幻奏、そして告白
学院を包む夜が、音を失っていた。
風も、鐘も、誰の息遣いも――すべてが一瞬にして止まる。
空には、黒い譜面のような裂け目が浮かんでいた。
そこから溢れ出る幻の旋律が、街と空をねじ曲げていく。
塔の上に立つ影――ヴァレリオ。
その両手からは黒い譜面が滴り落ち、地を這うように拡散していた。
彼の瞳は、月光のような銀ではなく、夜そのものの色をしていた。
「ルナ・ミレイユ=クラウス。君はまだ“音”を信じているのか」
低く響く声。
それはかつての教師のものでも、敵のものでもなかった。
壊れた旋律を抱いた“ひとりの調律師”の声だった。
「この世界は音で成り立っている。
だが音は必ず消える。だから私は幻を選んだ。
愛も、記憶も、永遠に閉じ込められる“無音の檻”を」
ルナは塔の階段を踏みしめながら、ゆっくりと彼に近づいた。
彼女の手には《ハーモナイト》。その光はまだ弱い。
「幻の中で閉じ込めた愛に、意味なんてあるの?」
「あるとも。幻なら、壊れない。裏切らない。
私はかつて、彼女を救えなかった。
調律の失敗で、彼女の譜面は濁り、やがて消えた。
だから私は幻奏を作った。現実を拒み、失われた旋律を“永遠”にしたんだ」
ヴァレリオの周囲で、無数の譜面が舞い上がる。
それらは記憶の断片――笑う女の声、共に奏でた旋律、約束の欠片。
どれも偽物のように透けていた。
「彼女は、まだ私の中で生きている」
「違う。それは“生きている”んじゃない。“閉じ込められている”の」
ルナの声は震えていた。
しかし、その瞳には確かな光があった。
「音は、傷つく。だからこそ響くの。
沈黙は、終わりじゃない――祈りなの」
ヴァレリオの手が止まる。
塔の上空に広がっていた幻奏の譜面が一瞬、揺らいだ。
「祈り、だと……?」
「ええ。あなたが閉じ込めた彼女の音も、きっとまだ“祈ってる”。
あなたに聴かれることを、赦されることを」
黒い風が吹き荒れ、幻奏の波がルナに迫る。
ノアとカイルが結界を張るが、黒い譜面はそれを飲み込むように滲んでいく。
「聴けるものか! 私はもう、何も信じない!」
ヴァレリオが叫ぶ。
黒い譜面が塔の壁を這い、月を覆い隠した。
だが――ルナは、微笑んだ。
《ハーモナイト》が白く光り、彼女の背後に無音の譜面が広がる。
「だったら、私が聴く。あなたの幻に残った“最後の音”を」
無音と幻がぶつかる。
世界が震え、塔が軋み、空気が裂けた。
黒い譜面の海の中で、ルナは歩を進めた。
幻の風が彼女の髪を切り裂き、足元を崩していく。
それでも彼女は前を見続けた。
(この人も、かつて誰かを想っていた――)
ヴァレリオの幻奏の中心に、ひとつの影が見えた。
白い衣を纏い、微笑む女性。
彼が閉じ込めた“永遠”の象徴。
ルナは《ハーモナイト》を掲げた。
「聴いて。あなたの音は、まだここにある」
無音の波が走り、幻の世界が崩れ始める。
黒い譜面が風に散り、塔の空気が光に変わる。
ヴァレリオは膝をつき、両手で顔を覆った。
仮面が割れ、破片が床に落ちる。
そこに現れたのは、老いた顔――だが、その瞳の奥には少年のような光があった。
「彼女の……音が、聴こえた」
声は震え、涙が一筋、頬を伝った。
ルナは静かに頷いた。
「それが、本当の幻奏。あなたが閉ざした愛の“解放の音”よ」
風が止み、塔の空気が澄んでいく。
幻が消えた空に、月が戻っていた。
その光はどこまでも穏やかで、夜を包み込むようだった。
ヴァレリオは立ち上がり、破れた譜面を見つめた。
「私は……彼女を、手放せなかっただけなのかもしれない」
「誰だってそう。音を手放すのは怖い。
でも、沈黙は“終わり”じゃない。そこから、また始められる」
ルナの声は柔らかかった。
ヴァレリオはその声を聴きながら、ゆっくりと微笑んだ。
「君は、彼女に似ているな」
「いいえ。私は、私の音で調律してる」
短い沈黙。
やがてヴァレリオは、黒い譜面を胸に抱いた。
その譜面は静かに光を失い、塵となって夜風に溶けていく。
「ありがとう……無音の調律師」
その言葉を残し、ヴァレリオの姿が光の中に溶けていった。
塔の上には、ルナとノア、そしてカイルだけが残された。
夜風が再び吹き抜ける。
ルナは空を見上げ、目を閉じた。
(幻も、音も、祈りも――全部、世界の一部)
彼女の《ハーモナイト》が淡く脈打ち、月の光と共鳴する。
その静寂の中に、確かに“心音”が響いていた。
そして――次の瞬間、遠くで鐘が鳴った。
夜明けの始まりを告げる音。
ルナはその音を聴きながら、静かに微笑んだ。




