沈黙の村、記憶の根音
旅の始まりは、風のない谷だった。
ルナ・ミレイユ=クラウスとノアが最初に訪れたのは、地図にも載っていない小さな村――《エル・ノート》。
かつて魔力塔の根が眠っていた場所。
今は、音が消えた村。
「……譜面が、まったく視えない」
ルナは、村の広場に立ち、空間に耳を澄ませた。
だが、風も、鳥も、地も、何も奏でていなかった。
ノアが、彼女の隣に立つ。
彼の譜面も、無音のまま。
だが、今は“沈黙の共鳴”として、ルナの譜面と微かに重なっていた。
「ここは、音が封印されてる。
魔力の流れも、感情の震えも……すべてが止まってる」
村の家々は、崩れてはいない。
だが、どこか“生きていない”ように見えた。
譜面が漂わない空間は、まるで時間が止まったようだった。
ルナは、村の中心にある枯れた魔力塔の根に手を添えた。
「……ここに、音の根がある。
でも、封じられてる。
誰かが、感情の記憶ごと、譜面を閉じた」
彼女は、ハーモナイトを取り出した。
だが、反応はなかった。
無音の譜面すら、空間に浮かばない。
「召喚が……拒絶されてる?」
ノアが、塔の根元に膝をついた。
「これは、記憶の封印。
誰かの感情が、空間そのものを閉じてる」
ルナは、塔の根に耳を当てた。
そして、静かに呟いた。
「召喚――The Beach Boys《Cabin Essence》」
空間に、断片的な旋律が広がった。
現実世界の60年代ソフトロック。
アメリカの風景と記憶を断片的に描いた、複雑で幻想的な構成。
それは、封印された空間に“記憶の音”を呼び起こす魔術だった。
譜面が、微かに震えた。
塔の根から、古い旋律が漏れ出す。
それは、かつてこの村に住んでいた人々の感情。
喜び、悲しみ、誇り、そして――喪失。
「……この村は、魔力暴走で誰かを失った。
その記憶が、譜面を閉じた」
ルナは、塔の根に手を添えたまま、目を閉じた。
彼女の譜面が、白から淡い灰色に染まり始める。
それは、過去に触れる色。
それは、記憶の根音。
ノアが、彼女の手に触れた。
「君の譜面が、揺れてる。
でも、僕の譜面が支える」
二人の譜面が重なった瞬間、空間が震えた。
封印されていた感情が、譜面として浮かび上がる。
それは、村の少女が最後に奏でた“別れの旋律”。
「……この音は、悲しい。
でも、美しい」
ルナは、譜面を調律し始めた。
濁りを浄化するのではなく、悲しみごと旋律に変える。
それは、調律師の本質。
「調律、開始」
ハーモナイトが光を放ち、空間に譜面が舞う。
塔の根が震え、村の空に音が戻ってくる。
風が吹き、鳥が鳴き、地が響く。
村の広場に、微かな音が満ちていく。
それは、再生の音。
それは、記憶の共鳴。
ルナの譜面が、灰色から淡い青へと変化する。
それは、過去を受け入れた証。
それは、沈黙の深層に触れた調律師の進化。
ノアが、彼女の隣で静かに言った。
「君の音は、誰かの記憶を救った。
でも、僕には……最初から聴こえてた」
ルナは、彼の言葉に微笑んだ。
「ありがとう。
あなたの譜面が、私の旋律を支えてくれる」
その夜、村の空には、静かな旋律が漂っていた。
それは、封印を解いた音。
それは、旅の始まりにふさわしい“根音”だった。
そして、塔の根の奥に、まだ触れられていない譜面が眠っていた。
それは、音の起源に繋がる“深層譜面”。
ルナは、それに気づいていた。
「……次は、この譜面に触れる」
彼女の譜面が、静かに震えた。
それは、調律師が“音の真理”に近づく第一歩だった。




