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鈴の音の森  作者: 専一
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出雲編 第三章

第三章

 二夜目の祭りは、初日と比べ派手さには欠けるが、それはそれで荘厳なものであった。特に目立つのは祭壇に捧げられた器物の数々、特に祭器として崇められている黄金色の剣の数々だった。出雲の国は北九州地域に続き大陸の先進技術を取り入れた国だ。特に、黄金(青銅)の製品を加工する冶金技術に優れている。その技術の高さを誇示するように、祭器には黄金が数多く使われている。剣、矛、斧、鐸、鏡……。これらは篝火の明かりを反射し、まるで太陽のような黄金色の光を放っている。出雲の国は多くの邑が集まる連合国家であるが、その連合に加わることで祭器の一つを承ることができる。祭器は神和の祭祀で清められ、神気を込められる。その神気が、それぞれの邑を守護し、繁栄を与えるのだとされている。

 昨夜と同じように、心の御柱の祭祀場が見える木立の上にタケルはいた。その目的は昨夜の祀りで見た人物、優れた剣の舞を舞った人物に会うことであったが、これまで果たされていない。祭祀に参加している以上、国の重要人物だと思われるが、タケルには今の出雲国についての知識が不足していた。

 神和祭の祭祀は三夜に渡って執り行われる。一夜目は『神迎え』と呼ばれ、この地に神々を迎え入れるための神事が執り行われる。賑々しく神々を迎え入れ、歓迎するための祭りだ。そして二夜目の神事が『神問い』と呼ばれ、最も重要な神事である。今年の作柄や将来に起こりうる吉凶を神々に問いかけ、その言葉を預かるためのもの。そして三夜目の神事が『神送り』である。

 神和祭は元々、杵築の邑が催していた祭祀だ。数々の邑が連合し、出雲国が拡大してゆくにつれ参加する邑は増えてきてはいるが、肝心の祭祀『神問い』だけは今日でも杵築の神官・巫覡のみで執り行っている。したがって、タケルが会いたいと願っている人物は、この祭祀には不在である。

しばらく祭祀を覗いていたタケルだが、今夜は無理だと判断せざるを得なかった。そもそも、この場で意中の人物を見つけたとしても、隠れて祭祀を覗いている立場では声を掛けることさえできない。何か、別の方策を考えなければならない。

タケルは静かに地面に降り立ち、祭祀場を後にする。兄が言っていたとおり、早い時期には郷には帰らねばならない。だが、それまでに考えておかなければならないこと、決めておかなければならないことがある。

「お師匠様……、僕はどうしたら……」

 一人呟きながら、足取りも重くとぼとぼと歩く。


不意にタケルは何かの気配を感じ取った。人の気配だ。自らの気配を消したまま、素早く手近の大木の裏に隠れる。さらに身をひそめたまま動きつつ大きく枝の張った木に登ると、太い枝を足場に太い幹の裏に潜み、息を殺してそれを待つ。やがて、その気配が近づいてくるのが分かった。

 息を乱して山肌を転げるように降りてくる人影がいた。それは一つではない。二つ、三つ。それから少し離れてさらに大勢の人の気配があった。彼らが降りてくるのは北山と呼ばれている山系だ。杵築の邑の北側に聳え、神門の入り海と北ッ海とを隔てるように聳える山々である。それは杵築の神事に関わる神域として立ち入り禁止とされている山系でもある。その場所から追う者と追われる者、息も荒く崖を下ってくるのは異常な事態だった。

異常事態とはいえ、タケルにもその状況は予想できる。神和の祭祀のどさくさに紛れて、立ち入り禁止の神域である八雲山に進入した者を、杵築の邑の者が追っているという状況だ。ただ、それにしては緊迫感がありすぎた。逃亡者達はタケルの隠れている木の方向に向かって走っている。その三人のうちの一人が足を止め、いきなり剣を抜いた。三人がタケルの存在に気付いた様子は無くタケルは息を詰めて待つ。追っ手達は逃亡者の反抗に一瞬驚いたように躊躇したが、ほかの二人がそのまま逃げる姿を見て、直ぐに追跡を再開する。その内の幾人かが立ちふさがっている男に対して剣を抜いて襲いかかる。

タケルはその様子を見下ろしているだけだった。彼にはどちらかに手を貸す理由は全くない。顛末を見届けるだけだ。

立ち塞がった逃亡者は強かった。ほかの二人を逃がすために、死をも覚悟して剣を抜いた、その気迫がこもっている。追っ手の一人が剣を振り下ろす。男は剣を合わせると、追っての持っていた剣があっさりと折れる。追っ手の男が慌てふためく間に片腕を切り落とす。男の技量と剣の切れ味は見事だった。さらに追っ手達の集団に飛び込み、負傷者を量産する。彼を狙って放たれた弓矢は、駆け回る男に当てることはできず、さらに仲間への負傷者を増やした。追っ手達は明らかに狼狽していたものの、彼らも必死だった。一旦、距離を取って体勢を整え、もう一度、数人同時に襲いかかった。

その時、異常な風体の男が進み出た。逃亡者の男も追っ手も動きやすい簡素な衣服を身に着けていたのだが、その男は全身を黒い衣服に身を包んでいた。黒衣の男が剣を振り上げるとそれに合わせるように逃亡者は剣を上げる。打ち合った二つの剣は、どちらも折れなかった。黒衣の男の剣圧に動きを止めた一瞬、追撃者達の複数の剣は逃亡者の男の体へと吸い込まれた。追撃者達から歓声が上がる。

「よし、後二人だ。先行の部隊に合流しろ、連中は全て殺せ! まだ終わりではないぞ」

 声を上げたのは黒衣の男のようだ。彼が追撃を指揮しているように見える。彼らはさらに追跡を続ける者と負傷者とに別れ、慌ただしくその場を離れていった。

タケルは彼らの姿が完全に見えなくなってから姿を現した。周囲に警戒しながら、殺された男の隣に膝を突き、子細に観察する。男の衣服は逃亡中に汚れ破れているものの、一見して上等なものであった。腕には玉と南海の宝貝で作られた腕輪、そして手に握られたままの剣は何合も打ち合い、数本の剣を叩き折っていたが、刃毀れ一つ無い。上等な剣だ。

「この男は筑紫の者か。身形からすると、大人……、筑紫の使者か?」

 神和祭に合わせて、出雲には各国からの使者が多く集まっていたはずだ。彼らはその国を代表して、この祭りに遣わされている。その使者を殺害するという行為は、非常に重要なことだ。タケルには、その理由が飲み込めた。彼らは北山を超えて降りてきたのだ。山自体は出雲の神の霊山として立ち入り禁止の神域ではあるが、外国の使者が立ち入ったとして、彼らを殺害するほどの問題では無いはずだ。問題があるとすればその先、おそらく邪馬台国の使者達が乗っていた船が廻された小浦、彼らはそれを見たのだろう。

タケルは男が手に握ったままの剣を詳細にみる。黒鉄くろがねの剣だ。少し離れた所には、打ち合って一撃で折った銅製の剣の剣先が落ちている。黒鉄は貴重品だ。出雲国の衛士とはいえ、多くの者が手にしているのは銅製の剣だ。銅剣に比べ、黒鉄の剣はそれほど圧倒的に強く、そして貴重だ。大陸や遠国との貿易でしか手に入れられず、一国でも限られた重要人物しか入手できない貴重な品物だ。この黒鉄の剣と打ち合うことができるのは黒鉄の剣しかない。では、黒鉄の剣と打ち合っていた黒衣の男が持っていた剣も黒鉄の剣だ。その貴重な剣を持っていた黒衣の男は何者だろうか?

「筑紫の使者、北山からの逃亡、北山のその先には……邪馬台国の使者? 追撃者達と黒鉄の剣。先行の部隊、皆殺し……」

タケルは先ほどの追撃の様子と追撃者達の残した言葉とを噛みしめるように確認する。

「筑紫国と邪馬台国の争い、出雲国と筑紫との交渉は……」

その中で、ある一つの想像が浮かぶ。あっ、と声を上げるとすぐさまに立ち上がり、姿勢を低くしたまま葦原を飛ぶように駆け出した。その様を誰かが見つけても、人とは思わないだろう。旋風のように、疾走し続ける。

「イスズが危ない!」

タケルは内心で焦りながら呟いた。


 金築猛は進路指導室のパイプ椅子に座り、外の風景を眺めていた。放課後、傾いた陽射しが、広く取られた窓から小さい部屋に差し込んでくる。

 猛は一人、思い悩んでいた。奉仕作業での一件が、心の中で大きくわだかまっている。

――噂は本当……。あんたが、殺した――

 やや正気を失っていたとはいえ、彼女らは来海五十鈴を指してそう叫んだ。

 あれから猛は来海五十鈴のことを調べてみた。彼は探偵ではなく、その才能も無いので新しく分かったことなどほとんど無い。その中で僅かに分かったことといえば、彼女は市内の青山中学の出身であり、彼女が在籍していた時期に、一人の教員が亡くなっているということだった。そして、その死に、彼女が関係しているという噂がある。

彼女の周りには人が少ない。入学したばかりの高校で人付き合いが少ないというのは仕方ないが、彼女の中学時代を知っている人も少ないのだ。いや、正確に言うと、彼女のことを知っている人は多いが話してくれる人が少ない。同じ中学出身の生徒に話を聞いてみるが、奥歯にものが詰まったかのような言い方で言葉を濁すだけだった。それも彼女にまつわる噂が影響しているのかも知れなかった。

 コンコン、とノックの音がして進路指導室の扉が開く。入るように促すと、背の低い丸顔の少女が一人入ってきた。

「先生、何か話ですか?」

「ああ、時間を取ってもらってすまない。すこし話を聞きたいことがあるんだ」

 彼女の名前は天津涼子という。来海五十鈴と同じ青山中学出身の同級生であり、彼女の親友ということだった。何人かに五十鈴の事を聞いたところ彼女の名前が挙がったのだ。

 二人は教壇よりも少し大きめのテーブルに向かい合って座る。あらかじめ買っておいた紙パックのジュースを渡して、一呼吸おいて早速用件に入る。

「天津は確か青山中学の出身だったな」

「そうですよ。もしかしてこれって身元調査ですか? 私、何か悪いことでもしたかしら」

「いや、そういう訳じゃないんだ」

「悪い事じゃなければ良いことですか? もしかして告白ですか? 先生が私に? きゃー」

「いや、そうじゃなくて……」

「そうですね。私なんかじゃ駄目ですよね。先生が告白するなら、やっぱり五十鈴ちゃんですもんね」

「は、…………はぁ?」

 彼女は猛の狼狽にもかまわずコロコロと笑う。

「ダメですよ、先生。あんなにあからさまに女の子の話を聞いて回ったら、そりゃ噂にもなっちゃいますよ。やるなら、もっと上手いこと立ち回らないと。他の色んな話をしながらこっそりと盛り込んだりとか、他の人を使って聞くとか」

「そ、そういうものか……。っというよりも、そんな話になっているのか? 俺と来海の事なんて、何にもないぞ!」

「はいはい。そんなに狼狽えると、頷いているようなものですよ、先生。まあ、安心してください。今のところ気づいているのなんて極少数ですから。私は、たまたま五十鈴ちゃんの友達だから、そういう話をよく耳にしただけですってば」

「……はぁ……」

 猛は肩を落として息を吐く。まったく近頃の子供が生意気なのか、自分に余裕が無いのか。どちらが先生で人生の先輩なのか、よく分からない状態だ。

「それで、先生が聞きたいのは五十鈴ちゃん……、来待さんの事ですよね? 私が彼女の友達だから」

 彼女は急に真顔に戻って話し始めた。よく頭の回る子のようで直球で話に入るのはいいが、そもそも話の頭から変化球を投げ続けたのは彼女の方なのだから手に負えない。

「先生も聞いたんでしょう? 彼女の親友は私だって。と言うよりも、彼女の友人は私だけだって」

 そうだ、と猛は沈鬱な面持ちで応える。彼女には奇妙な噂が付きまとっている。そのために人は彼女に近寄りたがらない。その唯一の例外が目の前に座っている彼女、天津涼子なのだ。

「五十鈴ちゃんは悪くないんだけどね。こないだの事だって」

 その声質が、真摯に彼女のことを案じていることが感じ取れた。先日の奉仕活動での一件も、彼女はもう知っている様子だ。

「それで、あの噂は本当のことなのか? 中学の先生が一人亡くなったという。それも来海が関係しているとか、いないとか」

「私は……、本当のことはよく分からないんです。先生が亡くなったのは本当。林間学校の時、急に天候が悪化して雨が降って土砂崩れとかあって……。それで五十鈴ちゃんのいたグループの引率をしていたの、その先生。私はその時、別グループだったから。でも、みんなそういうのよね、あの子が殺したって。いい先生だったのにって」

 彼女はそこで言葉を止めた。もしかしたら涙を我慢しているのかもしれなかった。

「あの子はちょっと変わったところがあるから。昔から、変なことばっかり言っているって。それに、ちょっとした事だけど、まわりに怪我する人とか多いし。それで、あんな噂になっちゃうんだと思うけど。誤解だって。こないだのことだって……」

 猛にもそのあたりの事は理解できる。いや、おそらく、猛にだけにしか理解ができないはずだ。例え付き合いの長い親友といえども、理解することは不可能なのだ。あの黒い影のことなど。

「私には何もできそうに無いけど……、きっと先生にだったらできるはず。五十鈴ちゃんを助けてあげて」

「そう、……だな。できるだけのことはやってみないとな……」

 その言葉を聞いて、彼女の丸顔にパッと笑顔が広がった。

「そうよ先生、これはきっと先生にしかできない事なのよ。先生にはなんといっても、愛の力があるんだから!」

「そう……じゃない! おい! 先生をおちょくるな」

「きゃはははは」

 彼女の無邪気な笑い声につられ、猛も思わず苦笑する。そう、自分は目の前の少女のように無邪気に笑う五十鈴の姿を見たいのかもしれない。重い何かを背負ったまま静かに微笑む姿ではなく、普通の女子高生のような屈託のない笑顔を。それに、そう……

「生徒の悩みや問題を解決するのは教師として当たり前のことじゃないか?」

そう思って、少し心が軽くなった気がした。


第四章

 夜半過ぎ、夜の催事が落ち着いたところで神門の邑は静まりかえっていた。三日三晩の大祭の最中とはいえ、四六時中浮かれ騒いでいるわけではない。夜も更ければ人々はそれぞれの邑で眠りにつき、祭りで疲れた体を休め明日に備える。

 この時代の邑は環壕集落という形態をとっている。数戸から十数戸の家屋からなる集落を、壕や塀で取り囲んでいる。集落は穀物や貴重品を保存する幾つかの倉庫や住居、見張り小屋などで構成されている。それは邑の人々の安全と財産を守るためのものであり、出雲の大邑である神門の邑など大きな集落では、壕や塀は何重にも張り巡らされている。多くの場合、入り口は一カ所のみで、一晩中篝火が焚かれ複数の衛士が侵入者を見張っている。

この日の衛士は二人。祭りの最中であり、緊張はゆるんでいる。

 突如、闇からヒュン、という風切り音が飛ぶ。同時に見張りの一人の胸に細長い棒が突き刺さり、短い息を吐きながら倒れ込んだ。

「なっ、てっ敵襲!」

 闇からさらに風切り音が続いて飛ぶ。土笛を吹き警告を響き渡らせた男の背中に二本三本と矢が突き刺さり、ドサリと音を立てて倒れた。それを合図にしたかのように、暗闇の中から十数人の人影が浮かび上がった。彼らは黒装束のうえ、薄い黒布で顔を半分以上隠している。

「いけ! 目標を必ず殺せ! 邪魔する者は殺してもかまわん!」

 一人の男が剣を振り上げ、そして人影が一斉に倒れた二人の衛士と門の間を駆け抜けていく。まだ息のあった衛士が、一人の襲撃者の足を取り後続を巻き込みながら転倒させる。

「このやろう!」

足を捕まれた襲撃者は悪態を付きながら、腰に下げた剣を抜く。逆手に握り突き下ろした。断末の悲鳴が静寂の眠りに落ちていた邑に響き渡った。

 邑内は混乱と狂乱に包まれた。事態を悟って武器を手に襲撃者の前に立ちはだかった者は数少ない。物音に寝ぼけ眼で起きあがり、邑内で打ち交わされる剣撃の音と血の匂いで目を覚まし、悲鳴を上げる。本能的な恐怖に引きつり、外に出たもののなすすべなく立ちすくむ者。血の匂いと悲鳴とに恐れ泣き逃げまどう女子供達。

「雑魚にかまうな。高殿を目指せ!」

 襲撃者達の中央、一人だけ、覆面をしていない男が指示を出す。顔の右半分に大きな刀傷を持つ男で、襲撃者達の中でも一際背が高く、目立つ存在だった。彼自身は抜き身の剣を手にするものの、それを振るうことなく周囲に目を配り続けている。怯えおののく邑人達に紛れ目標が逃げ出すこと、それが彼の最も恐れることだったからだ。

