玖.月光
ひよどりと出会って、そろそろ二年が過ぎようとしていた。
その間に従四位下の左の近衛中将から、従四位上に昇進しに任じられ、蔵人頭も兼任となり、頭中将と呼ばれる身となった。
そして、以前にも増して帝に召され、楽や和歌の供をする機会が増えた。
以前、御前で琵琶を奏じてから、何となくそんな気はしていた。
宴や楽の遊びの度に召され、名誉な事ではあるのだが・・・今上は歳若く、俺とあまり歳が違わないためか、遊び相手に丁度良かったのではないかと感じている。
それでも相変わらず暇を見つけては、伯母上・・・いや、ひよどりに会うために、伯母上の庵に通う事を続けていた。
「先日ひよどりの鬢削ぎを致しました。もうあの子も既に成人です・・・以前のような振る舞いなど・・・なされませんように。」
伯母上がそう言ったのは、日中はまだ暑さの残る、葉月の十五夜を三日過ぎた日の事だった。
几帳の向こうのひよどりとぎこちなく言葉を交わし、いつものように楽を共に奏でても、お互いに居心地の悪さを覚え、良い音は鳴らなかった。
「やはり不思議な気が致します。大人なのだから・・・と木槿様は仰るのですが、何となく不自由です。」
苦笑しながら琵琶を置くと、几帳の向こうから拗ねたような声がした。
「そうかもしれませんね。でも世の姫君は皆こうして几帳や御簾の陰で、扇で顔まで隠して声もお聞かせ頂けませんよ。」
「そうかもしれませんが私は・・・もともとそういう者ではありませんので、頭では解っていても、どうにも慣れません。木槿様に聞かれると叱られるますので、あまり言えませんが・・・。」
そう、儚げに笑う。
「俺も慣れずに思う音が出せませんでしたが・・・ここにきて早々に伯母上に釘を刺されましたので、何も言わない事にしておきます。」
「そんな、弘敦様だけずるいです。私は本音を申しましたのに。」
「それが大人というものですよ。」
そう余裕があるように笑って見せたが、内心ではひよどりと同じく、この当たり前の几帳が邪魔で邪魔で仕方が無かった。
夜半に忍んで入り込んできた珍客の、秋の虫の側で鳴く音に驚いて目を覚ました。
・・・こういうものは、遠くで鳴くのを聞くのが良い。
妻戸を開けて外に逃がし、差し込む月の光に誘われた。
そろりと音を立てぬように用心して外に出て、光を辿って見上げてみれば中天に居待月が煌々と輝いていた。
望月には敵わぬものの、月はただそれだけで美しい。
もっとよく見える場所をと求めて簀子を歩き、この辺りかと足を止めると、ある歌を口ずさんだ。
「秋の夜の 月の光はきよけれど 人の心の隈は照らさず・・・か。」
後撰和歌集にあるものだ。どんなにこの月が明るくてもあの人の心の奥までは照らさない。想う人の心の機微は、几帳に隠れて思うようには量れない。
そんな思いを重ねて詠んだ。
それほどまでにひよどりの姿を見れないのが、堪えていた事に驚き溜息が漏れる。
幼い姿から、会う度に美しくなる様に、惹かれてゆくのを感じていた。
いや、すでに姿を見る以前から、その笛の虜だった。
物思いに沈みかけた時、不意にその歌に返しがあった。
「月にさえ 秘めし内まで照らさなば 人の思いの陰ぞ無しや?」
月の光に心の中まで照らされたら、隠し事など出来無いでしょう? とは見事な返しだ。この月を見ているのは自分一人だと思っていたのに、思いもかけず求めていた声を聞き、俺は迷いも無く歩を進めた。
「その声はひよどりですね?」
「そう言う声は、弘敦様でしょう?」
機知に富んだ返事があり、くすりと笑う気配を求めて角を曲がると、ひよどりが単に緋袴だけのあられもない姿で簀子に座っていた。しかも、行儀悪く高欄にもたれて、その隙間から足を出し、ぶらぶらとさせていた。
おまけにその足は袴をたくしあげ、白い素足が月の光に晒されている。
「・・・それは、行儀が悪いでは済まない姿ですね。」
後ろに長く垂れた髪は無造作に広がり、光を返して悩ましげに艶めく。
「夜はよく、こうやって月を見ます。」
