暴走する譜面、崩れる旋律
魔術学院の中庭は、春の陽光に包まれていた。
空間には学生たちの“譜面”が漂い、笑い声とともに軽やかな旋律が舞っていた。感情と魔力がリンクするこの世界では、譜面こそが心の証。喜びは明るい長調、緊張は細かいスタッカート、恋心は淡いハーモニーとして視える。
だが、その平穏は、突然の“破裂音”によって打ち砕かれた。
「譜面が……裂けてる!?」
叫んだのは薬術科のカイルだった。彼の視線の先で、同級生の少女が膝をつき、震えていた。彼女の譜面が空中で裂け、旋律が暴走している。高音が刺すように空間を切り裂き、低音が地面を揺らす。
魔力暴走――魔奏病の初期症状。
「誰か、止めて……!」
教師たちが駆け寄るが、旋律の嵐に近づけない。譜面が狂い、感情が暴走し、空間が歪んでいく。空気が重く、色彩が濁り、音が悲鳴のように響く。
そのとき、ルナ・ミレイユ=クラウスが静かに歩み出た。
彼女の譜面は、無音だった。
「……彼女の旋律、悲しみに染まってる」
ルナは目を閉じ、空間に浮かぶ譜面を“視た”。破れた譜面の断片が、涙のように漂っている。感情の断裂。魔力の濁り。彼女はそれを、美しいと感じた。
「調律、開始します」
彼女はハーモナイトを手に取り、無音の譜面を空間に広げた。音はなかった。だが、空間が静かに震えた。
ルナの無音が、暴走する旋律に“寄り添った”のだ。
周囲の学生たちは息を呑んだ。音がないのに、空間が変わる。色が戻り、空気が澄む。だが――
「危ない!」
突風のような魔力がルナを襲う。裂けた譜面の断片が、刃のように空を切る。
その瞬間、彼女の前に立ちはだかった影があった。
ノア。無口な護衛騎士。
彼の譜面もまた、無音だった。
「……君の譜面は、僕にだけ聴こえる」
彼はそう呟き、ルナを庇って倒れた。
彼の背に、裂けた譜面が突き刺さる。だが、彼の譜面が――微かに、震えた。
無音の譜面に、初めて“旋律”が生まれたのだ。
ルナは震える手で、彼の譜面に触れた。
「……あなたの音、優しい」
彼女の譜面も、淡く色づいた。
その瞬間、暴走していた少女の譜面が静まり、空間が落ち着いた。
調律は、完了した。
教師たちが駆け寄り、少女を抱き起こす。ノアは静かに目を閉じていたが、ルナの手の中で、彼の譜面は微かに響いていた。
「共鳴……したの?」
ルナは呟いた。
無音同士の譜面が、初めて重なった瞬間だった。
その夜、ルナは学院の屋上で月を見上げていた。
「……無音の譜面は、誰かに触れたとき、音になる」
彼女はそう呟き、ノアの譜面を思い出す。
それは、恋の旋律の、予兆だった。