「筑紫の使者は高殿にいるはずだ。必ず殺せ! 逃がすなよ。邑の者は国の裏切り者だ! 邪魔する者は排除しろ!」

 傷の男は声高に命令を出し続ける。部下に、そして邑の者に聞こえるように大声で叫ぶ。

「我らに抵抗する者は、すなわち出雲に敵する者だ! 殺しても構わん!」

 剣と剣が打ち合わされ激しい甲高い金属音が響く。邑の者が打ち倒され、紅い飛沫と血の臭気とをまき散らす。悲鳴と雄叫びが交錯し、襲撃者達は剣を振るい肉を断つ感触と血の匂いとに酔っていく。昼間、豊作と繁栄の祭りに浮かれた邑は、この夜、血と狂乱の宴に染まったのだ。


 環壕集落は邑の人や財産を守るために作られている。そして最も守られるべき者、最も価値のある物は邑の最奥に位置する。高殿と呼ばれる建物はその名の通り高床式の建物であり、様々な物品を保存する場所であると共に、邑の有力者の居館であり、賓客を受け入れるための迎賓館でもある。

その高殿に襲撃者達が迫っていた。邑の者達の抵抗も虚しく、襲撃者の一人が荒々しく高殿中へと踏み込んでいく。同時に悲鳴と怒号とが室内から響き渡った。

「うがぁ!」

 踏み込んだ襲撃者が体をくの字に曲げながら高殿から転がり落ちた。その入り口に一人の男が立ちはだかった。威厳と迫力に満ちた偉丈夫の手には黄金色に輝く剣があった。

「誰だ、貴様らは! ここは神門の邑、我は出雲国王ヒオキと知っての狼藉か!」

 堂々と響き渡るのは神門の首長、出雲の国の長を務めているヒオキその人であった。

「今は出雲の大祭の時。天地の恵みに感謝し、これからの平穏と幸福を神々に願う大切な神事の最中だ。その神事をお前らは汚すつもりか!」

 ヒオキは高殿を降り、手にした黄金色の剣を地面に突き立てる。燃えさかる松明の明かりを受けて、剣は金色に赤く輝く。それは誰も見間違うはずもない、杵築の神事で使われる神の剣。常は杵築に保管されている神剣は大祭の期間のみ、国王が所持することを許されている。その神々しい姿を目にした襲撃者達は一瞬怯む。

「大切な神事の最中だ。このまま速やかに去れば今日のことは不問に処す。貴様らの名も聞かないでおこう。さあ、今すぐに去るがよい」

 ヒオキを中心に時が止まったように思われた。襲撃者も邑の者も誰も動けず、口も開けなかった。それだけの威厳と存在感がヒオキと神剣にはあった。だが、その中でただ一人、顔に傷のある男だけが前へと進んでいった。自然、対峙する二人を邑人や襲撃者達が遠巻きに見守る形になった。ヒオキはその男の顔に見覚えがなかった。

「すべて承知してのことです、ヒオキ殿。我々は、貴方の失策と裏切りを見逃すことができない有志の者です」

「失策と、裏切りだと?」

「はい。我々は貴方の裏切りを許せません。そして愚かな貴方を出雲国の王として認めることはできません」

 男は剣を握り直し剣先をヒオキに向ける。

「長く出雲の王を独占し、私腹を肥やしてきた。自らの望みのために東方に戦を起こし、勝ち戦で得た宝財を私物した。王としての権限を乱用し自らの邑に湊を制限し東西の交易を独占し、そのために筑紫との交易に拘泥し続ける。自らの利益しか考えていない貴方に、出雲国のことを任せておくことはできない。貴方の我欲のために、出雲は邪馬台国の中での地位を失いつつある。このままでは出雲は孤立し、結果としてすべてを失うことになる!」

 男の言葉に反応したのは襲撃者達だった。手にした剣を、弓矢を持ち直し、少しずつ高殿へと歩み寄る。

「それで私を殺しに来たということか」

 ヒオキは皮肉まじりに問いかける。

「そういうことになりますが、それだけでは不十分です。貴方には失策の責任を取ってもらわなければならない」

「失策とは?」

「出雲国内の内乱に巻き込まれ、命を落とした筑紫の使者に対する責任です」

大祭のために筑紫国から訪れた使者達の数人が高殿を抜け出したことはヒオキも聞いていた。どうやら、彼らは密かに北山に向かったということだ。一昨日、大陸から着いた船が邪馬台国と関係あるか、それを調べていたのだろう。筑紫国と邪馬台国は明らかな敵対関係にあり、出雲国の動向は筑紫にとっての重要事である。そして、筑紫の使者達は北山の浦へ忍び、邪馬台国の使者を発見したのだろう。その後、衛士に見つかり、その場で口封じに殺されたと考えてよい。未だに抜け出した使者は神門の邑に戻ってきていないからだ。一国の正式な使者を殺害することは国交を損なう重大事である。起こってしまったことは、すでに取り返しはつかない。ならばせめて、隠滅できる証拠は消しておく必要がある。すなわち、残っている筑紫国の使者の全員を殺害すること。そして、殺害現場を北山ではなく、別の場所とすること。さらに外国の使者が殺害されるだけの納得できる理由を作り出すこと。その納得できる理由、それが出雲国内の内乱、だということだ。

「はっ、なるほどな」

 ヒオキは苦笑気味に息を吐いた。大祭の準備と祭祀のために、ヒオキ自身の対応が後手に回ったのは確かだった。筑紫国の使者達が高殿を抜け出た事を知らされたのは、つい先ほどの事だった。何らかの手を打つ前に、彼ら、襲撃者達と遭遇することになった。それは確かに、ヒオキの失策といえなくもない。

「それでも大祭の最中に内乱を起こす必要はないだろう。多くの他国の者の目もある。極秘裏に済ませばよいのではないか? 八津の衛士よ」

 ピクリと男は反応した。だがそれも一瞬のことで、その言葉と動揺とを掻き消すように大声で叫ぶ。

「無駄話はこれで終わりだ。行け! 筑紫の者は皆殺しだ!」

 命令を下すと同時に、男は剣を振り上げる。その動きと同時に、襲撃者達も高殿に向かって動き始めた。

「ちっ」

 舌打ちしつつ、ヒオキは後ずさる。もはや言葉は無用だった。ヒオキの説得も神剣の威光も襲撃者達には通じない。それだけの覚悟が彼らにはある。いや、とヒオキは考える。それでも出雲で生まれ育った者では神剣の威光に怯まない者はいないだろう。襲撃者達もその姿を臨んだ時、一度は怯んでいる。その中で、全く気後れ無く指揮を執っている傷の男。彼だけはおそらくこの国の者ではない。

「衛士は高殿を守れ! 女子供は出てくるな! 皆逃げろ!」

ヒオキは神剣を構えつつ簡潔に指示を出す。襲撃者がヒオキを遠巻きに避けて高殿へと、再び進入していくのが見えた。残っている衛士がその前に立ちふさがるが多勢に無勢だ。

「ヒオキ様! 下がってください!」

 衛士の一人が傷の男の前に立ちふさがる。ヒオキを背に守るように、傷の男に飛びかかった。

やめろ、とヒオキが叫ぶのと傷の男の剣撃はほぼ同時だった。男の剣撃は迷いなく振り下ろされ、衛士が手にしていた銅剣はただの一合で折れ、彼の腹を裂いた。

「やはり、それは黒鉄の剣か……」

 ヒオキは血に塗れ鈍く光る剣を睨みつける。倒れた衛士の傍らには二つに折れた銅剣が落ちている。出雲国でも一二を争う勢力である神門の邑にあっても、衛士全員に黒鉄の剣を装備させる余裕は無い。ほとんどの者は銅剣や赤鉄の剣を持つ。襲撃者達が少数ながら高殿まで侵入できたのは、鋭く頑強な黒鉄の剣のアドバンテージが大きい。

「そう、黒鉄の剣です。丁度良いハンデでしょう、貴方の剣の腕は出雲国随一と聞いていますからね!」

叫びながら繰り出した男の剣撃は鋭かった。ヒオキは体を反って紙一重で躱す。手にした剣を打ち下ろそうとして、止めた。傷の男はその様子を見て悪辣な笑みを零す。

「神剣などただの飾りでしょう。人々の歓心を得るための虚像。そんな貧弱な武器で、私の黒鉄の剣を止められると思っているのですか?」

 男は間合いを詰め、剣を振り下ろす。その剣閃はヒオキ自身ではなく、手に持つ神剣を狙っていた。剣と剣とが交錯する。ヒオキは相手の剣撃を受け流すように手首をひねると、二歩三歩と後退した。見ると、打ち合った刃先が僅かに欠けている。ヒオキは再度舌打ちする。

神剣は神和祭の間だけ、出雲の王にのみ帯剣を許される。そして神剣を手にする間、他の金属器は身につけてはならないという作法が定められている。その作法に従っている今、ヒオキが今使える武器は神剣しかない。神剣は古来から受け継がれている祭器であり、光り輝く黄金(青銅)で作られている。これに対し、傷の男の持つ黒鉄の剣は大陸で作られたもので、強度が遥かに高い。神剣で黒鉄の剣と真正面から打ち合えば、先に打ち合った衛士の剣のように、その結果は明らかである。

「常であれば、王である貴方は黒鉄の剣を身につけている筈ですからね。私の手に負える方ではありませんが、今だけは違う。愚かにも神などという幻想で人を惑わしているから、その幻想で自らの命を縮めることになる!」

「そうかな」

 男の高説に、ヒオキは不敵に笑う。

「神剣が黒鉄の剣に叶わないと思っているのはお前だけだ。神剣は神の息吹で鍛えられ、天地の神気、人々の願いとをその内に込めている。折れるのは邪な心に満たされたお前が手にした剣の方かもしれんぞ」

「戯れ言を!」

 傷の男は間合いを詰めるために一歩進む。それに合わせるように、ヒオキも一歩下がる。ヒオキは僅かに左足を引き半身にして対峙する。右手に握った神剣を胸の高さで前に突き出す。肘は軽く曲げたまま黄金に輝く剣身はやや下を向き、その切っ先はゆらゆらと弧を描くように揺れる。対する傷の男は黒鉄の剣を頭の上に高く掲げるように、上段に構える。黒鉄の剣は方刃で厚みと重量に勝る実戦的な剣だ。

「黄金で造られた剣など、大陸よりもたらされた黒鉄の剣で断ち斬ってくれる」

 男が叫んだ。彼の剣術は目の前の存在を否定することから始まる。目の前の者を敵視し、その存在を否定する。それによって初めて黒鉄の剣を振りきることができる。迷いは剣撃を鈍らせ、目的を果たすことはできない。

 叫び声と共に男は一歩二歩と踏み出す。ヒオキとの間合いが詰まる。高く掲げられた黒鉄の剣がヒオキに向けて振り下ろされる。同時にヒオキは神剣を黒鉄の剣に合わせるように緩やかに動いた。

 刹那、神剣の輝きが増した。その眩さに意識を奪われた男は、一瞬の後、手にした剣が地面に突き立っているのに気付いた。金属器特有の擦過音が耳に残っている。いつの間にか、ヒオキは二、三歩離れた場所に、これまでと同じように剣を構えて立っている。

 このやろう、と悪態をつきつつ、傷の男は再び剣を振り上げて間合いを詰める。振り下ろした剣は、確かにヒオキを捕えたはずの剣は、再び空を切る。

「何だ? これは」

 男はヒオキを凝視する。黄金に輝く剣を手に構える男を前に、自ら動くことができなかった。決して恐れているわけではない。だが、黒鉄の剣を持つ手が震える。これは畏怖だ。心ではなく魂が、神剣を構えるヒオキの姿に怯えている。

「どうした、先ほどまでの威勢は?」

「……」

「動けないならお前の負けだ。他の連中を引き連れて直ぐにここから出ていくがよい。筑紫のことは王たるこの私が対処する。お前達などが気に病む必要も権限も、最初から無いのだ!」

 ヒオキが構えを崩さないまま、間合いを詰めるように前進する。その威容に圧されたように、傷の男は後ずさった。


 高殿の周囲でわっ歓声が上がった。

「見つけたぞ! 逃がすな!」

高殿の床下で隠れるように三人の人影が動いている。その三人を追うように黒衣の襲撃者達が走る。

「筑紫の使者だ、逃がすな!」

 逃げる三人のうち二人は大人で、先導するように走る一人は少女だ。二人の大人は衣服を取り換えているが筑紫の使者だと知っている。そして先導の少女は見間違えるはずもない、ヒオキの娘だ。

「イスズ!」

 ヒオキの声が届かないほど必死に逃げる三人だが、あっさりと黒衣の男達に包囲される。少女の抵抗も空しく、男達の凶刃は筑紫の使者達に振り下ろされた。

「きゃぁあぁ、やめて!」

 残っていた二人の使者は文官であったらしく、剣を合わせるまでも無く瞬く間に凶刃に倒れた。イスズは男達の一人に捕まり、逃げようと激しくもがく。

「イスズ! やめろ、あの子は関係ない!」

 ヒオキの叫びを聞いて、傷の男は唇の端を歪めるように笑う。

「ほう、あれが貴方の娘さんですか、気の強いことで」

 子供でありながら、率先して筑紫の使者を逃がそうとするなど、普通は考えない。もちろん、邑人に変装し子供が一緒にいれば見つかりにくいと考えてのことだろう。他の大人の発案かもしれないが、実行できる子供はそういない。

「しかし、これで決着がつきましたね。筑紫の使者は全て殺し、後は貴方を殺すだけ」

「……」

 ヒオキは目の前の男を睨みつける。

「しかも、貴方の大切な娘さんはこちらの手にある。どうですか? 一つ取引といきましょう。娘さんの命と貴方の命を交換です」

「やめてよ、放して!」

 イスズは掴まれた腕を振りほどこうと必死だが、大人の力は強く逃れられない。その姿をヒオキは視界の端で確認する。

「娘さんの命が欲しければ、ヒオキ殿、その手にした剣で自分の首を掻き切ってください」

「……」

「やめて、そんなことしないで! 放してよ! お父様! ダメ!」

「早くしないと娘さんの命がありませんよ」

 男が顎をしゃくると、別の黒衣の男が剣先を少女の首筋に突きつける。冷たい剣先が首筋に触れ、白い肌に紅い線が僅かにつけられる。

 それでもヒオキは応えず、静かにただ立っている。その反応の無さに、反対に傷の男が苛立つ。結局のところ、男にとって少女一人が死んだところで何の意味も無い。

「ならばそこを動くな、動けば娘を殺すぞ!」

 叫ぶとともに黒鉄の剣を手に駆ける。ヒオキが動かないことを眼で確認しながら間合いを詰め、剣を振り上げる。

「死ね!」

「お父様!」

 二人の叫び声にもヒオキは動かなかった。まさに黒鉄の剣が振り下ろされる、その刹那、ヒオキの前に人影が立ちはだかった。

 キィィン、という甲高い金属音を立て、黒鉄の剣が止まった。

「何っ!」

 凶刃の一撃を止めた、その人影の背丈は低い。大人とはいえないその人影は、まだその顔にあどけなさを残した少年。その少年は短刀を目前にかざしている。甲高い金属音は黒鉄の剣とその短刀が打ち合った音。俄かに信じがたいことだが、その短刀で黒鉄の剣の一撃を止めている。

「なんだ? こいつ!」

 予想外の乱入者に傷の男は二歩、三歩と下がる。その隙に少年は人々の前を駆け抜けイスズを捕えている黒衣の男へと迫る。予想外の乱入者に狼狽する男に短刀を斬りつけイスズを解き放った。

「うっ、ぐぁっ! このガキ、何をする!」

「タケル!」

 男の悲鳴と、イスズの叫びが同時だった。タケルは助け出したイスズを背に短刀を構える。

「大丈夫だった? イスズ。怪我は無い?」

「うん、大丈夫。それよりも……どうしてここに?」

「うん……、ちょっとね。とにかく、ここは危ないから、少し下がってて」

 警戒を続けるタケルに、四人の黒衣の男達が包囲を狭めてきた。筑紫の使者を斬り裂いた黒鉄の剣からは、未だに血が滴り落ちている。

 その様子を、愛娘を守ろうとする少年の姿を認めて、ヒオキは心の中で胸を撫で下ろす。少年が頼りになりそうな様子を確認して、再び傷の男へと対峙する。

「筑紫の使者の死は残念だが、過ぎた事は仕方ない。だが、これで全てが終わったわけでは無い。私さえいれば、出雲の国の、この難局も切り抜けることができる。いや、私以外の何者も、できはしないのだ」

 ヒオトの声に威厳が戻っていた。その力に、襲撃者達が怯む。

「雇い主に対し、一応の成果を手にすることができただろう。ならば、ここは退け。これ以上の殺生も争いも無駄だ」

 黒衣の男達は明らかに委縮し、浮足立っている。ただ一人、襲撃者の指揮者たる傷の男だけは、ヒオトを正面から睨みつける。

「ふん、意味はありませんね、貴方の言葉には。もともと私の目的は貴方の命だけですから。女子供を人質に簡単に終わるのも癪でしたからね」

 男は、タケルとイスズを囲む男達に顎をしゃくる。男達はさらに二人への包囲を縮めるが、襲いかかってくる様子はない。邑の衛士達、武器を手に襲撃者に立ちはだかった男達も、そのほとんどが傷つき倒れ、今は遠くから見守っている。対峙しているのは、黒鉄の剣を持つ傷の男と神剣を手にするヒオキだけだ。

