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第8話 事実は少女漫画よりも奇なり(後半)

 深夜。都内一等地の高級マンション。


 今回の主役である九条冥人は、存在希薄化装置を起動させ白鳥麗華のリビングに立っていた。


「(……ヒッ! 美、美しい……! 漫画のヒロイン以上の黄金比ゴールデンレシオだ。だめだ近すぎるッ! 二酸化炭素の熱量が、私のパーソナルスペースを不潔に侵食してくる……!)」


 父親の名前を盾に独自開発させた特注の消えるスーツを纏っていても、生身の女性の気配までは遮断できない。


 九条にとって女性はマニュアルの中にしか存在しない「未知のバグ」だ。

 その至近距離にいるという事実だけで彼の脳はオーバーヒート寸前だった。


「はぁい、今日も金持ち過ぎてさん!な麗華のワインライブしまーす☆」


 そんな九条をよそに、ソファで優雅にワインを嗜みつつスマホに向かってライブ配信を始める麗華。


 なかなか強かな女性ではあるが今の九条にはそれどころではない。

 心拍数は地獄庁の警告ラインを超え手足の指先は緊張で小刻みに痙攣を始めていた。


 しかし彼はエリートだ。

 小脇に抱えた聖典(少女漫画)の教えを今こそ実践する時である。


「(落ち着け冥人…写真は目の前だ。感情を無にしろ。私はただの透明な高性能スキャナーだ……)」


 九条は深く、極めて浅い呼吸をしながら写真を探した。


 証拠品は簡単に見つかった。


 ワイングラスやナッツが置かれた大理石のテーブルの上に、クリスタルが散りばめられた豪勢な写真立てがあった。

 そこには件の大富豪と仲睦まじく笑顔を浮かべる麗華が写っていた。


「(よし、間違いなく大富豪の娘だ。照合完了。とっとと帰還し…)」



「……あら、誰かいるの? エアコンの調子かな」



 白鳥麗華がふと違和感に眉をひそめ後ろを振り返った。


 そこには石像のように固まった九条がいるのだが、もちろん装置の効果で見えはしない。


 しかし、人生で一度も女性とキャッキャしたことがない九条にとって絶世の美女の視線のようなものが自分に向くというのは、隕石の直撃にも等しい衝撃だった。


「(……ッ!いかん!ここでバレたら終わりだ…どうする俺…!)」


「(そ、そうだ!彼女の鼓膜に至高の聴覚刺激を与えるんだ!漫画によればこの不意打ちの囁きこそがターゲットを陶酔させ安心を与えるロジックの核となるはず……!)」


 九条は混乱のあまり任務と少女漫画のロジックを脳内でごちゃ混ぜにした。


 彼は彼女の耳元に顔を寄せる。


 そして全神経を集中させマニュアルが推奨する「最もセロトニンが出るトーン」を絞り出し囁く。


「……ヒィッ……ヒッ、ヒヒィ……ッ!」


 九条は「愛を囁いた」つもりだった。

 しかし極度の緊張で引き攣った喉から漏れたのは、自分でも制御不能な不気味な裏返り声だった。


「……っ!? なに今の笑い声……キモ……ッ!!」



 麗華が震える手でワイングラスを握りしめる。


 配信のコメント欄が「事故物件?」「今、誰か笑った?」と猛烈な勢いで流れ始めた。


「(いかん逆効果だった!証拠の写真を回収するのが先だったか……ええいもういい!写真回収だ!)」


 混乱する彼女の隙を突き九条はテーブルにある写真を手に取ろうとした。

 しかし彼女に触れてはいけないという決まりがパニック状態の脳で暴走する。


「(触れてはならない……! 彼女の肩から3センチの距離を維持しつつ、最短距離で……!)」


 九条は彼女の後ろから必死に手を伸ばし彼女の体を避けるために右腕を「くの字」にグニャリと不自然に曲げた。緊張のし過ぎで指先がメトロノームのように細かく震えながら写真へと迫る。


 その瞬間である。


 極度のパニックによる発汗と、激しい震えから生じた静電気が、九条の特注スーツに致命的なエラーを引き起こした。


 火花が散り、システムがバグを起こす。


「(この野郎ぉおおお…!また変なタイミングで…!!)」



 麗華とスマホ越しの視聴者たちの視点ではこうだ。


 何もない空間から突如として「紺色の高級スーツの右腕」が出現。


 その腕が芋虫のようにうねる不気味な動きで空を這い回り、指先をピクピクと震わせて写真をシュルシュルと闇の中に奪い去ったのである。



「……いやあああああああ! 変質者! 透明な変質者が出たわあああ!!」



 麗華の絶叫が響き渡り、ライブ配信は「伝説の心霊放送」として即座に拡散された。




 *****




 数時間後。


「九条君。回収した写真は本物だったよ。どうもありがとう」


「はい…」


「マニュアルという盾はね、君の誇りを守ってはくれるけれど予測不能な『現場』を動かす力までは持っていないんだ。物事はいつも君が愛する論理の型に収まってくれるほど優しくはないからね。」


「…」


「君が磨き上げた完璧なメソッドが、どうして現世では『不気味な怪談』として受け取られてしまったのか。そのわずかな、けれど決定的な温度差の中にこそ君が真のエリートになるためのヒントが隠されているはずだよ。今回の経験をゆっくりと時間をかけて自分の中で噛み締めてみてごらん」


 津田はゆっくりと淹れたての茶を啜りながら、一度も九条から目を逸らさずに微笑んでいる。


「はい…」


 九条の隣では美影が紫煙を吐き出しながら氷のように冷たい視線を投げつける。


「お前マジで救えねぇな。エリートっつうか『新怪談の創始者』じゃねぇか。なんだあのキモい囁きは。そんなの聖典(少女漫画)に書いてあったのか?あぁ?」


 九条は俯いたまま自分のデスクへと戻ると、真っ白な顔で机の下に潜り込んで震えることしかできなかった。


 幽谷はそんな九条にそっとチョコを差し出し、言葉をかけた。


「大丈夫、美人の前にしたら俺だってああなる」



 頑張れ九条。いつか美人とキャッキャできるその日まで。

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