10.5 日常と非日常
オレが鳳嶺高校に入学してから、だいたい2週間が経った。
応援歌練習も過去の出来事となり、特にこれといったこともない平凡な日常が続いている。
別に不満がある訳じゃない。義岡たちとも仲良くやってるし、部活もそれなりに楽しめてる。
でも――何か刺激が欲しい。変わり映えのない日常に対して、オレは少し退屈しかけていた。
そんなことを思っていたからなのか。非日常を心のどこかで望んでいたからなのか。
『それ』は何の前触れもなくやって来た。
□□□
(尿が……小便が漏れるぅぅぅううう!)
尿意。突如として現れたそいつは、よりによって2時間目の授業終了10分前に猛威を奮い始めた。
(やっべえ、過去最高レベルでやべえ!)
冗談抜きでやばい。少しでも気を緩めると、封じられし黄金色の激流が解放されてしまいそうだ。マジヤバイ。
この緊急事態において、オレに残された選択肢は3つ。
1:堂々と漏らす
2:先生に許可をもらって授業を抜け出す
3:頑張って我慢して、チャイムと同時にトイレに直行
とりあえず1は論外だ。社会的に死んでしまう。
2に関しては、少なくとも1よりはましだと思う。しかし、高校生にもなってこれは恥ずかしい。「先生トイレ!」と言って教室を飛び出す小学生と同レベルだ。……まあ、そんな奴がオレのクラスに約1名いるのだが。ともあれ、この選択肢も除外。
(やっぱ気合いでこらえるしかねええええ!)
消去法で、オレは3の行動を取らざるを得なかった。しかし、爆発寸前の膀胱を抱えたまま授業終了まで耐えるのも簡単なことではない。
(う、動いて気を紛らわさねえとまずい!)
そう思うものの今は古文の授業中。席に座ったまま、かつ先生に注意されない程度の目立たない程度の動作しか許されない。そしてなおかつ尿意を少しでも紛らわすことができる動きといえば……
(貧乏ゆすりしかねえ!)
これしか思いつかなかった。もっとも良い方法があるかもしれないが、焦燥に駆られた今のオレの思考回路だとこの程度の発想が限界だった。
だからといって、ただ闇雲にゆすればいいというわけではない。机に膝が当たったてガタガタ鳴ったり、床と靴裏がタップダンスのような音を出したりしないように気を付けなければいけない。
覚悟は出来た。いざ、貧乏ゆすり!
ガタン!
……速攻でミスって机にぶつかった。でもそこまで大きな音じゃなかったからか、数人の生徒しかこちらを見ていない。セーフ。
気を取り直して。ビバ、貧乏ゆすり!
……よし、良い感じ。この膝の速度と振幅なら誰にも迷惑をかけずにゆすれる! 我ながらゆすれるって変な日本語だと思うけど、気にしてる場合じゃねえ!
そんな必死の抵抗の甲斐あってか、ほんの少しではあるが尿意はなりを潜めた。それでも依然として危険な状態ではあるけど。
そこからはオレと尿意の熾烈な闘いが幕を開けた。一瞬の油断も許されない厳しい世界。オレ史上最も長く感じた10分間だった。昼休みがこんなに待ち遠しいと思ったことはない。
死力を尽くし、尿意の猛攻を耐え切ったオレの耳に聞こえたのは、勝利のファンファーレ(授業終了のチャイム)。
カッシーの号令が終わるやいなや、オレは全速力で教室を飛び出した。後は数十メートル先のトイレまで爆走するだけだ。廊下を走ってはいけませんってよく言われるけど、少なくとも今のオレにそんなルールは適用されない。
文字通りの全力疾走。周りの目なんて気にしない。こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ、なりふり構ってなんかいられない。
(あと1分も持ちそうにないが、トイレは目前! 勝っ――)
勝利を確信し気が緩んだからか、必死になるあまりに危機を予測出来なかったのか。とにかくオレは周りが見えていなかった。
気付けば1年D組の、何故か入口付近を走っていたオレ。そこから友達と談笑しながら廊下に出てきた女子生徒。オレの進行方向の目と鼻の先。彼女は猛スピードで走るオレの存在に気付いていない。
(ぶつかる!)
バアアアン!
