【小説】箱の中の指輪
「泊まっていかねぇの」
ブラウスを着る背中に尋ねた。
「明日も朝が早いの」
その背中はこちらを見ずに答える。
「だったら尚更」
「家のパソコンにある資料も取りに行かなきゃいけないし」
糊が崩れてシワのつき始めた背中が答える。
「そうか」
引き際が肝心だ。
サイドデスクに置かれた煙草に手を伸ばす。ホテルの名前が書いてあるマッチ箱。火が燃え尽きるのは一瞬だ。
「君は寝て行っていいから」
「うん」
「本当は私だって泊まっていきたいよ、でも仕事なの」
「あぁ」
「会社さえ無ければいいのにね」
「あぁ」
ジャケットに袖を通してこちらを振り向く気配がする。
だがその顔を見ない。
素直さはもっと大事だと知っている。
「じゃあね、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
「愛してるよ」
「うん、愛してる」
背中を向けて部屋を出ていく。
煙草の煙が後を追う様に伸びる。
死ねばいいのに。
咳をしてもひとり。
いい加減に煙草をやめるべきだ。喫煙に向いていない肺なのだ。おまけに飲酒にも向いていない肝臓だ。
なら何ができるんだ?
牛乳を飲んでも腹を下さないとか、コンドームをつけてても射精できるとか、最低限の社会性を身に付けてるから生きるのを許されている程度なら早く死んだ方がいい。
呼吸がひとつ減れば地球の環境はひとつよくなる。
秒針のリズムで水道管から垂れる怠惰さを聞きながら部屋の真ん中でうずくまっているから死にたくなるだけだ。
それは寒さやひもじさと似ている。
単なる孤独だ。だがそれは国家指定難病だ。
見渡す限りの怠惰。
誰も何も言わない生活。
机の上に積み上げられたカップ麺の容器とコンビニサラダの容器。ビールの空き缶や捩れたペットボトルの林はおれを中心とした円を描きかけている。
灰皿から比較的長い吸い殻を引き抜く。
座椅子の下からブック燐寸を掘り出す。
千切れそうな残り一本。病室から見える梢の一葉。こいつを千切ったらおれは孤独死する。
いや、その煙草を吸い終えたらにしてくれ。どっちみち長くない。
マッチを擦る。
5回目でどうにか火を点ける。
濃い煙を吐き出す。
湿気た葉っぱが酷く不味く感じられた。他人といる不愉快さと比べてどうだろう。
おれにはもう何も分からない。
死ねばいいんだ。
スマートフォンの画面が光る。
テキストメッセージ。0と1。奇遇だな、まるでおれたちが使うコンドームだ。
「指輪を忘れたんだけどそっちにない?」
弄んでいた指輪を舌に乗せて返信する。
「知らない、こっちには無いよ」
既読がついた後の返事は無かった。
指輪は苦い味がした。
冷たい感触がくちの中で体温に馴染んでいく。輪っかの中に舌を通したり転がしたりする。
しばらくそうして遊んだ後に吐き出した指輪の小さく光る石はおれから顔を背けるように泡だらけの唾液に混ざったまま床にだらしなく転がった。
野晒し、孤独死、メタモルフォーゼ。
唾液まみれの指輪に煙草を押し付けて消そうとしてやめた。
白く輝く太り肉の三日月が濃い群青色の背中に張り付いている。
新鮮な傷跡とよく似ている。
あのブラウスの向こうにもいくつか同じものがあるのを覚えている。
「もう働きたくない」
「もう帰りたくない」
耳の奥で細い声が言う。
「明日も仕事なの」
「本当は帰りたくないの」
ブラウスを着た背中が言う。
死ねばいいのに。
バイクでガソリンスタンドに行って給油をして戻り、ハンドポンプで赤いポリタンクにガソリンを移していく。
何でもあるような顔をした都会の一手間。丁寧な生活。
結局、都会は不自由だ。
ただ誰も他人に興味が無いだけだ。
存在の隙間。
履歴書に無い空白。
暇。
暇と言うのは確実に精神を蝕んでいく。
暇。
自由な時間。
仕事や義務に拘束されない時間。
身も心もあらゆる物事から自由であり、しがらみ等に関わりの無い状態。誰とも共有しない時間と空間。
重たくなった赤いポリタンクをバイクの荷台に乗せて紐やネットで固定する。
セルスイッチで目覚めたエンジンはまだ少し眠そうだった。
バイクは咳き込む様にして白い煙を吐き出した後で、ようやく低い呼吸で落ち着いた。
投げ捨てた煙草がヘッドライトの向こうに消えていく。
アクセスを回す。バイクが動き出す。
いくつかの交差点を曲がる。
そうだ、死ねばいいんだ。
さほど大きくない家の前。
赤いポリタンクに残ったガソリンと灯油の混合液を丁寧に塗り広げていく。
揮発する夢と希望。
こいつらでさえ孤独ではないというのにどうしておれは?
プロパンガスのボンベに重点的にガソリンと灯油を混ぜた液体を撒いてから、それが途切れないように外周をぐるりと巡る。
ドアについた郵便受けの中にも注ぐ。
出来る事ならあの月まですっかり塗ってしまいたい。
ポケットに入れていた指輪を取り出して再びくちに含む。
埃っぽい厭な味がした。
吐き出したそれはやはり小さな泡に塗れてアスファルトに転がった。
白く光る太り肉の三日月に照らされた小さな石がこちらを向いていた。
家の窓を見上げる。
黄色い電球が室内を照らして黒い影がいくつか楽し気に揺れていた。
天井のファンがゆっくりとその空気をかき混ぜて、部屋の中はきっと暖かいのだろう。
煙草を取り出す。
短い希望。おれには出来すぎた名前だ。
平和。七つ星。
どれも過剰だ。
ホテルの名前が書いてある箱マッチで火を点けてから、地面に落ちた指輪を拾ってマッチ箱に押し込む。
おれには出来すぎた夢だった。
薄紫色の煙が白い息と混ざって伸びていく。
きっと月までは届かない。
別に月まで行きたかったわけじゃないのに、そんなことを考えるのはどうしてだろう。
まあ、死ねばいいか。
小石を拾って窓に投げつける。
薄っぺらい音が響く。いつの夜も同じ音だった。
窓が開いく。
意外そうな顔をしているのはおれがいたからか。
それともその煙草が落ちて赤い道を作るのが見えたからだろうか。
建物の奥で大きな爆発音がして空気が震えた。
警報機がいくつも鳴り響く。
まるで世界が始まるみたいな感じだった。
見上げた空の三日月はやはり太く白かった。




