表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鈴の音の森  作者: 専一
2/3

出雲編 第二章

第二章

「帰ってくるのが間に合って良かった」

「間に合ったって、何が」

 タケルとイスズ、二人は北ッ海と神門の入り海、二つの海の見える丘の上で柔らかい潮風に包まれ、再会を喜び合っていた。

「ちょうど、今日から春の大祭が始まるのよ。知ってるでしょ、神和祭」

「ああ、杵築の邑でやるっていう……、見たことはないけど」

 海の上から朱色の御柱が見えた。その辺りが、杵築の邑であることもタケルは知っている。杵築の邑は神事を司る邑。その邑では様々な神事が執り行われているが、その中で年に二回、大きな祭りが催される。それは神和祭と呼ばれている、重要な祭祀だ。

「それじゃあ……」

「そう、今夜から三日間、待ちに待った神和祭が始まるの。それで、その祭祀に、御神楽に、私も参加できることになったの! 私の、初めてのことなの。すごいでしょ!」

 イスズは頬を上気しながら、勢いよく喋る。イスズが巫覡としての修行を続けていることは知っていた。巫覡として認められている者は見習いを含めて大勢いるが、神和祭に一度でも参加できるものは半数といない。巫覡として杵築の本祭に参加できることが、どれだけ大変で名誉な事であるか、想像に難くない。

「ほら、この衣も大祭用の御神楽の衣装なのよ。どう、似合ってる?」

「うん、似合ってる。それと、うん、よかったね。ずっと、夢だって言っていたものな」

 イスズはヒラリと舞うように、その場で回ってみせる。そうやって、体いっぱいに喜んでいる少女の姿が、タケルには愛おしい。その中で、イスズの胸元に小さく輝く緑色の光を見とめた。

「うん、その緑色の……?」

 ああこれ、と言ってイスズは胸元に手を当てる。そこには陽光を受けて緑に輝く勾玉があった。少女の小さい手では握りこめないほど大きく見事だ。深い色合いは吸い込まれそうなほど、まるで自分から光っているかのように眩しく見える。

「これ、お母さんの形見なの。祭祀に参加できるお祝いにって、お父様が私に持っていなさいって」

「そう、よかったね。その光、多分、その勾玉の光が見えたんだ。船の上から。それでここにイスズがいるって分かった」

「本当? それじゃ、私達、会えたのはお母さんのお蔭かもね」

「一人前の巫覡に認められたイスズの頑張りのお蔭も、かな」

「ふふっ、ありがとう。だけど……、そのせいであまりゆっくりしていられないのよね」

「うん?」

「祭祀場の方へ行ってないといけない時間なんだけど……本当はね。でも、船を見かけて抜け出して来ちゃったの。本当は、ゆっくり、タケルとお話したいんだけど……もう戻らないと」

 ちょっと困ったように、イスズはタケルの顔を見上げる。タケルは、しかたないな、と苦笑するしかない。そもそも、その忙しく大切な時であるにもかかわらず、いつ帰ってくるともしれないタケルの事をずっと覚えていて、そしてこうして待っていてくれたのだ。

「ホント、ごめんなさい。祭祀が終わればゆっくりできると思うから。本当に、ごめんなさい」

 イスズとタケルはもういちど心のこもった抱擁をかわし、そして寂しそうにタケルを見上げつつも、大祭の行われる杵築の邑に向かって駆け出す。

「今日の大祭、私も精一杯務めるから、タケルも見てね。絶対だよ!」

 そう叫びながら丘の下へと去っていった少女の姿を、物寂しそうにタケルは見送るしかなかった。

 

「どこまで行っていたんだ、イスズ。急ぎなさい。神迎えの準備はもう始まっているのだから」

「はい。ごめんなさいお父様」

 イスズはお父様と呼んだ男性に駆け寄りながら、器用に頭を下げて見せた。

 そこには大勢の人々が集まっていた。大小様々な祭壇や小屋が建ち並ぶ。中央には広い舞台が用意されている。舞台の奥には朱く染められた心の御柱が、その威容を示している。御柱の手前には祭祀のために設えられた小さな神殿と祭壇とがある。御柱を中心に、舞台や祭壇の全てを囲むように四本の柱が並んでいる。その四本の柱は真柱と呼ばれ、神域の内と外を定める結界となる。

ここは神門の入り海の北側、杵築の邑の祭祀場であった。巨大な御柱をその根本から臨むと、それはまるで天へと繋がっているようだ。実際、この御柱は神々がおわします天上へと繋がる梯子だとされている。神々からの使者が、この御柱を目印に飛んでくるのだとも、御柱を伝って降りてくるのだとも伝えられている。だからこそ、緑豊かな出雲の地に、鮮やかに映える朱の柱を高々と掲げるのだ。朱の御柱は出雲の地(正確には西出雲)のどこからでも仰ぎ見ることができる。ただし、祭祀の舞台となる御柱の真下の神域は、その周囲は小高い丘に囲まれており、遠くから臨むことはできない。杵築の祭祀は隠密に執り行われとともに、多くの人々に広く知り渡らせられるのだ。

その祭祀場において、多くの人々がそれぞれに働き、祭祀の準備に取り掛かっている。

「私の方の準備はほとんどできてます。何と言っても、本祭にお仕えさせていただけるのは、初めてなんですから。昨日から嬉しさと緊張で、もう」

「その最初のお仕えが、最後のお仕えにならないといいがな」

「もちろん、そのつもりですよ。誠心誠意、心をこめてお仕えします。そのために巫女の修行を続けてきたんですから。スセリ様の神舞を見たときから、ずっと夢に見てたんですから」

 イスズは純白の上衣を身に纏っている。袖も裾もゆったりとしているが、腰や肩の部分は紐で締めており、動くには不自由がない。そして、上衣の下には朱の袴を着ている。巫覡の、女性が祭祀に臨み身につける正式な衣装がそれだった。

 男の方も同様に神衣を纏っている。上衣は同じく白を基調とするが、袖や裾は動きやすいように詰めており、鈍色の袴を穿く。本来、男性の巫覡は青色の腰帯を締めるが、その男は青い頭帯を締めている。これは神衣であるが正式な巫覡では無いことを示している。頭帯は公人、すなわち国の政事に携わる者の印だ。男は名をヒオキといった。神門の邑の首長であり、この出雲国の王を務めているのだ。

「スセリか。あの子もずいぶん逞しくなったものだ。あれがいてくれているから、私も安心して政に集中できる」

「お父様もスセリ様には色々と聞いておられたものね。祭祀に初めて参加するという意味では、私もお父様も同じだわ」

「ああ。だが私は、神門の首長として何度も参列している。だから勝手もよく知っている。だから、スセリに話を聞いていたのも、ほとんどはイスズ、お前の修業の進み具合だったのだがな」

「もう、そんな心配まったく必要無いのに。実際、こうやって大祭にも御務めできるのだし」

 ヒオキは上気した様子の娘を眺め見て小さく笑む。その胸に下がった緑色の勾玉を認め、複雑な表情で小さくうなずいた。彼にとって大切な女性が残した二つの形見。幼い少女と碧く輝く勾玉と。彼は記憶の中にしか残っていない女性の姿を思い浮かべる。そして成長した少女の未来の姿を想像しようとして、そしてやめた。


出雲国は神門の入り海(現代の神西湖はその一部)とその東側に広がる平野を中心とする西出雲と、さらに東に広がる飯宇の入海(現代の宍道湖)の周辺の邑々が纏まった東出雲とが連合して成立している広大な国だ。特に西出雲の斐の川(現代の斐伊川)と神門川、入り海に流れ込む二つの大河の河口付近にできあがった肥沃なデルタ地帯は早くから農耕が始まり、多くの邑が集まっている。芋類と雑穀を中心とした栽培体系に大陸から取り入れられた粒の大きい穀物の作付けを加え、安定的な農耕をおこなっている。内海である神門の入り海や北ツ海(現代の日本海)がもたらす海の幸に加え、南に連なる中国山地の山の幸にも恵まれるため、倭でも多くの人口を有している国の一つである。さらに、北ッ海を東西に延びる交易海路の中継湊としての機能も有し、北九州の筑紫から東の丹波、遠く北方の越や蝦夷までと広い地域との交流がある。

