出雲編 第一章
プロローグ
蒼く透きとおった空が広がっている。冬の象徴でもあった鈍色の雲は西からの風に追いやられ、暖かい陽光が海を照らし反射している。遠く水平線まで拡がる海はやや暗い藍色に染まり、冷たい風は海岸に白波をたてる。厳しい冬の名残を残した海の色とまばゆく輝く空の景色は対照的だった。
一台の車が海岸道路を走っている。運転席には若い男が一人、ウインドウを開け春の清々しい風を受けていた。海岸道路は緩やかなカーブを描きつつ、海岸に沿って走る。海のよく見えるこのルートは、観光客だけでなく地元の人もよく利用する。暑い季節になれば、延々と連なる砂浜に海水浴客なども集まるし、強い波があればサーフィンを楽しむ若者達がやってくる。だが、青年は蒼く輝く海面には一目もくれず、ただ、運転に集中しているようだった。
カーン、カーン
鈴の音が響く―遠く―近く―
青年は不意にハンドルを切る。急な進路変更にタイヤが軋み、アスファルトから路肩の砂利へと痕跡を残す。間をおかず車から降りた青年は不思議そうに海を見やった。遠くかすんで見える水平線に、傾きかけた陽射しがまぶしく、目を細める。しばらくの間、そうして海を眺めていた。
カーン、カーン
鈴の音が響く―高く―低く―
青年は何かに気付いたように後ろに振り返る。海の反対側、そこは低い丘になっている。車を寄せた路肩は急激に角度を上げて、そのまま山肌へと続いている。風に煽られ傾いた灌木や下草が覆い茂った手つかずの林だった。人が分け入ることのない緑の原野。ふと視線を巡らすと、その先には茂みの切れ込みのような道がある。脇道というよりは獣道といえるような細い道、それが山肌を切り裂くように斜面を登っている。青年はその道へと歩みを進めた。斜面は慣れていない者であれば手をつかなければならないほど急なもの。そこを、青年は歩調を緩めることなく登っていく。中背で細身の体つきは、どこか敏捷さを感じさせた。常緑の灌木の枝葉は青年の背丈まで届くほど覆い、その視界を阻む。その中をしばらくの間、歩き続けた。
急に風が頬に吹き付ける。緑の視野が、一面の青に取って代わる。蒼い空と藍色の海。潮の香りが鼻腔をくすぐった。そこは山頂というには申し訳ない程度の丘の頂上だった。すこしだけ開けた広場のような場所からは海がよく見える。西から吹き付ける海風が、木立を揺らす。
カーン、カーン
鈴の音が響く―どこか懐かしく―そして寂しく―
「タケル?」
不意に名を呼ばれ、青年は振り向く。その視線の先に春の冷たい海風にたなびく様に長い髪を揺らす少女がいた。白いワンピースの裾が風に揺れ、清楚さと不思議な神秘さをただよわせている。少女は彼の名を呼ぶと同時に、彼の方へと歩みだす。ゆっくりと、次第に駆けるように、早く。長い郷愁が心の底から突き動かすように。
「タケル! 帰ってきたのね」
頬笑みながら駆け寄る少女は両手を広げ、青年の胸の中に埋まる。両手でしっかりと、力を込めて抱きついてくる。
「………………?」
青年は、迷いのない足取りで駆け寄ってくる少女を、不思議そうな面持ちで眺めていた。彼は彼女のことを知らない。知っているはずもない。そもそもこの土地に、彼は初めて訪れたのだから。
しかし、体はいつの間にか動き、その両手は優しく少女を包み込んでいた。
「帰ってきたよ、イスズ」
「……うん!」
カーン、カーン
鈴の音が響く―それは喜びにあふれ―海風に掠れて消える―
第一章
散りかけた桜並木の中を、学生達が歩いている。春の一日、新しい一年の始まりに心躍らせて、新しい毎日に希望を脹らませながら、緩く登る通学路を上っていく。仲のよい友人、新しくできた友人達と談笑しながら通学する学生達を横目に見ながら、黒い車が徐行しながら校門をくぐる。
「はぁ……」
ため息をつきながら、職員用駐車場に止めた車から一人の青年が降りてきた。重く弱気なため息と同じくらい、彼の表情も冴えなかった。気怠そうに革鞄を取り出して、朝日を浴びて白く輝く校舎を見上げた。
「はぁ……、今日もまた、か…………」
彼の憂鬱な一日が、今日も始まる。
島根県東部に位置する出雲市、その市街地の南西方向、小高い丘の中腹に私立西陵学園と呼ばれる高等学校がある。一学年六クラス程度の中規模な進学校だった。
