月光逆奏(ルナティック・リフレイン)
学院の塔を包む夜は、静かに息を潜めていた。
月光が雲間を渡るたび、古い石壁に刻まれた譜面が淡く光り、音のない震えを伝えていた。
その塔の最上層――“幻奏の残響”が眠る場所に、ルナ・ミレイユ=クラウスは立っていた。
彼女の掌にある《ハーモナイト》が、いつになく不安定に脈打っている。
音はない。だが、確かに“何か”が鳴っている。
胸の奥で、月の脈拍と重なるような律動。
それはまるで、世界そのものが微かに逆再生しているような感覚だった。
(……何かが、呼んでる)
塔の窓の外、夜空の奥で光が揺れる。
月面に走る銀の線が、ひとつ、ふたつ、やがて幾重にも重なり、巨大な“譜面”を描いていく。
それはまるで、現実世界のレコード盤を逆回転させるような螺旋。
音のない振動が、空気を震わせた。
「月の譜面が……逆に流れてる?」
カイルの声が、階段の下から響いた。
息を切らしながら駆け上がってきた彼は、目の前の光景に息を呑む。
塔の内部に描かれた魔法陣が、完全に“反転”していたのだ。
譜面の五線は裏返り、音符は逆方向に流れている。
それは“旋律を巻き戻す”譜面――存在してはならない構造。
「……ルナ、これは……時間魔術の派生系か?」
「違う。これは、“記憶”の譜面」
「記憶?」
ルナは小さく頷く。
「世界が奏でてきたすべての音は、消えない。ただ、私たちの感情が聴くことをやめただけ。
今、月が逆光を放っているのは――失われた旋律が、呼び戻されようとしているから」
風が吹き抜け、塔の灯が一瞬揺れた。
その瞬間、ルナの中に“懐かしい音”が流れ込んでくる。
現実世界の旋律――あの、60年代の柔らかなコード進行。
夜の空気に混じって、遠くからギターのアルペジオが聴こえる気がした。
(The Byrds……《Turn! Turn! Turn!》)
音楽はこの世界の魔術とは異なる法則で動く。
だが、ルナの“無音”はその両方を受け入れる器だった。
音と沈黙のあいだにある“余白”――そこに、異世界の旋律が入り込める。
彼女は《ハーモナイト》を掲げた。
「召喚――Turn! Turn! Turn!」
その名を告げた瞬間、塔全体が震えた。
月光が音の波紋となり、床を這い、壁を登り、空間全体に広がっていく。
旋律が流れた。
だが、それは誰の耳にも聴こえない。
聴こえるのは、譜面が震える音、空気が共鳴する音――そして、“心が揺れる音”。
ノアが階下から現れた。
その足音はまるで静寂を割る刃のように鋭く、だが優しかった。
「……君の召喚は、世界の音を反転させている」
「ええ。でも、止められない。この旋律は……記憶そのものだから」
彼女の目の前に、塔の壁面に刻まれた“過去の譜面”が浮かび上がる。
それは学院創設時の旋律、数百年前に封印された魔術師たちの歌。
ルナは手を伸ばし、指先でその譜面に触れた。
瞬間、空間が反転する。
床が天井になり、月が下から昇る。
現実と幻奏の境界が溶け合い、時間の流れが歪む。
「――っ!」
カイルが目を見開く。
「ルナ! そのままだと、君の譜面が……!」
だがルナは首を横に振った。
「いいの。私は、聴きたい。
“無音”が生まれる前の世界の音を。
この世界がまだ、“愛”を知る前の旋律を」
《Turn! Turn! Turn!》のリフが、空間を巡る。
言葉のない詩篇が、光となって彼女の周囲を舞う。
“季節はめぐり、愛は再び始まる”――
その意味が、この世界では“音の再調律”として現れていく。
塔の外壁が淡く光り、崩壊していた譜面が次々と整っていく。
失われた旋律が再生し、濁った音が純化していく。
しかし同時に、彼女の身体も透明になり始めていた。
現実世界の音とこの世界の音を繋ぐことは、存在そのものの共鳴を意味する。
彼女自身が“媒介”として溶けていくのだ。
「ルナ、もうやめろ! これ以上は……!」
「大丈夫。……私は、音になるから」
彼女は微笑んだ。
涙の代わりに、光が頬を伝い落ちた。
ノアが一歩、踏み出した。
「僕も行く。君が消えるなら、僕も共鳴する」
「ノア……」
「君の無音を聴くのは、僕の譜面の使命だ」
その瞬間、二人の譜面が重なった。
無音と沈黙が融合し、空間全体が“月光の逆奏”に包まれる。
音はなかった。
けれど、確かに“響き”があった。
塔の外、夜空を裂いて光が昇る。
月が、逆さに流れはじめた。
それは、この世界が再び“正しい音”を奏でるための一瞬の逆流。
やがて、光は静かに収まり、風が戻る。
ルナは膝をつき、ハーモナイトを胸に抱いた。
指先にはまだ、微かな震えが残っていた。
ノアはそっと彼女の肩に手を置いた。
「……君の音、確かに聴こえた」
ルナは小さく頷き、夜空を見上げた。
逆さの月は、いつの間にか元の位置に戻っていた。
だが、その光は以前よりも柔らかく、静かだった。
(もう、“無音”じゃない。
音は、愛を覚えている)
そして、彼女の譜面に、初めて“反転した音”が刻まれた。
それは、“過去と未来をつなぐ旋律”――
月光逆奏の終止符だった。