 出雲には大邑と呼ばれる大きな邑が五つある。神門、八津、多久見、伊志見、意宇。出雲国の特長は一人の王と五大邑の合議、さらに祭祀を司る杵築の邑によって政が動かされていることだ。

 杵築の邑は神門の入り海の北岸に位置する。その成立は他の大邑よりも古く影響力も大きい。しかし現在は、その影響力を及ぼすのは祭祀に関わるもののみである。入り海北岸に屹立する心の御柱、それを中心とした祭祀全般を取り仕切っているのが杵築の邑である。国を挙げて行われる春の大祭、神和祭の祭祀は、その杵築の邑で執り行われる。


 陽は傾いていき、ゆっくりと西の海へと沈んでゆく。黄昏どき。神門の入り海は朱く夕闇に沈んでいく。光と闇の狭間、人の世界と神の世界の境界。弱く吹き流れる風が、水面を、梢を揺らす。出雲の山が、海が、水が、空気が妙にざわついているようでもあった。それはまるで、出雲の天地の精霊全てが熱に浮かされているようでもあった。そしてそれは人の世界も同じだった。

その彼らの世界の中心に心の御柱が建つ。数本の巨木を束ね、高く接いだ御柱は他の何よりも巨大で高く聳える。神聖とされている朱の色に染められた御柱は、この地に千年以上の時を刻んだ巨大な神木を模したものとされている。古くからこの土地を、この世界を守ってきたとされ、天地の神々と繋がっているものとして、人々の崇拝を受けている。


 心の御柱を近くに見上げることができる丘の上、鬱蒼と木々が茂る、その一つの木立の上に二つの人影があった。一人は太い幹に背中を預けるように立ち、一人は片膝を抱えて太い枝に座る。片膝を抱える人影は、背に長剣を負い、腰には短い剣を差している。二人の視線の先には心の御柱があった。祭祀の舞台は御柱の下に設けられた祭壇に隣接する形で整えられている。周囲には多くの人々が集まり、大祭の準備を続けていた。しかし、祭祀の中心となる心の御柱、そして祭壇のあたりには意外にも人の数は少ない。御柱を囲む四本の真柱の内側こそが神域であり、祭事においても巫覡や大邑の有力者といった特別な者しか立ち入りを許されない場所だ。ここで祭祀が執り行われ、臨席を許された者だけが祭祀に参加することができると伝え聞いている。これら祭祀の舞台は小高い丘に囲まれており、立ち入りは制限される。位の高い巫覡、出雲の国の有力者、他国からの招待者、そういった選ばれた数十人だけが祭祀に関わることになる。

「くだらないな」

 木立に立っている若い男がひとりごちる。

「この程度の富や権力で特権意識など持ってどうしたいんだ? 神や精霊の声に耳を傾ける? 祭祀を行って、神の声に従えだと? はっ、大陸の政治と比べ、なんとも稚拙で非合理なものか」

「そう、かな? 僕はこういうのも良いと思うけど。なんだか懐かしい気がする」

「懐かしいで国は立ちゆかない。理由も意味もない、愚かしい因習など排除すべきだ。国とは人の集まりだ。神や精霊の声などより人の声をこそ聞くべきだ。魏の政治を、都のきらびやかさを見ただろう。富を集め、優秀な人物を集める。権力を集中させて命令を徹底させ、国を効率的に率いる。人々の期待に応えることのできる優秀な王。あれこそが国の形の理想であって、目指すべきものだ」

「でも、たとえ国が強く、大きくなっても、その下で苦しんでいる人たちだっている……。その人達にだって心の支えは必要じゃないかな」

「それは弱さだ。己と人々の幸福のために何事かを成し遂げるも気力も無いなら、強いものに従っていればいい。それで日々の糧を得ることができ、平穏に過ごすことができるならば、それでいいじゃないか」

「それは……、そうかもしれないけれど……」

 木立の上で二人は小声で会話する。その二人はハヤトとタケルだった。

「それはともかく、これまで何処に行っていた? 俺たちの役目はまだ終わっていない。早く郷に戻り、族長に報告をしなければならないというのに」

タケルは無言の返事を返す。ハヤトは深くため息をついて、それ以上詮索するのを止めた。弟が何かに迷っていることを、ハヤトは気付いていた。タケルが考え事をしている時、片膝を抱くのは以前からの癖だ。ハヤトはその悩みが何かは知らないし、とりたてて尋ねることもしない。何も相談が無いということは、タケルは一人で答えを見つけだしたいのだ。弟の性格は、彼が一番よく知っている。

二人は日没までに落ち合い、そして祭祀の見えるこの丘へと移動してきた。祭祀の見物は特別な者以外には禁止されている。当然、二人も見つかれば咎められるのだが、二人の姿は森の闇に溶け込み簡単には見つからない。幼いころから山中で暮らしてきた二人にとって森の中に潜むことは容易なことであった。

 二人が見詰める中、舞台に数人が上ってくる。いよいよ、出雲国の春の本祭、神和祭が始まるのだった。


 四人の男女が黄金色に輝く銅鐸を手に祭壇の前に進む。祭壇には一人の巫覡が梢を手に立っている。五人は心の御柱へと深く頭を下げる。四人の男女はしずしずと進み、それぞれが四本の真柱へと進む。真柱の下で待機していた人々とあらためて礼をほどこす。数人がかりで真柱に梯子をかけ真柱の頂へと登り、手にしていた銅鐸を掲げ、そして吊す。四人が揃って真柱から降り梯子を取り外したところで、風が吹き渡る。

――カーン、カーン――

 銅鐸は甲高い音をあげ、祭祀場に、杵築の邑に、神門の入り海に、出雲の国に、祭祀の開始を告げる。

 巫覡の一人が舞台中央に登ると手にした梢を立て、梢越しに御柱へ正対して一礼する。脇に従う巫女から丈を受け取り、祝詞をあげる。それは人の言葉として聞くことはできない。出雲の国の神々へと送る言葉であり、この地に息づく精霊達が受け取る言葉なのである。重々しく宣言する声が響き渡る。

 出雲の人々、そして他国からやって来た人々は入り海の海岸へと集まっている。しかし、祭祀への臨席を許されていない彼らは、直接、杵築の祭祀を見ることはできない。それでも低い丘越しに、煌々と燃え上がる篝火に照らし出され北山を背後に天に向かい伸びていくような心の御柱の姿、荘厳な音を鳴り響かせる銅鐸の音、祭場で執り行われている祭祀の神聖さの幾らかを感じ取ることはできる。直接見ることはできなくても、確かにそこで祭祀が行われているという存在を感じ取ることができる。それはこの時代の人々が精霊に対し思い感じることと同じだ。見ることはできないが確かに存在している、と。

出雲の国と天地そのもの、その成立を感謝し、これからの繁栄、一年の豊かな恵みと幸福とを祈願するための祭。人々の祈りと喜びをもって、出雲の一年はここから始まる。


 出雲国の夜は更けていくとともに、祭祀は熱を帯びて続けられている。

 舞台の上には大勢の巫女が玉串を手に御神楽を舞う。それはゆっくりとした動きではあるが淀みなく流れていく。土笛や太鼓の音が音頭をとり、時折、銅鐸の音が風に乗って流れてくる。巫女の多くは杵築の邑の女性達だ。その中に数人、他の邑の巫女達も混ざっている。出雲国は多数の邑の連合で成り立っており、それはこの祭事においても同様であった。

 そして、その中にイスズの姿が見えた。遠目ではあったが、タケルには明瞭に見分けることができた。若く艶やかな女性達の中で、イスズはやや幼いように見えた。しかしその舞は堂々としており清々しい。振り上げる玉串は天にまで届き、振り返す衣袖は風を包み込むように見える。足取りは軽く、そのリズムは大地をいたわるようにも見えた。天地と一つになったように流れる舞は、他の巫女の舞と共鳴し、その優しさが銅鐸の神々しい音に乗って世界に広がっていくように思えた。タケルは時の経つのも忘れ、その舞に見入っていた。

