侯爵と対面3
言ってやった。
否、言ってしまったと思うべきか。
自分よりはるかに身分の高い男、それも「魔王」と陰でささやかれすらするレノン侯爵に脅しともとれる言葉を告げてしまった。
(わたし、生きて帰れるかしら。たとえ悪魔召喚の生贄にされてもベルモント男爵家の名誉は守らなくては)
こみあげてくる吐き気を堪えて、半ばやけっぱちに、ナディアは侯爵の美貌を見つめ続けた。
レノン侯爵は人外の美貌に何の感情も見せないまま、何かを量るようにナディアの目を見返してくる。
「こ、ことの次第が明確になるまで、弟の名誉を損なう噂は慎んでください。もし弟が貴方のお姉様に騙されかどかわされていたともなれば、侯爵のお名前にも傷がつきます」
「姉上がベルモント男爵家の小僧を攫ったと?」
「可能性の話です。ステファンはまだ十五、考えの未熟な子供です。三十六歳の大人が欺くには容易い相手でしょう」
青灰色の温度のない瞳が、ナディアのひきつった顔を射ぬく。
この瞳に見下ろされたら、野生の獣も逃げ出すのではなかろうか。ナディアだって許されるなら全力で逃亡したかった。が、弟と男爵家の名誉が掛かっていると思えばそうもいかない。
「弟とアップルガース子爵未亡人は、私が男爵家の名誉にかけて探します。侯爵が二人の居場所もいなくなった理由もご存じでないなら、当人の口から真実を聞くまで黙っていてはいただけませんか」
「…いいだろう。だが、周囲に彼らの醜聞が広まればその限りではない。私は姉の名誉を守ることを優先する」
「そうなる前に連れ戻します」
言い分が通った安堵で、全身から力が抜ける。
所詮、「誘拐」は醜聞を逃れる言い訳にすぎず、二人がいなくなった理由は駆け落ちであると侯爵の方も了解している。
それゆえの合意だ。
崩れそうになる膝と緩みそうになる頬を必死におさえて、ナディアは侯爵に丁寧な礼を取った。
「突然の面会に応じていただきありがとうございました。失礼いたします」
「待て。お前、探すと言うが具体的にはどうするつもりだ。心当たりでもあるのか」
「…ステファンはまだ成人前の身。頼れる友人はおりません。こう言っては失礼に当たるのかもしれませんが、もし誰かの手を借りての駆け落ちであれば、アップルガース子爵未亡人が縁の方を頼られたのではと」
侯爵は鼻で笑った。
人外の美貌が浮かべる嘲笑はそれだけで凄絶で、魂ごと持っていかれそうな恐ろしさがある。
「それで私のところに来たか。…お前にも姉上から手紙があったのか?」
「弟から」
「見せろ」
「…今は、手元にございません」
高圧的な言葉に唇が引きつった。
「持って来いとおっしゃるのならそうします。ただ、その場合はわたしもアップルガース子爵未亡人の書かれたお手紙をみせていただけますね?」
「互いに情報を隠していても仕方あるまい。お前は本当に姉の行方を知らないようだ。…姉の縁のものをあたると言ったな。姉上が誰と親しかったか、お前に分かるのか」
「貴族社会はとても狭いですから。それとなく水を向ければ必要なことは知れるはずです」
ナディアの返した言葉に、侯爵は青灰色の目を眇めた。考えの読めない美貌に、ナディアは強烈に嫌な予感を覚える。
「5日後の叔母の誕生日に夜会がある。馬鹿げた集まりだが、情報を集めるにはちょうどいい。お前も出ろ」
「…招待状をいただいておりません」
「私が持っている」
「はあ」
「私が、お前をエスコートしてやる。お前は弟と姉上を探すために情報を聞き出せばいい」
「嫌です!」
対面しているのが誰か一瞬忘れて、ナディアは全力で叫んだ。
レノン侯爵の身内の誕生日会に、侯爵にエスコートされて出る。
その意味の重さを分からないナディアではない。
(間違われる。恋仲と勘違いされる)
黒魔術に浸かってるだとか実は魔王の化身だとかの噂のせいで遠巻きにされてはいるものの、極上の美貌に高い地位、王太子殿下の信頼も厚く、結婚相手としては最高の条件を備えた若き侯爵。
人を寄せ付けないレノン侯爵が結婚適齢期に当たるナディアを連れて親族主催の夜会に出れば、確実に周囲の誤解を招く。
弟の醜聞を気にして彼らを探す前に、自分の噂の始末に追われる羽目になるのはごめんだった。
「…そこまで協力してくださるなら、侯爵がおひとりでいらして子爵未亡人の親しい方をあたってください。わたしは、わたしに出来るところから二人を探します」
「お前も貴族の端くれなら、私が社交界でどう思われているかくらい分かるだろう。私が話しかけて、連中が答えると思うか?仮に聞き出せたとして、人嫌いが愛想を振りまく理由はなんだと要らぬ詮索を招くぞ」
ご自分の責任でしょう、とのど元まで出かかった言葉をぐっと堪える。
とんでもない成り行きにめまいを覚えた。
「…夜会はお断り申し上げます。二人のことは、私なりに手を尽くして探しますから」
「今日のように押し掛ける気か?私は事情を知っていたから応じたが、お前のいまの地位では姉の関係者にたどりつくまでにひと月かかる。その間に醜聞が広まるなら、私は姉上は攫われたと口にすることを躊躇わない」
「そんな、」
「考えてみろ。私がお前を連れて歩けば周囲の注目はこちらに集まる。姉上の不在から人の目がそれれば私にもお前にも都合がいい」
レノン侯爵と噂が立つなんて冗談じゃない、とナディアは思う。
駆け落ちした互いの身内を探すための関わりなのだから、本当にお付き合いしているわけでもない。身を隠した二人の居場所が分かった時点で縁が切れるなら、それだって立派な醜聞だ。あの侯爵のお手つきと噂が立てば、ナディアを結婚相手として迎えてくれる異性が今後現れない可能性すらある。
だが、ステファンの駆け落ちが世間に知れることを思えばどちらがましかは考えるまでもない。弟が16歳を迎えれば、ベルモント男爵の地位も弟に渡る。
ナディアは目を閉じた。
―――ねえナディア、ステファンのこと、お願いね。
―――三日経ったら帰ってくる。それまで、家のことは頼んだよ。
(お父様、お母様、お約束は守ります)
レノン侯爵の冷ややかな美貌を見据えて、ナディアは分かりました、と頷いた。