無音の終止符 ― そして、君を聴く
夜明け前の学院は、まだ夢の中にいた。
幻奏の塔での戦いが終わってから、三日が経っている。
崩壊した塔の残骸は静まり返り、風の音さえも眠っているようだった。
ルナ・ミレイユ=クラウスは、廃墟となった講堂にひとり座っていた。
月の光はすでに沈み、東の空がかすかに明るみ始めている。
瓦礫に散った譜面の断片が、微かに光を帯びていた。
(……ノアの音は、まだここにある)
彼の譜面が消えたのは、幻奏の残響を封じた直後だった。
《ハーモナイト》を通じて共鳴した彼の旋律が、ルナの“無音”の奥に流れ込んでいった瞬間、
ノアの姿は光の粒となり、風の中に溶けていった。
その残響だけが、今も耳の奥に残っている。
音ではない。
けれど確かに“聴こえる”。
「……君の譜面は、僕にだけ聴こえる」
最後に彼が言った言葉が、まだ胸の中で反響している。
ルナは、静かに息を吸い込んだ。
指先に残る微かな震え――それが、まだ彼と繋がっている証のように思えた。
廃墟の中央、崩れた床に小さな光の粒が集まりはじめる。
それは、ノアの譜面の欠片だった。
淡い青白い光をまとい、ゆっくりと旋回しながら、ルナの周囲に漂う。
(……やっぱり、消えてなんかいない)
彼の“無音”は、この世界のどこかで共鳴を続けている。
ルナは目を閉じた。
静寂が、彼女の内側に染み込んでいく。
(私は今まで、音を“奏でる”ことばかり考えてきた。
でも、本当に大切なのは――“聴く”こと)
幻奏の魔導士ヴァレリオが言った。
「空白は壊しやすい」と。
けれど今、ルナにはそれが違うとわかる。
空白は壊されるためではなく、“響きを受け入れる”ためにある。
《ハーモナイト》が淡く光る。
彼女はそれを胸に抱き、囁いた。
「ノア……もう一度、聴かせて」
音は生まれなかった。
だが、静寂の奥に何かが震えた。
空気がわずかに揺れ、瓦礫の上の埃がふわりと浮いた。
――“聴こえるか”
その声は、風と一緒に届いた。
耳ではなく、心に。
ノアの声。
ルナは微笑んだ。
「……聴こえる。あなたの“無音”が」
彼の旋律は、今や彼女の中にある。
外の音を遮断しても、心が揺れるたびにその音が微かに鳴る。
それは、恋の終わりではなく、恋の“永続”。
「あなたは消えたんじゃない。
私の中に、調律されたの」
ハーモナイトが、月光のような光を放つ。
ルナの譜面が空中に浮かび上がる――そこには、無数の“余白”があった。
音符のない空白。
だが、その空白からは、微かな光が滲み出していた。
その瞬間、風が吹いた。
講堂の瓦礫が鳴り、散らばった譜面がひらひらと舞い上がる。
紙片が光に照らされ、一枚がルナの掌に落ちた。
そこには、ひとつの旋律が刻まれていた。
四分音符が三つ、そして――“休符”。
「……休符、なのね」
ルナは微笑んだ。
休符とは、音が“止まる”ことではない。
音が“聴かれる”ための間だ。
(――私たちは、今、休符の中にいる)
ノアの旋律は、消えていない。
静寂の中に溶け込み、ルナの無音を豊かにしている。
彼の存在は“音”ではなく、“余白”として彼女の譜面の一部になった。
夜明けの光が差し込み、講堂の影を薄くしていく。
ルナは立ち上がり、崩れた壁の向こうの空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い朝の光が射し込んでいる。
「――ノア。
あなたの旋律は、もう私が聴く」
そう言って、彼女は歩き出した。
音も、言葉も、涙もなかった。
けれど、その足取りは確かに“音楽”だった。
空には、静かなハーモニーが漂っていた。
それは無音のまま――けれど、限りなく優しい“終止符”の音だった。




