第3話は斎藤家です
第3話は斎藤家(美濃斎藤家)です。戦国時代を代表する下剋上大名の斎藤道三から義龍・龍興と三代続きましたが、織田信長に攻められて大名としての斎藤家は滅亡します。今回は斎藤利治さん(斎藤道三の子)、利尭さん(斎藤道三の子)、義興さん(斎藤利治の子)、市郎左衛門(斎藤利治の子)さんの話です。
斎藤道三は戦国時代を代表する大名で、下剋上を行ったので、美濃の蝮と呼ばれていました。山城の国(現在の京都府)に生まれ、11才の時に妙覚寺の僧侶となります。しかし、その後、油屋の娘と結婚し、婿入りして油商人となります。油商人となってからは商才を発揮します。やがて、武士になることを願って、妙覚寺の弟弟子の日運の伝手で美濃国の守護である土岐家の次男である土岐頼芸の重臣である長井長弘の家臣になります。
土岐家の家督をめぐって長男の政頼と次男の頼芸が争いとなると、道三は主君の長井長弘と共に尽力し、政頼は追放されます。しかし、今度は主君である長井長弘が土岐政頼と繋がっていると土岐頼芸に偽りの情報を信じ込ませ、長井長頼を謀殺します。そして、力をつけると頼芸を追放します。事実上、美濃の国主となるわけです。このあたりが蝮と呼ばれている所以です。
斎藤道三は隠居し、家督を長男の斎藤義龍に譲ります。斎藤道三は義龍の弟たちを溺愛します。義龍は弟の孫四郎と喜平次を殺害します。そして、斎藤道三と義龍は1556年の長良川の戦いとなりまして、道三は敗死します(享年63歳)。国人領主はほとんど義龍を支持したようです。
その義龍も5年後の1561年に病死します。そして、子の龍興が13歳(数え14歳)で跡目を継ぎます。当主がまだ若いため。政務は稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の西美濃三人衆が補佐する形でした。しかし、織田信長による国人領主の調略が進んで、永禄十年(1567年)の稲葉山城の戦いで、斎藤龍興は敗れ、稲葉山城を脱出し、大名としての斎藤家は滅亡します。
それで、斎藤家の生き残りといいますのは、斎藤道三の子(義龍の弟)で、義龍に殺されなかった利治さんと利尭さんの兄弟で、織田家に仕えます。織田家では母の身分により、弟の利治さんが当主でした。兄の利尭さんが城代を任されていました。それで、斎藤利治は織田家の武将として、各地を転戦します。伊勢北畠攻め・姉川の戦い・槙島城攻め・手取川の戦い等に従軍しています。大きな功績としては越中国衆の調略があります。そして、本能寺の変の時は二条新御所にいて、織田信忠と共に明智軍と戦い、討死しています。
斎藤利尭さんは、本能寺の変の時は、美濃にいて一族をまとめる他、岐阜城の接収を行っています。そして、羽柴秀吉が山崎の戦いに勝利すると、岐阜城の引き渡しを申し出ています。そして、清須会議で岐阜城主となった織田信孝の家老として仕えることになります。しかし、賤ヶ岳の戦いで織田信孝が柴田勝家と手を組むことになり、羽柴秀吉と対立するようになり、秀吉軍が岐阜城の織田信孝を攻める状況になると、稲葉一鉄の勧めで織田信孝から離反します。しかし、その後すぐに病死します。
斎藤利治の遺児である義興と市郎左衛門は、斎藤家の家老の長沼三徳らによって保護され、養育されていました..文禄2年(1593年)に織田秀信(三法師)が岐阜城主となると、織田秀信に仕えます。
しかし、慶長5年の関ヶ原の戦いでは、織田秀信は西軍に付きます。そのため、東軍に付いた池田輝政や福島正則の軍勢に攻められ、岐阜城は落城します。斎藤義興・斎藤市郎左衛門も負傷します。その後、斎藤義興は池田輝政に召し出され仕えることになります。池田輝政の兄の元助(長久手の戦いで戦死)の妻が斎藤家出身という縁だそうです。また、斎藤市郎左衛門も後に結城秀康の五男の松平直基に仕えることになります。
斎藤道三の子孫が生き残っていたんだという話は筆者も最近知りました。仕える主君が次々と敗れていく中で、なんとか大名家の家臣として生き残ったんだなと思いました。
これで、第3話は終わりです。では、また第4話でお会いしましょう。




