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ばか鳥組合

作者: 夜見 洋
掲載日:2026/02/03

お試しに、ショートショートや短編を載せています。読んでもらえたら嬉しいです。

「いやあ、まったく難しいみたいですねえ」

「何がですか?」

「タイムマシーンなんですがね。やはりワームホールを人為的に作るには100兆度くらいの温度が必要らしいですな。100兆度かあ、100兆度はちょっとね」と言い、隣の男は自嘲気味に笑った。

どうして100兆度が難しいと、この男が自嘲気味に笑うのかよく分からなかったが、僕は黙っていた。


目の前にジントニックがあった。

またか、と思った。どうして僕は夢の中ではジントニックばかり飲むのだろう。

いつもの酒場のようだった。壁がすべてガラス張りになっていて、遠くの景色まで見渡せる。酒場は高層ビルの屋上にあって、景色といっても、空の形、雲の形、風の形が高いところで複雑にからみあって、曖昧に見えるだけだった。ガラスの向こうの世界は、とても不思議で、遠い宇宙のどこかに忘れ去られた惑星のように思えた。僕は青いソファーに深く体を沈めていた。カウンターの方を見ると、色とりどりの酒のビンが外の光を通して、不思議なシルエットを描き、それが幻想的にあたりを包んでいた。まるで自分ごとジントニックのグラスの底にいるような感じがした。


「それにしても、いつもジントニックなんですねえ」

ふたたび男が声をかけてきたので、僕は初めて男に視線を合わせた。向かい合わせのソファーに、長髪で眼鏡をかけた男が座っている。細面の特徴のない顔だが、目だけがパッチリと大きく開いている。まるで芸人のような表情で、眼鏡の上から上目遣いでこちらを見ているが、口元は笑っていなかった。

「いつも?」

「ええ、あなた、ここにくるといつもジントニックですよ」

「そうですか、覚えてないけど」

僕はうそを言った。というか目の前の男にも何か見覚えがあるようなのだが、思い出せなかった。

「ふふふ、なにかジントニックを飲むと癒されると思っているのでは?」

「癒される? どうして?」

「酒を飲むというのは能動的な行為なんでしょうかね?」男は僕の言葉は無視して続けた。

「ノウドウテキ?」

「もしくは受動的ですかねえ。そりゃグラスを手に持たなきゃ飲めませんがね。しかしねえ、あなた、あなたはジントニックを飲んでいると思っているのかもしれないですが、ジントニックに飲まれているのはあなたじゃないですか。つまりジントニックにあなたの中に入られてしまってるんですよ」男はまるで、何かの真理でも説くように仰々しい口調で言った。

僕は目の前のグラスを見つめた。まるでジントニックがあわてたように、氷がグラスの内側ではじけて、大きな音がした。

「それでもいいじゃないですか。酒を飲むために生きているのか、生きているから酒を飲むのか、なんてよく言うでしょう」

「なるほど、これは一本とられた」

男はなかば感心したような様子で僕を見た。

「つまり受動的にあなたは酒を飲んでるんですな」

「どうとでも」

「なるほど」

「あなたは何故ここにいるんですか?」僕の方から質問してみた。

「さあ、どうしてですかね、自分でもわかりませんが」

「じゃあ、受動的にここにいるわけですね」

「ははは、また一本とられた、いやになっちゃうなあ」

どこか癇に障るような調子で男は笑った。

「しかしねえ、あなた。受動的にどこかにいる、っていうのもなかなか大変なんですよ」


不意に誰かが歌い始めた。


酒場の隅に小さなピアノがあり、そこで女性がピアノを弾き、歌っていた。

静かな調子で、聴く人の心に染み込むような歌声だったが、それとは裏腹に、ものすごい勢いでキーを叩いていた。

「どうしてあんなに激しくキーを叩いてるんだろう?」

「ああしないと、音符が逃げてしまうんですよ」男もそちらをみつめながら言った。

僕は彼女の指の動きに目を奪われていた。すごいスピードで、先に叩いたキーを、後からのキーが追い越すんじゃないか、と思った。後からの音が最初の音よりも早く鳴ったら、どんな音になるんだろう?

「音符なんてふつうは湿った本の中にいるか、そうでなきゃ空気の中に逃げてしまうものですからね」

「そういうものなんですか。僕は音符って、滑らかな金の羊皮紙に書かれていると思っていたけど」

「そういうのは、まれですな」男はつまらなそうに言った。

女性は酒場には誰もいないかのように、夢中でピアノを弾いていた。時おり目をつぶり、かすかに笑いながら歌っているようだった。

「音符が逃げてしまうんですよ。まったく普通にピアノを弾くのも大変ですな。受動的な音符とああして戦わないといけないわけです。わたしには真似できませんがね。へへへ。音符を捕まえながら、キーを叩くなんてねえ」またもや癇に障るような声で男は笑った。