「今度こそ、貴方自慢の神剣を断ち斬って差し上げますよ」

「何度試しても同じこと、無益なことだ」

 小さく呟きながら眼前に神剣を構えるヒオキに、傷の男は黒鉄の剣を頭上に掲げる。邑人と、襲撃者達と、イスズとタケル。彼らの眼前で、殺気が躍りかかった。

「死ねっ!」

 男は一気に間合いを詰めて、掛け声とともに黒鉄の剣を振り下ろす。ヒオキはその剣閃に合わせるように、ゆらりと剣先を動かす。男の剣撃はタケルが見ても速さ、威力ともに凄まじいものがあった。が、その凶刃はヒオキには届かずに空を切る。ヒオキの操る神剣は緩慢とも思えるゆっくりとした動きでありながら、強烈な剣撃を受け流す。

 目前のモノを否定し断ち斬る黒鉄の剣の直線的な剣法に対し、神剣を手にするヒオキの剣法は曲線の動きを基本としている。ヒオキはその剣先で弧を引き、円を描く。その軌跡は結界だ。剣先の届く内と外、すなわち間合いを把握し境界を結界とする。その内に在るモノの存在を、結界の内の世界全てを掌握し神剣の輝きで包み込む。それはまさしく、出雲国を守護する力そのものであり、神舞であり、荘厳な神剣の威力、そのものである。

タケルは、まるで神剣を中心にヒオキ自身が輝いているように錯覚する。その輝きの内には誰も入ることができない。いや、その結界の内に入ると、その内側の世界に同化しているかのようだ。傷の男がその結界に踏み込むと同時に、その剣撃も殺気も、激烈な凶眼さえも神剣による結界の空間に包み込まれ、ヒオキの意のままに動いているようにさえ錯覚してしまう。

タケルは男の剣技に見覚えがある。大陸のものだ。黒鉄の剣が大陸から持ちこまれてきたものである以上、それを扱う術も大陸のものである。その術を、タケルは大陸で目にしていた。だが、ヒオキのような剣技は初めてであり、タケルは驚きを隠せなかった。それは武器としての剣の動きではない。

「まるで、舞のようだ……」

 ヒオキの動きは、祭祀の場で見た剣舞に似ている。動き自体は緩慢で優雅でありながらも、力強さ、強靭さを感じさせる。光り輝く神剣の描く軌線はヒオキを包み、絶対不可侵とも思える神々しさを漂わせる。この時代、世界のあらゆるモノに神は宿っていると信じられている。精霊と表現してもいい。世界の森羅万象が、大地に、空に、森に、水に、石に、火に、動物に、虫に、そしてもちろん人にも神は宿っているのだ。それを目前で体現している。そう思わせるほど、ヒオキの姿は神々しく輝いて見える。神とは絶対的な強者では無く、世界そのもの、全てのモノを受け入れる広さと柔らかさを持っている。タケルにはそう感じられた。それと同時に、タケルは目前の人物が会いたいと願っていた、昨夜の祭祀で神々しいほどの剣の舞を踊っていた人物なのだと理解した。お父様、と心配そうに呟くイスズの声から、その人物がイスズの父親であり、出雲の首長でもあるヒオキなのだと知った。

不意に二人の動きが止まった。息を乱しているのは傷の男の方のみであり、ヒオキは平然と剣を掲げ持つ。

「ハァ、ハァ、……っち」

 男は苦々しく唇を曲げる。しかし、それさえも乱れた呼吸によって遮られる。

「さすがにやる……。だが、所詮それだけだ。お前の腕がいくら良かろうとも、所詮は神剣、飾り物の黄金の剣で俺は斬れん」

 確かに、とタケルも頷く。ヒオキの動きは男の剣撃に対応するばかりで、彼の方から先に仕掛けることは無い。そもそも、神剣で斬りつけたところで、黒鉄の剣で受けられるだけだ。そして打ち合って折れるのは黄金で造られた神剣の方だ。

「ならば、試してみるか?」

「なにっ?」

「古来より続く出雲の国。その祭祀によって造られ、神々の息吹と人々の祈りによって鍛えあげられた神剣、アメノムラクモ。この神剣で人を斬り裂くことができるか、お前で試してみるか?」

「……」

 タケルは眼を見張った。それまでヒオキを包んでいたような黄金の輝きが、天上に向け立ち上っているように見える。猛々しい怒り。それがヒオキの内側から湧きあがっているように。

「出雲の国におわします、天と地の神々よ。愚かで不埒な者どもを打ち砕くための力を与えたまえ」

 ヒオキは両手で構えた黄金の神剣を天へ突き立てるように掲げた。周囲の光を全て集めたかのように、その剣身が強く輝く。

 世界に広く遍く存在する神々は二面性を持つ。豊穣と実りを約束する慈愛と恵みの顔。そして猛々しく荒れ狂い烈風や豪雨、旱や落雷などの災いをもたらす破壊と恐怖の顔。今のヒオキの変わりようは、その一方、猛々しい破壊の神の顕現だった。傷の男は息を詰め、無意識のうちに後ずさる。

「さあ、出雲の神々、その力を授かった神剣の、裁きの一撃。受けてみるか!」

 ヒオキは憤怒の形相で男を睨めつける。刹那、黄金に輝く神剣が振り下ろされた。その目前で、男は恐怖に動くことができずに立ち竦む。口だけが大きく開いた。

「うわぁあぁああぁぁぁっ……!」

 長大な悲鳴が広場を揺らし、やがて消えた。見守っていた人々は声も出さず、その様子を見守っていた。しばらくして、ザッ、と膝が地面に立つ音が聞こえる。傷の男が力無く膝から崩れ落ちていた。

「すごい……」

 タケルはその光景に魂を奪われそうなほど見入っていた。そもそも、神剣を掲げたヒオキと対峙する傷の男との間合いは、剣が届かないほど離れていたはずだ。では、ヒオキは何を斬ったのか? 言葉で現そうとすれば「男の意識を斬った」もしくは「魂を斬った」とでも言うのだろうか? ヒオキの強靭な意志と神の力を受けた神剣の神気。それが、男の精神を打ちのめしたのだ。

 ざわざわと人垣が揺れる。

「ヒオキ様……」

「さすが我らの、出雲国の王!」

 次第に人々が発する声が大きくなっていく。荒ぶる神の顕現。その一端を眼前で見、その興奮に沸き立つ。

「出雲国王、ヒオキ様!」

「ヒオキ様、万歳!! 万歳!!」

 やがて大地が揺れるほどの歓声となり、邑の隅々まで響き渡る。力無くうなだれる襲撃者の首隗の男と、その目的を防いだ黄金の輝きを纏った出雲国の王。誰もがこの事件の終局を確信したその時、ヒュッと口笛のような音が小さく響いた。

「何だ?」

 実際にその口笛に気付いたのはほんの数人。タケルも気付いたものの、その音を発した者の姿を認めることはできなかった。

 突然、傷の男が動いた。力無く膝を突いていた、その低い姿勢のまま手を突き地面を這い、やみくもに突進して剣を突きだす。今までのような大陸で鍛えられた正統な剣術ではなく、型も何も無い不自然な態勢からの不自然な剣撃だ。突然の凶刃にヒオキは剣を構える間もなく、辛うじて剣先を躱す。姿勢を乱しつつも振り返った傷の男は、虚ろな視線を投げかける。まるで意識が飛び何の感情も無いような表情でありながら、手にした黒鉄の剣を再びヒオキへと向けて突き出す。その動きは先ほどよりも鋭かったが、身構えたヒオキが避けることは簡単だと思われた。その刹那、小さい影のようなものが空を切り、細長い何かがヒオキの脇腹に突き刺さった。

「くっつぅぅ、……何っ? しまっ!」

 ヒオキが脇腹の痛みに意識が向いた隙、その瞬間に黒鉄の剣がヒオキを襲う。ヒオキの動きが、剣撃に対する対応が遅れた。

 ギィィィン

 鈍い金属音が響いた。ヒオキの手にある黄金の神剣が、黒鉄の剣に打ちすえられ、奇妙に歪んでいた。

「お父様!」

 イスズが叫ぶ。思わず飛びだそうとするところを、タケルは手で制した。

ヒオキは左肩を抑え、苦痛に顔を歪めている。その抑えている手の下から紅い血がじわじわと広がっている。ヒオキは男の剣撃を受け止めるためにとっさに神剣を掲げたものの、神剣は黒鉄の剣を完全には受けきれず剣身を歪めるとともにヒオキの肩を斬り裂いたのだ。

 その鈍い金属音に、傷の男が意識を取り戻したように眼の色に生気が戻った。意識が混濁しつつも、手にした黒鉄の剣の手応えと眼前のヒオキの様子とを見比べて、僅かに唇を歪めて笑う。

「はっ、ははっ。無様ですね、ヒオキ殿? 貴方の言う神剣の力とは、結局はこの程度のものだ。弱く、脆く、幻の虚像。いくら神の威信を借りようとも貴方自身、何も持っていない。名もなき私ごときの剣の前にひれ伏すのだから」

 傷の男は黒鉄の剣を突きつける。ヒオキは斬られた肩を押さえながら片膝を突き、僅かに蹲る姿勢で、黒鉄の剣先を見詰める。その眼底には力が残っているが、動く事ができない。ヒオキの足元には奇妙な長細い武器のようなものが落ちている。篝火の光を受けて鈍く光るそれは、槍の穂先を大きくしたようにもみえる。クナイと呼ばれる飛び道具の一種だ。肩の傷だけでなく、クナイ傷つけた脇腹の傷も意外に大きい。タケルは視線を周囲に廻らせるが、クナイを投げた者の姿を認めることはできなかった。

「さあ、いいかげん終わりにさせてもらいましょうか。貴方の首を取りさえすれば、私の仕事は終わりです」

 男は黒鉄の剣を振り上げる。その切っ先はヒオキの首元を狙っている。

「お父様! 逃げて!」

「死ねぇ!」

 男の掛け声とイスズの悲鳴と、二つの声が交錯し、これを断ち斬るように上げられた剣が振り落とされる、その刹那。

「ぎゃぁぁぁ!」

 響いた絶叫は、傷の男のもの。ガランと黒鉄の剣が地面へと音を立てて転がる。何が起こったか、訝るイスズが見たのは自らの手を抑え絶叫する男の姿だ。その手に持っていたはずの黒鉄の剣は無く、手の甲を貫くように短刀が突き刺さっていた。その短刀は、タケルが持っていたもの。皆の視線が、短刀を投げた後の態勢のままのタケルに集まった。男は刺さった短刀に眼をやり、その激痛を憤怒に変えて紅く血走った目をタケルへと向ける。

「このガキが! よくもやってくれたな! お前ら、そのガキを殺せ! 嬲り殺しだ!」

 男の叫び声に黒衣の男達がタケルを取り囲む。タケルとイスズとを逃がさないように囲っていた四人の男達。男達の手には傷の男と同じ黒鉄の剣がある。それに対し、ヒオキを助けるために短刀を投げたタケルの手には何の武器も無かった。

「イスズ! 逃げて」

 タケルは少女の体を力いっぱい突き飛ばす。イスズの小さな体は包囲する男達の視野に止まらず、人垣の中に紛れた。

「タケル! 危ない!」

イスズの叫び声と同時に、タケルを取り囲む四本の剣が同時にタケルを襲う。誰もが、丸腰の少年が無残に斬り裂かれる姿を想像した。しかし、タケルは少しだけ姿勢を低くするように背をかがめ、背中へと手を伸ばす。

 キィィィィン

 その瞬間、甲高い金属音が、長い余韻を残して邑内に響き渡った。その場にいた全ての者が、イスズや邑の人々だけでなく、傷の男や襲撃者達、そして短刀を失い無力な少年を打ち倒す必殺の一撃を放った四人の男達までもが絶句し茫然と立ちつくした。少年を襲った四本の剣。そのすべてが一瞬のうちに叩き折られたのだ。

「なっ、何だと……」

 タケルは一人、表情を殺したまま立っている。その手には黒光りする剣があった。それはタケルが常に背に負っていた長剣だった。タケルは長剣を抜き放ち、そのままの一閃で襲いかかってきた四本の剣を打ち折ったのだ。この国で最も硬いとされる黒鉄の剣を。

「まさか、黒鉄の剣が……」

 茫然と立ちすくむ黒衣の男達の包囲を抜け、少年は傷の男へと迫る。男は腕に刺さった短刀を無造作に抜くと投げ捨て、滴り落ちる大量の血にも関わらず、黒鉄の剣を拾い構える。だが、ただの一合、打ち合わせた黒鉄の剣は、横薙ぎに放った少年の剣にあっけなく叩き折られる。その事実に先の光景が、一瞬で四本の黒鉄の剣が叩き折られるという嘘のような光景が現実だったことを確認させられる。

「くそぅっ!」

 傷の男は後ろに跳び退りながら、周囲を見渡す。共に神門の邑を襲った仲間の半数以上が、既に剣を折られ、あるいは怪我により戦闘不能になっている。これ以上の戦果は見込めそうになかった。男はヒオキと長剣を構える少年を憤怒に染まった瞳で睨みながらも、冷静に判断を下す。

「引け! 全員引け! ここまでだ! 引け!」

 黒衣の男たちはその命令を受け取り、速やかに引き始めた。歩けなくなった怪我人は背負い、まだ戦闘力を保っていた男達が先頭に、一塊になり活路を開く。ヒオキは彼らの追跡を禁じるよう命令を出し、無用な争いを避けた。

 神門の邑、その最奥の高殿の前には、殺害された筑紫の使者達と、争いによって怪我を負った多くの邑人達と彼らの長、逃亡していく黒衣の男達をただ見送った少年とが残された。そして、少年の足元には折られた黒鉄の剣の破片が転がり、その手には黒く輝く長剣が握られている。

「その剣は……」

横腹から滴り落ちる血を抑えながら、ヒオキの視線と疑問はその長剣へと向けられる。タケルは彼の視線にも気付かずに暗い空を見上げていた。

「すみません、お師匠さま……」

 その声は誰にも届かなかった。


 猛は進路指導室の窓際に佇み、これまでにあった様々なことについて考え、そして悩んでいた。子供のころから聞こえている不思議な音。太古の記憶やその生々しい感触。公園の山道で見た、来海五十鈴が怨霊と呼んでいた異常なモノ。来海五十鈴の顔や、天津涼子の言葉が思い浮かぶ。

「人は自分が見た物しか信じられない、か」

 いつか聞いた、友人の言葉を思い出した。猛の見たものは猛にとっての真実だ。それが他人に見えないものであっても、夢の中で見たものであっても、猛にとっては真実だ。猛にとっての真実と他人にとっての真実は異なる。だが、猛と来海五十鈴の真実は同じかもしれない。しかし、二人にとっての真実は、やはり現実といえる代物では、決して無い。どれだけ考えても、幾ら悩んでも、決して答えは出ないだろう。それでも、自分は悩み続けるしかない。

 進路指導室、その窓からは春風に草葉がゆれる山野が見える。ここ西陵学園は中国山地に連なる山腹に建てられている。校舎の北側の窓は日本海側に面しているため、三階よりも高い窓からなら海が見える。そして校舎の南側の窓は中国山地に向いているため、遠く山並みが見える。ただ、この進路指導室は一階に位置する為、窓の景色は濃密な緑の色に覆われている。

猛はふと窓の外を見やるとその瞬間、背筋が泡立った。窓の外に異様な気配を感じとる。

「なっ、何だ? この感じは!?」

 慌てて窓へと駆け寄る。窓を開け、身を乗り出す。校舎の脇には小さな道が続いている。敷地内の管理用に作られている道で、普段の人気は皆無といっていい道だった。その先は学校の裏山へと、鬱蒼と茂った森の中へと続いている。その木々の間へ消える女生徒の人影が見えた。それを見とめて猛は大急ぎで進路指導室を飛び出してその後を追った。

「あの影は……、公園で見た、あれか?」

 猛は確かに見た。森の中に消えた女生徒の周囲に黒い影のようなものが漂っているのを。そして、それは色濃く、以前見たものよりもさらに強烈になっていた。見かけた者が嫌悪感を覚えるほどに。

「まさか、五十鈴が?」

 猛は強い胸騒ぎとともに、駆け足を速めた。


 西陵学園の裏山、そこは広大な私有地となっており、手つかずの原生林が広がっている。陽射しは常緑樹の厚い枝葉に遮られ足元まで届かない。鬱蒼と下草が絡み合い、樹々の間を這うように埋める。足場は不安定なほど柔らかく、奥へと歩を進めるほどに恐れが心中に拡がっていく。

 猛は濃密な影の気配を手繰りながら森の奥へと急ぐ。その気配は異質なもの。人のものとは思えないほど暗く、深い。人の根源的な恐れが湧きあがるが、ある予想への焦燥が押さえつける。