 御神楽が奉納されている舞台、その向こう側、心の御柱の下には祭壇が設置されている。そこに数多く並んでいるのは黄金色に輝く剣の数々だ。その数は数百本はあるだろう、出雲地域は古くから大陸から冶金の技術を取り入れ、青銅器の生産、流通に携わってきた歴史がある。その優れた技術を用いて、この眩いかぎりの黄金の神剣を作り上げてきたのだ。

 そして、この神剣は祭器であり神器でもある。ここ杵築の地で執り行われる二度の大きな祭祀、神和祭において、この神剣は重要な役割を持つ。神剣はこの祭祀によって天地の精霊を通じ、出雲の神々の神気を取り入れる神器でもある。その神気を取り入れた神剣は、祭祀の後、出雲の国に属する多くの邑々へと下賜されることとなる。神々の力を受けた神剣は、その邑の安寧と繁栄とを約束する大切な祭器となるのである。

出雲の国は数多くの邑の連合によって成り立っている。神剣は、その連合の証でもある。杵築の邑は、その祭祀の一切を受け持っている。祀りでは各邑から集められた神剣の穢れを祓い浄化し、そして新たに神々の力を神剣へと注ぐのだ。その役割があるからこそ、杵築の邑は出雲国の重要な大邑の一つであり、大きな力をもっているのだ。


祭壇に並べられた神剣の周囲には様々な人々が行き来している。それぞれの邑から持ち寄った供物を捧げているのだ。様々な形をした祭器。人や獣、家や船の形を象った土器、斧や鍬といった日用品を象った土器、鹿の角や動物の骨から作られた様々な道具類、器に盛られた穀物や海産物、剣や矛、弓矢といった武器。さらには交易によって得られた北方の国々で産する翡翠や海豹の皮、南海の貝で造られた装飾具、大陸製のガラスの装飾品や絹などもある。そういった様々なものが祭壇に飾られていく。これらはこれまでの恵みを感謝すると共に、今年一年の豊作を祈願するための供物である。そしてこれらの供物は祭祀の一部であると同時に、現世での勢力争いにも関与している。すなわち、どれだけ多くの供物を捧げることができるか、がその邑の持っている力を現し、出雲国という連合国家の中での発言力が決まっていく。その中で五大邑は一際多くの供物を捧げており、特に神門と八津の邑が飛び抜けて多い。そして、実際にこの大祭に参加している巫覡にもこの二つの邑の者が多い。

「神門と八津の権力闘争か。変わらんな。それに次ぐのは意宇か。幾らか話は聞いていたが……東方の新参の邑ながら、力は侮れないな。それにしても」

 ハヤトは祭壇に並んでいく供物の多さに感心しながら、なかば呆れながら眺める。

「あれだけの供物を底辺まで行き渡らせれば、生口もいらぬだろうに」

 生口とは奴隷のことである。出雲では西出雲と東出雲とで小さいが長い争いを続けてきた。近年、西出雲の王となったヒオキが東出雲の大邑、意宇の邑を五大邑の一つに組み入れる形で統一し、平穏な時代が訪れた。しかし、過去には国同士や邑々が争いを続けるたび、また大きな天災に見舞われるたび、人としての地位を失った者が必ず出ていた。人としての地位を失った者を生口と呼び、所有者の財産として取り扱われる。

「それはともかく、タケル。俺はこれから須佐の郷へ戻る。出雲の祭祀には興味無いからな。俺達は早く郷に戻らなければならない」

 ハヤトはタケルを見詰める。それが一緒に出発することを促しているのだと、タケルにも理解はできる。だが、やはりタケルは無言のままだった。ハヤトは何回目かのため息をつく。

「お前が何かに悩んでいることは知っている。だが、俺たちは何のために命をかけてまで大陸に渡ったんだ。郷のため、一族のためだろう。それなら、こんなところで時間を潰す必要は無い。それくらい分かるだろう?」

「分かってる……分かっているよ、兄さん。だけど……」

 タケルはようやくそれだけを答え、また無言のまま祭祀の方へと視線を移す。ハヤトもそれに倣って視線を移した。

「出雲の方もなにやらきな臭いところがあるが、所詮俺たちとは無関係だ。船の荷や大陸の使者がどうなろうともな。それとも、ほかに何かあるのか? 単に祭りを最後まで見たいなどと言い出すんじゃないだろうな」

「まあ、ここまで帰ってしまえば、郷まではすぐだ。危険も少ない。そう慌てる必要も無いんだが……」

 無言のままのタケルに、ハヤトは苛立ちを隠せなかった。

「……分かった。それだけ気になることがあるなら、お前はここに残れ。俺だけでも須佐の郷に帰る。急いで族長に復命する必要もある」

「……兄さん、ごめんなさい」

 弟のすまなそうな表情を見て、ハヤトは肩の力を抜いた。

「お前の頑固なところはよく知ってるしな。族長にはいいように言っておこう。ただ……」

 ハヤトは弟を鋭い視線で見詰めた。

「これだけは言っておく。掟を破るな。一族を裏切るなよ。須佐の郷にとって害になるようなことは絶対にするな。分かっているな」

「うん、分かってる」

 タケルも真剣な表情で頷く。その約束を確認してハヤトは大木の枝から飛び降りた。背丈の倍する高さであったが、姿勢を崩すこともなく音さえも立てなかった。

「早く帰ってこい、待ってるからな」

 タケルだけに聞こえる声を残して、ハヤトは森の中へと姿を消した。タケルはその背中を見送り、そして祭祀の場へと視線を移す。軽い安堵と後ろめたさ、その両方を感じつつ、一つ息を吐く。思ったよりも重い吐息だった。

タケルの想いに関わりなく、杵築の祭祀は続いていく。


 昼休み、金築猛は学校の図書館にいた。図書館は特別教室棟三階に位置する。学園の敷地内では南寄りに位置しているため、すぐ裏手は小高い山に続いており、窓を開けると森の緑が目にしみる。学生達の歓声が響くグラウンドの反対側に位置することもあり、静寂に包まれたくつろいだ雰囲気に包まれている。書棚に高く積まれた様々な本に囲まれて、厚手の単行本を読みふけっている生徒、誰かのノートを手本に一生懸命自分のノートに書き写している生徒、小声ながらも友人と談笑している生徒達、何冊も本を抱えて貸出カードに記入している生徒、春の陽気に惰眠を貪っている生徒、それぞれが思い思いに時を過ごしている。彼らを横目に見ながら猛は部屋の奥へと進む。

 普通、どんな図書館にも歴史のコーナーがある。そして学校の図書館ならば、当然のように郷土史を集めた書棚があるものだ。猛はその書棚を見つけて、一瞬、たじろいだ。

「……ずいぶん多いものだな」

 思わず独りごちるほど多くの本が並んでいる。郷土史というよりは、島根県関連の本だ。厚手の単行本から簡素な造りのペーパバック、どこかの機関の研究報告書まで。だが、そのタイトルをざっと見渡しても『出雲』と付いているものが多い。この棚には特にそういった本が集められているのだろうが、それでも多いと感じた。

「それだけ誰もが興味を持っているということか……」

 正直なところ、これまでの彼の生活では歴史というのは学校の科目の一つ、受験での頭痛の種、としての認識しかない。学校で習い、試験を受ける。受験と就職試験が終われば、自分には関係の無いものだと、漠然と考えていた。しかし、ここに並んでいる本はそういったものに関係の無い本だ。日本史の教科書に島根や出雲といった単語は、ほんの僅かしか出てこない。誰が何のために書き、どんな人が読むのか、不思議に思う。

 猛は手ごろな大きさで素人の自分にも分かりやすそうな、特に、口絵で写真の付いていそうな厚手の本を探す。

 これ、か……。猛は口の中で小さく呟く。その本は近年開館した地元の歴史博物館の所蔵品を掲載しているカラー刷りの冊子だった。開いたページにはくすんだ色の古びた棒が並んでいる写真がある。その棒は、いや、劣化し見栄えは良くないがその形はまさしく、剣だ。

『荒神谷遺跡より出土した青銅器の剣』

 と説明書きがある。その隣には同じような形で眩いばかりに黄金に輝く剣が並ぶ。『復元された青銅器の剣』と説明書きがある。その写真を見詰め、猛は眼を見開いたまましばらく動けなくなった。

