第3話 罵声は傘ではしのげない
真夜中の駐車場は、雨上がりの匂いがまだ残っていた。
アスファルトは街灯の光をぼんやりと反射し、水たまりがいくつもできている。
幽谷 灯は、その端に立って腕時計を確認した。
――転送まで、あと五分。
「よし。つつがなく終了っと」
確認対象はすでに精査済み。
亡者の申告内容と現世の状況は一致。記録も問題なし。
この数日間はミスもなく平和だ。
初日にあんなことがあったんだ。これ以上悪目立ちしたくはない。
「さ、帰るか」
これ以上ここにいる理由もない。
灯は腕時計に内蔵しているあの世への転送機能、通称“帰るやつ”を起動する。5分後には記録課ロビーへと転送されるはずだ。
幽霊はこの現世にはいない。
幽霊と言われている存在は、あの世に暮らす自分たちの“うっかりミス”である。
先日はまさにうっかり幽霊になってしまったが今日はトラブルなく終わりそうだ。
灯はふぅと疲れた様子で夜空を見上げた。
あいにく今日は雨だったが、薄羽先輩が事前に傘を借してくれたのが正解だった。
今はもう止んでいるが濡れた地面を見ると借りてきて良かったと心底思う。
薄羽から借りた傘は正直に言って――やたらと良い。無駄に。
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「それでは現世へ言ってきます」
「おう、気を付けてな。ちょっと待て。傘持ったか?」
「え?今日降らないって言ってませんでした?」
「それはこっちの話。現世の天気予報見たのか?」
「あ…」
「しっかりしろよ」
薄羽はため息を付き自前の傘を差し出した。
それは使い古され、手入れが行き届いた傘である。
まず重さが違う。
軽すぎず重すぎず、持った瞬間に「あ、これちゃんとしたやつ」とわかる。
柄の部分は黒檀だろうか?無駄な装飾は一切ないのに手のひらに吸い付くように馴染む。
長年使われてきたのか艶が落ち着いていて妙に持っていたくなる。
布地もただの黒ではない。光の当たり方でほんのわずかに色が変わる。
「あー……これ普通の傘じゃない、ですよね?」
薄羽は眠たそうな目のまま答えた。
「職人の手作りだ。一本物」
一本物。傘にそんな言い方あるんだと思った。
「壊すなよ」
「あのぅ…ビニール傘ないですか」
「そんなもんはない」
「…」
「なくすなよ」
「…」
「なくすなよ」
薄羽の目の奥が光る。これは丁重に扱おう。
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ふと、足元に視線を落とす。
「……うわ」
革靴のつま先が泥で汚れていた。水たまりを避けていたつもりだったがいつの間にか跳ねていたらしい。
「帰る前にこれかよ」
ふと視界の端に軽トラックが入る。
古びた白い軽トラ。駐車場の隅に停められエンジンは切られている。
誰も乗っていない…ように見えたが運転席に人影があった。
――寝てる?