「五十鈴……」

 猛は下草を掻き分けることさえもせずに、先を急ぐ。

 その気配を急に大きく感じた瞬間、視界が開けた。

「五十鈴!」

 深い森の一角、少しだけ開けた場所に人影が立っていた。その影は二人の少女。それが奇妙な形で絡んでいる。制服姿の華奢な少女の両手が、もう一人の少女へと延びる。五十鈴の首へと。五十鈴は苦痛に顔を歪ませながら、首を締め付け手に両手にかける。引き剥がそうと足掻くが、体が揺れるたびにさらに締め付けが強まる。それもそのはずで、五十鈴の両脚は地から浮いている。華奢な少女は五十鈴の首を締めながら、その両腕だけで五十鈴の体を持ち上げているのだ。

「五十鈴!」

「くっ、ぅ……」

 猛はもう一度叫ぶ。その声に反応したように五十鈴の視線が僅かに揺れる。その動きを認めた少女の両手に、さらに力が加わる。その表情には怒りの形相が浮かんでいる。

「園山!? どうして、こんな!」

 その少女に見覚えがあった。受け持ちクラスの生徒、園山ゆかりだ。だが、彼女は今までに見た事のないような、人とは思えないような凶相で五十鈴を睨みつけている。そして、少女の体には黒い影のようなものがたゆっている。

「あれは公園で見た……、そういえば」

 公園での一件の時、園山ゆかりもその場にいた。あの時と同じ黒い影が問題なのか。

「やめろ、園山!」

 猛は叫ぶとともに少女の両手を捕まえる。五十鈴の首から引き剥がそうと力を込めるが、ピクリとも動かない。猛の呼びかけにも、少女の表情は動かない。少女の顔を覗き込む。どこにも視点の合っていない、その瞳の暗さに寒気が走る。その瞬間、猛は強烈な打撃を受け吹き飛ばされた。

「ぐぅ……」

猛は呻きながら起き上がり、二人の少女を見る。二人の後ろに大きな影を認めた。蛇のように鎌首をもたげ、猛を睨みつける。その双眸は紅い。怨念の籠った視線に、猛は一瞬だけ怯む。明らかに異質で、この世界にありえない存在。それが執拗に五十鈴を狙う理由は何だ? だが、猛は悩むよりも、恐怖を感じるよりも先に動いていた。

「その子を、五十鈴を放せ!」

 猛はもう一度園山ゆかりの手を掴もうとするが、その前に黒い影が割って入る。蛇のように長い胴体を激しく振って伸ばした手を弾く。猛はもう一方の手で黒い影を捕え引き剥がそうとするが、その手は黒い影をすり抜ける。あっ、と躊躇した瞬間、脇腹に突き上げるように衝撃が走った。睨みつける紅い瞳と眼が合った。さらに、全身が痺れるほどの衝撃を受けて弾き飛ばされた。

「くぅっ……。なん、なんだ……?」

 その黒い影は次第に色濃く形をとっていく。長くうねるようなその体は暗く吸い込まれるような質感を持つ。その長い胴体の先は蛇の頭のように形どる。双眸だけが異常に紅く輝く。それは燃え盛る炎のようにも見え、また、血の紅さのようにも見えた。その紅い瞳が五対、園山ゆかりを起点にのびた黒い影の先端にあった。いや、今にももう一本の影が伸び、不気味な蛇の形へと変化していく。

 猛は唇を強く噛んだ。あの黒い影はこちらから触ろうとするとすり抜けてしまう。しかし、影の方からは打撃を加えることができるようだ。それでは、こちらからできる事は何もない。いつか、五十鈴は祝詞を唱えて撃退していたが、その彼女は園山ゆかりに捕えられ、声も出せないどころか生死の境にある。自分は祝詞などというものは使えないし、知らない。今の自分に出来ることは何も……無い。

「セ、先……、くっ……、タ、ケル……」

 来海五十鈴の顔が苦痛にゆがむ。猛に何かを伝えようともがく。

「うぅっ、うおおぉぉぉぉお!!」

 同時に猛は駆けだしていた。自分に何ができるかではない。何がしたいか、何を守りたいか。今、心の中にあるのはそれだけだった。

「五十鈴!」

 猛は叫びながら、黒い影へと突っ込んでいった。


 深夜、神門の入り海に一隻の船が浮かんでいた。小舟だった。細くなった月明かりの下、北へと、杵築の邑へと向かう。一人、船の後尾に立ち櫓を握るのは神門の首長ヒオキの長子であるヒオト。中央には怪我の応急処置を終えたばかりのヒオキが、その隣に怪我の具合を心配するようにイスズが寄り添う。船首に蹲り、水先を見張っているのはタケルだった。タケルはちらちらとヒオキとイスズの様子を気にしつつ振り返る。神門の邑で発生した襲撃事件のその夜も明けぬ間に、彼らは小舟に乗り、今ここにいる。襲撃者が去ったのち、ヒオキは治療を受けながら、情報収集と邑人達への対応を部下の公人や息子たちへ指示を続けていた。イスズは助けに駆けつけてきてくれたタケルを気にしながらも、ヒオキの治療を手伝っていた。この場に居続けるか、それとも去るか。基本的には部外者であるタケルが迷っているうちに、ヒオキから呼び止められた。救援に駆けつけてきてくれた事に謝辞を述べるとともに言葉を続ける。

「こちらから礼もしないうちに申し訳ないが、もう少し手伝ってもらいたいことがある。今少し、待ってもらえないか」

 タケルは諾と答えた。しばらく慌ただしく人々が動いたのち、小舟が用意されて乗り込んだ。それまでの間、神門の邑人達はタケルを遠巻きに眺め、話しかける者は無かった。彼らの視線は好奇と不信と感謝と侮蔑と、さまざまな感情が混じった複雑なものだった。

 そして今、タケルは湖上の舟にいる。これまでに見てきたこと、己の感情、これから起ころうとすること、自分が何を為さなければならないのか、様々なことを思い悩みながら、いつの間にか長剣を背から外し飾り気の無い鞘の表面を撫でていた。

「その剣を見せてくれまいか?」

 不意に声がかかった。タケルは振り返ると、傷の治療の跡が痛々しいヒオキと眼が合った。彼は簡単な応急処置を受けただけで、着替えることもなくこの船に乗った。流れた血が黒く変色し、肩口を染めていた。

「いや、唐突だったか」

 タケルが一瞬、どう答えるか躊躇したところでヒオキは頭をかく。

「その剣は大陸のものだろう。黒鉄の剣を叩き折る。それほどの剣を見た事は無い。おそらく、大陸の進んだ技術で鍛えられたものなのだろう」

はい、とタケルは答え、手にしていた剣を、柄を先にしてヒオキに向けた。

 ヒオキとタケルは一度頷いてから、ヒオキは鞘に手を伸ばして受け取った。柄に手をかけて、慎重に抜き放つ。

「ほぉ」

 感嘆の声をあげたのはヒオキだけでなく、櫓を手にしていたヒオトからもあがった。柄や鞘に装飾は無く実直な仕上げであったが、その刀身もまた、実戦に即した簡素で剛直な造りだった。刀身は寸分の歪みなくまっすぐに伸びる。厚い棟を持つ片刃の直剣。直線的で剛直ではあるが、刃先には雲のように複雑な刃紋が浮かび地金にも板目のような模様がある。それらが月光を受けて不思議に輝き、凛とした美しさを発している。

「こ、これは……」

 ヒオキは切っ先から柄元まで刃先を眺め、呻くような声を出す。そこには傷は全く見当たらなかった。出雲の国では最も硬いと言われていた黒鉄の剣を五本も叩き折り、刃こぼれ一つない。それを確認すると、ヒオキは丁寧に剣を鞘に戻す。

「なるほど素晴らしい剣だな、これは」

「はい、これは……、僕の師匠が鍛えたものです」

「ふむ、ならば鍛冶師になるための修業を? 君は確か須佐の郷の出自だったな、狭井のタケルといったか? 修業は無事に終わったようでなにより」

「……」

 タケルは絶句して動きを止めた。まじまじと目の前にいる出雲の国の首長を見つめる。それだけの重責と地位を持つ者が自分の名を知っているとは思わなかった。

「何故、僕の名を?」

それだけ絞り出すように問うと、ヒオキは簡潔に答える。

「大陸に向かう船はすべて神門の湊から出立する。大陸への船旅は想像を絶するほど危険な旅だ。大陸での生活もな。その中で家族のため、仲間のため、郷里のため、国のために何かを得ようと、自分の命を危険に晒してまで旅立つ者たちがいる。国長である私が彼らの事を覚えていなくて、何の面目が立とうか」

 タケルは思わず頭を下げた。熱い思いが瞳に込み上げてきてしばらく間、顔を上げることができなかった。

「この人なら、やはり……」

 そう心を決め、顔を上げる。

「ヒオキさま。一つお願いがあります」

 タケルはヒオキの顔を正面から見つめ、問いかけた。

「その剣、貴方様に受け取ってはもらえませんか?」


 杵築の邑、御柱の祭祀場では二夜目の神事が続いており、そろそろ終盤に差し掛かっていた。二夜目の神事は『神問い』である。杵築の巫覡が神がかりによって憑依した神の言葉を受け取るという。その祭祀場から少し離れた場所、この時間帯では人がいるはずのない場所から、深夜にもかかわらず人々のざわめきが聞こえてくる。集まっているのは杵築の神官や五大邑の有力者たち。本来なら日が天頂に届いてから集まり出雲の国の政事について合議する場であったが、今は緊急の要請で集められていた。ただ、神門の首長、すなわち出雲国の国長でもあるヒオキだけがこの場にいない。慌てて参上し、ようやく集まったばかりの人々はそれを不審に思い、また急な招集を不安に、それぞれ手近な者と低い声で囁き合っている。

 不意に本幕の外が騒がしくなり、そして幕が上がり四人の人物が入ってきた。神門の首長、すなわち出雲国の国長でもあるヒオキ、彼の息子であり後継者とも認められているヒオト、ヒオキの娘であり巫女でもあるイスズ、そしてタケル。全員の視線が彼らに集まる。ヒオキは全体を一眺めしてから歩を進める。血の気の失せた顔は松明の灯りで認めることは難しく、これまでの疲労を感じさせない足取りが、ヒオキの威厳を支えていた。ヒオキは国長である所定の席に着くと、ヒオト、イスズ、タケルの三人がその後ろに控えた。

 ヒオキはゆっくりと会場全体を眺めまわす。杵築の最高位神官であるアラサキと高位の神官達、神門に次ぐ勢力を持つ八津の首長であるイサキ、久多見の首長であるタキギ、伊志見の首長であるクラミ、東出雲の代表であり意宇の首長のナムチ。出雲国を動かす重要な人々全員がこの場に揃っていた。

「大祭の中、このような時間に緊急に集まってもらって皆には申し訳ない」

 作法どおり、ヒオキは第一声を述べる。合議の場は静まり返り、皆が彼の言葉を待っている。

「だが、最初に一つ確認しておきたい。本日、この緊急の合議を呼び掛けたのは私では無い。どのような経緯でこの合議が開かれることになったか、皆に知らしめておきたい。話はそれからだ。誰がこの合議を仕掛けたか、自らの行いに恥じ入ることが無ければ名乗り出るがよい」

 居合わせた人々はお互いに視線を合わせて首を傾げる。彼らは国長であるヒオキからの要請と聞き、ここに集まったからだ。本来、予定外の合議を開く権限は国長にしか認められていない。

「名乗り出ぬか? イサキ殿?」

 ヒオキは傍らに着座する八津の首長であるイサキへと睨みつける。

「少なくとも、私には使いの者をよこしてくれただろう。韓人の使いを。彼はもう少しばかり、礼儀作法を身につけた方がよい」

 皆の視線がイサキへと集まる。俯いた両肩がわなわなと震えている。上目づかいに周囲を見やる。深夜の静けさが拡がっていく。

「私が……」

 イサキは俯き、誰にも目を合わせないまま立ち上がった。誰へともなく言葉を発する。

「私が、皆に使いを出した。そう、私が皆をここに集めた、集まってもらった……」

 それは特定の誰かに向けて話しかけているようには見えなかった。いや、話しかけている相手は人ではないのかもしれない。口の中で幾語か呟いて、おもむろに顔を上げた。吹っ切れたように、表情に震えは無い。

「私が皆に使いを出しました。そう、緊急の案件があったからです」

 一度、そう言葉を区切って集まった人々を眺めまわした。ヒオキを除き、皆、困惑の色が濃い顔が並んでいる。

「皆さんは既にご存じのことと思います。一昨日、大陸との交易船が湊に着きました。その船にはさる重要人物が乗船していました。すなわち、邪馬台国から魏へと送られた外交使、ナンショウメ殿、さらに大陸は魏の国、その使者殿です」

 ざわ、と合議の場が騒いだ。ほとんどの者がその事実を知らなかった証左だった。

「彼らは今、ここにはいません。どなたかからの指示で北ツ海の小浦に留め置かれ隠蔽されています。我が出雲は邪馬台国と同盟関係にあるはずです。邪馬台国と協力し、大国である魏との国交を望み、使者を出しました。本来なら国賓として丁重にお迎えすべきこと。しかし、実際の処遇は見てのとおり。これはどなたの差し金でしょうか?」

 参加した代表者達が、互いに密かに囁き声を交わす。その中で、悠然とイサキはヒオキを見下ろす。

「そしてもう一つ。昨夕、一つの事件がありました。大切な魏の使者を迎えていた浦に侵入者が現れたのです。幸い、使者殿には大事なく事すみましたが、その侵入者が問題だったのです。浦の衛士は彼らを捕えようとしましたが、侵入者からの猛烈な反撃を受け、仕方なく彼ら全員を殺害するに及びました」

 イサキは一度言葉を区切る。居並ぶ者達を十分に焦らす。

「その侵入者は筑紫の者でした」

 ううぅ、という呻き声が響いた。邪馬台国と筑紫国との争乱のことは、皆が知っている。

「彼ら全員とは? この度の大祭には筑紫から多くの使者が来ていたはずだが。それも、正使は国賓待遇で迎えていたはずでしたが……」

「全員とは、もちろん全員です。正使も副使も従者も。出雲の大祭に参加していた筑紫国の者、全員です」

 再び、合議の場に呻き声が大きく響いた。告げられた事実は大きい。一国の使者の全てを殺害したとなると、それを口実に筑紫国との戦がいつ開始されても不思議は無い。少なくとも交易は断絶されるだろう。居合わせる者たちは、ただ互いの顔を見合わせるだけだ。

「さて、ここで一つ問いただしたい。筑紫の使者を受け入れ、彼らを遇していた方はどなたでしたか? 魏と邪馬台国からの重要な使者を小浦に押し込める権限を持つのは? 筑紫との関係強化を唱えていた方はどなたでしたでしょうか?」

 イサキは身振り手振りを加え、皆の視線を集める。そして、イサキが首を振り視線を移すと、皆の視線も自然にそこに集まった。

「ヒオキ殿。貴方、でしたね。魏と邪馬台国の使者を小浦にとどめるよう指示を出し、交易を独占したいがため、筑紫の国におもねっている方は。その上に彼らを保護することもできず、この出雲の国を窮地に陥れている方は」

 全員の視線がヒオキに集まる。その視線には猜疑と詰問、苛立ちの色が強く混じっている。

「私からの話は以上です。さて、ヒオキ殿。出雲の国長としての見識と判断を願います」

 そう言葉を括ってイサキは席に座る。演説の出来に満足そうに、胸をそらすようにゆっくりと座る。――出雲の首長は私こそが相応しい――ヒオキが他邑の代表達の厳しい視線にさらされる姿に軽い優越感を覚え、そう独りごちる。


 ヒオキはイサキの話を、目を閉じたまま聞いていた。腕を組んだまま微動だにしない。タケルは彼の怪我の状態を心配してしまうほどだった。しかし、皆の応えを求める視線に応じて目を開け、両手を卓の上に置いた。

「まず、皆には落ち着いてもらいたい。確かに、この国を取り巻く状況は様々で、今がその重要な転機にあることは確かである。だからこそ落ち着いて皆が知恵を振り絞り、その上で我が国の行く先を決めていきたいと思う。出雲に住まう人々の命運を預かっているのは我々だということを、肝に銘じておいてもらいたい」

 そう堂々と、そして宣言する。

「まず最初に明白なる罪人の処遇を行う。八津の首長、イサキ殿。この者は国長の名を騙り、合議を収集した。この行為は国長の権限を侵したこと明白である。よって、只今を持って首長より解任する。速やかにこの合議から退出せよ」

 ざわ、と場の空気が揺れた。「なっ……」と名指しされた当のイサキは荒々しく立ちあがり、そして絶句する。

「規則を侵す者の語り口を信ずることはできない。人の上に立ち、国の行く末を決める者として相応しくない。それは皆、共通の思いであると考えるが、どうか?」

 ヒオキはゆっくりと居並ぶ首長達を見渡す。

「ヒオキ殿、少々、お待ちください」手を軽く上げ、発言したのは、伊志見の首長、クラミだった。

「先ほど、イサキ殿がおっしゃられた事は事実なのですか? もし真実なら彼を解任するのは……」

「規則を侵す者は信頼を失う。その言に重みを失う。貴方が改めて真偽を問いただす必要にかられるのも理解できる。ただ、本件に関しては、彼は事実と異なることを発言しているわけではない。だが、それをもって、彼の立場が変わることは無い」