□□□
「ふぃ〜」
エデンの園にたどり着いたオレは溜まりに溜まった小便を一気に解放した。長きに渡る尿意との戦いに、ようやくオレは勝利したのだ。
にしても、さっきは危なかったなあ。危うく衝突事故を起こすところだった。
ぶつかりそうな状況を理解した瞬間に、前に出ていた右足を全力で床に叩き付けた。『バアアアン!』とかいう大袈裟な音が鳴り、体にも強いブレーキがかかったが、それでもなお勢いは止まらず、このままいくとぶつかってしまうことに変わりはない。
そこで右足を軸にして体を上から見て左回転させつつ、殺し切れなかった勢いを利用して女子生徒の外側を回り込むように動き、とにかく激突を避けるために上体を全力で反らす。
必死の頑張りのおかげか、制服が少しかすったもののオレは女子生徒の左側に足を次ぐことが出来た。激突の危機を脱したオレは、本命である膀胱の危機を脱するために再び疾走した。こうして事故は未然に防がれたのである……と言うのは少し語弊があるか。
ともあれ、今は無事(?)にトイレにて放尿真っ盛り。我慢してたせいで勢いがいつもの2倍増しだ。
ああスッキリ。実に清々しい気分だ。さあ、教室に戻って弁当食うか――
「あおき!!」
――なんて考えながらトイレから出た瞬間、オレは見知った人物に大声で呼び止められた。いきなりはビビる。
「うぉ!? って真弓[まゆみ]か。どしたよ?」
同じ陸上部に入っている真弓は、一言で言うなら幼稚園児。前に部活で「お菓子あげるから」と言ってしまったせいで、それ以来事あるごとにオレにお菓子をねだってくる。だから今回もそんな感じの用件だろうと予想していたが。
「みきちゃんにあやまって!!」
意外にも、別の用事があるようだった。というか聞き覚えが無い名前が出てきたんだが。
「みきちゃん?」
「さっきぶつかりそうになったでしょ!!」
ああ、なるほど。把握。結果的に無事だったとはいえ、危ない目に合わせちゃったからね。真弓がこんな激おこぷんぷん丸状態なんだから、みきちゃんとやらもきっと怒ってるんだろうな。
「いくよ!!」
「ちょ、引っ張るな」
腕をギッチリ掴んで強制連行しなくても、ちゃんと行くからさ。
□□□
「みきちゃん、つれてきたよ!」
真弓に連れられてやって来たのは1年D組。例の『みきちゃん』は、一人で昼ごはんを食べていた。いつもは真弓と一緒に食べているのだろうか。
「え、どちらさま?」
あれ、なんか困惑気味な返事が返ってきたぞ。まあ、さっきは一瞬の出来事だったからオレの顔を見れなかっただろうし、見覚えがなくても無理はないだろうけどさ。
「あおき。あぶないひと」
なんかその紹介は色々な誤解を招きそうなのでやめてください。
「なるほど、さっき爆走してた人だね」
そんな適当な説明で通じるのかよ。すげえな、みきちゃん。
「あれ、みきちゃんおこってないの?」
「べつに?」
さっきから薄々思ってたけど、当の本人は全く怒ってないじゃん。
「オレ帰っていいか?」
別に謝らなくても良さそうだし。
「だめ! みきちゃんがよくてもわたしはよくないの!」
さいですか。まあ、真弓の友達を傷付けかけたのは事実だからな。要するに、真弓の本心は『みきちゃんは怒ってないけど、私の気が済まないから謝ってほしい』ということか。ここは素直に謝るのが吉だろう。
「とのことで、さっきは危うくぶつかりそうになってごめんなさい」
お辞儀をしつつ謝罪。基本的にオレは同級生に敬語は使わないスタンスだが、『みきちゃん』とは初対面だし、一応許しを乞う立場だから今回は例外だ。
「え、別にそんな。お互い無事だったんだし大丈夫だよ」
予想通りにあっさり許してもらえた。真弓の知り合いだからどんなぶっ飛んだ人かと思ったりもしたが、話が通じる人で良かった。
「そっか、ありがとな」
「うん」
よし、ミッションコンプリート。今度こそ教室に戻って昼飯たべよう。
オレはそう考えて帰ろうとしたが、真弓がオレの袖を掴んでその場に引き留めたのでそれは叶わなかった。まだ何かあるのか?
「おかしは?」
「あげない」
というか持ってない。そもそも本来はトイレに行くだけの予定だったのだから、お菓子なんて持って来てる訳がない。
「む、おかしくれないとはなさないよ!」
そう言うと真弓は袖を掴んでいる手をさらに強く握り締めた。
はあ、めんどくせえ……でも、お菓子以外でこいつ(真弓)を手懐ける手段は無いんだよな。
「しょうがねえな……じゃあ購買行くぞ、買ってやるから」
盗難防止の理由からか、うちの学校は貴重品は常に持ち歩くように呼び掛けているので、オレは常に財布と携帯電話だけは学ランの内ポケットに入れて携行している。お菓子はないが金はあるので、購買で買ってやろうという結論に至った。教室に帰るために。
「やったー!」
「え、ありがとう」
……あれ? なんか『みきちゃん』も真弓に便乗しようとしてるんだけど。
「これ、まさか君にも奢らなきゃいけない流れ?」
「逆になってるよ? 私は君[きみ]じゃなくて未希[みき]。今度から間違えないでね?」
「いや別に間違ったわけじゃねえよ?」
真弓が呼んでるから名前は分かってたけど、何となく無難に『君』って呼んでただけだよ? 本人の了承もなしに、いきなり下の名前で呼ぶのも妙に馴れ馴れしい感じがするし。まあ、本人がそう呼べって言ってるなら遠慮はいらないか。
話を戻そう。
「で、結局オレは未希にも奢るパターンのやつ?」
「さっきの謝り方じゃちょっとダメかなー。誠意見せてほしいなー」
さっきと言ってること違うじゃん。なんか口調もわざとらしいし。まあ、こうなったら真弓のついでだ。潔く未希にも奢ってやろうじゃないか。
「はいはい、分かったよ。未希も来なよ」
「さすっがー。出来る男は違うねー」
「その口調で言われても全く嬉しくねえんだけど」
「にほんいちー」
「真弓も悪ノリしなくていいから」
そんな言葉を交わしつつ、オレは2人と共に購買へ向かったのだった。