青年の名前は金築猛。この春から、西陵学園の数学教師として採用された新任教師であった。つい先日まで県外の国立大学に在籍しており、久しぶりに地元県に戻ってきたところだ。この就職難の時期に就職浪人もせず、しかも出身県の教員として採用されたことは幸運だった。何の問題も起こさず、両親の期待に応え、社会の一端に名を連ねることができたことは、彼自身、万感の思いと表現してもいいほど大きな出来事、吉事だった。したがって、社会人としての生活の始まりは待ち臨んでいたものであった。
それが、今やある事情によって憂鬱に心を曇らせ、教室へと進む足を鈍らせている。いわゆる五月病や環境の変化、仕事の責任やプレッシャーからくる悩みというよりも、彼個人のある特殊な事情が、彼の憂鬱の素になっている。そして、その悩みを解決するべき手段が、彼自身には全く思いつかないのだ。
「はぁ……」
今日、何度目かのため息をつきながら出席簿を片手に副担任として受け持っている教室へと向かう。朝のHRで出欠をとり、いくつかの連絡事項を伝えるのが、新任の彼に任された仕事だった。クラス担任の飯塚先生は「新任教員の勉強のため」ともっともらしいことを言って、雑用的な仕事はすぐ彼に押しつけてくる。
教室から漏れるざわめきに対して、からからと乾いた軽い音が、教室の扉が開いたことを知らせる。それを聞き取って、思い思いに雑談していた生徒達が、わっと自分の席に戻る。古今変わらない、教室の風景だった。
「おはよう、みんな。それじゃあ出欠をとるぞ」
生徒達の挨拶を受けて、大きな声で応える。このときばかりは、彼は自分には悩みなど微塵も無いような顔で声を出す。
「それじゃ、出席をとるぞ! 吾郷正輝、今岡淳二、今岡有樹、……」
読み上げる名前に続いて、生徒達が様々に返事をつづける。名簿のチェック欄と生徒達の顔を交互に見ながら、機械的に名前を読みあげていく。
「……、神門彩香、菊池万里、岸本由梨」
そこまで読み進めて、猛はわずかに躊躇った。しかしすぐに気をとりなおして言葉を続ける。
「来海五十鈴」
「はい」
返事をしたのは長い艶やかな髪を後ろにまとめた細身の少女だった。彼女はまっすぐに猛を見つめてくる。猛はその視線を避けるように名簿に視線を移した。猛は誰にも聞かれないよう、心の中でため息をついた。いや、もしかしたら、彼女だけはそのため息を聞いているのかもしれない。
彼、金築猛には二つの憂鬱があった。その一つは奇妙な耳鳴りが聞こえることだ。それは彼が小さい子供の頃からのこと、カーン、カーン、という甲高い金属音がどこからか聞こえてくる。その音はいつ聞こえてくるのか規則性はなく、どこか特定の場所で聞こえるというものでもない。どこからともなく聞こえ、その音源は分からない。音自体に不快感は無いのだが、問題は、その耳鳴りの音が自分一人にしか聞こえていないことだ。その音のことを、友人に、先生に、そして両親に尋ねるたびに、不審な視線を返される。
「そんなの聞こえないよ」
「何言ってんだよ、この嘘吐き!」
「いいきになってんじゃないの」.
何度かしつこく聞いてみたこともあるが、そのたびに子供達は背を向けて去り、大人達は憐れみの態度を示す。
「こんなやつほっといて向こうに行こうよ」
「変な病気とか? やばいんじゃねぇの」
「……少し休んだ方がよさそうだね、明日にでも病院を紹介しましょう」
「そんなことはどうでもいいから、もう、とにかく黙っていなさい」
そんなことを繰り返し、いつしか彼自身、この奇妙な音のことは口にしなくなった。今では誰にも話さず、新しい友人知人達は何も知らない。ただ音だけは今でも時折、耳の奥に響いてくる。ただ、音が聞こえても聞こえなかったように振舞うことができるようになっただけ、音について何も考えないように努めているだけだ。
その甲高い音が、このところよく聞こえるようになった気がする。正確に言うと、この土地に、出雲市に引っ越してきてからだ。今更、このことを誰かと相談しようとする気も起きないが、やはり、この音を聞くと子供の頃のことを思い出して鬱々とする。
そしてもう一つ。その憂鬱な出来事は、つい最近の出来事であり、それは望むと望まずに関わらず、自ら歩いてやってくるのだった。