 彼が普段は馴染みの無い図書館を訪れた目的は、それを確認することだった。猛が夢で見たもの。祭壇に掲げられた大量の神剣。それが実際に存在しているものかどうか? それが知りたかったのだ。そして図版にある大量の青銅器の神剣の姿は、夢で見たものと全く同じだった。


 金築猛の西陵学園での生活は、ますます憂鬱さが増していく。屋上での一件以来、来海五十鈴と二人きりで会うような事態は避けているが、毎日顔を見合わすことは避けられない。自分は来海五十鈴のクラスの副担任なのだから仕方がない。そして、目を合わすたびに、何かを訴えかけられているようで、心が乱れる。

 かといって彼女と話をするつもりは無い。それは、過去の忌々しい記憶が呼び起こされるからだ。自分にしか聞こえない音、初めから話を聞く気も無い大人達、戯れに石を投げる同級生達……。来海五十鈴と話すことは、その過去の記憶とも立ち向かう事になる。そしてそれを解決する手段も無い。彼女と話をしたところで、お互いの夢での話をするくらいで、出口が見えるはずがない。

「所詮は夢の話だ。子供のおとぎ話に付き合っている暇は、大人には無い」

そう考えながらも、図書館に足を運び出雲の古い時代について調べてしまう。それによって夢で見た光景が強調され、鮮やかに思い出せるようになってしまい後悔する。

相反する自分の思いと行動をコントロールできないまま、例の夢は毎晩のように続いている。眼が覚める毎に、元々自分が古代出雲に住んでいたかのようなリアルな感覚が残り、混乱する。夢の中でも現実でも、時折聞こえる甲高い音が耳を突く。祭祀で響き渡る銅鐸の音だ。その音が、夢での出来事を忘れさせないように釘を刺しているようにも思える。

だが、夢の世界にどっぷり浸かり、来海五十鈴と話をする気持ちにはどうしてもなれない。自身の思いとは何ら関係なく、ときどき投げかけられる彼女の視線に気づくと心の奥底が小さく痛む。


「金築先生。お疲れですか?」

 職員室で書類整理の手を止めていたところで、隣の席から声をかけられた。別クラスを担当している社会の藤井真砂子先生だ。昨年、先生になったばかりの二つ年上の女性だ。

「藤井先生ですか。いえ、すみません。別に何でもないですよ」

「いや、でも。新採の時は誰だって大変ですから。この中で私が一番よく分かっているつもりですよ。根を詰める前に何でも相談してください」

「あっ、はい。ありがとうございます。でも、今のところ、本当になんにもありませんよ」

 猛の返事に、藤井先生は胸を撫で下ろすように軽く笑う。どうも外から見ても、自分の姿は相当に悩みが深いように見えるらしい。

「最近の子供は難しいですからね。弱いところを見せるとなめられてしまいますよ」

「そうですね。何考えているかわからないですし……」

 そう言って猛はふと思いついて考え込む。そう、彼女は何を考えているのだろうか? と。単に昔の記憶を持つ者同士が寄り添って過去を懐かしみたいだけ、という訳ではないだろう。屋上で夢の話をした時の澄んだ笑顔を思い返せば、自分を騙して困惑している姿を楽しんでいる訳でもない。

「あの……、金築先生?」

 自分たち二人が見る太古の記憶や鈴の音、あれには何か別の意味があるのだろうか? 猛自身、その後、何度も続けて見るあの夢の存在自体を否定することはできなくなっていた。図書室で青銅器の剣について調べしまうのも、その一つの現れだ。しかし、それに捉われていれば日常の生活がたちゆかない。だから、口にも出さず、できるだけそのことを考えないようにしている。例の銅鐸の音と同じことだ。しかし、ふとした時に、それを思い出し、思い悩んでしまうことは止められない。

彼女、来海五十鈴はあの夢と現実とを、どう折り合いをつけているのだろうか? そして夢の話を現実に持ちこんで何をしたいのだろうか?

「先生。本当に、少しは気を楽にして仕事してくださいね。倒れたりしたら皆さん心配しますから。それに新採の先生をいじめたとか、ストレスで倒れたとかになったら校長の首が飛んじゃいますよ」

 藤井先生は机の脇に置いてあったバックを取り上げて席を立つ。それじゃあ、と猛に声をかけながら出口へと向かう。

「それでは、お先に失礼します」

 その声と小さなため息とを、猛は聞いていなかった。


「あー、せっかく高校生にもなったのに、毎日なんか変わんないよね~」

「なによ。ルカったら何度目よ、それ」

「そうよそう。退屈だったら部活でもすりゃいいのよ。きびしい先輩が、やさしく相手してくれるわよ」

「そ~いうんじゃなくって~」

 夕暮れ時、駅前の商店街には学校帰りの高校生がぶらついている。それほど大きな街でもなく、地元の子供がほとんどだから、行きつけの店は決まってくる。四人の女子生徒がファーストフード店でだべっていた。

「そもそもルカがうるさいのは鷹人が相手してくんないからでしょ。こんなとこでのろけられてもねぇ」

「なっ、なによ。今はあんなやつのこと関係ないでしょ」

「またまた~。二人とももう高校生なんだから、ちっとは進展するんじゃないの」

「かっ関係ないでしょ。あんな、野球馬鹿のことは……」

「ふ~ん」

 ルカこと高瀬春香は顔を赤くしながらそっぽを向いた。彼女の仲の良い友達、伊藤樹里と朝日かなえの二人は、お互いに顔を合わせてくすくすと笑う。

「ジュリだって、なんかかっこいい先輩がいるとか言ってたじゃない。どーしたのよ」

「ん? ああ、持田さんのこと。うん、今度の日曜、デートすることになった」

「ええ~っ!」

「ちょっと話したら何か話が進んでね。トントントンって」

「あ~もう、何でそう簡単に上手くいくわけ? ずるい!」

「かなだって、可愛いんだから。話してみればいいじゃん。案外、簡単かもよ」

「そうそう。案ずるより産むが易し?」

「そんなこと言って、あんた子供産んだことあるの?」

「バッカじゃないの、あんた」

 三人の果てしないようなお喋りを、もう一人の少女は微笑しながら聞いている。

「あ~もう、ジュリもルカもあたしを置いてさっさと行っちゃうんだから。もう、あたしのお仲間はゆかりちゃんだけだよ。ねえ、仲良くしようね」

「え?」

 ゆかりちゃんと呼ばれた少女、園山ゆかりは驚くようにして口にしていたジュースを放した。

「そんなこと言ってたら、ゆかりちゃんにだって置いてけぼりにされたりして」

「そうそう。ゆかりだって結構、ファンいるかもよ。おしとやかな女の子が好きって男子も沢山いるんだから」

「私たちみたく、うるさくないような?」

「きゃはははは、それいい!」

 園山ゆかりは思わず俯いてしまった。仲の良い友達であっても、注目されることがどこか恥ずかしいのだ。おしとやかとかおとなしい、と表現すればいい方だが、どちらかというと、根暗とか陰気といった陰口をたたかれることが多い。

「でも、ホント、ゆかりちゃんもせっかく高校生になったんだからデートのお相手が欲しいとこよね」

「そうね。そういえばゆかりちゃんの好きなタイプってどんな人よ」

「あんまり聞いたこと無かったわね。どうよ? もしかして、もう好きな人がいるとか?」

「えっ、いや……」

 ゆかりが言いよどむと、三人は「きゃー」と笑いながら奇声をあげる。

「だれだれ? クラスの男子?」

「いや、ちょっと待って。当ててみせよう。ゆかりのことだからきっと身近な人だ」

「うんうん。それで、スポーツマンってわけじゃないよね」

「大丈夫。鷹人のことは誰も取らないから」

「そういうんじゃないってば!」

「おとなしい、物静かな人……かな。いやちょっと違うかな。ゆかりと並んで似合いそうな人……。おとなしいと言うよりも、そう、やさしく、大きな愛で包んでくれそうな人」

「大きな愛、いいわねぇ」

「大きな……大人な人? いいかもね。そういや、新任の金築センセ、結構人気あるみたいよ。若いし、あれで結構かっこいいし。どう、ゆかり? ここは一つ狙ってみない?」

「…………」

 ゆかりは無言のまま、顔を赤らめて俯いてしまった。三人は声を出すことも忘れて互いの顔と顔を伏せたままのゆかりとを見比べる。

「もしかして……当たってた?」

「金築センセか、ふ~ん。私はタイプじゃないな」

「ゆかりったらかわいい」

 本人には聞こえないよう、彼女たちはそれぞれ心の内でつぶやいた。


 唐突に土笛の音の符丁が変わる。巫女達は舞台から降りていく。広く空いた舞台の中央に一人の巫覡だけが残っていた。いや、これまでの巫覡とは違う様子ではあったが、初めて祭祀を見るタケルには判断がつかない。