「しかし……」

 クラミはヒオキとイサキの二人を交互に見比べる。

「しかし、それならば、今がまさに緊急の刻。今後の対策においても、八津の首長であるイサキ殿の存在が重要なのではありませんか。今すぐ、合議の前に退出……というのは、いささか早急ではありませんか?」

「クラミ殿は今が緊急の事だから、人の罪を許せと、そうおっしゃる? 罪を曖昧にし、決まり事を平気で破る者の判断に従い、国の緊急の危機に自分達の未来をゆだねることができると。そうおっしゃる訳ですか?」

「……」

 無言で引き下がったクラミに次いで、久多見の首長、タキギが発言を繋げる。

「しかし、我々は何も知らなかった。大陸の使者の事も、筑紫の使者の死も。イサキ殿のおかげで、こうして知ることができた。その功もあるのではないか? それをもって……」

「功、とは? 何をもって功とする」

「それは、ですから、貴重な情報を我々にもたらした……」

「もう一つ、私からも重要な情報を提示しておこう。昨夜、神門の邑に侵入者があった。彼らは黒衣に身を包んだ正体不明の者達だった。その者たちが、衛士を含めた邑人数十人を殺傷し、そして邑の最奥、高殿にて就寝中の筑紫の使者二名を殺害した。イサキ殿の話には間違いは無いが重要な点が欠けている。使者の全てが北山に入り込み、そこで侵入者として抵抗し殺害された訳ではない。明らかに、彼らを抹殺せんとする者達が神門の邑、その奥深くまで侵入し筑紫の使者に襲いかかったのだ。その筑紫の使者を殺害した黒衣の者たちは何者か? 彼らは黒鉄の剣を手にしていた。そうでなくては筑紫の使者を殺害することも、少人数で邑の最奥まで辿り着くことはできない。黒鉄の剣を提供できるだけの後ろ盾がいるはずだ」

 ヒオキはヒオトに指図し、布包みを出させた。開くとその中には二つに折れた黒鉄の剣がある。襲撃者達が使い、タケルが折った剣だ。その柄の造りが神門の邑のもので無いことを、ヒオトは説明する。合議の場は血で汚れた剣を前に驚きと事の重要さを改めて感じとり、言葉も無い。

「そして最後に重要なことだ。そもそも、筑紫の使者の全員が殺害されたことを、何故イサキ殿は知っていたのだ? 私自身、その黒衣の集団に襲われ、その後すぐにこの合議へと足を運んだというのに?」

 居並んだ首長達は声も無く、ヒオキを驚きのまま凝視する。

「簡単な話だ。その黒衣の襲撃者に指示を出したのが、イサキ殿、その人だからだ」

 一人、イサキだけが顔を紅潮させてヒオキを睨みつける。向けられる他の首長たちの疑いの視線に明らかに狼狽している。

「そ、そのようは話……、は、私は知らない。何も報告は、受けていない」

 しどろもどろに弁解がましく口を開け閉めする。竦めた首を左右に揺らし、他の首長達の様子を窺う。向かいの席、ヒオキの顔を認めると一瞬だけ動きが止まり、大きく息を吸った。

「いや、そうだ……。そのような話は聞いていない。それは、嘘、作り話だ」

 イサキは周囲からの猜疑の視線を打ち消すように顔を上げた。

「そうだ、ヒオキ殿の話こそ作り話ではないのか? そもそも、この出雲の国でも五指に入る大邑を襲う者がいるのか? さらにその最奥まで襲撃者が侵入し、筑紫の使者を殺害したと。それほどの事件があれば大きな騒ぎになるはずではないか? ヒオキ殿の話には真実味が無いうえに、どこにも証拠がない!」

「いや、証拠ならある」

「ほうっ、その襲撃者どもを捕えたのかね!」

 ヒオキはイサキの荒げた言葉を受け止め、ことさらゆっくりと話す。

「いや、襲撃者達は周到な準備をしていたようだ。彼らを捕えることはできなかった。しかし神門の邑に戻れば争った形跡は残っているし、我が邑人の死傷者が多数存在する」

「そんなもの、自作自演が可能ではないか! 自分達で暴れ邑人を傷つければいい!」

 イサキのあまりの暴言に、他の首長達は首をすくめ、鼻白んだ。上気し怒鳴りつけるようなイサキに対して、ヒオキは冷静に言葉を返す。

「証人もいる」

「はっ、どこにそのような者が? それに邑の者の証言など、身内の証言などなんの証拠にもならんわ」

「証人はここに」

 ヒオキは後ろへタケルの方を向き、手を差し伸べた。それに頷き、タケルは半歩踏み出す。

「これなる者は、須佐の里、狭井のタケル殿だ。襲撃者の来襲に偶然居合わせ、彼の協力も得て彼らを退けることができた。我が邑の恩人でもある」

 他の首長達はタケルの姿を見て眉を顰めた。襲撃者を撃退した恩人というには年若い。さらに、タケルの身なりは彼らの姿と大きく違う。髪は乱雑で短く切りそろえられ動きやすいが粗末な衣を纏う。思い思いに染色した上質な衣に長髪を型どおりに結い、様々な小物をあしらい着飾っている首長とその取り巻き達と対照的だった。イサキは短く息を吐く。

「ふん、山人ではないか。そんなもの、山人ごときの証言が何の意味があろうか」

 イサキの言葉は明らかにタケルへ侮辱を含んでいた。山人とは文字どおり山に住む人々のこと。狩猟と採集による旧態的な生活を営んでいる古い人々、との考えが、邑に住む人々には拡がっている。自分達は平地に邑を作って定住し、耕作を中心に日々の営みを続け安定した生活を続けている。大陸と交易し先進的で文化的な生活を手に入れている。そう考えている彼らは、古い考えに固執し、山野を徘徊して貧しい暮らしを続けている人々を山人と呼び蔑んでいる。

そのような意図で吐かれたイサキの言葉を、しかし、タケルはそれを平然と受け止めた。逆に、血が上ったのは、横に控えていたヒオトとイスズの二人だった。

何を、と声を荒げようとしたところに、ヒオキが手で抑える。

「須佐の郷、狭井のタケルです。祭祀の関わりも政に参加できる身分も無く、この場には似つかわしくないと御考えの方々もいらっしゃると思いますが、今は危急の時、賢明な皆様には御容赦いただくよう、よろしくお願いいたします」

 タケルは自ら進み出て、礼儀に則り丁寧に頭を下げた。見た目のみずぼらしさと相異なった礼にかなった挨拶に、参集者達は呆気にとられた。

「私はこの度の神和祭に合わせてこの出雲へと来ました。神門の邑近くの知人にお世話になっているところ、邑に異変を感じ、駆けつけました。邑での出来事についてはヒオキ様の御説明のとおりです。ヒオキ様の御説明に過不足するところ御座いませんので、あえて申し添えは致しません」

 失礼しました、と再度頭を下げてタケルは二歩ほど下がる。下がったところで横からの視線に気付き横目でイスズを見ると嬉しそうにほほ笑んでくれた。それだけで、タケルはこの場に居合わせ、イスズやヒオキのための役に立てた事を喜ばしく思った。

タケルの言葉に虚を突かれ茫然としたままのイサキや参集者達が異論をはさむ間もなく、すぐにヒオキは言葉を続ける。

「証人を認めてもらったところで、続けて、これを見てもらいたい」

 ヒオキは徐に立ち上がる。

ヒオキは手にしていた布包みをゆっくりと解く。その中から黄金色の輝きが現れる。その全てが顕わになった時、その場に居合わせた全ての人から声が漏れた。

「お、おおっ……」

「……これは」

 その場に現れた物は、黄金色に輝く神剣。しかし、その輝きは血と泥にまみれ、剣先は欠け、刀身は歪み曲がっている。祭祀の要として威容と神秘性に満ちた姿は、いまや見る影もない。

 その中で大きく声を荒げた者がいた。杵築の神官であるアラサキ達だった。

「うっ、おおああっ……、まさか、神剣が……、このような御姿に……」

「こっ、これでは祭祀が続けられぬ……、神々の御怒りが……収まらぬ」

 傷ついた神剣を茫然と見つめる視線は、困惑と自失とがないまぜになっている。荒げた声に高まった鼓動が落ち着くほどの時間をおいて、彼らの視線にはやがて恐れと畏怖と、そして怒りとが浮かんでくる。その怒りの矛先は、やがてヒオキへと向けられる。

「神をも恐れぬ行為とは、まさにこのこと……」

「ヒオキ殿、これはどういうことか。貴方ほどの方がこのような不始末を」

「これは、これは前代未聞のこと。我が目を疑う……」

 悪し様に向けられる言葉をヒオキは黙して受ける。ややもして神官達の言葉が落ち着いたところで口を開く。

「これは先ほどお話ししました襲撃において、正体不明の襲撃者の手において傷つけられたものです。彼らは神剣の威光を、神々への崇敬も、持ち合わせていなかった。我が邑で思いのままに暴れ、外国の使者に手をかけ、そして神々の尊厳をも穢し、逃げて行ったのです。それがどれほどの罪か、分からぬものはこの場にはいないでしょう」

 ヒオキは居並んだ首長達を見渡し、そしてイサキのもとで止める。強く威厳に満ちた視線は、イサキの視線を惑わせる。

「この国で神和の祀りを穢すような者はいません。ならば、ヒオキ殿、神門の邑を襲った者達というのは、出雲の国の者では無いのでは? つまり、神門の邑の人々による自作自演では、少なくとも無いという」

 それは杵築の神官の一人の発言だった。ここに同席した神官の中では位は低い神官だ。さらに彼の言に頷いたのは意宇の首長であるナムチだ。

「ならば、それと同様、襲撃者達が八津の者であったとは証明できないのでは? 神和の祀りには多くの外国の者が出入りしている。つまり、その中の一部だったと」

「いや、しかし、外国の者が筑紫の使者を殺害する理由は……」

「襲撃者の出自と襲撃の目的が一致する必要は無いでしょう。この国の者であっても、外国の者に襲撃を依頼すれば済むこと。もちろん、他国の勢力が別国の者を雇うということもあり得るでしょう。例えば、筑紫と対立している邪馬台国、さらに言えば邪馬台国の主張に同調しているある首長殿、など。さらに言えば、この襲撃が神門の邑による自作自演だとしても、襲撃者を外国の者に依頼すれば問題無く可能だ」

「いや、ナムチ殿、そのような例えは……」

 ナムチの言葉に、皆、戸惑いの表情を隠せない。議論が進めば進むほど、何が真実であるか、何を疑えばいいのか分からなくなってくる。

 なるほど、とタケルは一人、心の中で頷く。合議の当初、ヒオキが越権的な合議の招集という規則破りによってのみイサキを批判し、退出を迫った理由はここにあったのだと。それ以外の罪など、たとえ数十人が死傷した神門邑への襲撃においても、首長のイサキ自身が剣を振るい襲ったとの証拠、証人が無ければ、短時間での追及は難しい。イサキの合議の招集は、唯一、この場で起こった明白な規則破りだったのだ。だが、それも次々と明らかになる複雑な状況に掻きまわされ、話し合いは漂流を続けている。

 互いに迷い、不安な視線を重ねている人々の中で、ヒオキは冷静に合議の様子を観察している。意外にも、ヒオキのほかに数人、冷静な者がいることに気づく。先に論議していた意宇のナムチと位の低い神官の二人だ。少なくとも、直面している事実のみを分析し、先を見通せるだけの思慮深さがある。

「これまでの事、神門の邑への襲撃の事実や実行犯、彼らを教唆した首謀者などについては、今後、調査を行いましょう。今、ここで話し合いを続けても結論は出ません。明らかに情報不足。話し合うだけ無駄というものです」

「確かにそうですね。それよりも、今後の対処について考える必要があるのでは?」

「今後の対処とは?」

「当面の問題は二つ。一つは筑紫国への対処。使者達の殺害についてはヒオキ殿、イサキ殿のお二人の口から証言があったことですから、事実なのでしょう。ならば、使者の問題も含めて筑紫国との今後の外交をどうするか? これを機に明確に邪馬台国に属すると表明するか、これまでと同様、筑紫国との交渉を続けるか。それが一つ」

 筑紫国との交渉を続けようと思えば、相当の苦労が予想される。かの国の外交使節殺害の真相を暴き、首謀者を捕え、筑紫国への相当の謝罪を行わなければならない。例え真実でなくとも、形だけでも先方に納得ができる理由が。それでも、これまでと同様の外交関係を維持することは難しいだろう。

「もう一つは祭祀のことですね。神和祭はまだ終わっていません。三昼夜行われる祭祀の、その二夜目までしか終わっていない。そして三夜目の祭祀は……」

 ナムチの言葉に、ヒオキ以外の首長達は初めてそれに気づいたように驚きの声を上げた。祭祀は祭器をもって執り行われる。祭器を通じて人は天地の精霊と言葉を交わし、神々の声を聞く。最終日である三夜目の祭祀では『神送り』の祭祀が執り行われる。『神迎え』によって祭祀場に呼ばれた神々を、送り返す儀式だ。この出雲の国に招来した神々を丁寧に送り返さねば神々の怒りを呼ぶことになる。その時、『神迎え』で用いた祭器を用いて神々を送り返す。それこそが礼にかなっている。そしてその『神迎え』で用いた祭器は神剣アメノムラクモであり、目の前に置かれ穢され傷ついた神剣なのだ。

 神官長であるアラサキは、これまでの議論に参加することも無く、肩を震わせて神剣を見詰め続けている。怒りと屈辱とに耳まで紅潮させて何かに耐えている様子だった。だが、それを機に一度に爆発した。

「ヒオキ殿! 貴方は何ということを! だから、だから私はあれほどに反対したというのに!」

 突然立ちあがり、声を荒げる。

「我らが代々伝えてきた神剣を! 王の威信と称して持ち出し、それをこのように穢し! ああっ、これでは祭祀を執ることが出来ぬ。神々は御怒りになる! やはり祭祀は我ら杵築の巫覡の手でのみ執り行うべきだったのだ! これでは神々の声も聞けず、出雲の地は恵みを受け取ることもできぬ。ヒオキ殿、この責任を、どう取ってくれるのか!」

 激情が通り過ぎ、沈黙が戻った。常に冷静に神事を司る神官長の、このような荒い振舞いを見ることも初めてであるし、それよりも問題は、今の神官長にかける言葉も返答も持ち合わせないからでもあった。その答えを持ち得るのはただ一人、ヒオキだけだ。

「問題は無い……祭祀は続ける」

「なんとっ」

「神剣は傷つけられたが、その本質が失われたわけではない」

 ヒオキは皆に冷静になるよう鎮めながら話す。

「神剣はその名のとおり剣であり、武器だ。では武器の本質とは? 我らにとって大切なものを脅かす敵、それを打ち倒し斬り臥すものではないのか? その武器としての本質に、自身の傷や返り血など、誉であっても価値を貶めるものではない。現にこの神剣は神門の邑を守るために、その力をよく発揮してくれた」

 だが、と立ちあがりかけた神官長を、後ろに控えていた神官が抑える。

「祭祀は終わっていない。傷ついたこの神剣で祭祀を続ける。もし、それで無事に祭祀が終われば、この神剣はこれまでと同様の輝きを放つ祭器であることが証明されるだろう。外交の事は祭祀の後で決議すればいい。今祭の神問いの結果、『神送り』の儀式を経て、それをもとに判断すればよい」

 各々の首長の集まりの中で小さな声が囁き合う。声には僅かながらの安堵が含まれている。当面の、具体的な一つの方針が示されたためだ。ただ一人、神官長のアラサキだけが表情に不平を浮かべて問う。

「ヒオキ殿。いや、出雲国王ヒオキよ。この祭祀が失敗すれば、何とする?」

「そのときは」

 ヒオキは立ちあがる。力強い、その立ち姿と意思の籠った瞳。その姿はタケルの記憶に焼きつくほど強く、印象に残った。

「そのときはご随意に。どのような形でもかまいません。責任はとらせていただきます」


 心の御柱の祭壇は、急に慌ただしくなった。三夜目の祭祀を、予定を繰り上げての祀りとなったためだ。理由はいくつかある。筑紫国使者の殺害のこと、祭器である神剣が穢されたこと、神和祭の最中にもかかわらず神門の邑の襲撃で多数の死傷者が発生していること、可能性として祭祀が失敗する恐れがあること。それらの事を可能な限り外部の者に知られずに処理するために、最小限の人員で祭祀を執り行う必要があるためだ。祭祀に招待もしくは集まっている他国の人々に疑惑を持たれることは免れないが、それでも正確な事実や明確な証拠は隠す必要がある。それともう一つ、ヒオキの体調のことがある。