どこかで鳴く鈴虫や松虫の声が辺りに響き、天の月と相まって風情ある情景を成している中、心の臓は無粋にも不自然に早く打ち鳴らされた。
「しかし、その格好は無いでしょう?」
「今宵は弘敦様がいらっしゃいましたが、普段は誰も居ませんもの。」
月の光が当たり、さらに白さを際立たせた面は、事も無げにそう吐いた。
「以前にも夜中に目が覚めると、戸の隙間から月を見ていました。こうしているとあの頃に返ったような心地が致します。無論、こんなに立派なお屋敷などではなく、粗末なあばら家ですけれど・・・そういえば、以前読ませて頂いた草子に似合わないと書かれておりましたが、月の光は何処へでも射しますのに。」
懐かしむような口ぶりから、不意に少し不満気な顔をして乱暴に足を振り上げると、白い足がさらに覗き目のやり場に困る。
「・・・雪も何処へでも降りますからね。あの女史は忌憚無い方のようですので、自分の意見を人がどう思おうが、おそらく気にしてはおりませんよ。」
「私は苦手です。・・・雅の方々は皆そうなのでしょうね。ここの人達は皆優しくて、でも・・・世では私のような者は取るにも足らぬのでしょう。」
「そんな事は無い! ひよどりの笛は誰にも劣らぬ・・・神から下されたかのようなその才に、生まれなど問題ではない。」
力無く洩れ出したひよどりの内からの声に、俺は心乱れる思いがしてその言葉を必死に否定した。
こんなにも才に溢れた人が、自らを卑下する姿は辛く哀しい。
「弘敦様?」
「・・・俺がこんなにも心惹かれているのを、存じてはおられぬのでしょう?」
ひよどりの側に方膝をつき、肩にかかる髪を一房取って滑らせると、さらさらと流れて白い単に広がる。
「あれほど幼かったのに、いつの間にやら美しくなり・・・なのに、ひよどりは無防備過ぎます。せっかく自制しておりましたのに、箍が外れてしまいます・・・」
肩からそのまま単の絹の上を撫で、高欄に置かれた柔らかい手に添わせ、上から握った。
「あの・・・弘敦様・・・・・・」
座したまま見上げてくるひよどりを掻き抱いて口を塞ぐと、焚き染められた侍従の、仄かな香りに更に胸が騒ぐ。
そして戸惑うひよどりをそのまま攫い、月の目より逃れて庇の間に入りて、募る思いを遂げた。
(用語解説)
・従四位下 左の近衛中将
従四位上、蔵人頭
頭中将
えーと、難しい所。階位と役。はっきり言って分かりません。
近衛は宮中の警備員で、その中将。トップは大将なのでその下になります。
蔵人は天皇のお世話をする係り。そのトップが蔵人頭。
そして近衛中将と、蔵人頭を兼任する人が頭中将と呼ばれます。
物語にはよく出てくるので、そのまま使わせて頂きました。貴族のお坊ちゃまのの出世コースです。
参考にした本を書かれた橋本治さんも、この辺投げ出されてたので気が楽になりました。貴族は結局、政なんか何もしてないから、階位を上げて出世してその位に合った役を付ける。そして私服を肥やして、遊びに耽る。と、そんな結論に達されてまして、なるほどなーそれなら納得したと、安心しました。
・妻戸
ドアです。
・居待月
18日目の満月からやや欠けた月。
立って待つには長すぎるので 「座って月の出を待つ月」って意味らしいです。
・単に緋袴だけ
姿としては巫女さんの格好です。しかし袴はもっと長く足は一切見せません。ちなみにこれは下着姿です。
・髪
かなり髪にこだわって書いてると思われたかもしれませんが、髪はセクシャルな場所なのです。この時代少しイスラム的ですね、女性は人目に触れないようにとか・・・いや、性に対する倫理観は全く違うな。
・鈴虫や松虫
今とは名前が逆なのだそうです。
・以前読ませて頂いた草子
これも枕草子。下衆の家に月の光が差し込むのは、もったいないのだそうです。下衆の家に雪が降ってきれいなのも似合わないそうです。あー貴族社会なんだなって実感する部分です。
・あの女史
もちろん清少納言です。
・侍従の、仄かな香り
薫香の1つ。秋の香りだそうですが、私もどんな香りなのか知りたいです。