純白の神衣に、鈍色の袴。青い頭帯を片側に垂らすように巻いている。男の手にはきらびやかに輝く剣がある。剣身は燈火を受けて黄金色に輝き、柄尻からは五色の玉で装飾された飾りが光輝いていた。それが出雲国の神剣でも特別な物だろうと想像がついた。見た目の美しさだけでなく、剣自体が大きな力を秘めているような、そういう雰囲気を察する。

 男は舞台の奥へ、心の御柱へと向かい神剣を捧げ、そして受け取るようにして懐に抱く。大事なものを手にしたようにゆっくりと舞台の中央へと戻る。そして舞のリズムは静から動へと変化する。神剣を高々と振り上げる。燃えさかる炎そのもののように刀身は赤々と、まるで太陽の欠片がそこに舞い降りたように輝く。男は一つ大きく息を吸い、そして神剣を鋭く振り下ろす。さらに右へ左へと切り下ろし、正面に構える。続いて一回転、二回転。まるで周囲に居並ぶ敵を斬り倒すように立て続けに剣を振るう。飛び、跳ね、剣先は一瞬たりとも止まることはない。剣の光琳が大地に絵を描くように、軌跡として視界の中に、心の奥底へと刻まれる。

 それは神舞だ。神へ捧げる踊りではなく、彼自身に神が宿っている、神自身の姿。神降ろし。剣身が一メートルを超える神剣を片手で、剣先が揺らぐこと無く舞う。光り輝く神剣は太陽の化身、四方に描かれる軌跡は結界であり、その内側は神意により浄化された神聖な領域。その剣舞は降りかかる邪気を切り払い、世界を清めるものだ。狭意には自己と一族の繁栄と守護、広義には出雲の国を含むこの世界全土に繁栄と安寧とをもたらす神の踊り。

 タケルは何かの意志にとりつかれたかのようにその舞を見詰め続けた。一瞬、その男とタケルの視線が合った。いや、正確には合ったようにタケルは感じた。実際にはその男の姿は指先の爪ほどの大きさにしか見えない。それでも、そう感じるだけの存在感と威圧感、神々しさが男の姿にはあった。

「もしかしたら……この人なら……」

 タケルはいつしか背に負っていた剣を抱いていた。壊れ物を扱うように大事に両手で抱えている。その剣舞に、彼に見入りながら、時の過ぎるのも忘れ蹲っていた。


 陽が昇り祭りの一夜は終わった。春の神和祭は三日三晩続く。祭祀は主に夜間に行われ、昼には楽しげな奉納舞や相撲、弓射などの遊興が行われる。祭祀の中心である杵築の邑や五大邑の周辺など、各所では食事や酒が振る舞われている。祭りの期間中、出雲の人々は仕事の手を休め、思い思いに祭りを楽しむ。出雲の人々だけでなく、この大祭を目当てに集まってきた近隣の邑人達や遠国の使者、交易商人なども多い。出雲国の豊かさと懐の広さを多くの人々に知らしめる機会でもあるのだ。

出雲の人々の声は明るい。出雲の国は長らく続いた西出雲と東出雲との争いが終わり、平和な時代が訪れていた。豊かな自然の恵みに囲まれ、近隣に対立している国も無い。当たり前のように、耕せば穀物が収穫でき、海に潜れば魚介が得られる。山野は緑に満ち、秋には様々な果実が実をつける。豊かで平和な明日が約束されている毎日。日ごろ汗かく大人も、将来を夢見る子供たちも、彼らを見守る老人たちも、誰もが何の憂いもなく、祭りの華やかな喧騒を、囃し立てる音曲を、遊興での腕比べを、楽しんでいる。

タケルは当ても無く、祭りに華やぐ邑々を歩き回っていた。飾り石や貝の装飾具を身につけ、鮮やかに染め抜いた晴れ着を着飾った女性達、もろ肌を脱ぎ力自慢に汗をかく大人達、自慢の弓の業を褒められ喜ぶ若い男、尊敬の眼差しで彼らを見上げる子供たち。振舞い酒を注いだ盃を手に軽やかな寝息を立てる男達、談笑する老若男女達。その平穏さに驚くとともに、溢れる子供たちの笑い声には、思わず笑みを返す。その平穏さはタケルの生まれ故郷には、そしてこれまで過ごしてきた人生にも無かったものだ。そのことを思うと一人ため息が漏れる。そしてタケルのもう一つの目的、ある人物に会いたいという願いも果たせないままでいる。もう一度、タケルは重い息を吐いた。

 そういった華やかな祭りの様子とは別の場所、杵築の邑の一郭では厳重な人払いが行われ、出雲の国の重鎮が集まっていた。神門、八津、意宇、久多見、伊志見そして杵築。大邑の首長やその一族、高い身分を持つ巫覡を中心とした、この出雲の国の首脳陣ともいえる人々である。彼らは年に二回の大祭の時期、一堂に会し、今後の国の舵取りを討議している。タケルの意中の人物は、その人の名は知らないものの、その会合に参加している筈だった。祭祀であれほどの剣の舞を奉納するほどの重要な人物である。簡単に会えないのは当然だった。闇に慣れ、山野を自由に闊歩できるタケルもに、さすがに彼らの討議を盗み見ることはできそうにない。仕方なく祭りの人混みの中へと戻る。

「お師匠様、兄さん……」

 タケルは自分を気にかけてくれている人たちの顔を思い浮かべた。かの人の想いに応えたいという思いと、兄の言葉への理解と。その二つの思いを秤にかけ続ける。迷い子のように華やいだ邑を彷徨いながら、陽は再び傾き水平線へと沈んでいく。

 出雲の国、春の神和祭、その二夜目の祭祀が始まる。


 北山は神門の入海と北ッ海に挟まれた小規模だが急峻な山脈である。山脈の南側には神門の入り海と、さらに東方には飯宇の入り海がある。二つの内海の間には斐伊川と神門川が作り出した肥沃なデルタ地帯が広がっている。出雲の国の中心をなす地域だ。それとは逆に山脈の北側、北山山系の北ッ海側では切り立った山肌が直接海へと落ち込むような急峻な土地だ。海沿いに歩いて渡れる場所は皆無といえるほど、狭い入り江が点在するだけだ。その入り江には、漁を営んでいる海人達の住処が潮を被りながら立っている。荒れた波音が窪んだ岸壁に共鳴し、祭りで沸き立つ邑と対照的にうら寂しさが漂っている。

「こんなところにいつまでいればいいのだ! 出雲の王は、首長どもは何をしている!」

 小さな砂の入り江に隠すように数隻の船が並べてある。大小様々な船は、この入り江に住まうものには大切なものだ。漁に使うだけでなく、他の邑との連絡、交易にも必須である。船が使えない場合、徒歩で北山を超え出雲平野に出ることはできる。しかし、北山山系の一部である八雲山は杵築の祭祀場の後背に聳え、立ち入り禁止の神域とされている。神域を遠回りしたところで切り開かれた道はなく、時間がかかるうえに悪路で荷を運ぶこともできない。

入り江に並ぶ船の数々、その中でも一際大きな三隻の船には大量の荷が積んであり、周囲には大勢の人が屯している。それは先日、タケル達が大陸から戻ってきた時に乗っていた船であった。

 その船の前で、一人の男が何かを喚き怒鳴り散らしている。男は砂にまみれた絹の衣を身につけていた。イライラと砂浜を歩き回り、周囲に控えている者に当たり散らす。

「私は邪馬台国の使者だぞ。死ぬような思いをして大陸に赴き、偉大なる魏の皇帝からお言葉を、この倭の国を平穏無事に治めるよう命令を頂いてきたのだ。その私が、いつまでもこのような場所に置かれるいわれは無い。女王様もこの私の報告を一日千秋の思いで待っておられるはずだ」

