沈黙の祈り、光の譜面
夜の終わりと朝の始まりの境界。
学院の礼拝堂には、冷たい空気が満ちていた。
長い夜を越えた月の光が、ステンドグラスを通して床に淡い模様を落とす。
その光の中心に、ルナ・ミレイユ=クラウスは座っていた。
彼女の周囲には、砕けた譜面の欠片が散らばっている。
どれも“音”を失ったまま、灰のように沈黙していた。
手の中の《ハーモナイト》も、微かな光しか放たない。
(……もう、調律できない。あのとき、私の無音は壊れた)
幻奏の魔導士・ヴァレリオとの戦い。
世界の音がねじ曲げられ、仲間の譜面さえ歪んだ。
あのとき彼女が見たのは、“無音の終わり”だった。
沈黙が癒しではなく、虚無になる瞬間。
「……どうして、私は……」
声は掠れ、音にならない。
祈りの言葉さえ、胸の奥で散っていった。
静寂の中、扉がきしむ音がした。
ノアが立っていた。
白い外套の裾が夜明けの風を受けて揺れ、彼の譜面はいつも通り、無音のまま。
けれど、その沈黙は不思議と温かかった。
「ここにいたのか」
彼はゆっくりと歩み寄り、壊れた譜面の欠片を一つ拾い上げた。
その指先から、淡い光が漏れる。
「音を失うことは、終わりじゃない」
「……でも、私は調律を失敗した。幻に呑まれて、何も聴けなかった」
ノアは小さく首を振る。
「聴こえなかったんじゃない。聴こうとしなかっただけだ」
その言葉に、ルナは顔を上げた。
ノアは静かに続ける。
「君の無音は、誰かを責めるための沈黙じゃない。
誰かを想うための“祈り”だ」
(……祈り?)
その響きが、胸の奥に小さな波紋を広げた。
ノアは壊れた譜面の破片を彼女の前に置く。
「カイルが修復した。君が助けたあの生徒の譜面の一部だ」
ルナは手を伸ばし、破片を掌にのせた。
そこには、かすかに震える光。
耳を澄ませると、壊れたはずの旋律が、わずかに息をしている。
(まだ、生きてる……)
涙が頬を伝った。
それは絶望の涙ではなく、音を思い出した涙だった。
「……私は、何もできなかったと思ってた。
でも、この譜面は、まだ息をしてる」
ノアは頷く。
「沈黙の中にも、脈動がある。
それを“聴ける”のは君だけだ」
ルナは《ハーモナイト》を胸に当て、目を閉じた。
無音の譜面が展開し、破片の旋律を包み込む。
淡い光が礼拝堂を満たし、砕けた譜面がひとつ、またひとつと溶け合っていく。
音はない。
けれど、確かに響いていた。
それは“祈り”の音。
誰かを癒やし、誰かを赦す、無音の旋律。
「調律……開始」
ルナの唇から、その言葉がこぼれた瞬間、
ステンドグラスの光が色を変えた。
赤、青、金――まるで夜明けの前奏曲。
ノアはその光の中で、ただ静かにルナを見守っていた。
言葉はなかった。
だが、二人の譜面は確かに“共鳴”していた。
やがて、光が収まり、破片の譜面は完全な形に戻っていた。
淡い息のように輝きながら、ゆっくりと空気に溶けていく。
「……戻ったんだ」
ルナの声が震えた。
ノアは微笑み、ただ一言だけ言った。
「君の沈黙が、世界を守った」
ルナは目を閉じ、深く息を吸った。
胸の奥で、確かに“音”がした。
それは誰かの旋律でも、過去の記憶でもない。
自分自身の音。
「私は――また、調律できる」
礼拝堂の鐘が鳴った。
朝が来たのだ。
その音は、かつて失った家族の記憶にも似て、どこまでも優しかった。
ルナは微笑み、ノアの方を見た。
「ありがとう」
彼は静かに頷く。
そして二人は、光の中を歩き出した。
無音の祈りが、確かな旋律へと変わっていく。
それは、ルナが“沈黙”を恐れなくなった証。
そして、その譜面の余韻が――
新しい章への序奏となった。