夕暮れの校舎の屋上。今日の授業も課外活動もあらかた終わり、金築猛は一人になりたくて特別教室棟の屋上にきていた。やる気もなさそうにフェンスにもたれかかって、何とはなく帰宅していく生徒達や夕日を浴びて紅く染まる海を遠く眺めていた。この場所からは、麓の市街地のみでなく、広く出雲平野や遠く日本海まで見渡せる。出雲平野は一級河川である斐伊川と神門川の水流によって造られた広大なデルタ地帯だ。それゆえに、古くから農業で栄え、一部が市街地化したとはいえ、今でも広大な農地が拡がっている。その西端は稲佐の浜を境に日本海へとなだらかに続く。稲佐の浜は南北にのびる長大な砂浜で、海水浴などの観光地として、日本海に沈む夕日を眺める夕日スポットとして知られている。出雲平野の北側には壁のように聳える北山山系がある。標高はそれほどでもないが、広い平野部から突然壁のように立ちはだかる緑の壁は、意外と見ごたえがある。そしてその北山の麓には全国的にも知名度の高い出雲大社がある。縁結びの神様として有名で、全国から参拝する人々が訪れるらしい。
春の和やかな空色、清々しい風に包まれ、それらの景色が茜色に染まっていく様子は、一人眺めていても飽きないものだった。そしてどこか懐かしく思う。猛はそうやって一人、時間を潰していた。何かを待っているかのように。
「タケル」
背中からかすかな足音がし、そう名前を呼ばれて振り向いた。
振り向いた先には呼びかけた少女が一人立っている。彼が副担任をしているクラスの生徒の一人で、彼のもう一つの憂鬱の理由、来海五十鈴の姿だった。
「来海……イスズ……」
思わず口にした言葉に舌打ちしながら、猛はフェンスを背に振り返った。姿勢を正し正対することで無意識のうちに湧き上がる少女への既知感を押さえ込んだ。
「……先生だ」
抑揚を抑え、できるだけぶっきらぼうに話す。
「先生と呼ぶように」
あまり先生らしい言葉遣いではないが、少女は気にした様子はない。
「はい、金築先生」
そよ風が吹き、豊かな髪が波打つ。ほっそりとした少女の姿は夕日を浴び、数日前に海の見える丘で出会った時のことを思い返させる。
「先生、こないだのことを覚えていますか?」
猛は両手に動揺が走り、フェンスを少しだけ揺らした。海岸道路で出会ったあの日のことは、彼自身、様々な思いに困惑してしまい、ほとんど何も覚えていない。知らない少女の名前を呼び、内から湧きあがる想いに突き動かされるように自然と彼女を抱きしめていた。手の中のぬくもりと、知らないはずの少女と再会できたことの喜び、同じ郷愁を持つ者同士の共感……。湧きあがってくるそれら様々な想いが猛を混乱させ、何も考えることができなくなった。混乱を極めた猛は、直後、少女を突き放ち、ただ逃げるように斜面を駆け降り、車に飛び乗った。だから、この学校の入学式の日、彼女の姿を認めたときは、ただ驚き、そして彼女のクラスを受持ったことで、初めて名前を知ることができた。さらに少女の名が、知らぬ間に口を突いた名前と一致していたことで、何度目かの驚きに目を見開くことになった。来海五十鈴。それが、彼がイスズと呼んだ少女の名前だった。
「先生……?」
「言っていることがよく分からないな」
猛はできるだけ軽い調子で言ってみたが、上手くいったかどうかは分からなかった。あの日のことはあまり認めたくない、できるならば無かったことにしたかった。しかし、少女の視線は限りなく真っ直ぐで、心の奥の逡巡まで見えているような気持ちになる。
「俺は……、俺は君のことを知らない。先日、初めて会ったばかりだろう?」
先日、というのが、この学校での入学式のことか、丘で会ったことか、自分でも不明だった。ただ、彼女の言葉は意外なものだった。
「先生と私は、もっと前に会ったことがありますよ」
「もっと……前?」
「ええ、そうです。四年前、大陸に向かう船を見送りました。別れのとき、神門の入り海を抜ける船の上から手を振ってくれました」
怪訝そうに瞬く猛に、少女は真剣な眼差しで言葉を続ける。
「四年前? ……カンドの何? 船?」
「きっと帰ってくると言って、そう言って抱きしめてくれた。そして約束どおり、こうして帰ってきてくれた」
少女はそう言って微笑む。わずかに目元が潤んでさえいる。一方で、猛の方は混乱するばかりだった。聞き慣れない単語や身に覚えのない行動を示唆されても、混乱は助長されるばかりだ。だが、約束と言われ、こちらが覚えていないのは気にかかる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。一体、何が何のことか……。落ち着いてちゃんと説明してくれ、ないか?」
