壱.笛の音
青く抜けるような空の下。日の光は暖かく、心地良い風もさやさやと頬を撫でる。
道の脇に見える木には、幼い芽が顔を覗かせ厳しい冬からの解脱を喜んでいるようだ。
あちらこちらに咲く可憐な野の花は、春の訪れを祝福してその花弁を揺らしている。
そして、耳を擽る自由な鳥達のさえずり・・・。
今日は何て良い日だろう。
だが、そんな美しいもの目にしても、俺の心は一向に晴れない。
こんな日は自由に気ままに・・・そう、あの鳥達のように好きなようにしていたかった。
今の時期は愛でる花が山ほどあって、宴に事欠く事は無い。
だから、それぞれのお屋敷が、他家に負けるものかと贅を尽くして競い合う。
庭に植えた見事な桜を、見珍しく貴重な品を、そして趣向を凝らした艶やかな宴を。
・・・楽しいだろうな。
そこに参じて自慢の笛や琵琶を鳴らし、女どもを沸かせるも良し。
その場の噂で、良い女の話を仕入れる事もできただろう。
名手の舞を眺めるもよし、公達と蹴鞠でもいい。
いやいや、行隆を誘って、弓の稽古でも楽しかっただろう。
・・・なのに。
せっかくの宴の誘いを断って、乳兄弟の達実だけを伴い馬に揺られること1日。
どうしてあんな場所に行かねばならないのか・・・
出家して木槿と名乗る尼になったはずの伯母上に、何故こんな贅沢な品ばかりを届けに行かなければならないのか?
2年前に夫を亡くし、先達に習い出家したまでは良かったが、髪が尼そぎになった以外は何も変わらなかった。
いや、もっと質が悪くなった。
都から多少離れただけの風情のある場所に庵・・・とは名ばかりの屋敷を建てさせ、そこから文一枚であらゆるものを呼び寄せる。
強気な姉に昔から頭の上がらない父は、伯母上から文が届くたびに、
「怒らせるな。」
と毎度、念を押すように言うだけ言って、自分は一切関わろうとしない。
まったく、あれが天下の左大臣だってんだから世も末だ。
姉の言いなりの男が政を仕切ってていいのか?
主上に申し訳ないと思わないか?
この国は大丈夫なのか?
既に上の兄弟二人は結構な役を頂いており・・・結局一番下の、まだそこそこの俺にその御鉢が回ってくるという訳だ。
今回届けられた文には、新たに単を仕立てるための絹や綾。冊子や巻子の物語をありったけ。無ければ暇な女房に写させて必ず持ってくるように・・・って、何様だ?
後は新しい硯箱を1つ・・・との事だったが、これが世を儚んだやつの欲しがる物か?
しかし、やたらと目の肥えたうるさい伯母上の事だ。下手に粗末な品を用意して、
「これがやんごとなきお方の用意するものですか?」
と冷ややかな口調で、直接文句を言われるのは俺だ。
乳母の石蕗と、その娘の山百合に頼んで、それ相応の品を手配してもらった。
硯箱などは見事過ぎる蒔絵で、これなら文句も出まいという一品だった。
・・・くそっ俗物め。
ちなみに伯母上は、以前から仲の良かった友人、白蓮を誘い一緒に住まっている。
白蓮も似たような時期に夫を亡くし尼になった経緯の女で、そちらはまだ尼らしく簡素に質素に努めている。
親を亡くしたまだ幼い薄幸の姪である朝霧を引き取り、日々経を読んで暮らしている・・・正しいあり方なのだろうが、こちらも俺の性には合わない。
この世の一切の楽しみを振り切って、気の進まぬ場所に向かわねばならないこの仕打ち。道すがらの景色や風情を楽しんでも、割に合わない。
もう幾度とも知れぬ溜息を吐き・・・始めはその都度、気を紛らわせようと話を振ってきた達実も、それを無視するようになって久しい。
あと少し。そう、あともう少しばかり先に行けば伯母上の庵に辿り着く・・・そんな時だった。
一瞬それは風の音かとも思った。
いやいやそんなわけがない、これは笛の音だ。
しかも荒削りながら、なかなかの色を奏でている。
「達実、ここで待ってろ。」
「弘敦様、如何なさいました?」
達実の声を聞きながら馬から下りて、適当な木に手綱を結ぶと耳を澄ました。
「聞こえないか?」
鳥の声や風にそよぐ木々の音とは明らかに違う、意思のある高く細い音。
「笛の音ですね?」
「これを奏でている者を知りたい。」
俺はそれだけ言うと、脇の茂みに迷いもせずに分け入った。
後ろからは俺の名を呼ぶ情けない声が聞こえはするが、そんな瑣末な事には一切構わず。ただ笛の音の方へと意識を向けて、耳を澄ます。
そうして音のもとへ・・・その笛を鳴らす者のもとへと、俺は何度も方向を探りながら夢中で歩を進めて行った。
弘敦は相当にやんごとないお方であります。
・・・そしてその分、我が侭です。
三男という立場から、芸事に身を入れて、
結構な名手として名を馳せております。
これはそんな主人公のお話。
時代的な考え方とか考慮して書いていく気ですので、もし差別的な表現出てきても勘弁してくださいね。(予防線)
(用語解説)
・公達
貴族の子弟ですね、いいとこのお坊ちゃまです。
・蹴鞠
きっとご存知、昔の遊びです。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技だそうです。
・乳兄弟
高貴な方々は、子供に自ら乳はやりません。近く子を産んだ女を乳母として雇います。乳兄弟はその乳母の子供で、育てる雇い主の子供と兄弟のように一緒に育ちます。
・尼そぎ
出家した女の髪型です。この頃は剃りません。肩や背中位までで切り揃えます。
しかしこの時代、女の出家は正式には認められておらず、自己申告のなんちゃって尼僧だったりします。
・左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職務を統べる、まぁ政治のトップです。常にいた訳ではないらしいのですが。こういう役職の右と左は、左が上の位です。
せっかくなので(?)偉い人にしてみました。
・主上
天皇の事です。
・単
ここでは裏地のついていない、夏用の着物を指します。でも、下着も単っていいます。
・絹や綾
反物です。
・冊子や巻子
冊子は綴じられた本です。巻子は巻物です。
・硯箱
習字道具を入れる箱ではあるのですが、どうもそれだけを入れた訳では無いようです。高価な装飾が施されていて、何かを色々と入れて渡す便利アイテムだったらしいです。おまけに「硯の蓋」と言えば今で言うお盆の意味で、お菓子とか入れて主人に出したそうです。