再共鳴 ― 完璧と無音の間で
学院の屋上は、冬の気配を含んだ風に包まれていた。
昼間の喧騒が去った後の静寂。
夜の譜面灯がひとつ、またひとつと灯り、
遠くの塔から微かな鐘の音が響いてくる。
ルナ・ミレイユ=クラウスは手すりにもたれ、
《ハーモナイト》を胸に抱いていた。
月光を受けて、結晶が淡く光っている。
(あの夜――ヴァレリオの幻を断ったはずなのに……)
世界は調律された。
けれど、心の奥ではまだ、ひとつの“濁り”が残っていた。
あの完璧な旋律の少年、レオン・アルヴェール。
共鳴を拒み、沈黙を恐れ、孤高の譜面を貫いた彼。
ルナは夜空を見上げた。
星の光が震えている。
それはまるで、音になりきれない“未完の和音”のようだった。
(……彼の中にも、まだ“揺らぎ”がある。
私が聴かなくちゃいけない)
足音が聞こえた。
振り向くと、屋上の入口にレオンが立っていた。
黒い外套の裾が風に揺れ、月明かりにその横顔が浮かび上がる。
「君がここにいると思った」
低く、よく通る声。
だが、その旋律にはかすかな“疲労”の色があった。
「あなたが屋上に来るなんて、珍しいですね」
「静かな場所が必要だった。それに……君と話がしたかった」
二人の間に、風が通り抜けた。
譜面のない沈黙が、まるで会話の前奏のように流れる。
レオンは手を伸ばし、空気に指を走らせた。
微かな魔力の波紋が広がり、
淡い光の譜面が宙に浮かび上がる。
「これが……僕の譜面だ」
それは完璧だった。
均整の取れたリズム、狂いのない音高。
だが、その譜面は“息をしていなかった”。
「……やっぱり、綺麗。でも、苦しそう」
ルナの言葉に、レオンの眉がわずかに動く。
「苦しそう?」
「はい。整いすぎていて、どこにも“余白”がない。
音が行き場を失ってるの」
「余白は、弱さだ」
レオンの声は冷ややかだった。
「弱さを残せば、調律は崩れる」
ルナは静かに首を振った。
「でも……崩れた音にしか、生まれない“響き”がある」
その言葉が、冬の風よりも深く彼の胸に刺さった。
「……君は相変わらずだな」
レオンは目を閉じる。
「僕は君の“無音”が理解できない。
だが――あの共鳴拒否のとき、確かに音が生まれた」
彼は《ハーモナイト》を取り出し、静かに掲げた。
「もう一度、確かめたい。
あれが錯覚なのか、それとも……僕が崩れたのか」
ルナも頷き、結晶を掲げた。
無音と完璧。
再び、二つの譜面が空間に展開された。
――共鳴、開始。
音が生まれ、沈黙が寄り添う。
レオンの旋律は冷たく澄んでいた。
ルナの無音は柔らかく、その周囲を包み込む。
最初は、何も起こらなかった。
けれど数秒後、空気がわずかに震えた。
レオンの譜面の端が、微かに“歪む”。
そこから、かすかな和音が滲み出す。
「……これが、君の音?」
彼の声が、揺れた。
「いいえ。
これは、あなたの中の“迷い”が鳴っている音です」
ルナの無音が、彼の譜面に寄り添う。
完璧な旋律が、沈黙の波に溶けていく。
「僕は、迷ってなどいない……!」
レオンが叫ぶと、譜面が激しく光った。
旋律が跳ね上がり、風が渦を巻く。
だが、その音はどこか悲しかった。
ルナは一歩踏み出し、彼の手に自分の手を重ねた。
「迷うことは、壊れることじゃない。
音楽は、揺れるから“生きてる”の」
レオンの瞳が見開かれる。
その瞬間、二人の譜面が重なり、
完璧な旋律と無音が――ひとつになった。
光が溢れ、風が止む。
空間に広がったのは、透明な二重奏。
沈黙と旋律が交互に呼吸するように重なり、
まるで“涙の音”のように響いた。
レオンの譜面に、初めて“色”が差した。
それは淡い青。静寂と憧れの混ざった色。
「これが……僕の音?」
「はい。ずっと、聴こえていました」
レオンは目を伏せ、かすかに微笑んだ。
「……君の沈黙は、恐ろしいほど静かだ。
でも、その静けさが――僕を許す」
風が止み、月が雲の切れ間から顔を出す。
その光が、二人の譜面を淡く照らす。
「共鳴、完了……ですね」
ルナの声は、夜の終わりのように柔らかかった。
レオンはしばらく何も言わず、やがて呟いた。
「君の“無音”は、欠落じゃない。
音楽が還るべき、最初の場所だ」
ルナの胸に、温かな響きが生まれた。
それは恋という言葉よりも静かで、確かな音。
彼女は微笑み、手を離した。
「あなたの譜面、今度は自由に歌えるはずです」
「……そして君は?」
「私は、また誰かの“沈黙”を聴きに行く。
世界はまだ、たくさんの音を失ってるから」
風が吹き、譜面が散った。
空には無数の星。
それぞれが小さな音を宿しながら、夜空に瞬いている。
ルナは振り返らずに歩き出した。
背中越しに、レオンの声が届く。
「君の沈黙が、また僕を呼ぶなら――
そのときこそ、僕の音を君に返そう」
彼女は立ち止まり、振り返らずに微笑んだ。
「約束、ですね」
その言葉を最後に、月が雲に隠れた。
無音の夜に、わずかに響いた二人の旋律だけが残った。




