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白花の笛  作者: 薄桜
弘敦の章
8/11

漆.梅雨空

「何かする事は無いんですか?」

五月も半ば過ぎ。

たまに降るものならば心地良く聞こえる雨音も、こう幾日も続かれると気が滅入って仕方が無い。

蒸し暑さに参り、着崩してだらしなく脇息にもたれ酒をちびちびと舐めるように飲み、回想に心を馳せていた。


静かに目を閉じて、篝火に照らされたひよどりを想う。

心地良く心を震わす音色を思い返し、幾度とも知れぬ溜息を吐いた。

笛に合わせて、即興で琵琶を合わせたあの心地良さ。

こちらに帰る事を億劫に思うようになるとは、行きにはとても想像していなかった。

・・・別にやる事が無い訳ではない。

俺は俺で物足りない物を埋めるため、少しばかり以前の記憶に逃げているだけだ。


「もう、(かび)が生えますよ? こんな調子でお勤めは大丈夫なんですか?」

「今は物忌み中だ。」

「存じておりますとも。」

乳兄弟の達実(たつみ)の姉である山百合(やまゆり)は、団扇で俺を扇ぎつつ、ひたすらに思考邪魔をする。

身の回りの世話をしてくれる存在ではあるが、お節介は勘弁願いたい。

「昼間から暗い様子で酒ばかり召されて、はっきりいって目障りです。」

ひどい言われようだな。

「他に何かなされる事は無いんですか? あ、ほら、馬にでも乗ってこられたら気が晴れるやもしれませんよ?」

「この雨の中か?」

それは案に目の前から居なくなれ・・・と、いう事だろうか?

「・・・あー、そうですね。じゃぁせめて明るい顔をなさって下さい。」

「物忌み中にやたら明るいのも妙だろう?」

面倒なので理屈で返す。

陰陽師が言うには、昨日からの五日間、何かの神様がうちの屋敷の前を、お通りになるらしい。よって、その間は邪魔をせぬよう引き籠ってやり過ごしている。

物忌みには通常、身を清浄にして謹慎をするものだ。

「人それぞれでございますよ。真面目に謹慎なさる方もいれば、有意義に過ごされる方、口実に使われる方だっておりますもの・・・以前は弘敦(ひろあつ)様もそうだったと山百合(やまゆり)は記憶しておりますが?」

確かにそうだが、別に責められる事ではない。そんな者は沢山いる。

「・・・なら、琵琶でも持って来い。何かしてればいいんだろう?」

根負けだ。こういう時の山百合(やまゆり)は引かない。

今はそれに付き合って、延々とやり合う気力は無い。

「はいはい、すぐにお持ち致します。」

山百合(やまゆり)はあっさりと団扇を下ろすと、嬉々として塗込(ぬりごめ)に向かった。


使い慣れた琵琶を軽く調弦して、音を鳴らした。

湿気に満ちた雨の日に響く音は(わず)かに鈍い。しかし側の山百合(やまゆり)は気にした様子も無く、機嫌の良い顔を見せている。

気乗りのしないまま適当に弦を(ばち)で弾き、何を弾いたものか頭を廻らすが、そんな頭で考えた所で、琵琶を置いてしまう事くらいしか思い付きなどしなかった。

「何か聴きたいものはあるか?」

「いえ、山百合(やまゆり)は何でもいいです。」

・・・それは一番困る答えだ。

わくわくした子供のような顔をして待っている山百合(やまゆり)に嘆息して、再び意味の無い音を鳴らした。

山百合(やまゆり)は昔から俺の琵琶が好きだと言い、自分は琴も碌に弾けもせぬのにやたらと琵琶には詳しくなった。無論、聴く側としてだが。

一緒に育ったため、いつもこうして側で聴いていた。おそらく一番古く、そして熱心な信望者だろう。

さて、何を弾いたものか・・・


耳に残る音を鳴らしてみた。


本来ならば笛の音なのだが、それを琵琶で鳴らした。

俺の心を捉えて離さない、あのひよどりの奏でた音だ。

俺の知る世界では耳にした事の無い、おそらく市井の者の曲なのだろう。


篝火の光を浴びて浮かび上がる白い桜を背にし、自らも揺らぐ炎に照らされて白い汗衫(かざみ)に影が躍る。

幽玄の世界の中に響き渡る清廉な笛の音。


その景色を思い返し、その音を蘇らせたかった。


俺にもその音を鳴らす才があるか? 神に祝福されるだけの何かがあるか?