この場合、落ち着いていないのは猛の方なのだが、それはそれとして少女は言葉を続ける。
「今の私たちが出会ったのは十日前、あの海の見える丘の上です。だけど、出雲の国に住む私たちは何度も会ってましたよ。四年前、北ッ海を眺めながら山里での生活や遠い国々の話をしてくれた。思い悩む私に声をかけてくれて、何でもないよって笑って言ってくれた。海の見える丘で。今日と同じように、海の見える、夕日の映えるこの時間に。きっと、ここで待っていてくれるのだと」
それは突拍子もない話だ。出雲の国? 確かに、ここは出雲市だし、かつてそう呼ばれていた時期があったことは知っている。だが、それは歴史的な話であるし、今の話ではない。ましてや、自分や目の前の少女が生まれたころの話でもない。出雲国と呼ばれていたのはもっと昔、少なくとも江戸時代以前の話だ。いや、江戸時代は松江藩か? そこまで考えて、思考を止めた。ここまで話が跳べば、猛は逆に冷静に話が聞ける。この子はおかしいんじゃないか? そう考えることで自分自身を正当化できる。子供のことだから、どこかで見た小説や映画と現実をごっちゃにしているんじゃないか、と。その疑いの眼差しに気付いたのか、少女は話すのをやめ猛の方を見詰めていた。
「嘘や妄想なんかじゃないですよ」
少女の見上げる瞳の中に、僅かな苛立ちがあった。その感覚を猛は理解できた。聞こえない音に理解を示してくれない友人達に向けた苛立ちと同じだ。だが、その気持ちが理解できるからと言って、彼女の言うことをそのまま信じることは出来ない。こちらまで彼女の嘘につきあって、無駄に悩む必要は無いではないか。
少女は一転して悲しげな面持ちに瞳を潤ませる。なにか、自分がとても悪いことをしたような気にさせる。
――カーン、カーン――
不意に例の耳鳴り、甲高い金属音が鳴った。何とはなくその音が聞こえてきた方向へ目を向ける。長年の間に染み付いた癖だった。しかしその時、目の前の少女も同じように、視線を動かしたのが分かった。
「まさか……あの音が?」
猛は思わず声に出した。もしかすると、この少女にもこの音が聞こえている? 動揺も露わに、少女の姿をまじまじと見詰める。しばらくの間をおいて、少女も猛の驚きの理由を理解したらしい。
「あの鈴の音は鎮魂を、魂の共鳴を願うもの。天地の精霊達に声を届け、神々と私たちとの調和を望むもの。死者を悼み、荒ぶる神々を鎮め、天地の神々に繁栄と豊潤を請い願う」
少女の言葉の、その意味は理解できなかったが、なぜかストンと心の奥に落ち着いた。その気持ちを少女は読みとったのか少しの間何かを考えてから、おもむろに微笑んだ。
「それじゃ先生、さようなら」
ぺこりと頭を下げて、少女は手を振って帰り出した。猛は少女の突然の変化に驚いて、どもりながら呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何が、なんだか……、俺は……」
「まだちゃんと思い出せないみたいだから、もう少しくらい待ってあげる。もう、四年も待っているんだから。それじゃ、また今度ね、タケル!」
後ろ向きに歩きながら、そう言って少女は笑う。その笑顔と言葉に、足取り軽やかに振り返る彼女の後姿に、猛は言いようのない親しみと寂しさを感じ、困惑しながら見送った。一人残った猛はこの不思議な少女のことについて思い悩む。
いつの間にか陽は落ち、遠く見えていた海は暗く沈み、まるで彼の心の内のように見えた。
帆に風をはらみ、船が奔る。強い季節風が東へ奔る船の背を急がせるように押していく。船は大きな木刳り船を複数繋げ、船底を張り渡したものだった。中央に一本、マストが立ち麻で編んだ帆が大きく脹らむ。この時代の船としては比較的大きく、乗員や積荷を風雨や潮から守るための船室まで設置してある。その船が距離を空けて三隻、東へと舳先を向けて進んでいく。各船の舷側には櫂もいくつか用意してあるが、風がある今は誰も手にする者はいない。乗組員のほとんどは洋上の強い風を避けるために船室に入り休んでいた。風が吹いていない時には櫂を手にしなければならないため、休めるときには休んでおく方がよい。
