Walk Away Renéeは涙の音
学院の中庭に、秋の風が吹いていた。
夏の名残をかすかに残した空気が、木々の譜面を優しく揺らす。
黄金色に染まり始めた葉がはらはらと舞い、風の旋律と混じり合って、淡い長調のハーモニーを奏でていた。
だが――ルナの心には、その音が届いていなかった。
ベンチに座り、譜面ノートを開いたまま、彼女は空をぼんやりと見上げていた。
昨日の共鳴演習。
レオン・アルヴェールとの“共鳴拒否”は、彼女の胸に小さな棘のような痛みを残していた。
完璧な譜面。
拒絶の旋律。
そして、その奥に一瞬だけ見えた――壊れかけた“共鳴の痕跡”。
(……あの人は、誰かを失った。私と、同じように)
胸の奥に、薄い膜のような“痛み”が張りついていた。
音を聴いても響かない。風が譜面を揺らしても、心は動かない。
そんな自分に、ルナは小さく息を吐いた。
「ルナ?」
カイルの声に、彼女は我に返った。
振り向くと、いつものように乱れた赤毛と琥珀色の瞳。
彼の譜面は、今日もまっすぐなリズムを刻んでいる。
「……大丈夫か? 昨日、レオンに何か言われたのか?」
「ううん。何も。……ただ、少し、昔のことを思い出しただけ」
カイルは眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
彼の譜面には、心配と信頼が混ざった音が響いていた。
ルナはノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
秋の空が少し傾き始め、光が斜めに中庭を染めていく。
その光が、彼女の胸の奥に閉じ込めていた記憶を――静かに揺らした。
(……あの夜の、音)
辺境の薬草村。
家が崩れ、母の声が消え、世界が無音に包まれたあの夜。
燃える屋根。薬草の焦げた匂い。泣き叫ぶ自分の声さえ、何も響かなかった。
あの瞬間から、彼女の譜面はずっと“無音”のままだった。
その夜。
学院の音楽室には誰もいなかった。
譜面灯だけが淡い光を落とし、壁にかすかな魔力の残響が揺れていた。
ルナは《ハーモナイト》を手に取り、静かに呟いた。
「……召喚。Walk Away Renée」
空間が震え、音が降ってきた。
The Left Banke の哀しげなメロディが、魔力の譜面として具現化していく。
弦の柔らかな響き、淡いコード進行、涙を含んだ旋律――それらが夜の音楽室を満たした。
(……これは、あの夜の“続き”の音)
窓の外には、いつのまにか雨が降っていた。
雨粒がガラスを打つ音と旋律が溶け合い、空間全体が淡く滲む。
譜面が宙に浮かび、雨粒のように揺れながら、彼女の周囲を漂った。
胸の奥に閉じ込めていたものが、静かに解け始める。
記憶が、旋律とともに引きずり出されていく。
「……やめて……」
ルナは両手で耳を塞いだ。
だが、旋律は止まらない。
むしろ、彼女の中にある“何か”をやさしく撫でるように鳴り続けた。
譜面が震える。
無音だったはずの譜面に、微かな音が灯る。
それは、涙の音。
喪失の旋律。
そして、まだ癒えていない“心の譜面”。
頬を、一筋の涙が伝った。
そのとき、扉のきしむ音がした。
振り返ると、ノアが立っていた。
白い外套の裾が雨に濡れ、黒髪がしっとりと光を反射している。
夕方から彼女を探していたらしい。
「……君が泣くなんて、珍しいな」
ノアの譜面は、いつもと同じ“無音”。
だが、その無音には、深い低音のような揺らぎがあった。
それは、彼の心がわずかに“震えている”証だった。
「……視てたの?」
「感じた。君の譜面が、揺れてたから」
ルナは《ハーモナイト》を胸に抱き、俯いた。
「この旋律……私の中にあったの。でも、ずっと閉じ込めてた」
ノアは彼女のそばに歩み寄ると、静かに言った。
「それでも、君は調律し続けてきた。
誰かの音を聴きながら、自分の“沈黙”を抱えたままで」
その言葉は、夜の雨よりも柔らかく、ルナの譜面にそっと触れた。
「……ありがとう」
彼女はそう呟き、涙を拭った。
旋律はまだ鳴っている。けれど、もう拒絶しなかった。
それは、喪失と再生の音。
そして――恋の始まりを告げる、静かな前奏。
夜空の向こうで、雨がやんだ。
音楽室の譜面灯が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。