涙を流すほど、打ち震える音は俺にも出せるのか?


・・・それは、天に居られる何者かへの挑戦だったのかもしれない。

心を捉えて放さぬ心酔の思いは嫉妬にも似て・・・素直に羨望するには、自分は楽の道に踏み込み過ぎている。



「これほどの琵琶は初めてです。旋律も耳慣れぬものですが・・・胸が締め付けられるようでした。胸が早鐘のように打ち・・・少し怖いような気が致しました。」

・・・それが答えなのかもしれない。

山百合(やまゆり)は視線が定まらぬまま、言葉を選んで口を開いた。


焦燥は怒気を(はら)み、聴く者を不安にさせた。

心穏やかにして、まず自らが楽しまずして、どうして人を感涙せしめられようか?

楽士としてのありように、根幹から揺らぐ今の心の内を(うと)み、琵琶を手放した。

「やはり今は気分が乗らぬ、仕舞っておいてくれ。」

そう言い置いて立ち上がり、巻き上げられた簾を避けて(ひさし)から簀子すのこに出た。

「どちらに?」

「その辺りに。雨でも見ながら気分転換かな。」


人の居ない簀子すのこに座して高欄(こうらん)にもたれ、延々と天から垂れ続ける雨粒をぼんやりと見上げた。

空にある雲は(にび)色で、流れて位置が変われども、相変わらず同じ色を止めようとはしない。

敷石に弾ける粒が、それぞれ雑多に音を立て、交じり合って眠気を誘う音を成す。酒を帯びた頭には子守唄にも等しい。

しかし、心には言い表せぬ感情が渦巻き、それが眠気を遠ざけていた。


不意ににゃあと声がして、脇を見ればもみじが足に擦り寄ってきた。

我が物顔で人の足に上がるので、背にある黒い紅葉の模様を撫でてやると、再びにゃあと細く啼く。

猫にも思い煩う事はあるのだろうか?

膝の上の気ままな姿に、それは無さそうだなと一人ほくそ笑んで、今度は白く柔らかい喉を撫でた。

ごろごろと鳴る音を聞きながら、心はまたひよどりに向く。


これほど嫉妬に狂うとは思いもしなかった。

琵琶だけでなく、笛も得意なつもりでいた。

しかしそれはとんだ思い上がりであったと、真の才能を前に恥じ入りたい心地になった。

曇天を眺め、いずれは空が晴れるように、心の内にも光が射すだろうか?

そう感傷的な事を考えていると、もみじは身じろいで膝から下りた。そしてそのまま長い尾を揺らし、振り返りもせず優雅に歩いて何処かへ向かう。

・・・猫にまで見捨てられたか?

その後姿を見送りながら、自嘲的に自分を笑った。

(用語解説)


・物忌み

 作中のみたいな事もありますが、夢見が悪かったとか、今日は気分が優れないとか、物忌みと言っておけば、堂々と休める素晴らしい言葉。でもその間は、届けられた文も受け取れません。

ちなみに天皇の場合は「御物忌み」宮中に居合わせた人々も帰れなくなります。


塗込(ぬりごめ)

 風通しの良すぎる寝殿造りの、唯一しっかりした壁のある場所。物置とか寝所として利用されます。


高欄(こうらん)

 簀子すのこについた柵です。


・猫

 中国から輸入した高価なペットであります。とてもとても大事にされました。猫をいじめた犬は酷い目に遭わされます。背が黒で腹が白いのが一番人気だったそうです。

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