ただ一人、船の舳先には見張りのための人影があった。船は何もない大海原を進んでいるわけではなく、南側に海岸線を臨みながら平行して進んでいる。海岸は岩場や崖が多く寄港する湊も邑も無いが航海のための道標となる。その見張りは、まだあどけなさを残したような少年だった。片膝を抱えて蹲るように座る。その背には体の小さな彼には不似合いな長剣を負っていた。飾り気のない木製の鞘と簡素な柄。彼は、じっと船の舳先を、その先の海原を、何かを望むかのように眺め続けていた。
風は良好で、船は東へ東へと波をかき分けて進む。そして予定よりも早い刻限、日が中天から傾きだした頃に、少年はやや目を細めた。
「岬だ! 出雲の国が見えてきました!」
少年の声に応えるように歓声に船が震え、ドカドカと大きな足音が船底を叩きつける。船室で休んでいた他の乗員たちが我先にと船先から覗き込む。おおっ、と歓声が湧きあがる。皆が待ちに待った国の姿が、その眼前に広がっていった。これまでも見続けていた岩崖の先。それが長く続いた先に、こんもりとした森の固まりが、まるで島のように現れる。やがて彼らが岬と呼んだその島から南側の海岸まで、水平線の上にまるで白い線が輝くように引かれ、その島が実際には地続きだったことが分かる。近づくごとに厚く広がる白い線は、やがて白く輝く砂浜だと分かる。近づくごとに厚みを増していく砂浜に僅かな切れ目があった。船は、その切れ目を目指して奔っていく。
砂浜の向こう側もまた海だった。つまり、砂浜ではなく海の中に突き出たような砂州。そして砂州で分かたれたその内側の海は、『神門の入り海』とよばれる内海である。天然の良湊である神門の入り海は、出雲の国の玄関口であり、北ッ海を東西に伸びる交易路の要でもある。波が高く難破や遭難といった危険がある北ッ海と違い、神門の入り海の波は柔らかく、船旅に疲れた人々を優しく労ってくれるようだった。そして入り海は交易湊として東西の富を集めるだけでなく、その周囲に住まう人々に、豊富な海の幸を与え、多くの人口を支えてもいる。
入り海を囲む海岸には多くの人行き交い、多くの家屋が並び建つ。その一つ一つは質素で慎ましいものであるが、海岸から内陸へ向かって、幾つかの家が集まり集落となり、その集落が集まり邑をなす。そのうちのいくつかの邑は濠や塀で囲まれて見張り台を有する大きなものだった。密集した家屋の奥に政治的機能を担う高殿を備え、一つの国と言っていい規模のものもある。海岸沿いのあちらこちらから小さな煙が幾つも立ち上っている。炊事の煙、土器を焼く煙、製塩の煙、焼き畑の煙、冶金の煙。この時代の人々の活動は火と共にあり、その数の多さは人口の多さ、そして活発さを示していた。出雲の国はこの時代、倭における有数の大国家なのだった。
船上の人々は久しぶりに見る神門の入り海と出雲の国の光景に見入る。
「あの赤い色……、御柱だ!」
入り海の北岸、海岸から先は低い丘になっているが、その向こうに鮮やかな朱色の柱が見える。その柱は海岸に接する丘の向こう側に立っており、その根元から、全貌を見ることはできない。それにしても、森の中に浮いているように見える鮮やかな朱の柱は、周囲のものに比べて明らかに巨大だ。海岸に見える邑々の塀や住居、高殿といった建築物はおろか、周囲の木々と比べても遥かに高く大きい。樹齢千年とも言われた神木を模して建てたという柱は、心の御柱と呼ばれ、人々の信仰の対象なのだ。
「御柱だ。ようやく帰ってきたんだな」
「あれが御柱か……。初めて見るが、たいそうなものだな……」
船員の多くは出雲の国の出身である。そしてこの国に初めて訪れた者も、やはり御柱のことは知っている。心の御柱の巨大さと、それを建て、祀っている出雲国のことは口伝で広く知れ渡っている。
口々に感嘆の声を漏らす人々を乗せて船は進路を南西へと変える。入り海の周囲にはいくつかの邑があるが、そのうち南岸には神門邑がある。外ツ国からの交易の船はすべて神門邑の湊に接岸するよう取り決められている。彼らは少しでも御柱を眺めようと、思い思いに船尾へ移動したり、船室によじ登ったりしている。
その歓喜に包まれた船の中で剣を負った少年は、湊とその先に連なる山々を眺めていた。
「なんとか無事に着いたな、タケル」
