感情の断片、恋の記憶
幻奏の塔――第二層、〈感情の領域〉。
そこは、音が“心”の形を取って現れる世界だった。
一歩踏み出すたび、足元の床が波紋のように揺れ、空には淡い色の光が漂う。
赤、青、金、白――それぞれが異なる“感情”を象徴している。
ルナ・ミレイユ=クラウスは、静かに息を吸い込み、その音を聴いた。
耳で聴くのではない。
胸の奥に、微かに響く旋律を“感じ取る”。
(……ここは、私の中にある音)
塔の壁には、無数の譜面が浮かび上がっていた。
けれどそのどれもが破れ、途中で途切れている。
旋律の断片――記憶の断片。
そのひとつに、淡い桃色の光が宿っていた。
それは、他のどの譜面よりも柔らかく、どこか懐かしい。
ルナはそっと手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、視界が歪んだ。
次の瞬間、彼女は“別の場所”に立っていた。
――学院の中庭。
夕暮れの光が差し込み、風が穏やかに木々を揺らしている。
そこに、ひとりの少年が立っていた。
ノア。
彼は譜面を抱え、ルナに微笑みかけた。
「ねえ、ルナ。恋って、どんな音だと思う?」
その問いに、ルナは答えられなかった。
あのときも、そして今も。
(……恋の音?)
ノアは続けた。
「僕はね、恋は“休符”みたいなものだと思う。
音が鳴る前と、鳴ったあとの“間”。
その沈黙があるから、旋律が生きる」
彼の言葉は、今も心の奥で鳴っている。
けれど、当時のルナにはそれが理解できなかった。
彼女にとって恋は、“乱れ”だった。
譜面を汚す感情。調律を乱す衝動。
「私は……恋なんて、要らない」
あのときそう言い切った。
それが、彼を遠ざけた。
その痛みが、今、胸の奥に刺さる。
目の前の幻影のノアが微笑んだまま、口を開く。
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
ルナはハッとする。
頬を伝う涙が、光の粒になって宙に溶けていく。
それは譜面の破片となり、彼女の周囲に散っていった。
「……これは、私の感情なのね」
幻影のノアがゆっくりと頷く。
「恋はね、調律を壊すんじゃなくて、調律を“始める”音なんだ。
だって、誰かのために音を合わせようとするんだから」
その瞬間、空気が震えた。
塔の壁に刻まれた譜面が、ひとつの旋律を取り戻す。
それはルナ自身の“初めての恋”――そして“最初の無音”の記録だった。
(私は、誰かの音を恐れていた。
自分が乱れることを怖がっていた。
でも、本当は――重なりたかった)
幻影のノアがゆっくりと手を伸ばす。
「今なら、聴こえるでしょ?」
ルナは小さく頷き、目を閉じた。
沈黙の中で、微かな旋律が流れ始める。
それは涙のように静かで、しかし温かい音。
――恋は、沈黙の中で生まれる。
彼女が目を開けると、幻影はすでに消えていた。
ただ、彼の立っていた場所に、ひとつの譜面が残されていた。
そこには、見覚えのある旋律が書かれていた。
《ルナティック・リフレイン》――
のちに月光逆奏として完成する、“恋の記憶”の原型だった。
ルナはその譜面を胸に抱き、そっと呟いた。
「ノア……ありがとう。
私、もう逃げない。
この感情も、私の音として――調律する」
その瞬間、感情の領域が淡い光に包まれた。
塔の第二層の扉が、静かに開く。
そこには、新しい音の風が吹いていた。