「お父様、大丈夫ですか……」

 イスズは手にした綿布でヒオキの額の汗をぬぐう。その肌が冷たい。イスズは心の中で父の無事を祈る。

 襲撃の際に負った傷は応急処置止まりだったし、それまでの失血が多い。松明の灯り程度では判別しにくいが、相当に血色が悪いはずだ。だが、そのような様子は見せず合議を乗り切った。おそらく、あの場にいた者達の誰もヒオキの怪我には気付かなかっただろう。

 だが、座ったままでよい合議はともかく、祭祀は問題だった。祭祀を全うする為には、一夜目と同様、神舞を舞う必要がある。略式で執り行うとしても、相当の負担を与えるはずだ。

 イスズの思いとは関係なく、祭祀の準備は進んでいく。

 カーン、カーン。

 鈴の音が祭祀場に、御柱が聳える空に、杵築の森に、出雲の国に響き渡る。

 不意に響き渡るその音に、まるで木々が窺うように梢がざわめく。雲の流れが速い。もう一刻もすれば夜が明けそうなほどの時刻であるが、厚い雲が日の出を遮っているかのようだ。

 カーン、カーン。

 タケルは何か、不安と恐れのような複雑な感情が体の内から登ってくるのを感じた。神和の祀り、その一日目の厳粛さはこの場には無い。刃渡りのような危うさと、不明の未来へと繋がる闇への恐れ、無数の気配に囲まれ、ザワザワと居心地の悪さを感じていた。

 カーン、カーン

 鈴の音が鳴る。出雲の国の神和祭。その三夜目の祭祀が始まる。


 略式で執り行われる祭祀は、その全てが簡素に、そして順調に進んでいく。

 祭祀を始めるために祭祀場を清める儀式である四方の儀にはイスズともう一人の巫女だけが祭場に登り舞を納める。一日目に見た盛大な舞とは違い、舞も短くすぐに終わった。関与する巫女や巫覡の人員も最小限に抑えたい、政治上の駆け引きがそこにはある。幾らもしない内に、ヒオキの姿が壇上にあった。やはり顔色は蒼白であったが、立ち姿に揺らぎは無く、自信と威厳とに満ち溢れているように見えた。その手には穢れを払い落された神剣が握られている。両者は傷ついているものの、その輝きは失われていない。

鼓が鳴らされ鐘が鳴る。壇上の黄金に輝く神剣がゆっくりと動き出した。土笛の調子に合わせてヒオキが一足を踏み出し、舞が始まる。

 その剣の舞は、一昨日の舞に比べ力強さと荘厳さは及ばぬものの、鋭敏さと迫力に満ちたものとなった。ヒオキは負傷によって失われた体力を気力で補っている、いや、残った命そのものを燃やし、繋いでいるように見える。その姿を認め、イスズは掴んでる自らの衣を強く引き寄せる。隣に頼りになる人の姿が無いことが、父であるヒオキやタケルの姿が無いことが、いっそう不安を掻き立てられる。イスズは巫女として祭祀の場を補助しなければならず、舞台のすぐ脇で、こうして一人、不安に耐えるしかない。しかし、その不安に耐えながら、彼女は気丈にも目を逸らさずに舞台を、父の姿を見続け、無事を祈り続けている。

 タケルは一人、四方に張り巡らされている真柱の結界のすぐ外側から、その祭祀を見守っている。タケルは祭祀とは何らかかわりが無いため、結界の内側に入ることが許されなかった。

「何が彼にここまでさせるのだろう」

 タケルの心の内に、ふと疑問が湧いた。襲撃者の手によって傷を負った体で、自己の都合ばかり並びたてる合議を取り仕切り、そして命を削ってまで祭祀を完遂しようとする。それは何のために為そうとしていることなのだろうか? 出雲という国を守るためか? 神門の邑の人々のためか? それとも自己に課せられた使命を達成すべきと思いつめているのか? 名誉のためか? 単なる意地か? どこかで諦めることはないのか? 逃げようと思ったことは?

 どこまで問いかけても答えは無い。それは多分に己への答えが欲しかったからだ。自分は彼のように芯の通った、信念を持った実直な生き方ができるだろうか? 自分の決断に揺るぎなく、確信を得ることができるだろうか? 彼の様になりたい、その切っ掛けが欲しい。

 風が強くなり、木々が怯える様に鳴り始める。厚い雲は降ってきたように近く、より一層早く流れていく。どこか高いところから遠雷が響く。いや、海が荒れ、海鳴りが響いているのかもしれない。

「兆しが……」

 視界の隅にとどめていたイスズの、小さな声にタケルは気がつかなかった。

 『兆し』とは、人の手では実現不可能な出来事、すなわち奇蹟のことだ。それをこの時代の人々は天空に住まう神々の足跡であり、天地の精霊のざわめきであったり、先に逝った祖先の霊の忠告であると考えてきた。そして大きな神事では、そういった出来事、『兆し』が現れやすい、とも考えられてきた。『兆し』とは神々にしか為し得ない出来事なのだから、この祭祀に本当に神が迎えられ、この祭祀場にいるのならば『兆し』が現れるのが当然だ、と考える人々も多い。『兆し』には特に決まった現象が当てはまるわけではない。過去には、虹が出た、天候が急変し霧雨が降り始めた、逆に晴れ渡った、鳥の大群が上空を飛び去って行った、という他愛のないものも『兆し』とされてきた。天が急に輝きだし太陽が二つ昇った、紅くきらびやかな鳥の群れが現れ御柱にとまり羽を休めた、芳しく甘い匂いが祭祀場を包み込んだ、などといった不思議な現象は、特に『瑞兆』と呼ばれる。祭祀一日目のヒオキの剣舞も、神々が乗り移ったかのような神々しい舞、ということで『兆し』である、と噂されているのをタケルも聞いていた。確かに、黄金の光を纏い神剣を手に舞うヒオキの姿は神々しかった。自らが光を放ち、黄金色の恵みを人々に振り撒いているよう、そう思わせるだけの不思議さがあった。

 そして、今も、ヒオキの舞には黄金の輝きが舞っているように感じられる。

 だが、イスズは一人、何かを感じ取ったように天を見上げる。空は厚い雲が低く立ち込めており、月光も星明かりもない闇空だった。ただ、時折強く吹く風が厚い雲をねじらせ、蠢かしている。その天上で何かが瞬いた。

「いけない、この兆しは……凶兆!」

 イスズが小さく叫んだ。刹那、颶風が吹き荒れ、灯されていた松明が全て消えた。天上の雲は厚く、祭祀場に闇の帳が降ろされた。強い風が真柱に吊るされた銅鐸をゆすり、甲高い、不協和音を響かせる。その音は精霊達の悲鳴にも聞こえた。

「うわっ、何だ! 風が……」

「灯りが消えたぞ! 急いで点けろ」

「何だこの風は。こんな風は……、まさか……、凶兆?」

「神の怒りだ、神々は我らに御怒りになった! 神剣を傷つけた罰だ。神は我々を御許しにならない!」

 真の暗闇の中、突然の出来事に誰もが慌てふためいていた。『凶兆』ももちろん、神々の『兆し』の一つだ。人々の祭祀を妨げるほど、神々は怒っている、と。荒ぶる神々に人の声は届かず、ただ、災いが過ぎるのを待ち、祈るだけだ。

その中で、タケルは背後から人の気配を察し振り返った。何らかの強い意志を持った気配。タケルは一人、背後の森へと駆け込む。タケルは生来、夜目が利く。苦労すること無く、森の中に人影を認める。見覚えのある、いや、慣れしたんだ人影。

「……兄さん」

 暗い森の中、仁王立ちに待っていたのは、タケルの兄、ハヤトであった。その表情は読み取れないが、強い怒りの感情が渦巻いている。

「タケル、お前は何をしている? 言ったはずだろう、郷に迷惑を掛けるなと。一族の皆を裏切るような真似をするなと」

 タケルはハヤトの背後に複数の気配を感じる。それらの気配にも、幾分、殺気だった気配が混じっている。それを感じ取って、神門の邑での襲撃の場での、一つの引っかかりが解けた気がした。

「兄さん……。ハヤト兄さんこそ、分ってるの? 須佐の民が何で出雲の政に関わって、それもこんな時に、こんな場所で……」

 神門の邑を襲った黒衣の襲撃者、その指揮者であった傷の男は、一度ヒオキに倒された後、奇妙な動きを見せた。自分の意思を持たない、まるで、夢遊病者のような、操り人形のような……。それは操心術とも呼ばれ、所謂、催眠術である。その知識は大陸から須佐の郷へと、極秘にもたらされていることをタケルは知っている。さらに言えば、ヒオキを傷つけたクナイも大陸から須佐の郷にもたらされた道具の一つだ。

「僕らの役目は、郷の人々の役に立つ、皆の生活を楽にするための技術を大陸に求める事だったんじゃないの? それなのに、何で、出雲の政に関わろうとするの!」

 猛の問いかけに、兄の影は無言のまま立ち続ける。後ろの複数の気配が動くのを感じたところで、その口が開いた。

「……タケル。今はその問い掛けを口にするな。何も聞かず、黙って郷へ戻れ。お前が学んだ大陸の技術を族長に報告しろ。全てはそれからだ」

「待ってよ、兄さん! そんな、どうして? これから何をしようというんだよ? まさか……」

 タケルはその考えに至る。操心術もクナイも、使われていたのは神門の邑の襲撃だ。彼らの目的と、須佐の者が繋がっているのならば……。

「兄さん達の目的は、出雲の首長、ヒオキの殺害!? まさか、やめてよ、兄さん!」

「族長の決めた事だ。俺もついさっき知ったばかりだがな。とにかく、タケル! お前は手を出すな。神門の邑での事は郷の者から聞いて知っている。何であいつらのような平良たいらの連中をお前が守らなくてはならないんだ?」

「それは、兄さん……。あの人は僕が知りたい事を、まだ知らない事を、教えてくれるような気がするんだ。だから……」

「お前こそ分かっているのか? タケル。あいつらは、俺達を生口にして貢物にしようとした連中の仲間なんだぞ!」

 それは大陸での出来事になる。邪馬台国の使者は、筑紫国の目を避けながらの魏との交渉に難儀していた。漸く、交渉が軌道に乗り、都へと出立する時点で準備していた資金のほとんどを使い果たし、貢物の捻出さえも不可能になっていた。魏と邪馬台国との距離は膨大。しかも、主要なルートは筑紫国が押さえている。そこで、邪馬台国の使者と案内人である出雲の公人が考えたのは、大陸にいる倭人を生口として扱い、貢物として用いるという方策であった。当然、大陸にいる倭人は生口ではない。つまり、「彼らを騙して魏の都に連れて行き、黙ったまま生口として引き渡してしまう」という卑劣な考えであった。当時、大陸の進んだ技術を学ぶために半島にいたタケルとハヤトは騙されて魏の都まで連れて行かれ、貢物として引き渡される直前に、タケルの兄弟子に助けられ、事なきを得た。しかし、他の人々はそのまま貢物として魏に献上されたのだ。すなわち、男の生口四人と女の生口六人、が。

 ハヤトはその時の記憶を、生口として扱われようとされていた事実を思い出すたびに、屈辱に震える。その屈辱を晴らすことと、現在の須佐の族長の方針は合致しており、ハヤトには族長の決定に否は無い。

「だけど、兄さん……」

 タケルの反論の声は小さい。兄、ハヤトの気持ちが理解できるからだ。だが、それでも、タケルにとってヒオキの存在は大きい。

「それでも、兄さん。お願い、あの人は殺さないで……。たぶん、あの人の気持ちは決まっている。あの人の、出雲国王としての姿を、もっと見たいんだ……」

 タケルは頭を下げる。ハヤトの後ろには殺気立っている男達が二人の様子を窺っている。無防備なタケルの姿に、ハヤトは腰に提げた剣に手を伸ばしかけて、そして止めた。

「俺はお前の兄だ。だから……お前には少し甘いのかもしない」

 ポツリとそう言って振り返った。遠ざかる足音と共に、森の中の男達の気配が消えていく。鬱蒼とした静けさの中に一人、取り残されたタケルは、いつまでも頭を下げていた。


「早く灯りを灯せ! 早くだ! 何をしている!」

「なにも、何も見えんぞ! ああ、神よ、許したまえ」

「ああ、もう出雲の国は終わりだ。このことを、神問いは……」

 暗闇の中、祭壇は喧騒と静寂という奇妙な状況に陥っていた。生き物の吐く息のように不規則に生じる颶風により、祀場の灯りは消えたままだ。森の梢は大きな気配に慄く様に怯えた声を発し、どこからかくぐもった様に鳴り続ける遠雷が焦燥感を煽る。恐怖と罪悪感に包まれた神官達の悲鳴と、何とかして灯りを点け祭祀を再開したいと努力する巫覡達、混乱し、ただ慌てふためくだけの首長と公人達。しかし、彼らの喧騒は祭壇の周囲だけであり、その中央、いま、まさに祭祀が執り行われていた舞台上は静寂そのものであった。そしてもう一人、その舞台を静かに見守っている、いや祈っている少女がいる。

「遍く天地に拡がる精霊たちよ、私たちの祈りの声を届けたまえ。出雲の国に御座します神々よ、私たちの祈りの声を聞いてください。お父様、どうか……」

 イスズは周囲の喧騒も耳に入らないほど、一心に祈る。彼女が見詰める舞台上には神剣を手にし、祭祀を舞っていたヒオキがいるはずだ。必死に祈りながら、その場所を凝視し続ける。舞台上からは物音一つ聞こえてこない。ヒオキが、彼女の父親が無事であるか、確かめるすべがない。

「どうか……お願いします」

 カッ、と空が輝いた。あっ、と思う間もなく金色の輝きが目の前の全てを埋め尽くす。直後、ドンという破裂音が両耳を圧迫する。落雷だ。厚く天を覆っていた雲から、金色に輝くエネルギーの塊が大地に、今まさに祭祀が行われていた舞台上に降り立ったのだ。

 雷、いかずち、怒つ神、人々に災いを為す荒ぶる神、その化身。その顕現に、祭祀に集っていた人々は、声も無く茫然と立ちつくす。その輝き、力強さ、破壊力はとうてい人の為しうる業ではない。そしてその猛威は、人々に一瞬の衝撃を与え消え去る。

舞台中央に、人の姿が見えた。天を仰ぐように見上げ、微動だにしない。その姿は、最前の祭祀を執り行っていた、神舞を舞っていた人物と同じであった。

 おお、と人々から歓声が上がる。人々にはヒオキの姿が見えている。しかし、祭祀場の灯りはまだ点いていない。篝火は颶風で消し飛ばされ倒れている。

「おお、あれこそ……、まさに、神の姿……」

 灯火もなく、ヒオキの姿が見える。それは灯火以外の光がこの場にあるからだ。神剣。ヒオキの手にある神剣『アメノムラクモ』が黄金の輝きを発し、祭祀場全体を照らしていた。


 黄金に輝くヒオキの姿を、タケルも見た。祭祀場へと戻ってきた刹那、稲妻が落ちたのだ。目も眩むような雷の衝撃にタケルは立ち竦み、その衝撃が過ぎ去った後は、祭祀場を茫然と眺める他なかった。光り輝く神剣とヒオキの姿。天まで届くほどの御柱を背にし、その鮮やかな朱に浮かびあがるような姿は、まさに、天から神が降り立ったかのよう。その光景に、ただ見入るほかない。


「お父様!」

 イスズの声には喜びと不安の色が混じる。父は無事に舞台に立っている。しかし、その舞台に雷は落ちた。そこにいたはずの、雷の直撃を受けたはずの父は無事なのだろうか?