少年の隣には、彼よりもやや年上の少年が、やはり同じように南の山々を眺めていた。
「そうだね、ようやく帰ってきたんだ」
二人はよく似た顔つきであったが、それもそのはずで彼らは兄弟であった。兄の名はハヤト、剣を負っている少年が弟のタケル。彼らもある意味では出雲の国に所属する者ではあるが、やや事情が異なる。
「予定よりも早目の到着か。良い風が吹いていたからな。だがこちらの方は、少しばかりやっかいなことになりそうな雰囲気だな」
ハヤトはちらりと背後の船室を見やる。その中には大陸から持ち帰った荷がある。その荷自体は彼らとは関係無い。大陸から同行した、ほかの乗員の荷物である。その荷がひどく重要な意味を持つことを彼らは知っているが、今の二人には直接の関係は無い話だった。
「まあ、所詮、人ごとだ。しばらく様子を見させてもらおうか」
タケルは兄の言った言葉を聞いていなかった。彼は視線を広くめぐらす。湊から少し離れた場所、神門の入り海と北ツ海を隔てる砂州の、その防風のために植えられた松林の丘の上で何かが微かに輝いた。
船は神門邑の湊へと接岸する。砂州を掘り、石を積み、板を張っただけの湊ではあるが、彼らの船を寄せるのには十分な規模があった。湊の一角にはやや小振りの船が十艘近く泊めてある。入り海での漁や荷運びにもちいる小船だ。
船が接岸する前から湊人や邑の人々が岸に集まっていた。接岸と同時に水手の一人が飛び降りて、船に結びつけてあった縄を手近な岩に結びつけて固定する。
「我は出雲の国が公人、神門のサカネ。王命を果たし遠く大陸から帰国したところである。誰か、案内する者はいないか」
湊に上陸し、大声を張り上げた男は堂々と周囲を見渡した。公人とはこの時代の政治に関わる人々のことである。彼は出雲国の政に携わる者であり、しかも外ツ国との交渉という大事業を果たしてきたところである。自負と自信に溢れた立ち姿だった。しかし、周囲に集まってきた湊人にサカネに応ずる者はいない。個人的に顔を見知っている者はいるが、遠巻きに眺めるだけである。サカネにしても在地の公人の案内が無くては、王に復命することも同行してきた者を慰労することもできない。
「おい、誰でも良い、誰か公人を呼んできてくれぬか?」
サカネが周囲の者に、誰へともなく指示する。しかし、周囲はざわつくだけで何の動きもない。ようやく、人々の中から一人の男がサカネへと近づき、恐る恐る小声で何かを伝えた。
「大祭の準備に? そうか、そういえば春の神和祭の時期だったか。う~む。しかし、こちらも大役を果たしてようやく大陸から戻ってきたところだ。重要な客人もいる。王とはいわぬ、誰でも良い。一人でもいいから公人を呼んできてもらえないか」
「……はあ、そう言われましても」
困惑しているのはその男だけでなく、船に残っている者達も同じだった。彼らは案内されるまで船に留まるよう言い渡されている。船中には明らかに他国の装束を纏った人物もおり、慣れない船旅を続け、ようやく着いた湊に降りられないことに得心がいかない様子だった。
「あまり待たすようなら、私の権限で客人達を高殿に連れていく。ヒオキ殿にはそのように伝え置いてくれ」
困惑顔の男の前でサカネが言い切った時、この騒ぎを聞きつけてようやく若い男が一人、大慌てでやって来た。彼の頭には青く染めた布が巻かれている。青い布は出雲国の公人の標である。身分や役職によって布の大きさや巻き方が異なっている。
「サカネ様、お疲れさまでした」
「おお、ヒオトか。久しぶりだが、息災であったようだ。ヒオキ殿は御健在か?」
こちらこそ、と走ってきた青年は応えてから、息を整える。相当に慌ててここに駆けつけた様子だった。
「ではヒオト殿に許可を頂こう。こちらには遥か遠く、大陸からいらした使者殿もいらっしゃる。早速、神門の邑の高殿にお連れしたいが……」
サカネがそう喋るのを、ヒオトは再び慌てたように止めた。
「サカネ様、申し訳ありません、それは無理なのです。それよりも……」
ヒオトはサカネの耳元へ、さらに小声で説明を続ける。説明の中で、サカネの顔色は赤く、青く、変わる。最後にはヒオトの慌てぶりが移ったかのように、落ち着きがなくなっている。
「このまま船を出せ、と……」