 男の尊大な言葉に、控えていた男は腰を低く頭を下げる。その男は、船で共に大陸から戻ってきたサカネだった。恭しく、頭を下げたまま応える。

「ナンショウメ殿にはお疲れのところ申し訳ありません。しかしながら、王からの指示がありませんので、今はこのまま留まっていただくしかございません。窮屈なことは重々承知しておりますが、今しばらく御寛恕のほどお願い申し上げます」

 ナンショウメと呼ばれた男は舌打ちし、苦々しく吐き捨てる。

「それだ。その貴国の王とやらは何をしておる。出雲も我々邪馬台国の一員であろうが。大陸の国にも印可を認められた邪馬台国、そして私自身、皇帝直々に将軍の位を頂いておるのだぞ。出雲国の王といえども、私にも相応の礼を施すのが礼儀というもの。それを未だに挨拶にも来ぬとはどういう無礼か!」

「それは……」

 サカネは、さすがに返答に困った。彼らの首長がこの場に来られないのは、いや、それ以前にナンショウメを初めとした邪馬台国の使者、そして大陸からの使者達をこの寂れた入り江に留めている理由は、春の神和祭のためである。そこに集まっている他国の人々に、特に筑紫国の者に出雲に邪馬台国の使者が来たことを知られるわけにはいかないのだ。そして、祭祀があるために、出雲国王を初めとする主だった者達は祭祀場を離れるわけにはいかない。


 出雲国は現在、外交的に微妙な状況にあった。この時代、倭は戦乱の時代を迎えている。大陸では数百年前から戦乱の時代が続き、この間に多くの渡来人が大陸から倭へと流れてきた。その渡来人によって農耕や冶金といった先進技術が導入され、倭の人口は確実に増加している。生活が安定すれば蓄財の余裕もでる。そして人と富が増えれば争いごとが増えるのは道理である。そして近年、特に問題になっているのは筑紫国の倭統一への野心であった。

 倭の中でも古くから存続し、そして強大な力を持つ国は北九州地方の筑紫国である。大陸への玄関口として早い時代から大陸との交易が盛んだった北九州地方は、現在も大陸との交易をほぼ独占し繁栄を続けている。大陸との交易で得られる品は様々である。その中でも重要な品は鉱石、特に黒鉄だ。この時代、倭は黒鉄を産出する鉱山を持たない。倭には赤鉄――別名を褐鉄、湖沼に溜まる酸化鉄のこと――の産出はあるが、赤鉄は強度で黒鉄に大きく劣る上に、近年、産出量が減少している。強固で質の高い道具を作成するには黒鉄を使うのが好ましく、その黒鉄は大陸からの輸入に頼っている状況だった。鉄材は剣や矛、鏃といった武器だけでなく、木材を加工する為の斧や大地を耕すための鋤として有用な材である。弥生時代の中期から後期にかけて倭の人口が増大した理由の一つとして、大陸からもたらされた黒鉄の普及があげられる。鉄器は使用するにしたがい削られ小さくなっていくため、消耗品である。そのため、常に大陸との交易によって黒鉄を入手しておかなければならない。このことから大陸交易を独占している筑紫国の優位は揺るぎようがない。筑紫は黒鉄の流通路を掌握し、この優位性をもって倭の統一を図っているのだ。

この筑紫国に対抗できる国としては、瀬戸内地方の吉備、近畿地方の河内と丹波、東海の尾張、北陸の越、そして山陰の出雲が挙げられる。しかし、そもそも黒鉄の入手を筑紫に阻まれている上に、各々は若い国であり力は脆弱で筑紫の国に敵対することができない。そこで彼らは共に女王を頂く連合国、邪馬台国を建国して筑紫国に対峙しているのであった。

 それゆえ、出雲の国は邪馬台国の一員として立場は明確であると考えがちだが、実際にはそう簡単な情勢ではない。出雲は表向き中立を保ち、筑紫国と邪馬台国のどちらにも与しない、と表明しているからだ。それによって出雲は筑紫との、そして大陸との交易ルートを確保することができるのだ。それこそが間接的に邪馬台国が大陸の黒鉄資源を入手する、ほぼ唯一の方法になっている。もちろん、今回の邪馬台国の使者のように、筑紫を経由せずに直接出雲と大陸(実際には朝鮮半島南東部)とを繋ぐ航路もあるが、船での長旅となり危険が増す上に、筑紫を露骨に無視した交易を続けた場合、大陸での活動で筑紫の妨害にあうことも考えられる。倭と大陸との交易は明らかに地勢的に北九州地域の方が活発であり、長年の交流によって朝鮮半島南部と北九州地域の人々はほぼ同族でもあるからだ。

したがって、筑紫国との友好関係の維持は出雲国の重要な外交方針となっている。出雲国と邪馬台国、その連合が筑紫に伝わることは最も避けなければならないことである。

このような状況の下、邪馬台国の使者が出雲の国を経由し大陸へ渡り戻ってきた、という事実が筑紫国に伝わると、出雲の国は危うい立場に立たされることになるのだった。


「もうしばらくお待ちください。ともかく、今、伝言の者を王へ出しておりますので」

 サカネは今一度、邪馬台国の使者に頭を下げる。その心の内では忌々しく顔をゆがめている。邪馬台国の使者の一行は、大陸や朝鮮半島で活動した経験が無く、旅程から物資の調達、金の工面や人足集め、船の操舵など、あらゆる面でサカネ達出雲国の面々の力に頼っていた。サカネは彼らの要求を恭しく聞き取り、甲斐甲斐しく世話をしてきた。それでありながら、ナンショウメは邪馬台国の使者としての姿勢を崩さず、連合国である出雲国の公人であるサカネを見下し、常に尊大に振舞いつづけている。出雲国に到着しようやくこの任を解かれると思いきや、神和祭のためにナンショウメ達と共にこの小浦に閉じ込められたままだ。

「夜には王の返事を持ってくるでしょう。それまで、今しばらくここでお待ちを」

 これもサカネにとっては不満が募る事柄の一つだ。自分で王に直接説明することができれば、早急に王をこの小浦に呼び寄せることができるだろう。ナンショウメ達が、いや邪馬台国の使者がそれだけ重要な人物であることは理解しているし、さらに大陸からの使者も同行しているのだ。この一団の重要さを王に理解させる自信が、自分にはある。しかし、自分自身もまるで王から忌避されるようにこの小さな浦に留め置かれるよう指示が出ているという。その指示さえも伝言の者を通じてしか聞くことができないもどかしさがある。

「ふん、役立たずめが」

 蔑むような眼でナンショウメがサカネを見下ろす。申し訳ございません、とさらに頭を下げた、その時、不意に草葉が鳴った。北山の急峻な斜面に、黒い影が動いた。

「誰だ!」

 鋭い誰何の声が狭い岸壁にこだまする。にわかに小さな入り江が騒然となり、矛や弓を手にした者が集まってくる。それと同時に風もなく茂みが鳴り、それが遠ざかっていく。サカネは素早く立ちあがり、その影を捕えた。誰何の声に飛び出してきた衛士達に命令を出す。

「侵入者だ、全員残さず捕らえろ!」

 サカネの命令に続いて、どこからか声が響く。

「侵入者だ! 全員追え! 殺しても構わん!」

 応、と答えると同時に十数人の衛士が彼らを追って北山の急斜面へと登っていく。

一人、ナンショウメが意味もわからず立ち竦んでいる。彼は出雲国の微妙な立場について、理解しているはずもない。サカネは僅かに首を廻らし、唖然としているナンショウメを見やる。

「申し訳ありません。不届きものの侵入をゆるしました。もしかしたら御将軍殺害の意図があってのことやもしれません。必ず捕えてまいりますので、今しばらくお待ちください」

 そう言い置いてサカネはナンショウメを背に歩き出す。しばらくは居丈高なナンショウメの相手をしなくともすむ。そう思うと喜びも湧くが、それよりも侵入者の対応が重要だ。彼らが筑紫国に関わるものであると、外交上難しくなる。それにもう一つ。