 その場の皆が注視する中、ヒオキは動かない。風が弱まっていた。カサカサと僅かになる梢の音が、逆に雷の巨大な衝撃の強さを思い起こさせる。誰もが最悪の事態も想像した。

 ドン、と、その音が不意に聞こえてきた。ドンドン、と聞こえるそれは大地が震えているかのよう。ドン、ドドンとリズムを打つような音は、やがて、舞台の上から聞こえてくる。

 舞台上のヒオキがゆらりと動いた。黄金の輝きが頭上高く掲げられる。その両足は舞台を、強く大地を踏みしめる。神剣の切っ先がゆっくりと弧を描く。その動きに合わせたように、風が動く。

カーン、カーン、と不意に祭祀場を包み込むように甲高くも柔らかい音が拡がる。四方の柱に取り付けられた銅鐸の音が響き渡る。森の木の葉が歌うように波打つ。ヒオキは黄金に輝く神剣を掲げ、ゆるりと神舞を舞う。その光景は、祭祀場の全てが一体となったような、いや、出雲の自然と天地の精霊達と繋がっているような、そして神そのものが顕現したような、神秘的な光景だった。神剣の動きに全ての音が、世界が調和している。

杵築の神官達、祭祀を執り行う巫覡達、ヒオキを追い落とそうと画策する他の首長達、公人達、その場に居合わせた人々は、その神秘的な光景を声無く見詰めていた。いつの間にか、あれほど厚く出雲の国を覆っていた雷雲は消えている。暖かく柔らかい風が吹き流れていた。輝く金色の矢のように朝陽が舞台上に差し込み、ヒオキと神剣を照らす。

『吉兆』それは誰が見ても神の御業としか思えない光景だ。

そして神舞は終わる。出雲の神事、春の神和祭は、この時を持って、無事に終えることができたのだ。


舞台を降りたヒオキに数人の人影が駆け寄る。多くの人々は信じられない光景に、ただ茫然と立ち竦むだけだ。イスズは真っ先にヒオキの体を労わるように支え、タケルは彼らまであと数歩のところで足を止めた。タケルにはヒオキの想いが、そしてこの次にするべき事が分かっている。

「お父様、大丈夫ですか?」

 イスズとヒオトの子供二人に支えられながらも、ヒオキは立っていた。その息遣いは、あれだけの舞を終えた後にしては平静だった。

「お前たちも手伝ってくれたからな。イスズ、お前も立派な巫覡になったな。お前の母のように」

「いえ、私など、まだまだ……」

 ヒオキは微笑する。それは我が子の成長を喜ぶ父親、そのものの顔だった。

「ヒオト、後このことは頼むぞ」

 はい、と応える息子の何かを決意したかのような真摯な眼差しを確認して、ヒオキは満足そうに頷く。

「では、私も最後の仕事にとりかかるとするか」

優しく笑みを返す父親の表情に、イスズは一抹の不安を覚えた。


「今ここにいる皆に聞いてもらいたい」

 朗々とヒオキの声が響き渡る。神和祭、その三夜の神事に集まっていた人々の視線が、舞を終えたばかりのヒオキに集まる。

「出雲国の神和祭、その祭祀は無事、滞りなく終わった。我らの声は天地の精霊に届き、海の恵みも実り豊かな田畠の収穫も約束してくださった。我らの声は天上の神々にも届き、神問いにお言葉を頂き、今後の国の行く末も示してくださった」

 おお、歓声ともいえないようなどよめきが広がる。

「これでまた一年、出雲の国の人々も平穏に過ごすことができるだろう。また同時に、倭の他の国々とも、協力して事を為すことがかなうだろう」

 ヒオキは一歩、二歩と皆の視線を受けながら進む。傍らをすれ違うように佇んでいたイスズは陽光に照らされて気付く。ヒオキがそれまで立っていた、その足元には赤黒い染みが拡がっている。何かに弾かれたように振り返り、父の背を見詰めた。

「だが、その道のりは決して平坦なものではない。それは様々な兆しが、精霊達の声が、皆に教えてくれたものだ。我らはなお一層、この出雲の国の人々のために、力を合わせて祭祀を、政を執り行っていかなければならない。それを肝に銘じてくれ」

その手には陽光を受けて黄金に輝く神剣アメノムラクモがある。

「しかし、この度の祭祀には様々な不手際があった。出雲国の王として、力が足りなかったところもあったと思う。貴方方が不満に思うところも知っている。しかし、我々はそれを乗り越えて未来に進まなければならない。個人個人の思惑など捨てて、彼我を信じ、一致協力しなければならない」

「したがって、今回の全ての責任は国王である私一人がとる。皆の意見を最後まで聞くことができず申し訳ないが、許してほしい」

 そう言って深々と頭を下げる。

「お父様……」

 イスズの呟きが、その体が小さく震えていた。その背を優しく受け止める手があった。タケルだった。

 ヒオキは手にした神剣を持ち上げ、その黄金に輝く切っ先を首筋に当てる。ヒオキは一同を見渡す。何の憂いも無い、澄んだ表情だった。誰もがその視線を、彼の想いを受け取ったと思えた。

「お父様! やめてー!」

 イスズがあげた叫び声と同時、ヒオキの手に力が加わり、鮮血が迸った。

 やめて、と叫んだイスズの体から力が抜ける。倒れかけたその体を、タケルは後ろから支えるように受け止めた。


 晴れ渡った空に、いくつかの雲が流れている。西から東に。海から陸へと。湿り気を含んだ風は、杵築の邑を覆い被るように聳える北山にぶつかり、上昇流となって雲を生む。雲はいずれ大きくなり、雨を降らし大地への恵みをもたらす。現に、出雲の邑々は日照りや渇水に悩んだことは無い。だからこそ、出雲国、杵築の邑は、国の隅々まで大地の恵みをもたらす神聖な場所なのだ。

 そんなことを考えながら、杵築の邑を、邑を包み込むような北山を、北山の緑に浮かぶように高く聳える朱の御柱を、その背後に何処までも拡がる北ツ海を、タケルはぼんやりと眺めていた。神門の邑、その南側に緩やかに続く丘陵に、タケルとイスズとは立っていた。神和の祀り、その最終日は本来なら昨日行われる予定だったのだが、実際にはその前日に終わっていた。急な日程の変更に、予定されていた参列者が集まれず、不満に思う者も多くいたが、出雲国王ヒオキの死を知らされると、皆、厳粛な表情で両手を合わせるのだった。

 銅鐸の音が出雲の空に響き、山々に木霊する。二人は足元へ、丘陵のふもとへと視線を移すと、長い葬列が見えた。神門の邑の巫覡達を先頭に、邑の首長を、先王の死を悼む人々が長い列を作り、ゆっくりと歩を進めている。巫覡達に囲まれて運ばれているのは朱に染められた木棺だった。その中に、イスズの父が納められている。

「一緒に行かなくていいの?」

 タケルはイスズの顔を見ないよう、話しかけた。

 イスズが、うん、と頷くのがわかった。

「祭祀はスセリ様が執り行っているし、私は……、今は、邑の皆に会いたくないから……」

 そう、とだけタケルは応える。二人は静かに通り過ぎる葬列を眺め見る。葬列は出雲国の国王としては華やかさに欠けるかもしれないが、一邑の首長としては規模の大きいものだ。特に、参列した人々が多く、ヒオキへ寄せられていた期待の大きさと、交流の広さを思い知らされる。神和の大祭が終わった直後ということもあってか、国外の人々も多く参加している。邑の子供たちや、足の弱い老人達までが、列からはみ出、難儀しながら随行する様が見える。それらの人々の想いを受け止めるべき人物が、あの棺には納められており、その事実がタケルにも、心に厳粛なる想いを湧きあがらせる。


 ヒオキの棺を運ぶ葬列は、いつしか通り過ぎてゆき見えなくなった。やがて葬儀の開始を知らせる銅鐸の音が響いてくる。この時代の有力者は、大きな塚を作りそこに葬られる。

本来、出雲国王の塚であれば国を挙げて築かれた巨大な墳丘に葬られるのだが、今回はさまざまな事情から、神門一族の集合墳墓へと棺は運ばれていった。襲撃で命を失った者達の棺も、やはり同様に運ばれていく。葬儀では、巫覡たちが死者の鎮魂の儀式を行う。一連の祭祀が終われば、集まった人々には簡単な酒肴が用意され、振舞われる。これは別離の儀式ではなく、黄泉の国への旅立ちを祝い、旅の安全と黄泉の国での平穏な生活を祈り、その後の再生を望むための儀式なのだ。

この時代、北ツ海の遙か西方、海の彼方に死者が行き着く国があるとされている。黄泉の国、と呼ばれるその場所で、死者は魂を清め、再びこの国に生まれるための準備をしているのだと言われている。それゆえ、死者を葬る場所は黄泉の国を望む事ができる、北向きの高台とされ、身分が高いものほど高い場所に塚が築かれる。

死者が再生のために訪れる黄泉の国。それは、太陽が遙か西の水平線の先へと沈んでいくことから連想されたのだろう。大地に恵みをもたらす太陽は、日没によって一度死に、日の出と共に再生する。人の命もまた、同じように再生してほしいと願う心が現れている。もちろん、一度大陸へ旅をしてきたタケルには、そんな国は存在しないことは識っている。だが、そう信じている人々の死者への心遣いは大切にしたい、そう思えるのだ。


 出雲の山々に木霊する銅鐸の音を聞きながら、タケルとイスズの二人は穴を掘る。そこは、眼下に出雲の国々を見渡すことができる丘陵の斜面の中腹。神門の邑だけでなく、出雲国の隅々の邑まで、杵築の祭祀場や御柱、出雲国を守るように聳える北山、そして蒼く広がる北ツ海まで。それは、イスズの父、ヒオキが命をかけて守りぬこうとした国のすべてである。

 イスズは傍らに置いてあった布包みを手に取り、そっと広げる。布地から零れるのは黄金の輝き。姿を現したのは黄金の神剣。ヒオキが祭祀で用い、神門の邑への襲撃の際に傷つきながらも守り抜き、命を削ってまで祭祀をやり遂げた、その神剣アメノムラクモだった。本来なら神剣は、いや全ての祭器は祭祀を執り行う杵築の巫覡のみが取り扱うものであるが、今回の事件を通じて傷つき穢れたとされた神剣は、杵築の巫覡の手を離れ神門の邑に下賜された。イスズは、首長代理に指名された長子のヒオトに願い出て、この神剣を手にしている。自身の手で父の、ヒオキの魂を鎮撫するための祭祀を執り行うことを許された。それはヒオキにとって、一連の事件で手を貸してくれたものの、邑の葬儀に参加できないタケルへの配慮と、感謝の形だったのかもしれない。

「お父様、安らかに眠ってください」

 イスズは黄金に輝く神剣を静かに穴の底に置く。穴の底は厚く粘土を張り、朱色の顔料を塗っている。これは、死者の埋葬と同じ方法だ。朱の色は天空に光り輝き大地に恵みをもたらす太陽の色であり、人の生命の源である血の色でもあり、利器となり人の経済活動に恩恵をもたらす鉄の色でもある。神聖な朱は御柱の色でもあり、最も貴重とされている色である。

「お父様、ここから私達の事を見守ってください。お父様が守ろうとした国の行く末を、私達のこれから進む道を、照らし導いてください。貴方が安心して見ていられるよう、私達も心を尽くしていきます」

 タケルも黙礼する。出雲国の儀礼は知らなくとも、死者を悼む心には変わりがない。

「ヒオキ様、安らかに」

 それだけを想い、口にした。タケルがヒオキと会い、直接、会話を交わしたのはほんの僅かな。だが、その記憶は心の深くに残っている。


「その剣、貴方様に受け取ってはもらえませんか?」

 神門から杵築へと向かう小舟の中、黒鉄の剣を検分するヒオキに、タケルはそう語りかけた。首長らが集まる合議へと向かう、深夜の入り海での会話だ。

何故? と問いかけるヒオキに、タケルは応える。

「この剣は……、この剣は僕……私の師匠が鍛えた黒鉄の剣です。師匠は私の修業を始める前に言いました。『剣は所詮、人殺しの道具だ』と、『剣を鍛えることは人を殺めることと同義、お前にそれだけの覚悟があるのか?』と」

 タケルは僅かばかり眼を逸らす。僅かに顔を顰め、唇をかむ。

「自分は答えられませんでした。それでも師匠は、私に鍛冶師としての業を教えてくれたのです」

 三年の歳月。師匠は、その業を惜しむことなく伝えてくれた。

「そして修行が終わり、それでも答えを見出すことができませんでした。今でも悩み、迷っています」

「けれども、私は貴方の剣舞を見ました。恐れ多いことながら、杵築での祭祀を覗いていたのです。貴方の舞は、……そして神門の邑での戦い。剣の持つ力、人殺しの道具ではなく、人のために活かす。国を守り、人を助け、そして希望になるような……」

 目を閉じれば、ヒオキの姿が鮮明に浮かんでくる。神々しく輝く神剣アメノムラクモ。そして威厳と確信に満ちた堂々たるヒオキの立ち姿。

「その剣は、国に帰ることとなり、師匠と別れるときに受け取ったものです。ですが、私には、この剣は相応しくない。自分には重すぎて……辛いのです」

 ヒオキの口元には苦い笑みが浮かんでいる。自嘲気味に息を吐いた後は、俯き加減のタケルを見やる。

「国を守り、人を助ける、か。君もこの剣を使って成し遂げてくれた、そうではないかね?」

 その言葉に弾けるようにタケルは顔を上げる。ヒオキは優しい眼で、まるで子供をあやすような表情でタケルを見詰めていた。

「君は、私と娘のイスズとを守ってくれたではないか。この剣と、君の勇気で。君のお蔭で、私とイスズ、それに多くの人達の命が救われた、神門の邑は襲撃者達に蹂躙されず威信を保つことができた。それも全て、君のお蔭だ」

「だけど、僕は……」

「この黒鉄の剣は素晴らしいものだ。しかし、君の想いも行いも、それと同等に尊いもの。そうではないかね? それに、今の私は、これらを受け取ることはできない。私には君とは違う、為すべき仕事が残っているのだから」

 ヒオキは、黒鋼の剣を素朴な鞘に納めさし出す。師匠が鍛えた剣を目前にタケルは手を伸ばし受け取ることも、拒否し逃げることもできない。

「迷っているのか?」

 タケルはその言葉に顔を歪める。そう、タケルはいつも迷ってばかりだった。鍛冶師の修業を終え師匠にこの剣を渡された時、北ツ海を東へ故国へと向かう船の中で、神和の祭祀を覗き見ながら、黒衣の襲撃者と剣を交えながら、そして今、憧憬にも似た思いを抱くヒオキを目の前にして。兄には小言のように言われてきた。「それもこれも族長の指示だったろう」「俺達の帰りを待っている郷の皆のことを考えろ」「これ以上、迷う必要などあるか?」と。兄の言葉を理性では理解はしつつも、感情はうまく収まってくれなかった。その言葉を、苦い記憶として思い返す。

「ふむ、迷うことは悪いことではない。君にとって重要で、それだけ大切に思っている事なのだろう。迷うだけ迷うがいい。自分に納得がいくまで、な。そして、自分自身が納得したところで決めればいい」

 それは、これまでに思いついたことの無い言葉だった。兄の言葉から、悩み、決断をしないことは悪だと、漠然と考えていた。その暗い影が、取り払われたように思えた。

「ただ、今回は君に選択の余地は無い。私は君の願いを聞くわけにはいかないのだ。私にはその時間が無い」

 ヒオキは左手をゆっくりと脇腹に当てる。クナイによってつけられた傷は、応急手当しただけで今も僅かだが血が滲んでいる。ヒオキの覚悟を前に、タケルは言葉を発することもできず、さしだされた黒鉄の剣を受け取った。

「君には悪いが、私からもう一つだけ願いをさせてもらえないだろうか。助けてもらった礼を返さないままで悪いが……」

 ヒオキはタケルの耳元に口を寄せる。

「我が娘を、イスズのことをよろしく頼む」

えっ、と驚いてタケルは身を引く。

「これは私の我儘だ。君には迷惑をかけてばかりですまない。だが、君が少しでもイスズのことを気にかけてくれるのなら……、すまないが、よろしく頼む」

「しかし、僕は神門の邑の者でもなく……、私は山人です……。彼女は出雲の巫女で貴方のような地位の高い方の娘で……」

 タケルの疑問はもっともだった。出雲の国で巫女の立場は大きい。政を行う公人と同等か、位によってはそれ以上の責任と崇拝を受ける身である。しかも自分は出雲国で何の身分も無く、さらに山人だ。だが、ヒオキにとってはそれも含めての我儘らしい。ヒオキは無言のままタケルを見つめている。そして一つ、頭を下げた。


タケルにとって、かの人の姿勢や行動、言葉には大きな影響を受けた。もっと早く出会い、もっと長く話ができればよかった。そう悔やんでも悔やみきれないところがあった。今も黒鉄の剣はタケルの背にある。その重みを、その重みに相応しい人物へと預けることはできなかったが、かの人の言葉によっていくらかでも軽くなったのは確かだった。

 イスズは祝詞を唱えながら、神剣に土を掛けていく。祝詞は魂鎮めと天地の精霊の調和とを永く願うものだ。華奢な手が小石に傷つき、泥に塗れるのも構わず、涙を堪えながら一人、儀式を続けるイスズの姿に、タケルは深い愛おしさを感じた。ヒオキの最後の願い「イスズのことをよろしく頼む」という言葉を思い返し、胸の中が熱くなる。


「ありがとう、タケル。ここまで付き合ってくれて」

 二人は新しくできた小さな塚を前に立っている。目の前には広く、出雲の国が拡がっている。

「本当に迷惑かけて、助けてくれるばかりでごめんなさい」

 小さく俯きながら話すイスズに、いや、と首を振る。

「いや。僕の方こそ悪かった。お父さんの事、邑の人々の事。僕はもっと、何か出来たのかもしれない」

 悔しい思いが残るのは、自分の力が足りなかったと思うせいだ。あの時こうしていれば、あの時もっと自分に力があったら、こんな思いはしなかったのに。そう感じる自分がいる。

「ううん。タケルにはとっても感謝してるわ。あの時、邑が襲われている時に、タケルが来てくれなかったら……、もっと大変なことになっていたと思うから。お父さんもきっと感謝してる。ありがとう、って」

「うん、そうだったら嬉しいけどね」

「もちろん、そう思ってるわ。私は出雲の巫覡よ。天地の精霊、神々の声だって聞こえるんだから、お父さんの考えてることくらい、分かってるわ。タケルにはとっても感謝してる。いくらお礼をしても足りないくらい。お父様だけじゃなくって、邑の人達だって、気持は同じはずよ」

