。
「あ、ねえ、あそこに飛行機」と彼女は指差した。
「本当だ」と緑は言った。「飛行機雲が長く残ると、天気は下り坂、だったと思う」
「そうなの?」
「上空の湿度が高くなってるってことだから」
「なるほど、そんなこと考えたこともなかったよ」
「感心した?」
「まあね」
真理恵は緑のほうを見て微笑んだ。珍しい表情だった。いっそのこと、どこまで攻略できるか試してみたくなる気もする。悪い心が少し芽生えてきた自分のことを、緑は不思議に可笑しく感じた。
「そういえば、飛行機、さっき飛んで行ったのも同じ方角だったね」と緑は言った。
「ああ」と真理恵は頷いた。「あれは福岡か上海に行くんだと思う」
真理恵がそんなふうに即答したので、緑は目を丸くした。
「詳しいね。そういうことまで分かるんだ」
「まあね」と真理恵は言う。「羽田や成田から、福岡に向かって真っすぐに線を伸ばすと、だいたいその先に上海があるから。やっぱり行き先で多いのはこの二カ所かな」
「そうなの? そんなこと、よく知ってるね」
「うちのお父さん、パイロットだからさ。だから何となくそういう知識が入ってくるわけ」
「ああ、それでさっき、なりたいって……」
「別に、父親の真似をしたいわけじゃないんだ。それに滅多に家にいないし」
「世界中を飛び回ってる?」
「そう」
「憧れてる?」
「いいや。どっちかと言うと恨んでる」
真理恵はそう言って、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「『こんなに家族を放っておいていいの?』とか、面と向かって言ってやりたいこともあるよ、やっぱり」
「そのこと、お母さんはどう思っているの? あの、お父さんがずっと出掛けてること」
「それがさあ、よく分からないんだよな……」
真理恵は頭の後ろで両腕を組み、壁に寄り掛かって空を見上げた。
「ほんと、何考えてるんだろう。父親から電話が掛かってくると嬉しそうなんだけどさ、いないからといって悲しんでるわけでもなさそうなんだよね」
「ふうん……。複雑だねえ」
「え、そうかな? あれはむしろ頭が単純なだけのような気が……」
「あ、お母さんに何てことを……」
「いやいや」と真理恵は笑って言った。「うちのおかん、人の髪をどうにかする以外のことにあんまり興味がないから」
「ああ、そういう人なんだ。真理恵は……その、そういうのがあるの?」
「あんまりない。ネットで飛行機の情報とか調べてると楽しいくらい」
「それって充分、特別な気がする」
「そうかな。まあ、いいけど」
「いいでしょう? 良くないの?」
「えっと、良くなくはない……かも? 飛行機乗りとしてはどうなんだろう」
「私、飛行機、乗ったことないんだ。下からしか見たことない」
「ああ、下から見るのが一番いいんじゃないかな。前から見ると頭でっかちでなんか間抜けだし、横から見ても窓がずらっと並んでるだけだし。腹を見せて飛んでる姿が一番かっこいいよ」
「そこまで言っちゃう? 飛行機がかっこいいから乗りたいんだと思ってたよ」
「乗ったらかっこよさが見えないじゃん。人を乗せって飛ぶのが楽しそうってことだから。うん、……だから、あんまり機械化されていない、小さなやつに乗るのがいいかな。もちろん上達しないと駄目だけど。お客さんの命を預かるわけだし」
「あなたは運動神経がいいから、すぐに巧くなりそうに見える」
「そうかな」
「うん、きっと――」
緑が言いかけたとき、チャイムが鳴った。予鈴だ。あと五分で昼休みが終わる。
「やれやれ」と言って真理恵も立ち上がった。「私はどんな扱いになるのかな。もうあいつらとは付き合わない気がするんだけど」
「あの取り巻きの人たちが、何かするってこと?」
「分からない。まあ、私はしばらく一人を楽しむことにするよ。じつは勉強ってやつをちょっとやってみたかったんだ」
彼女は髪を掻き上げて、くすくすと笑った。
「ありがとう、緑。いろいろ話したらすっきりした。あんた、そういう才能あるかもね」
「私のおかげじゃないでしょう?」
緑は後ろで留めた髪を触りつつ言った。
「それに、私もコーディネートしてもらったし」
「うん、じゃあお互いさまってことにしておこうか」
二人は屋上からまた校舎の中へと戻った。
*
「…………何が起きたの?」
次の日の朝、緑と真理恵が仲良く喋っているところに秋子がやって来て言った。
「ん? 別に」と真理恵は含み笑いをして言った。
「昨日、話してみたら気が合うみたいだったから」と緑は説明した。
「いやいやいや」と秋子は手を振る。「そこまでに至る顛末が知りたいんだよ。摩訶不思議現象だから、このままじゃ」
「そんなこと言われても……。何となくのフィーリングとしか言いようがないよ」
「うわ、何だそれ。まるで恋人の話を聞いているようだ……」
秋子は頭を抱えた。
「気にしすぎだって」と緑は笑って言った。「私、秋子と仲良くなったときのことだって、よく覚えてないよ」
「えっ、それはそれで酷いんじゃない?」と秋子はまた苦悶の表情を浮かべるが、ふと気づいて緑の持っている本を指差した。「それは?」
「これ、『夜間飛行』っていうの」と緑が説明した。「『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリの本。貸してもらったんだ」
「私は父親からもらったんだよ。私が本なんて買うわけないからね」と真理恵。
「どんな内容?」と秋子は二人に訊いた。
「飛行士の話」と真理恵が答えた。「夜の間に飛行機で郵便物を届けるっていうことをやっていた人たちがいたんだ」
「おじさんがいっぱい出てくるんだよね」
「そうそう。おじさんがいっぱい」
緑と真理恵は顔を見合わせて笑った。
「まったく……」と秋子は緑の後ろ髪を弄びながら言った。「ほんと、一夜にして一体何があったんだろうねえ、この子は」