僕はしばらく彼女の演奏に聞き入っていた。とても素晴らしかった。


「モーツァルトですよ」

「モーツァルト? でもこの曲は……」

「いいえ、曲じゃありません、彼女が憧れているものです」

「へえ」

「どう思われます?」

男はまた、仰々しい口調に戻っていた。細い眼鏡を手に持ち、なにかを確認するようにじっと見つめてから、またかけ直した。

「どうとは?」

僕は相変わらず彼女の方をみつめながら言った。

「どうしてモーツァルトに弾いてもらわないのでしょうかね?」

「モーツァルトに?」

「ええ、モーツァルトの演奏は巣晴らしいでしょう、聴いてみたくはないですか?」

「そりゃあね。でももういないから」

「そこですよ。つまりモーツァルトがいないから、仕方なく彼女は自分で演奏し、私たちは彼女の演奏を聴いているわけですな、つまり受動的に」

「そんなことはないですよ」

「なぜですか、モーツァルトがいたら、彼女よりモーツァルトの方がいいのでしょう?」

「彼女には彼女の良さがあるからいいんです」僕は自分でもわざとらしいくらいに、空々しく答えた。

「なるほど」と男は言った。


男はメニューをひとしきり睨んでから、僕と同じジントニックを注文した。

「へえ、こういうものなんですか」

男は飲もうとはせずに、ライムと一緒に差し出されたグラスを珍しいもののように眺めた。

「私もね、別に受動的なんてことにこだわっているわけじゃないんですよ」

「違うんですか?」僕はおどけて言ってやった。

「人間というのは受動的と能動的の2種類だと思いませんか?」

「さあ、分かりません」

「考えてみてください」

「でも、本当に完全に受動的な人間なんているんですか?」

「いますとも」男は当然というような口調で言った。

「たとえばどんな風に?」

「世界はそこら中、受動的なものであふれていますからね。あのピアノの彼女のように、受動的なものと戦わないといけないわけです。でもそれは非常に大変なことです」

「受動的な音符と?」

「そうです。受動的なパソコン、鉛筆、キャンバス、会社、目薬、定期券、なんでもそうです」

「でしょうね」

「そうです、そこでわれわれは組合を作ったのです」

「われわれ?」

「われわれの組合というのは、そうですな……」

男は僕の話は聞いていないようで、空中に視線をさまよわせている。

「たとえば時間は流れていると、思っているでしょう。あなた」

男の口調が、がらりと変わった。

「でもね、ふふふ、われわれが全員で(時間は止まっている)と決定したら、どうなると思います? 時間というものが(無い)ということになるんですよ」

「意味が分からないけど」

「もう少し分かりやすく言いましょう。あなたが会社に11時ごろ出社するんです。まあ、あなたの勤める中小企業ですから、フレックスタイム制なんてことはないでしょうし、まず遅刻ですね。それから頭を下げて、こんこんと上司からのお説教というところでしょうか。しかしながらですね、われわれの組合が(今は9時です)と言うだけで、あなたは救われるわけです。すべての人が、(今は9時です)と言えばですよ、そりゃああなた、9時ということです」

「時計や時報があるでしょう、世界の時差も」

「つまらないことを言いますね。丸め込めばいいのです。だいたいあんなちゃちな機械仕掛けが何ですか。勝手に回らしときゃいいんです。組合のモットーの1つは、見なきゃなんでも同じ」

男はおかしくてたまらないような様子で、口元を緩めながら話しつづける。

「そんなわけで時間は誰が決めるわけでもありません。強いていえば、われわれの組合が決めているというところですね」

「早い話が、その組合では、みんなでうそをつくということ?」

「現実を変える、と言って欲しいですな」

男の目が一瞬、するどく怪しく光った。

「支離滅裂ですね、現実はそんなものではないですよ。現実というのはもっとちゃんとした……」

 

突然、

「HYAA! HYAA! HYAA!」男が妙な声で笑い出した。空間を切り裂くようなけたたましい響き。

「あなたは誰ですか?」

「わたしたちは鳥なのです」

「鳥?」

「そう。ばか鳥などと言われていますがね」

「そのばか鳥というのは何?」

「そうですな、ばか鳥はどこにでもいますからな。夜になると集まってくるわけです。夜になると寂しくなる人、観ないけど、とりあえずテレビはつけておく人、家に帰りたくない人、分かるでしょう? 夜空にはばか鳥はあふれているものですよ。それより気づきませんか? この酒場はね……」


酒場がなんですか、と言いかけたところで、男の表情に異変。大きな目がさらに大きくなり、眼窩からこぼれそうなほどに見開かれていた。反射的に立ち上がり、あたりを見回すと、すべての客がこちらの方を見つめている。というよりも僕を見つめていた。それからいっせいに黒い目が、動物的にギラッと光った。

「どうです? ばか鳥組合に入りませんか?」男が不気味な口調で言った。


あたりにはばか鳥があふれていた。


僕が悲鳴をあげた瞬間、ガラスの向こうの空気が、すごいスピードで横に流れているのが見えた。天井の向こうの空には青い夜空。僕はいつのまにか空に放り出されていた。


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