 少女の言葉の真摯さに、タケルは笑みが零れる。

「うん、ありがとう」

「それは私達の言葉だわ」

「うん。だけど僕もヒオキ様にはいろいろなものをもらったんだ。だから僕からも言わせてほしいんだ。ありがとうって」

「分かったわ。じゃあ、どういたしまして」

 二人は思わず笑みが零れる。

 風が強くなってきた。海からの冷たい風も、やがて春の訪れとともに暖かくなっていくだろう。そう、季節は移ろい刻は流れる。生きているかぎり未来がある。残された自分達は、続く未来へと歩みを続けなければならない。どれだけ深く思い悩み、不本意な決断を迫られようとも、先へ、先へと。自分達は進まなければならない。

-ヒオキ様、貴方の願い、確かに受け取りました。僕達の行く末を見守っていてください-

 そう、心の中で呟き、二人で空を見上げる。何処までも蒼く透きとおった空に、白雲が湧きあがっていく。

「八雲立つ、か」

 遠く、何処からか鈴の音が響いてくる。


カーン、カーン

鈴の音が響く―人々の願いを受けて―刻の境を越えて--

 

「うぅっ、うおおぉぉぉぉお!!」

 猛は大声で叫びながら何度目かの突進を強行する。既に打ち身と擦り傷だらけの四肢は疲労の限界に達し、立ちあがるたびにふらつき、筋肉は悲鳴を上げている。だが、それにも関わらず、タケルは両足に力を込めて突進する。死に瀕した五十鈴と、彼女を捕える園山ゆかりと、その間に立ちはだかる紅い眼を輝かす大蛇のような黒い影へと。

「こいっつ! っがはぁっ!」

 大蛇の影が目の前に躍り出、猛の腹部へと突き当たる。その衝撃に息が止まり、さらに別の大蛇が側頭部と脇腹へと打撃を与え、猛の体は五メートルばかりも吹き飛ばされる。木の幹や岩に打ちつけられる度に、頭や腕が傷つき、血が流れる。

直ぐに立ちあがろうと膝をつくと強い目眩がした。胃が掴まれるような強烈な吐き気が襲い、両手を突いて地面に這った。

「くっそぉ……」

 どうにか首だけを上げて五十鈴の姿を探した。しかし、見えたのは黒い影だけ。大蛇の影はより色濃く変わり大きく、さらに紅い双眸は数を増している。鎌口をもたげ、猛を覗き込む紅い輝きは、見る者を戦慄させ恐怖に落とし込む。だが、猛は正面から睨み返す。体は傷ついても、その意思はまだ折れていない。必ず五十鈴を助け出す。五十鈴の笑顔を見たい。それは自分の、猛の願いなのだ。

「五十鈴うぅっーーっ!!」

 猛の願いと想いを込めて叫ぶ、その刹那。突如、猛の足元に金色の輝きが現れた。その金色の輝きは、大地の表面が輝いているのではない。不思議なことに地面の下、土の中が輝いている。奇妙ではあるが、その時、猛は何も疑問に思わなかった。考えるよりも先に、その輝きに向けて手が伸びる。地面に触れた感触はあったが、何の抵抗も無く地面の中のその輝きに指先が触れる。暖かい、と感じた。四肢に力が戻り、吐き気と傷の痛みが治まった。

「うっ、うおおおおぉぉっ!」

 本能のまま、手に持った輝きを目の前に突き立てて、大蛇へと突進する。手には僅かな抵抗を受けながら、その輝きは黒い影の中へと突入する。ぎゃ、と悲鳴のような声が聞こえ、目の前の黒い霧が晴れた。ようやく、二人の少女の姿を認める。苦しむ来海五十鈴と、尋常でない膂力で彼女の首を絞める園山ゆかりと。園山ゆかりが振り向く。一瞬で驚愕と恐怖の混じった表情へと変じ、姿勢が崩れた。

「キッ、ギャァァッァアァァアー!!」

 獣のような絶叫が響く。園山の手が緩み、少女の体が地面に落ちる。二人の少女の間に割って入り、五十鈴を守るように背に回した。園山は何かに苦しむように、二歩三歩と後ずさる。

「五十鈴、大丈夫か!」

「……っ、ご、ごほっ、ごほっっ……、タ、タケル……?」

 視線は大蛇を纏う少女から離せない。ゆらゆらと揺れる黒影は、再び集まり色濃く変じていく。後ろ手に五十鈴の体温を感じながら、少女の体を気遣う。その手を五十鈴は強く握り返してきた。

「だ、大丈夫。それよりも、それ、……は?」

 猛と五十鈴の二人の視線は、猛の手元、その黄金の輝きに移った。黄金はすらりと伸びた刀身。鋭い切っ先から刀身は緩やかに拡がり、その中ほどは細くくびれる。左右対称の両刃の刀身は様々な角度に陽光を反射して眩いばかりに金色に輝く。その怜悧さと神秘性に圧倒される。その黄金の剣に二人には見覚えがあった。

「アメノムラクモ!」

 それはまさに、これまでの夢で見てきた古代の神剣、アメノムラクモそのものだった。まさか、という思いとは別に、胸の奥から希望が湧きあがる。

――その剣舞は降りかかる邪気を切り払い、世界を清める――

 猛は手にした神剣を少しだけ上げて、振り下ろした。大蛇はぞろりと様子を見つつ動いていたが、急にびくりと動きを止めた。突如、その中の一匹の大蛇が猛に向かって飛びかかってきた。蛇の頭を斬り落とすように神剣を横薙ぎに振ると、黒い影は黄金の輝きに掻き消されるように斬り落とされた。

「これなら……」

猛は一歩、二歩と神剣を突くようにして前進する。同じ歩調で、よろよろと黒影を纏った少女も後ずさる。黒い影は少女を盾にするように、体へ潜り、再び飛び出す。それは、神剣に恐れ慄き、うろたえているようにも見えた。

「これなら、いける!」

 猛は柄を両手で握り、その黄金に輝く剣先を突きたてるようにして突進した。刹那、黒い影が形を変える。三頭の大蛇が空高く舞い上がり、猛の頭上を越える。狙いを定めるように、落下していく先には五十鈴の姿があった。

「きゃあ!」「五十鈴!」

 後ろに気を取られた一瞬、背中を衝撃が襲う。別の大蛇が猛の体を突き飛ばし、地面に叩きつけられる。続けてさらに襲いかかってきた蛇を何とかかわし、立ちあがって剣を叩きつける。神剣を避けるように大蛇の動きが止まる。慌てて五十鈴へと駆け寄り、彼女の体を締め上げるように巻きついていた三匹の大蛇もまとめて剣で斬り落とす。

「五十鈴、大丈夫か?」

「はい、でも……」

 二人は互いを支えるようにして立ちあがる。そしてこの場にいるもう一人の少女の、黒い影に取り憑かれている園山ゆかりの姿を見た。表情も無く、力無く、ただだらりと突っ立っている少女の周りには、さらに色濃く変じていく何匹もの大蛇の姿がある。神剣で何匹かの大蛇を斬り落としたはずだが、今ある大蛇の頭はやはり八匹ある。大蛇はそれぞれ少女の体に絡みつくように伸びており、紅い双眸が猛達を睨みつける。

「あまり効いてない? それに……」

「なんとか園山さんを助けてあげないと」

 猛は驚いたように、五十鈴の真剣な顔を見返した。

「あの子を助けたいのか? あれだけ嫌がらせを受けて、今もこんな目に会っているのに?」

「園山さんは何も知らないのよ。あの黒い影は彼女を利用しているだけ。私が彼女を助けることができるのなら、見捨てることなんてできないわ」

 ああ、そうだな、と猛も頷く。やはり、彼女は皆が噂しているような不幸を呼び込むような存在ではない。今の凛とした彼女の姿を皆が知ってくれさえすれば、全ての誤解は解けるだろう。だが、それがとても難しいことを猛は知っている。

「それは俺も同じだ。二人いれば何とかなる。そうだろう」

 うん、と応えて微かに笑む。彼女の笑みだけで、それまでの疲れも傷の痛みも消え去ってしまいそうだ。

「来るわ!」

 五十鈴の声に現実に引き戻される。見ると、少女に取り憑いた八匹の大蛇が、大きく飛び出してくる。それぞれが別の方向から、角度とタイミングを変えて二人へと襲いかかってくる。

「危ない! さがって!」

 猛は手近に迫った大蛇へと剣を突きだすが、その動きが判っているように大蛇も剣先を躱す。複雑に動き回る大蛇達に猛は防戦一方となる。元々、猛は剣道や居合などの経験がない。振るう剣の動きは単調で鋭さがない。今さらながら、夢に見ていたタケルの剣技が、いや夢の中の自分の動きが羨ましい。これまで、頑なに夢の存在を否定していた猛だが、今は本当に自分があのタケルだったらと恨めしく思う。黄金の輝きはいたずらに空を斬り、大蛇の勢いは一向に弱まらない。大蛇は猛が振り下ろす剣先の裏を突くように迫ってくる。

「くっそ、こいつら、どうすりゃいいんだ!」

 不意に、大蛇の一匹が螺旋を描くように飛びかかってくる。反射的に剣を突きだすが、視線で動きを追うことができずに腕を弾かれる。紅い双眸が目前に迫る。

「うわっ!」

 大蛇の攻撃を覚悟した刹那、神剣の輝きが増した。

――ぎゃぁぁぁぁ――

 奇怪な叫びと共に大蛇が黒い影となって消し飛ぶ。

「天地の精霊よ我が声を聞け、出雲の国におわします八百万の神々に我が願いを届けたまえ」

 清廉な声に猛は振り向く。見ると、五十鈴は眼を閉じ、両手を大きく開き天に向かい声を、音を響かせている。その声音は風の波に、木々のざわめきに、大地の鼓動に、共鳴するように拡がっていく。

「邪なるもの、天地の理を乱すもの、神々の意によって正しき道筋を取り戻せ。其は我が願いと同じ故なり。我が意を介し、神聖なる器へと清らかなる力を与えたまえ!」

 猛の手にした神剣の輝きがさらに増す。黄金の輝きが二人を包み込むほどに、黒い大蛇が眩み怯え逃げ惑うほどに。

 なるほど、と猛は思う。この手にあるのは神剣だ。夢の中のタケルが手にしていた剣ではなく、出雲の国王が祭祀で手にしていたものだ。その力は現代に住まう猛の考える剣としての力を遙かに超えている。黄金に輝く神剣の、その柄を両手で握り、天高く振り上げた。一瞬、その輝きが増した。

「神門の神剣よ、出雲の天地に蠢く邪悪なるものを退けよ!」

「うっおおぉぉぉぁぁ!」

 手にした黄金に輝く神剣を大きく振り上げながら猛は突進する。光輪が拡がるに従って大蛇の姿は揺らぎ、霞んでいく。猛は神剣を振り下ろす。その先には放心したままの園山ゆかりの姿がある。

「これで、終わりだ!」

 金色の剣線を描き、神剣を振り下ろす。その切っ先は少女の鼻先を掠めるように。

――きしゃぁぉぉぁぁぁっっ!――

耳を劈くような奇声が響く。黒い大蛇からではない。その空間一帯から、大気そのものが震えるような声。黄金の一閃を受けて、大蛇は黒い霧へ、黒い霧は無へと変じていく。最後まで少女に纏わりついていた僅かな黒影も、神剣の圧倒的な力に抵抗するすべを持たず全て吹き飛ばされていった。

――おっおおおっおぉぉぉぉっ……――

低い、低い声が何処からともなく木霊する。ひどく重い、悲しい声に聞こえた。

――おおおっぉぉぁぁっ……、お前達……か、またもや邪魔を、する……のかぁぁっ――

「お前達……? また?」

 猛は聞き取った声に違和感を持つ。その声には明確な悪意が含まれていない。ただ、ただ悲しいだけ。悲しいという気配が影の在った空間に澱んでいる。

「お前たちは、何だ? 俺達を知っている?」

――おっ、おおっっ、おおおぉぉぉぉ……――

 猛の問いかけに、其れは応えず、やがて気配そのものが消えていった。

 気付くと、地面にうつ伏せになって倒れている少女の姿だけが残っていた。

「園山!」

 大丈夫か、と声をかけながら猛は駆け寄った。仰向けに起こし首筋に手を当て、弱いながらも脈拍と呼吸とがあることを確認する。

「大丈夫みたいね、よかった……」

 背後から掛けられる声に振り向くと、心配そうに少女を覗き込んでいる五十鈴の顔が見えた。ああ、と応え抱えていた少女の体を静かに横たわらせた。

「その神剣……」

 五十鈴に言われて、思い出したように手に持った黄金の輝きを目にする。純粋に美しく、どこまでも神々しい、その姿。そしてそれは、夢の中でイスズが、父ヒオキの形見として埋めた神剣と、全く同じものだった。

「お父様が、……きっとヒオキお父様が私達を守ってくれたんだ……」

 それは夢の話だ。そう言いかけて猛は止めた。手にした神剣の重みと眼が覚めるほどの黄金の輝き。それが、これが現実なのだと証明している。それに……

「…………そうだな」

 猛の同意に、頷いた五十鈴の眼には涙が溜まっていた。潤んだ瞳の先に、心の奥底から、喜びがあふれている。彼女の笑顔が見たい。そう願っていた自分の想いの強さも同時に知った。

「お父様が私達を見てくれてる、いつでも、いつまでも……、守ってくれているんだ」

 少女は、ただただ一人泣き続ける。希望と喜びに、そして長く途絶えることなく続いてきた強い絆に。その少女の喜びの中には、過去の深い悲しみと絶望、そして強い孤独があった。その事実を猛だけは知っている。この世界で猛だけが感じ取ることができた。

「そうだね。よく頑張ったな、イスズ」

 猛は少女の肩を抱く。おもったより華奢で小さな肩に手をまわし、優しく抱きしめた。一瞬、驚いたように肩が僅かに揺れたが、すぐに体の力を抜き、猛の手の中に体を預けてきた。

「うん、ありがとう、タケル」

 猛の胸に顔を埋めたまま、五十鈴は小さく言った。



エピローグ

 カーン、カーン

 鈴の音が響く―遠く―近く―


 カーン、カーン

 鈴の音が響く―想いは響き―共鳴する―


 眼下に広く出雲平野を見渡す丘に、二つの人影がある。そこからは古来からの営みが続けられてきた田園地帯が、自然を育んできた北山の山脈が、そして、その麓には長く人々の信仰の対象であり続けた出雲大社を眺め見ることができた。日本海を渡り東へと吹く風は湿り気を帯びる。風は北山にぶつかり、上昇気流に変ずることで雲となり、東へと流れていく。まるで、出雲の地で、出雲の大社おおやしろで雲が生まれているかのように。雲は雨を呼び、山々の緑を、豊かな森を、川のせせらぎを、人々の営みを、潤してくれる。

雲、生まれ出ずる国、出雲。そして出雲の国の象徴としての神剣、アメノムラクモ。

それは、人々が豊かな自然を、大地からの収穫を、水辺の恵みを、未来の繁栄を願う、その象徴。

猛は、広く、古来より出雲と呼ばれた国を眺め、漠然と、そんなことを考えていた。

「ありがとう、先生。私の事、信じてくれて」

「……いや、礼なんていらない。俺だって未だに信じられない気分だ。これが無かったら、全部幻だと、夢の中の出来事だと思いたいくらいだ」

 猛は言って自分の手元を見る。そこには青くくすんだ金属の塊があった。手を握れば隠れるだけの小さな塊は、神剣のなれの果てだった。永く大地に埋められていた黄金の神剣は、黒い影を消し去ったことでその役割を終えたのか、瞬く間にその形を失った。猛の手に残ったのは、柄として握っていた、その部分だけだった。

「神剣の欠片」

「これだけが、僕らが見る夢と鈴の音とを、証明するものだからね。だけど……」

 言葉を切った猛に、五十鈴は首をかしげる。だが、その表情に迷いや不信の色は無い。

「だけど、そんな必要は何処にもないんだ。俺には……、いや僕達は、本当の自分を信じてくれる人を見つけたんだから」

 実際、猛自身の問題が全て片付いた訳ではない。いや、今回の出来事によって、問題の根はさらに深いものだと理解した。憂鬱も、悩みも、当分尽きそうにない。だけれども、それが悪いことだと、罪悪感を覚えるようなものだとは思わなくなった。

「だから、ありがとう、イスズ」

「ううん、それは私の言葉だわ。何度も助けてもらってばかりで」

猛は傍らに座る少女を見やる。朱く染まる夕日に照らされた少女の表情には一欠けらの陰りも無い。

「僕も、ずいぶんとイスズには助けてもらったよ。だから、言いたいんだ。ありがとう、って」

「分ったわ。じゃあ、どういたしまして」

そう言って二人は静かに微笑む。

その丘は遠く、過去に北ツ海と呼ばれていた海を眼下に望む。二人分の人影が、その海へとゆっくりと沈んでいく太陽を眺めていた。海の彼方、太陽が沈みゆくその先には死者が行き着く処、黄泉の国があると信じられていた時代があった。それは遠く、過去の時代の話だと二人は知っている。


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