第五話 足りない理由
5話です。
朝は早く来る。
倉庫の扉を開けると、冷たい空気と一緒に、昨日の匂いが残っていた。
米、汗、布、そして――少しの焦り。
私は帳簿を開いた。
数字は変わっていない。
変わっていないのに、袋は減っている。
「……今日も合いませんね」
独り言だった。
倉庫長が横に立つ。
「お前、わざと止めてるんじゃないだろうな」
責める声ではない。
確認だ。
「止めたいわけではありません」
私はページをめくる。
「止まっているものを、動いているふりをさせたくないだけです」
倉庫長は何も言わなかった。
⸻
午前の列は昨日より長かった。
噂が広がっているのだろう。
“鬼が来た”
“配給が半分になった”
言葉は変形して伝わる。
私は子どもたちに声をかける。
「今日は袋を持たないで。数だけ数えて」
彼らは頷いた。
兵士の一人が聞く。
「数えて意味あるのか?」
「意味はあとで出ます」
私は答える。
今は説明しない。
説明は、形ができてからでいい。
⸻
昼前、問題の副官が現れた。
昨日の男だ。
整った軍服。
現場に似合わない靴。
「また止めてるのか」
声は穏やかだ。
だが周囲の空気が固まる。
私は帳簿から目を上げない。
「止めてはいません。減らしています」
「兵士が飢えるぞ」
「明日倒れるよりは」
副官は笑った。
その笑顔に温度はない。
「お前、正義が好きだろ」
私は首を振る。
「順番が好きなだけです」
一瞬、男の目が細くなる。
言葉の意味を測っている。
⸻
午後。
子どもたちが集めた数が揃った。
私は机に並べる。
配給予定数。
実際に並んだ人数。
袋の残量。
線が一本、浮かび上がる。
「……ここですね」
倉庫長が覗き込む。
「何がだ」
「輸送後、倉庫に入る前に減っています」
副官が鼻で笑う。
「証拠は?」
私は紙を差し出した。
「列です」
「は?」
「列が短いんです」
私は淡々と言う。
「三百人分の記録なのに、並んだのは二百七十人。
袋は二百九十。
差分が二十」
沈黙。
兵士たちがざわめく。
副官の笑みが少しだけ薄れる。
「偶然だろう」
「偶然は三日続きません」
私は続ける。
「そして、袋の縫い目が同じです」
倉庫長が息を呑む。
周囲の視線が副官に集まる。
だが私はそれ以上言わない。
告発はしない。
数字だけを置く。
⸻
静かな時間が流れた。
やがて、倉庫の奥から別の足音が近づく。
参謀部の男だった。
「……報告は受けた」
短い言葉。
副官の顔色が変わる。
「誤解です。現場は混乱していて――」
男は手を上げた。
それだけで、副官は黙った。
「袋を開けろ」
兵士が一つ持ってくる。
刃が入る。
中から出てきたのは――
砂利混じりの米だった。
小さなざわめき。
誰も怒鳴らない。
怒鳴る必要がないほど、分かりやすかった。
参謀部の男が言う。
「……監査官」
「はい」
「続けろ」
それだけだった。
副官は連れていかれた。
叫び声はない。
ただ、足音が遠ざかる。
私は帳簿を閉じる。
小さなざまぁだった。
だが胸は軽くならない。
誰かが抜けた穴は、また別の誰かが埋める。
順番が変わるだけだ。
⸻
夕方。
配給は再開された。
列は静かに進む。
兵士の一人が、小さく言った。
「……助かった」
私は頷くだけにした。
英雄になるつもりはない。
ただ、数字を揃えただけだ。
参謀部の男が隣に立つ。
「正式任命が来る」
私は首を傾げる。
「必要ありません」
男は少し笑った。
「必要かどうかは、上が決める」
少しの沈黙。
そして、続けた。
「……敵はまだいる」
私は頷いた。
知っている。
帳簿が合う日は、まだ遠い。
倉庫の外では、夕焼けが広がっていた。
戦争は続いている。
だが私は、今日も前線に立たない。
立つのは、列の端だ。
そしてその列が、
少しだけ長く、少しだけ静かになったことだけが、
私にとっての結果だった。
誤字脱字はお許しください。