「今はそれでお願いいたします。後続の船も同様に、早急に。筑紫の者に感づかれると問題になります。あとで必ず公人を向かわせますので、ひとまずは船を浦へ」
サカネは不承不承のていで頷き、そして船へととって返す。船内でも一悶着あったものの、やがて船は岸壁を離れ、入り海を北へと、やってきた航路を逆にたどり始めた。
「どうしてこんな時に……。ともかく、父上の指示を仰がなければ」
ヒオトは出航を見送りつつ周囲を見渡す。邑の者を見つけ、この船のことを口外しないよう通達を出す。船が砂州を曲がり北ッ海へと出たことを確認してから、このことを他の公人達に伝えるために小舟に乗り込み、入り海を北上していった。
その様子をハヤトとタケルの二人は陸の上から見送った。二人はヒオトと呼ばれた公人が来る以前に、他の乗員や群衆に気付かれないよう船を下りていた。湊で一悶着起きることは予想できていたので、湊からの反対側から、すなわち船から海の中へと降り、舷側を伝って湊の少し離れた岸壁から上陸していたのだ。元々、彼らは出雲の国の公人の随員ではない。彼らが連れ帰った外ツ国の使者の一員でも無いのだ。船の漕ぎ手の頭数を揃えるためだけに乗っていたのだから、その場から消えても誰も問題にしなかった。
ハヤトはその様子を眺めつつ考える。
「判断の難しいところだな。ともかく郷の者と連絡を取ってみるか……」
「兄さん、ごめん。少しだけ寄り道していくから。また後で」
「おい、タケル!」
呼び止めるまもなく、タケルはハヤトの姿を背に、走り去って木立の中へと消えた。やれやれ、とハヤトは嘆息しながら一人呟く。
「まったく、帰って早々忙しいことだ」
タケルは松林の間を駆け抜けていく。神門の入海の西側は砂州で外海と遮られている。そこは砂州とはいえ所々に風除けのための松林があり、また小高い砂丘がなだらかに続いている。下枝の茂る緩やかな斜面を、タケルは苦ともせずに駆け上がり、駆け下りていく。迷うことなく向かった先には、一際高い丘があった。
北ツ海と入海の両方を望むことができる丘の頂上は松林が途切れたやや開けた場所だった。風の強い丘の頂上は、草木が根付きにくい。強く吹く西風が、海の匂いを送ってくる。細波がキラキラと陽光を反射し、傾きかけた太陽を紅く映している。砂州の形を確認し、そこで立ち止った。
「タケル?」
声が聞こえてきた。四年ぶりに会う、懐かしい少女の声。振り向くと少女の姿があった。驚きと喜びの感情が入り交じった笑みを満面にたたえた愛らしい少女の姿。白の上衣に朱色の袴。腰まで伸びた髪が長く、海風に流れる。
「タケル……、無事に帰ってきたのね」
少女は長い髪を翻しながら、タケルへと駆け寄る。
「約束どおり、帰ってきたよイスズ」
二人はお互を、長い間待ち望んだ喜びを抱え込むように、やさしく抱きしめあった。
猛は奇妙な感覚を覚え、目を開けた。辺りが妙に暗い。暗い、と感じるのは、今の今まで自分が明るい場所に、野外にいたはずだと記憶しているからだ。妙に動きづらいと感じたが、実際にはそれは自分がベッドに横になっているからだとわかった。
「なん、だ?」
起きあがろうとして、手や背中にひどく汗をかいていることに気づく。それに、妙な感覚が続く。両手にやわらかな感触が残っている。あの少女は……
――自分は今まで、ここにいたのか? いつの間に、こんなところに――
起きあがり、周囲を見渡して、ようやくここが自分の部屋だと分かった。サイドボードの時計は朝の四時を示している。日の出にはまだ早い。ふらふらと立ち上がり、申し訳程度の広さしかないキッチンに立ち、冷蔵庫を開けてペットボトルの冷たい水を飲む。それでひと心地着いたのか、少しずつ頭がはっきりしてきた。
「そうか、ここは今だ……。いや……」
頭を一振りし、もう一口水を飲む。
「あれは夢か? それにしては……」
それにしては奇妙なほどリアルな夢だった。その夢の中で猛はタケルであった。背に負った剣の重さを感じていた。潮の匂いが鼻腔にわだかまっているようにも感じる。手には少女の柔らかさが残っている。そして、少女と再会できた喜びも、また心の中に残っている。
そこはずいぶんと昔の時代だった。電気や水道もない。テレビで見る時代劇の風景よりも古い様子だった。石器時代と言うことはなく、表現するなら古代社会。そう、縄文時代とか弥生時代とかいった想像図に近くはなかったか?