「今、自分の後に命令を出したのは誰だ?」

 その声の主にサカネには心当たりがなかった。そして、この小浦の管理は自分に一任されていたはずだ。これまでの対応と合わせ釈然としない疑問が湧く。いや、とサカネは気を引き締める。手にした鏑矢を飛ばし合図を送ると、先発した衛士達の後を追っていった。今は出雲国のために侵入者を捕えるのが先だ、と思い直す。

道もない鬱蒼とした山の中での追跡が始まった。入り江には打ち寄せる波音と、苛立ちながらうろうろと歩く邪馬台国の使者の姿が寂しそうに残された。


 西陵学園には一年を通して様々な課外活動が用意されている。その最初のものが地域社会奉仕活動だった。学園の生徒達がこれからお世話になる地域社会にボランティア活動を行い、社交性を身につけると共に地域との融和を図る。そう言った趣旨で行われるものらしい。らしい、と表現するのは、新任教師の金築猛にはそのようなことを考えている余裕が無かったからだ。奉仕活動は地域の公園の清掃と例年決まっているらしいが、その見取り図から作業班を割り振り、生徒のグループ分けを行う。清掃道具のチェックやらゴミ袋の準備、緊急時の対応計画まで、雑用が非常に多い。これを普段の授業を行いながら進めていくというのは、本当に、誰が誰のためにボランティアをしているのか分からない状況だ。だが、ともかく、仕事が忙しいというのは今の猛にとってはいいことであったらしく、しばらくの間、来海五十鈴のことは忘れていられることができた。

 そうして当日となり、午後の授業がまるごと奉仕活動となる。目的とした公園まで生徒達を引率して準備どおりに班毎に掃除道具を振り分けて、それでようやく一息つくことができた。

「準備、お疲れさまでした。しばらく休んでいてください」

 自転車のブレーキ音と共に声をかけられた。振り向くと藤井先生がペットボトルを差し出していた。いつも職員室で見ているスーツ姿と違うスポーティな姿だが、意外に似合っていた。

「ありがとう、ございます」

 ペットボトルのお茶を受け取りながら、近くのベンチに腰を下ろした。

「先生はその自転車で見回り役ですか?」

「そうですよ。打ち合わせ聞いていませんでした? 連絡役でトランシーバーも持たされたんですが、今時、これは無いですよね。生徒だって携帯持ってる時代ですもの」

 あはは、と笑いながら彼女は自転車をスタンドで立たせて、猛の隣に座る。猛はやや狼狽えて、やや離れたところに座り位置を直した。

「こんなところで油売ってたら怒られませんか? それも、生徒達が見てる前で」

「ふふっ、気にしすぎですよ。少しくらい息抜きしたって。それに先生同士で打ち合わせしていたらおかしいんですか? それも、こんな健全な場所で」

 この公園はスポーツを主とした総合公園とは趣が異なるが、それでもこの地域では大きな公園だった。観客席はほとんどないが野球場もあるし、テニスコートも三面ある。芝生広場や子供用の遊具コーナーもそれなりに揃っている。駐車場も広いので家族連れにも良さそうだ。それよりも変わっていると思わせるのは、ちょっとした小高い丘がほぼ自然のまま含まれており、森林浴も可能な遊歩道がつくられている。それになぜか丘の上には展望台まである。園内見取り図を見たときに、少しばかり首をひねったものだ。

「まあ、そうですね……。こんな恰好で、こんな場所ですしね」

 目の前にはジャージ姿の学生達が思い思いに清掃活動に勤しんでいる。もちろん、真面目に掃除をしない生徒やふざけて遊んでばかりの生徒もいる。程度が軽ければ見逃すのだが、羽目を外して地域の人に迷惑をかけないか、怪我などしないかを見張るのが彼ら先生の役割である。そんなことがあったら、学校は大変なことになる。電話や投書、最近では学校に怒鳴り込んでくる親や近隣住民もいるという。それも一方的な思い込みだけで。そう言う意味では、こうしてベンチに座っているのもサボっているように見えるかも知れない。

「それじゃ俺、ちょっと見回ってきます」

「えっ、あれ。ちょっと」

「まだ休んでていいですよ。あっ、お茶ありがとうございました」

 猛は彼女一人を置いて、スタスタと歩き始めた。

 

 猛は少しばかり気になることがあった。友人グループらしい四人の女生徒が遊歩道の方へと歩いて行くのが見えた。真面目に奉仕活動をしていないことは確実だが、単純にサボってどこかに遊びに抜け出そうとしているようには見えない。何かの目的があってその場所に向かっているという思いつめた感じがあり、しかもその行き先は公園の内側、猛のクラスが担当している清掃区域だった。先に進む三人は、何かに怒っているような怖い顔をしており、後ろから付いてくる一人はオロオロと困っているようにも見える。できるだけ気づかれないように追っていくと、四人は遊歩道の途中、休憩用の木製ベンチがありやや広いスペースで立ち止まった。木立は深く薄暗い。その場所には先に誰かが一人立っている。猛は嫌な予感が当たったと顔をしかめる。その一人とは来海五十鈴だった。

 五人の生徒は早速のように言い争いを始めていた。猛は彼女らに気づかれないようにできるだけ近寄ってみる。

「だから、あんたはちょろちょろするなって言っているのよ。分かる?」

「あんたみたいな根暗女、誰も相手に何かしないのよ。先生だって義務で仕方なく話しているだけなんでしょう。それを調子に乗ったりして」

「何か言ったらどうなのよ。黙ってばかりで気持ち悪いわね」

 一人の女生徒が五十鈴の肩をトンと突く。倒れてもいいと思って手には力を入れたはずだったが、五十鈴は軽く姿勢を動かしただけでそこに立ち、何事もなかったように彼女を睨み返す。

「なっ、何よ。ホント気持ち悪いわね」

 猛が断片的に聞くところ、どうやら三人の女生徒が来海五十鈴を取り囲み、何か文句を言っているらしい。五十鈴は何も言い返していない。狼狽えたり怯えたりせずに、静かに見返しているだけだ。しかし、その態度は三人の女生徒をさらにヒートアップさせていく。そして、もう一人の少女はそんな対立を見ながらも手や口が出せず後ろでオロオロとしてばかりいる。

「ほら、何か言いなさいよ」

 一人の女生徒が五十鈴の足を蹴った。蹴るというよりも踏むような感じで靴裏の泥がジャージの膝から下にべっとりと付く。

「きゃはは、それがお似合いよ。あんたみたいな薄気味悪い女にはね」

 もう一人がさらに泥を付けようと足を出すと、今度は足を軽く動かしてかわした。女生徒がムキになってさらに足をのばすが、今度も簡単に避けてしまう。ただ、五十鈴は後ろに下がっている訳ではない。

「なんなの? こいつ。もういいわよ、ほっときましょう」

「そうね。とにかく、これからは金築センセの廻りでうろちょろしないでよね。鬱陶しいったらありゃしない」

 猛は草陰から聞いていて息が詰まった。まさか、ここで自分の事が話されているとは思いもしなかったからだ。

「そうよ。金輪際、先生と話をしないって約束すれば許してあげるから。ホラ!」

 女生徒が地面を蹴りつけた。湿り気の多い土は飛び散って、五十鈴のジャージに泥の斑点をつける。だが、何事もなかったように五十鈴は真っ直ぐに睨み返し、そして口を開く。

「いいえ」

「はぁ?」

「いいえ、私は私の思うとおりにするわ。あなた達のことは関係ない。私のことは私が決めるし、私と先生のことは、私と先生で決めるわ」

 淡々と言い切った五十鈴の言葉に、彼女らは最初耳を疑った。そうしてその意味を十分理解したとき、彼女らの怒りが頂点に達した。

「なに馬鹿なこといってるのよ! あんた何様のつもり?」

「ふざけるんじゃないわよ! この根暗が。あんたにそんなこと言う権利なんて無いわよ」

 女生徒達は怒りに肩をふるわせ、そして口汚く罵る。猛は自分の目を疑った。彼女らの態度や口調にではない。その彼女らの周囲に奇妙な変化を見つけたからだ。

 不意に、何か霧が掛かったように彼女らの姿が見えづらくなった。彼女らの周囲に湯気のようにぼんやりと何かが立ち上っている。そしてそれは湯気ではない。通常の湯気なら光を反射して白色に見えるはずだが、それは黒い影のように見えた。その影は彼女たち自身から沸き昇り、彼女らを包み込むように渦を巻いていく。

