別れの旋律、愛の証明
空が鳴っていた。
音ではなく、世界そのものが――震えていた。
幻奏の塔が崩壊した後、世界は調律を失ったままだった。
大地の譜面は裂け、海の旋律は途切れ、空のハーモニーは濁っている。
感情と魔力を繋ぐ“譜面の糸”が切れた世界は、まるで呼吸を忘れたように沈黙していた。
ルナ・ミレイユ=クラウスは、かつて学院があった丘の上に立っていた。
風は吹いていない。
けれど、彼女の髪と外套は、見えない何かの振動で微かに揺れている。
世界が“最後の和音”を求めているのだ。
《ハーモナイト》が淡く光る。
その中には、ノアの譜面が眠っている。
もう彼の姿はない。
けれど、彼の“無音”は、ルナの中で今も震えている。
「……聴こえる?」
風に囁く。
応える声はなかった。
だが、胸の奥で微かな共鳴が起きた。
それは、確かにノアの音だった。
(もう一度、世界を聴こう。音が戻るなら――彼も、聴こえるはず)
ルナは《ハーモナイト》を掲げた。
銀の光が空に走り、割れた雲の隙間から夜の月が顔を出す。
その光が地平を染め、廃墟となった大地に淡い譜面が浮かび上がる。
“世界の旋律”――その残響。
だが、その譜面は破れ、歪んでいた。
“幻奏の残響”が未だに世界の底で鳴っているのだ。
「ルナ!」
駆け寄る声がした。カイルだった。
衣服は煤け、腕に包帯を巻いている。
だが、その琥珀色の瞳はまだ熱を失っていなかった。
「お前、またひとりで全部抱え込むつもりか!」
「抱え込むんじゃない。――調律するの」
「自分を削ってまで?」
ルナは微笑んだ。
「私は“調律師”。この世界が壊れたなら、直すのが私の仕事」
カイルは唇を噛んだ。
その譜面からは、痛みと焦燥が滲んでいた。
(いつだって彼女は、静かに、無茶をする)
「……だったら、せめて俺も一緒にやる」
「あなたは、まだ“音”を持ってる。
私はもう、“音”を超えたところにいる」
ルナの声は、風よりも静かで、しかし確かに届く強さを持っていた。
カイルは彼女の肩を掴んだ。
「なあルナ、調律ってのは、ひとりじゃできねえだろ?
音楽だって、誰かと重なるから“音楽”なんだ!」
彼の言葉に、ルナの瞳がわずかに揺れた。
(……そう。私はずっと“ひとりで響く音”だった)
けれど、今は違う。
胸の奥でノアの“無音”が震え、カイルの“熱”が重なり、遠くでレオンの冷たい旋律が揺れている。
――三つの譜面が、静かに交わる。
「共鳴、開始」
ルナが呟いた瞬間、地平が光に包まれた。
崩壊した譜面が空へと舞い上がり、色とりどりの音符が宙を漂う。
それは世界が最後の調律を求めて生み出す“和音”。
カイルが叫んだ。
「なあ、ルナ! この音、なんかあったかいぞ!」
「それは……あなたの音。
あなたが、誰かを救いたいって願う音」
彼の瞳に涙が滲んだ。
「馬鹿だな、お前……! こんな時に笑うなよ!」
風が強くなり、空が割れる。
そこから、黒い影が現れた。
“幻奏の残響”――ヴァレリオの魔力が、なお世界の底に残っていたのだ。
「まだ終わらないのか……!」
ルナは《ハーモナイト》を握り締めた。
ノアの“無音”が光り、カイルの熱い旋律と融合する。
二つの音が混ざり合い、まるで“心臓の鼓動”のように世界を震わせる。
「調律――最終楽章」
ルナの身体が淡く光を帯びる。
譜面が彼女の足元から伸び、大地と空を繋ぐ一本の線となった。
その線を通して、世界のすべての音が流れ込み、彼女の中で溶けていく。
「ルナ! やめろ、それじゃ――!」
カイルの声が途切れる。
彼の手が届く前に、光が彼女を包み込んだ。
(音は、誰かに聴かれるために生まれる。
なら、私の音は――あなたたちに)
光の中で、ノアの声が聴こえた。
――“君の譜面は、僕にだけ聴こえる”
ルナは微笑んだ。
「今度は、みんなに聴かせるよ」
空が裂け、世界が“鳴った”。
音も光も、涙も笑いも、すべてが混ざり合い、ひとつの旋律になった。
それは、世界の再生の音。
そして、彼女が残した“別れの旋律”だった。
光が収まる。
そこにルナの姿はなかった。
残されたのは、風に舞う無音の譜面だけ。
カイルはその譜面を掴み取り、胸に抱いた。
その中で、小さな音が鳴った。
まるで誰かが、そっと微笑んでいるような音。
「……これが、お前の証明か」
彼は涙を拭い、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、満ちた月が顔を出す。
その光の中で、世界はゆっくりと新しい旋律を奏で始めていた。
“愛の証明”――それは、誰かを残して消えることではなく、
“誰かの中で生き続ける音”になることだった。
そして、無音の譜面は確かに震えていた。
ルナ・ミレイユ=クラウスという名の調律師が、
今も世界のどこかで――静かに、世界を聴いている証として。