「それにあの子……。イスズ」
夢の最後に現れた少女。彼女の姿形は西陵の生徒、来海五十鈴に瓜二つだった。しかも、二人が出会った場所は、海を望む小高い丘……。
「同じ場所だったのだろうか? いや、まさか……あの子が言っていたことが、本当に……」
どこからか、カーンカーンという耳鳴りが、来海五十鈴の言う鈴の音が聞こえてくる。聞き慣れたその音が、猛の思考を妨げる。体はひどく疲れていたが、猛は床に座り込んだまま考え続けた。外はまだ暗い。しかし、再びベッドに戻りたいとは思わなかった。
西陵学園も入学式シーズンを過ぎた、と表現できるだろうか。夢と希望にあふれてはしゃぐ新入生や、肩書きだけの先輩風を吹かしていた上級生達もなんとなく落ち着きを見せ始めている。伝統とやる気とに富んだ運動部などは、新しい仲間を加えて動き始めている。放課後には特別教室棟の音楽室から流れてくる吹奏楽部の楽器の音が聞こえ、グラウンドや体育館には新入部員らしい初々しい掛け声が響き渡る。学内のあちらこちらにランニングや筋トレなどで汗を流す生徒達が見られる。
彼らの姿を見下ろすように、猛は一人、再び屋上へとやってきていた。思い悩み、考えなければいけないことはたくさんあるが、それだけでは整理がつかない。ある事を一つ心に決めて、ここに立っていた。
「タケル」
「……先生と呼べ」
フェンス越しに海を眺めていた猛は、近寄ってきた生徒に振り向きもせずに応えた。
「じゃあ、金築先生。何か話したいことがあるんですか?」
二人は別に事前に打ち合わせてこの場所に集まったわけではない。その軽い物言いに、猛は不機嫌に呟く。
「別にお前と話したいことなんか無い」
「でもここで待っていてくれたんだし、それに……、顔はそう言ってませんよ」
五十鈴はそう言って柔らかく笑んだ。フェンスを背に振り返ると、その笑顔はやはり、夢で出会った少女に似ていた。
「それは見解の違いだ。い……、来海、の方こそ何しにここに来たんだ」
「そうですね。きっと先生と同じ用事で来たんだと思いますよ」
不意に潮風が流れ込み、少女の長髪を撫でる。その姿がどこか、知らないはずの記憶を呼び起こさせそうで、心を乱す。猛は少女から目を逸らすように、フェンスに体をあずけて海を眺める。そうしてしばらくの時間、二人の間には沈黙が降りた。少女は猛と同じようにフェンスに寄りかかり、同じように海を眺める。
「夢を見た」
そう、猛がぼそりと呟いた。
「そう、夢だ。俺は夢の中でもタケルと呼ばれていて、船に乗っていた。兄や一緒に旅をしてきた人たちがいた。俺はどこか遠くから帰ってきたらしい。海の方からだ……」
淡々とこれまで整理し考えてきたことだけを口にする。
「船は神門という湊に着いた。そこは出雲の国というらしい。人々が大勢いた。俺も含めて皆、簡素な服を身につけていたよ。家は低く、茅葺きだった。赤い柱があったな、大きい。御柱とか呼んでいた……、とても古そうな、古代と呼べるような時代。そこに……」
猛は少女の方を向いた。少女も同じように頭だけを動かして、猛を見詰めていた。
「そこに、君がいた」
二人は無言のまま、見つめ合った。少女の表情は真摯で、どこか神秘的で厳粛な雰囲気を漂わせていた。
「私も、そこにいた。タケルと、あなたとそこで会った」
「……」
「ずっと、ずっと……。毎日、海を眺めて待っていたわ。きっと帰ってくるって、そう約束してくれたから」
少女の瞳が一瞬だけ潤む。細い涙の雫が、やわらかい頬を伝って流れる。その頬が、目元が、唇が、笑顔に綻んでいく。探し続けた人にようやく巡り会った。その思いを伝えることができる喜びが、そこにはある。
「タケル!」
「……」
しかし、猛は無言のまま応えなかった。逆に少女から目を逸らし、遠く海を見やる。伸ばしかけた少女の手が止まった。
「そんなものはただの夢だ。君から聞いた話を覚えていて、たまたま夢に出てきただけだ。あんなものは、全部。君の思い違いだ」
「……タケル?」
猛は少女に目を向けないまま、背を向けた。
「俺は君の言うタケルなんかじゃない。あれはただの夢だ。俺は……君とは何の関係もない。生徒と先生ということ以外は」
抑揚なくそれだけを言い捨てて、少女へと一度も振り返らないまま、その場を立ち去ろうと歩いていく。猛は夢の話をし始めてから一度も彼女の顔を見ていない。彼女からの視線を痛いほど背中に感じながら、階下に通じる扉をくぐる。
これでいい、そう心の中で繰り返す。自分は大人であり、社会に責任を持つ社会人であり、そして教育者だ。ファンタジーめいたおとぎ話に付き合い、日常の生活を壊すわけにはいかない。自分が彼女のおとぎ話を否定することで、あの子も現実に目を向けるだろう。そうだ、これも彼女のためなのだ。
そう心の中で確認しながら歩き、いつの間にか四階を過ぎ三階へと降り、そこで漸く足を止めた。振り返りもせず、ここまで歩いてきたのは、何かを恐れていたからだろうか。あの少女の顔を見たくなかった、おそらく悲しむであろうその顔を、自分は見たくなかったのかもしれない。以前の自分と同じ思いを、誰からも理解してもらえずただ困惑する思いを、今現在、彼女に味あわせているのかもしれない。
自分のために、相手のためにと想い、一つの結論を出し、実行した。それなのに、思いのほか後ろめたさを引きずっている自分に愕然とする。息を一つ吐いた。自分で思っていたよりも重い吐息だった。
このとき、屋上での二人の姿を別棟から見上げていた人物がいた事実を、二人が知ることになったのはずっと後のことだった。