「なんだ、あれは?」

 猛が手をつかねて見守っている間にも、彼女らの暴言は続いている。その言葉を五十鈴は聞いていない。いや、別のものに集中している。五十鈴も猛と同じ黒い影を見詰めているように見える。そして、何か小さく唇を動かしている。

「来海も……、あれが見えている? それに何を?」

 猛はさらに驚いた。その黒い影は奇妙に揺れ動く。そして何かを嫌がるように震えている様に見える。その影はある部分は濃くなり、別のある部分は薄くなっていく。次第に長細く象ったそれは、まるで紐のように見えた。紐は五十鈴の正面に立つ少女へと緩やかに巻き付いていく。いや、それは紐ではない。鎌首をもたげ蠢くそれは、まるで蛇の様に見えた。蛇にまとわり憑かれた女生徒の激昂はさらに激しくなり、顔色は途端に蒼くなる。それは明らかに悪いものに見えるが、彼女たちはその黒い蛇に気付く様子はなく、ただ、罵声をかけ続けている。

「かの者に寄りつきし禍々しき怨念よ、去れ!」

突然、五十鈴は目前で両手を組み、形を整えると、大声を上げて叫んだ。直後に右手を振り上げて、女生徒の目の前で印を切る。刹那、蛇のように象っていた黒い影は、飛び上がるようにして彼女から抜け出た。憑かれていた女生徒は一気に力が抜けたように膝から座り込み、それと同時に他の女生徒にわだかまっていた黒い影が一瞬に体の内側へと戻っていった。飛び出した黒い蛇は、がさり、とそれは草むらの中へと飛び込んで姿を消した。

「なっ、何したの?」

 困惑顔で座り込んだ少女と五十鈴とを見比べる女生徒達に、五十鈴は冷静に答える。

「頭が冷めた? だったら、その子をつれてここから離れて。今すぐに!」

 断定的な五十鈴の言葉に、彼女たちは反発を覚える。一瞬、黒い影が彼女たちの周囲に立ち上ったように見えた。その影は、彼女たちの感情に感応しているようにも見える。

「なっ、何をバカなこと言ってるのよ。あなたルカに何したのよ、ねえ!」

「……そうよ、何したのよ。こんな……冷たい」

 少女の一人が倒れ込んだ少女の背中を支えて頬に触れる。その顔色は精気を失ったように青白く力がない。両目は見開いたまま、あらぬ方向を見詰めていた。

「まさか、死んでるんじゃ……。ルカ、ルカ! 返事してよ、ねえ!」

「あんた何やったのよ、ねえ! 戻してよ、ルカを戻してよ、早く!」

 女生徒達は五十鈴へと奇異と恐れの混じったような視線を向ける。正気を失った少女を前に、金切り声が響く。その恐怖の含まれた奇声が、さらに女生徒達の不安を掻き立てる。恐怖心の連鎖だ。黒い影は彼女たちの恐怖に導かれて集まり、そして彼女たちの恐怖を増幅している。

「あなた……まさか、本当に……」

「噂、は本当に……、あんたが……殺したっていう」

 猛は木陰から飛び出して少女達の間に割って入った。既に、女生徒達の恐慌は限界に達しようとしていた。五十鈴に詰め寄っていた少女の手に触れた途端、彼女はビクリと大きく跳ねた。

「俺だ、先生だ。しっかりしろ」

 驚き逃げようとする女生徒達の手首をつかみ、必死に声をかける。

「あ……、っ……、せん…………、せんせい?」

「そうだ。落ち着け。落ち着くんだ。ほら」

 今見ると、少女達に黒い影は見あたらなかった。倒れた少女を抱き起こそうとしていた彼女も、猛の出現に驚きつつも、落ち着きを取り戻していた。

「ほら、とにかく落ち着け。ゆっくりと、立てるか?」

 倒れ込んだ少女の肩を支えるようにして起こしあげる。彼女はまだ正気を失ったままであったが、今はそのままの方が良いだろう。

「貧血でも起こしたか? また、夜更かしでもしていたんだろう。ほら、二人で支えてあげて。他の先生には言っておくから、下に降りてちょっと休憩していなさい。ああ、サボってる訳じゃないってちゃんと言っておくから」

 内心の動揺を抑えつつ、わざと軽口をたたく。少し離れたところにいた女生徒はまだ比較的まともだった。

「悪いけど、先生はもう少し仕事があるから。三人のこと、よろしくな」

「……はい」

 その少女は猛と目を合わせようとせず、俯いたまま頷いた。そうして、四人の少女達はおぼつかない足取りで遊歩道を下っていく。途中、女生徒の一人が、園山ゆかりが僅かに振り向いて足を止める。後に残った二人の姿を認めて、その唇が歪んだ。


「……来海」

 猛はそこから動かず、表情も変えないまま立っている少女へと声をかける。来海五十鈴は最前から何かを見詰め続けている。いや、睨み続けていると言っていいほど緊張を解いていない。

「何が……っ!」

 視線の先を追うと、その草むらの影に潜む一対の眼があった。明らかに人や獣の目ではない。暗く淀んだ澱のようにくぐもった眼。怒りと怨みのこもった紅い視線が猛の心の奥底に焼き付けられるように突き刺さる。

 ふと、その眼力が和らぐ。見ると、彼女が猛の楯となるように手を広げていた。その唇から小さな声が漏れている。

「……去りなさい……大地に淀む悪しき心よ、八百万の神々の御心に背き、其の意に逆らう者よ……」

 彼女の言葉には力があった。その力が木立から睨む両眼を怯ませる。やがて、その眼は草木を分けるように木立の奥へと去っていった。

「ふうっ……」

 同時に、少女は気が抜けたのか大きく息を吐く。軽くよろめいた少女は猛の肩に凭れるように手を乗せる。

「おい、大丈夫か?」

 彼女の顔は見て分かるほどに青ざめて見えた。猛も慌てて手を差し出して彼女の体を支えるが、それがとても冷たく思えた。五十鈴は軽く頷き、大丈夫だからと猛から離れた。猛は一呼吸、心を落ち着かせてから彼女に問いかける。

「今のは何だったんだ? 蛇、のように見えたが……あの黒い影みたいなのは……?」

 五十鈴は、さあ、と答えて首を僅かに振る。

「私にもよく分かりません。私は怨霊と呼んでますけど、本当は何なのか知りません。時々見かけるんだけど、集まるとあまり良くないというか……、人を不安にさせるようで。そのたびに散らしてみてるんだけど」

 五十鈴の説明も要領を得ない。しかし、現実にあれを見た後ではその存在を完全に否定できるものではない。

「散らすって……、そういえば何か喋っていたな。あれは何だ?」

「何だと言われても……、言ってみれば祝詞ですか? いろいろ試してみたんだけど、今のところ、これがよく効くので……」

 猛は頭を殴られたような衝撃を受けた。つまり、彼女はあの影に対するのは初めてではなく、過去何回も出会っている。そしてその影を撃退する方法を自分で考え出したということだろう。おそらく、あの影は普通の人には見えない。あの四人の女生徒達の様子を見ても確かだろう。普通の人々にとって、見えなければ、それは存在しないものなのだ。あの鈴の音と同じ。存在しないもののことについて、誰とも相談できるはずもない。それに、あの影は良くないものだ。憑かれていた少女の姿や五十鈴の衰弱ぶりを見ればよく分かる。それに対処するための方法を、彼女は一人で、一から編み出さなければならなかったはずだ。たった一人で……。

「来海……、あの影はあの夢と関係が……」

 考える間もなく、言葉が口に出ていた。夢の話はしない。そう誓っていたはずだったが、目の前の出来事に困惑が隠せなかった。

「すみません、先生。今は、とても疲れているので。……少し休みたいんです」

 しかし、彼女の答えは素っ気ない。だが、それも無理のないほど衰弱の色が見てとれた。

 猛は頼りない足取りの彼女に肩を貸して遊歩道を下っていく。猛は来海五十鈴を、保健教諭へと送り届けてそこで分かれた。その間、二人は無言のままだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