仮眠だろうか。この時間帯なら別段珍しくもないか。
見つかる心配はなさそうだ。
泥を払わねば。
持っている傘を軽トラの荷台のフチに引っかけた。
カン。
乾いた金属音と静かな振動が、駐車場に響いた。
以前泥だらけになって記録課へ帰還したところ、同僚の女性に「汚ねぇ格好で帰ってくんなよ!!」とひどく罵倒された事がある。
注意されることは慣れているのだが、罵倒される事には慣れていない。
「美人なのにあんな口が悪いなんて…もったいない」
女性社員に罵倒されぬよう、ぶつくさと独り言を言いながら屈みながら手で泥を払う。
しかし意外にも泥は乾燥していてなかなか取ることができない。
泥に四苦八苦している最中のことである。
ブロロロ……。
灯は、その音を聞いた瞬間に嫌な予感がした。
「……え?」
次の瞬間。
軽トラが、ゆっくりと発車していた。
荷台へ引っ掛けていた傘と共に。
「あっ、ちょ、ちょっと待って――!」
薄羽先輩の絶対に弁償したくない傘。
「うそだろ!?」
転送まで、あと2分。
灯は反射的に走り出した。
「待って待って待って!傘!借り物!」
必死だった。
完全に任務外。
完全に私情。
だが関係ない。
あれを失くしたら、殺されるかも知れない。
そんな思いとは裏腹に軽トラは徐々にスピードを上げていく。
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「ふー…危ない危ない」
運転手の男はその日、とても疲れていた。
折角の休日なのに近所にお住まいのおじいさんが飼っているジョン(犬/大型犬)が脱走したらしくその捜索に駆り出されていたからだ。
ジョンは無事に発見されたがもう夜も遅い。男は帰路の途中の駐車場で休憩をしていた。
いつの間にか眠ってしまったらしく、物音で慌てて飛び起きた。
「…ん?…こんな時間かよ!?やべ!!」
時計を見た男は慌ててエンジンを入れ発車する。男は急いで帰る必要があったのだ。
奥様がとても怖いのである。
「どこほっつき歩ってたんだよ!この■■■■■■が!!」
ここには到底書けないような罵詈雑言が降りかかる予感がする。
美人なのにあんな口が悪いなんてもったいない。
男は予感が実現しないよう半泣きになりながら家へと向かう。
発車して数十秒後、ふと視線を感じルームミラーに目をやる。
――何かいる。
濡れたアスファルトを蹴りながら、必死の形相で追いかけてくる人影。
街灯に照らされているのに、どこか輪郭が曖昧で、クネクネとしている。
「……え?」
男の背中に、ぞわりと悪寒が走る。
「まれぇ……とまれぇーーーーー…!!!!」
「ころ……ころ……さ…………!!」
「え、ちょ……殺される…!?!?」
起きた時に周りに人はいなかった。ここは田舎町だし。
という事は…と思考を巡らせアクセルを踏む足が思わず強くなる。
「ゆ、幽霊!?!?」
男は奥様と幽霊のダブル恐怖でパニックになっていた。
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「とまれぇーーーーー!!止まってくださいーーー!!!!」
灯の渾身の願いも虚しく車は止まらない。
「傘ぁ!殺される!殺されたくない!!まだ彼女もいないのにーーッッ!!!」
青春時代をオカルトに捧げていた灯はまだアオハルを経験していない。それは自身にとって最大の未練なのだそうだ。
必死に走る灯であるが、走り方がちょっとアレだ。クネクネしている。
青春時代をオカルトに捧げていた灯は運動がからっきしであった。
だがまだ死ねない。
彼女とクレープを食べたり、なんかふわふわした事をしたいんだ俺は。
その瞬間。灯は謎に湧き出る渾身の跳躍で傘に手を伸ばした。
「取ったぁぁぁ!!」
傘を掴んだその瞬間。世界が白く反転した。
――転送だ。
五分ぴったり。
灯の姿は、音もなく消えた。
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軽トラは急ブレーキをかけ、道路脇に停車した。
男は荒い息をつきながら、恐る恐る振り返る。
「……い、いない……?」
後ろには誰もいなかった。
ただ荷台のフチに残った泥が、こびりついていた。
「……見間違い、だよな……」
男はそう呟き、そっと車を発進させた。
翌日、彼は職場でこう話したという。
「昨日さ……雨上がりの駐車場で、ミラーに人が映ってさ……追いかけてきたんだよ…あれ噂のターボジジイじゃねぇかな…」
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<記録課 ロビー>
「…うわ!汚ねぇ!だから汚ねぇ格好で帰ってくんなよ!!」
丁度、記録課ロビーで休憩中の美人社員の前に転送された灯が、真っ先に浴びたのはねぎらいの言葉ではなかった。
走る軽トラが水たまりの上を走った時、後ろで走る灯は全身に泥を浴びたのだ。
「すいませんでした…」
灯のアオハルふわふわ体験はまだまだ先のようである。
こうして現世には、『ターボジジイ』という怪談が増えたのであった。
幽霊はいない。
ただ、確認課の新人がうるさく走っただけである。




